「ヨシフ・スターリン」の版間の差分

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{{USSR}}
 
{{スターリニズムのサイドバー}}
 
  
'''ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン'''({{Lang-ru|'''Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин'''}}, [[1878年]][[12月18日]]<ref name="dob" />&nbsp;– [[1953年]][[3月5日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]、[[軍人]]。同国の第2代[[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]]。一般に広く知られているスターリンという[[姓]]は「[[鋼鉄]]の人」を意味する[[筆名]]であり、本姓は'''ジュガシヴィリ'''({{Lang-ru|Джугашви́ли}}、{{Lang-ka|ჯუღაშვილი}})である。
 
  
== 人物概要 ==
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'''ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン'''({{Lang-ru|'''Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин'''}}, [[1878年]][[12月18日]]<ref name="dob" />&nbsp;– [[1953年]][[3月5日]]
グルジア語名'''იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი'''('''イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ''')として[[ロシア帝国]]の支配下にあったグルジア(現在の[[ジョージア (国)|ジョージア国]])の[[ゴリ (シダ・カルトリ州)|ゴリ市]]で生まれる。[[正教]]の[[神学校]]で教育を受ける<ref>[http://www.sedmitza.ru/text/722514.html {{lang|ru|Память священномученика Ермогена (Долганева)}}]</ref>が、のちに[[棄教]][[無神論]]に転向<ref>[http://izquotes.com/quote/268851 “You know, they are fooling us, there is no God.”]</ref>、15歳にして[[マルクス主義]]に基づいた[[革命]]運動に参加する。
 
  
[[ウラジーミル・レーニン]]による[[ロシア社会民主労働党]][[ボリシェビキ]]派([[ロシア共産党]])による[[十月革命]]に加わり、[[ソヴィエト連邦]]政府および[[ソヴィエト連邦共産党]]の成立に深く関与。[[1924年]]、レーニン死後に起きた[[レフ・トロツキー]]との後継者争いを制すると、自身が務めていた[[ソビエト連邦共産党書記長|ソビエト連邦共産党中央委員会書記長]]に権限を集中させることで後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の[[世界革命論]](永久革命)を否定して、[[一国社会主義論]]による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派[[粛清]]の大義名分としても用いられた。
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ソ連共産党指導者。本名は I.V.Dzhugashvili。靴職人の子に生れ,1894年チフリス高等神学校に入学,98年グルジアの愛国的社会主義団体に加入し,マルクス主義に接近,99年神学校から追放された。職業革命家となり,革命まで逮捕,流刑,逃亡を繰返した。
  
以降、[[ソビエト連邦人民委員会議議長|人民委員会議議長]]および同職を改組した{{仮リンク|ソビエト連邦閣僚会議|label=閣僚会議|ru|Совет министров СССР}}[[ソビエト連邦閣僚会議議長|議長]] を[[1941年]]から[[1953年]]に死没するまで務めたほか、前述の[[ソビエト連邦共産党書記長|ソビエト連邦共産党中央委員会書記長]]などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した<ref name="dob">Although there is an inconsistency among published sources about Stalin's year and date of birth, Iosif Dzhugashvili is found in the records of the Uspensky Church in [[Gori, Georgia|Gori]], [[Georgia (country)|Georgia]] as born on December 18 ([[Julian calendar|Old Style]]:December 6) 1878. This birth date is maintained in his School Leaving Certificate, his extensive tsarist Russia police file, a police arrest record from April 18, 1902 which gave his age as 23 years, and all other surviving pre-Revolution documents. As late as 1921, Stalin himself listed his birthday as December 18, 1878 in a curriculum vitae in his own handwriting. However, after his coming to power in 1922, Stalin changed the date to {{OldStyleDate|December 21|1879|December 9}}. That became the day his birthday was celebrated in the [[Soviet Union]].{{Cite web|url=http://state.rin.ru/cgi-bin/persona_e.pl?id=4140&id_subcat=6&r=8|publisher=State and Power in Russia|accessdate=2008-07-19|title=Prominent figures}}</ref><ref>{{Cite book|author=Halfin, Igal|title=Terror in My Soul:Communist autobiographies on trial|pages=p.15|url=http://books.google.co.uk/books?id=TVOBqYG86EIC&dq=Terror+in+My+Soul:+Communist+Autobiographies+on+Trial&pg=PP1&ots=NMnl1AZWon&sig=9GSNRBpzl4MnhaGB5zWY0razesY&hl=en&sa=X&oi=book_result&resnum=1&ct=result#PPR7,M1}}</ref>。
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1912年党中央委員となって機関紙編集を担当,スターリン (鋼鉄の人) を名のった。 17年の二月革命後党政治局員となり,ソビエト政権では民族問題人民委員に就任,ボルシェビキ内での発言力を強めていった。 22年党書記長に就任,死ぬまでその地位にあった。
  
