「出羽清原氏」の版間の差分
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出羽清原氏(でわきよはらし)は、平安時代の豪族である。出羽国(後の羽後国)の在庁官人、清原令望が俘囚長に任ぜられ、仙北三郡を支配したとする説があるが定説はない。
概要
朝廷に服属した蝦夷を俘囚といい、清原氏はこの俘囚の主(『陸奥話記』)と史料に見える。自身も俘囚の一族ではないかとも考えられているが、系図では中央貴族である清原氏の深養父系とされている。しかし深養父の子から出羽清原氏に繋がる部分の信憑性に疑問があることから、元慶の乱で都から来た清原令望を祖とする在庁官人ではないかともいわれている[1]。『陸奥話記』等でも安倍氏と違い「真人」の姓が明記されており、鎮守府将軍に補任されることが出来たことからも単なる俘囚ではないとする見解が多いが、実際の家系についてはまだ不明な点が多い[2]。
1990年代以降、武則系を海道平氏(岩城氏)の一族とする説[3] が唱えられると、これを強化する論考が続き[4][5]、有力な説とする論考[6] も現れている。
前九年の役
陸奥(後の陸中国)の俘囚豪族安倍氏と河内源氏源頼義の戦いである前九年の役にて当主清原光頼は当初は中立を保つも、参戦依頼に応え、光頼の弟、清原武則が率いる大軍をもって安倍氏を滅ぼした。その結果、武則が朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、安倍氏の旧領奥六郡を併せ領する大族となる。
後三年の役と惣領家の消滅
武則の跡を子武貞が継ぎ、さらにその子真衡が継いだ。真衡は延久蝦夷合戦で活躍し鎮守府将軍となった貞衡と同一人物とする説がある。真衡は、棟梁の権限を強め、平氏の岩城氏から養子を取って後継者(成衡)とし、さらにその妻に源頼義の娘を迎えた。
真衡はこうして武家としての清原氏を確立させようとしたが、その過程で一族の長老吉彦秀武や異父異母弟清衡(藤原経清の遺児。母親が清原氏に嫁したため養子となる)、異母弟家衡(武貞と清衡母のあいだの子)と対立し、その鎮圧戦の最中に急死した。源義家の調停により遺領は2人の弟が分け合うこととなったが、この条件を不服として家衡が清衡を攻撃、出羽国沼ノ柵では清衡側としてこの紛争に介入した源義家軍を破った。家衡の叔父にあたる武衡は家衡の戦勝を聞きつけてこれに与力し、出羽国金沢柵の戦いでは籠城戦を戦ったものの清衡を応援した義家軍により滅ぼされた。この一連の内紛を後三年の役といい、勝利した清衡は奥州の覇権を握り、摂関家に届け出て実父藤原経清の姓藤原を名乗るに至り、清原氏惣領家は滅亡した。
『吾妻鏡』には、奥州合戦の後、源頼朝の呼び出しに応じた清原姓の古老の存在が記されているが、出羽清原氏との関係は不明である。
脚注
参考文献
- 新野直吉『秋田の歴史 改訂版』秋田魁新報社、1989年 ISBN 4870200694
- 高橋崇『蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像』中央公論新社[中公新書]、1991年 ISBN 4121010418
- 塩谷順耳ほか 『新版県史 秋田県の歴史』山川出版社、2001年 ISBN 4634320509
- 野口実「平安期における奥羽諸勢力と鎮守府将軍」『古代世界の諸相』晃洋書房、1993年 ISBN 4771006709
- 野口実『中世東国武士団の研究』高科書店、1994年
- 元木泰雄『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』中央公論新社、2011年 ISBN 9784121021274
- 樋口知志「藤原清衡論(上)」『アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要)第82号』岩手大学、2008年
- 樋口知志『前九年・後三年合戦と奥州藤原氏』高志書院、2011年 ISBN 9784862150882
- 野中哲照「出羽山北清原氏の系譜――吉彦氏の系譜も含めて――」「鹿児島国際大学国際文化学部論集」15巻1号、2014年6月
- 野中哲照『後三年記詳注』汲古書院、2015年、ISBN 978-4-7629-3616-6
関連項目