1928年、[[ロシア内戦|干渉戦争]]に対応して行われた[[戦時共産主義]]体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策([[ネップ]])を切り上げさせ、[[第一次五ヶ年計画]]を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化([[コルホーズ]])を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した<ref>{{cite book|author=Wheatcroft, S. G.;Davies, R. W.;Cooper, J. M.|pages=30–2|title=Soviet Industrialization Reconsidered:Some Preliminary Conclusions about Economic Development between 1926 and 1941|page=264|publisher=[[Economic History Review]]|year=1986|url=http://books.google.com/?id=m-voAAAAIAAJ&dq|isbn=9780719046001|volume=39|issue=2}}</ref>。
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1924年 V.I.レーニンの死後,L.トロツキーを排除するため G.E.ジノビエフ,L.B.カーメネフとトロイカ方式を組み,同年「[[一国社会主義]]」理論を提起。 28~29年トロツキー,ジノビエフ,カーメネフ,N.I.ブハーリン,A.I.ルイコフ,M.P.トムスキーなどを順次排除し,独裁体制を固めるとともに,28年からの5ヵ年計画により工業化を強行。 36年の「スターリン憲法」は社会主義の勝利とソビエト市民の権利擁護を打出したが,皮肉なことにその前後から膨大な数の党員が投獄,処刑される「大粛清」が開始された。
  
一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いることになり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、[[:en:Soviet famine of 1932–1933|1932年から1933年の飢饉]]へと繋がった。後者に関しては[[グラーグ]](収容所)に収監された者だけで100万名以上<ref name="Getty">Getty, Rittersporn, Zemskov. Victims of the Soviet Penal System in the Pre-War Years:A First Approach on the Basis of Archival Evidence. The American Historical Review, Vol. 98, No. 4 (Oct., 1993), pp. 1017–1049.</ref>、これを免れた数百万人も[[シベリア]]などの僻地に追放処分を受けた<ref name="Getty" />。強権支配は[[大粛清]]と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑あるいは追放された<ref>Abbott Gleason (2009). ''[http://books.google.com/books?id=JyN0hlKcfTcC&pg=PA373&dq&hl=en#v=onepage&q=&f=false A Companion to Russian History]''. Wiley-Blackwell. p.373. ISBN 1-4051-3560-3</ref>。
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1941年首相の地位をも兼ね,第2次世界大戦では国防会議議長,赤軍最高司令官として戦争を指揮。戦後東欧諸国で新体制が生れたが,ユーゴスラビアをコミンフォルムから追放したり,画一的な路線や粛清を各国に押しつけたりして,その後の動乱のきっかけをつくった。
 
 
1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、[[マクシム・リトヴィノフ]]に一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり<ref name="carley">{{cite journal|last1=Carley|first1=Michael Jabara|title=End of the ‘low, dishonest decade’:Failure of the Anglo‐Franco‐Soviet alliance in 1939|journal=Europe-Asia Studies|volume=45|issue=2|year=1993|pages=303–341|issn=0966-8136|doi=10.1080/09668139308412091}}</ref>、反共主義・反スラブ主義を掲げていた[[アドルフ・ヒトラー]]の[[ナチス・ドイツ]]と[[独ソ不可侵条約]]を締結し、秘密議定書に基づく[[ポーランド侵攻]]は[[第二次世界大戦]]を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合([[冬戦争]])などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。[[第一次世界大戦]]における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けて[[ベッサラビア]]と北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ[[枢軸国]]の[[日本]]とも[[日ソ中立条約]]を結んだ。
 
 
 
1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、[[独ソ戦]]が始まった。同時にイギリスを中心とする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面では[[ソ連対日参戦]]で[[モンゴル]]の独裁者[[ホルローギーン・チョイバルサン]]とともに満州と内蒙古、日本の[[北方領土]]や[[朝鮮半島]]北部まで攻め落とした。
 
 
 
連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく<ref>{{Cite book|author=Weinberg, G.L.|title=A World at Arms:A Global History of World War II|isbn=0521558794|publisher=Cambridge University Press|page=264|year=1995}}</ref><ref>Rozhnov, Konstantin, [http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4508901.stm Who won World War II?]. BBC.</ref>、[[国際連合安全保障理事会常任理事国]]となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた<ref>Superpower politics:change in the United States and the Soviet Union [http://books.google.com/books?id=XXcVAAAAIAAJ&pg=PA4 Books.Google.com]</ref>。[[ヤルタ会談]]と[[ポツダム会議]]では大戦後の欧州情勢についての協議を行って[[冷戦]]を始めて[[鉄のカーテン]]を築き、[[ファシズム]]打倒後の[[共産主義]]と[[資本主義]]の対立においては西欧諸国と[[NATO|北大西洋条約機構]]を結成した米国に対し、[[非同盟]]を掲げてスターリンと対立した[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]政権の[[ユーゴスラビア]]を除く東欧諸国と[[ワルシャワ条約機構]]が後に設立される。[[アジア]]情勢を巡っては[[国共内戦]]で[[中国共産党]]を支援して中国大陸に[[中華人民共和国]]を成立させ、[[第一次インドシナ戦争]]では[[ベトナム民主共和国]]、[[朝鮮戦争]]では[[朝鮮民主主義人民共和国]]を支援して[[竹のカーテン]]を築いて[[東側諸国|東側]]陣営を拡大していく。
 
 
 
1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことは[[スターリン様式]]の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、[[核兵器|核]]武装や[[宇宙開発]]などに予算や費用が投じられており、前者は1949年の[[RDS-1]]で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる[[自然改造計画]]であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。
 
 
 
死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程で[[ニキータ・フルシチョフ]]らによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。[[1956年]]、[[ソ連共産党第20回大会]]でフルシチョフは有名な[[スターリン批判]]を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき[[独裁者]]という評価へ変化した。この潮流は、[[反スターリン主義]]として各国の左派に影響を及ぼした。
 
 
 
その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたる[[ロシア連邦]]においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見<ref name="How Russia faced its dark past">[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/2821281.stm How Russia faced its dark past], [[BBC News]] (5 March 2003)</ref>と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある<ref name="reuters.com">[http://www.reuters.com/article/worldNews/idUSL2559010520070725?feedType=RSS&rpc=22&sp=true Russian youth:Stalin good, migrants must go:poll], [[Reuters]] (25 July 2007)</ref>。特にスターリン崇拝が強いのは隣国の[[ベラルーシ]]である。
 
 
 
==死後==
 
[[File:Stalin's casket on howitzer carriage draught by horses.jpg|thumb|240px|アメリカ大使館から撮影されたスターリンの葬列]]
 
その死因は[[脳内出血]]として公式発表された。遺体は[[1961年]][[10月31日]]まで[[レーニン廟]]で保存されていたが、フルシチョフによるスターリン批判の煽りを受け撤去、燃やされた後[[クレムリン]]の壁に埋葬された。
 
 
 
スターリンの死去はソ連を初めとする社会主義陣営各国に大きな衝撃を与えたが、体制を異にする日本の経済にも影響を与えた。スターリンの重篤が日本で報じられた3月5日、[[日経平均株価]]は、前日比37円80銭安の344円41銭と10%もの下落を記録し、「'''[[スターリン暴落]]'''」と呼ばれた。これは、スターリンが没すことにより[[朝鮮戦争]]の終結が早まり、当時日本経済の急速な復興を支えた[[朝鮮特需]]が終結することが懸念されたことが原因であった。
 
 
 
スターリンの死にあたり、[[築地本願寺]]にて'''スターリン国民追悼集会'''が行われ、本願寺側の熱心な申し出により、荘厳な法要が行われた。また、[[1954年]]にはスターリンの死去1周年を記念した詩集『[[スターリン讃歌]]』が刊行された。
 
 
 
==暗殺説==
 
[[File:DeathofStalinGeorgia.jpg|thumb|240px|スターリンの死を報じる新聞記事]]
 
スターリンの死に関して、彼が謀殺されたという確実な証拠は存在しないが、謀殺説は根強く存在している。[[1993年]]に公表された、元外務大臣[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]の政治回顧録によると、秘密警察長官でスターリンの右腕だったベリヤが、彼を毒殺したことをモロトフに自慢したとの記述があり暗殺説を匂わせている。
 
 
 
[[2003年]]、ロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンは[[ワルファリン]]を使用されたとの見解を発表した(ただし計画的な暗殺か偶発的な暗殺かについては触れられていない。また、ワルファリンについては脳梗塞系の脳卒中と診断された場合は治療に使用されることもある)。スターリンの娘である[[スヴェトラーナ・アリルーエワ]]は、スターリンが[[脳卒中]]で倒れたときにフルシチョフらがいたにもかかわらず、医者を呼ばずに放置したことが死に繋がったとの見殺し説を指摘している。なお、フルシチョフの回想録では、スヴェトラーナの証言とは正反対の内容の記述がなされている。
 
 
 
[[2006年]]には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施されるもので、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。
 
 
 
また、スターリンがユダヤ医師団事件を利用しモロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害し、その後ベリヤは、口封じのために殺されたという説がある。実際に粛清する計画があったかどうかはともかく、スターリンは部下を使い捨てにすることで有名だったため首脳部の面々が常に戦々恐々としていたのは確かであろう。
 
 
 
スターリンの謀殺説には計画的な暗殺説以外にも、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に死を確実にするために毒を投与したとする偶発的な暗殺説、発作で倒れたのを意図的に放置し死に追いやった見殺し説など諸説あるが、いずれにしても殆どの当事者がすでに死亡しているため確たる真相は不明であり、一部の研究者やメディアでは根強く支持されているものの、ロシアでの公式見解は一貫して脳卒中による病死説である。
 
 
 
==復権への動き==
 
[[ファイル:Grutas Stalin.jpg|thumb|right|150px|スターリンの銅像]]
 
[[ファイル:Goristatue.JPG|thumb|right|150px|ジョージアのゴリにあるスターリンの記念碑]]
 
[[1964年]]のフルシチョフ失脚後、スターリンに対する名誉回復の動きが始まった。またこれが止んだ後、ソ連崩壊後にも同じような動きがみられた。
 
 
 
===ソ連時代===
 
レオニード・ブレジネフは、[[1969年]]に「スターリン生誕90周年」を記念した大規模な式典を企画した。モスクワに「スターリン博物館」を建設することが検討され、[[マルクス・レーニン主義研究所]]には記念集会を開催するよう通達があった。さらに、スターリンについての論説が『[[プラウダ]]』を初め諸外国の共産党機関紙に掲載されることになっていた。
 
 
 
これらの計画を知ったポーランドと[[ハンガリー]]の共産党が激しく抗議した結果、党政治局は式典の2日前の[[12月19日]]、大部分の式典を中止することを決定した。この時、スターリンの胸像製作は中止され、印刷されていた肖像画はことごとく廃棄された。また党中央委員会は、あらゆる新聞に対してスターリンに関する一切の論説を掲載しないよう指示を出し<ref name="russia132">『ロシア - 崩れた偶像・厳粛な夢』 下巻p.132 [[ロイ・メドヴェージェフ]]による証言。またメドヴェージェフによれば、党中央委員会当局者による連絡不備のため、[[モンゴル国|モンゴル]]では[[12月22日]]付の地元紙にスターリンについての論説と肖像写真が掲載されている。</ref>、『プラウダ』にはスターリンの過失と個人崇拝に関する小さな記事が掲載されるにとどまった<ref name="russia132" />。
 
 
 
これは「生誕100周年」においても踏襲され、スターリンは「肯定面・否定面を合わせ持つ、非常に複雑で矛盾に満ちた指導者」として扱われた。モスクワにおける[[1979年]]12月21日(公式の誕生日)の行事は控えめに行われ、[[コムソモール]]の代表がスターリンの墓に花輪を捧げるなどしている<ref name="russia132" />。一方、スターリンの故郷であるジョージアの[[ゴリ (シダ・カルトリ州)|ゴリ]]市では数千人が通りをパレードし、各所で音楽演奏が行われるなど、誕生日を盛大に祝っている<ref name="russia132" /><ref>『ロシア - 崩れた偶像・厳粛な夢』 下巻p.133 </ref>。
 
 
 
===ソ連崩壊後===
 
ソ連崩壊後のロシアでは、スターリンの再評価が進んでいる。これは[[ロシア連邦共産党]]のみならず、現政権与党の[[統一ロシア]]や[[極右]]の[[ロシア自由民主党]]などの各派にもその傾向がみられる<ref>[http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3484 ロシアでようやく固まったスターリンへの評価]2010年5月19日 JB PRESS</ref>。デモにおいてスターリンの肖像画があることは決して珍しいものではなくなった。ソ連が崩壊したことで富を得たのはごく少数の者だけであり、多くの市民はソ連時代以下の経済水準と社会保障、ソ連時代に比べて悪化した治安事情の中で生きている。そのような現在の状況に対する絶望感が、良くも悪くも強い指導力を持ったソ連の[[中興の祖]]である「鋼鉄の人」スターリンの再評価に繋がっているという。最近行われた[[世論調査]]の一つによれば、今日スターリンが生きていたら彼に投票すると答えた人は、35%を越えたという<ref>[http://www.foreignaffairs.org/20060101facomment85101/sarah-e-mendelson-theodore-p-gerber/failing-the-stalin-test.html スターリンテストに落第] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060221125439/http://www.foreignaffairs.org/20060101facomment85101/sarah-e-mendelson-theodore-p-gerber/failing-the-stalin-test.html |date=2006年2月21日 }}</ref>。2017年のロシアのレバダ・センターの世論調査でも[[ウラジミール・プーチン]]や[[アレクサンドル・プーシキン]]を凌いで「ロシア史上最も偉大な人物」に選ばれている<ref>{{cite news|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2017062700738|title=「歴史上の偉人」スターリン首位=プーチン氏は2位-ロシア調査|date=2017-06-27|agency=時事通信|accessdate=2017-06-29}}</ref>。また、[[クラスノヤルスク]]では観光客などを誘致すると言う理由があるにせよ、一度は破壊されたスターリンの記念碑を再建することを決定した<ref>[http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4158/is_20060420/ai_n16146985 シベリア観光庁、スターリン記念碑を再建]</ref>。この記念碑は、フルシチョフのスターリン批判を受けて[[1961年]]に一度閉鎖されている。中央に据え付けられたスターリンの銅像も、[[1980年代]]後半に[[グラスノスチ]]のためか町の近くを流れる川の中に放り込まれている。
 
 
 
これは地方に限ったことではなく、[[2005年]]にはモスクワでもスターリンの銅像が新たに建設されている<ref>[http://thescotsman.scotsman.com/international.cfm?id=69292005 スターリン人気上昇中 モスクワに新たなスターリンの銅像]</ref>。2009年にはモスクワの地下鉄クルスカヤ駅構内の装飾の柱にスターリンを讃える1944年版ソ連国歌の一節が刻まれた。[[2011年]]7月20日には、スターリンの胸像がロシア中部[[ペンザ]]のロシア連邦共産党支部の建物の敷地内に建てられた<ref>{{cite news
 
|url=http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011072001000610.html
 
|title=スターリン人気じわり上昇 ロシア中部で胸像除幕
 
|date=2011-07-20
 
|agency=共同
 
}}</ref>。
 
 
 
[[2008年]]には、ロシアの新しい学習指導要綱「ロシアの歴史1900-1945」で、スターリンの恐怖政治を「誰が寝返って襲撃してくるかも分からない状況下ではやむを得なかった」とし、彼と対立するグループや彼の思想に反する運動を悉く弾圧していったと記している。要綱では「スターリンの行動は歴史的難局に直面してのものであることを示すことが重要である」とし、彼の行動は「工業立国建設に向けた一貫した意志に基づき、体制を守るために全くもって合理的なものであった」と強調している。この要綱は大手教科書出版社「Prosveshenije」が作成したものだが、同社は ソ連時代には教科書作成を独占していた政府公認の会社であった<ref>{{cite news
 
|author=Will Stewart
 
|url=http://www.dailymail.co.uk/news/article-1051871/Stalins-mass-murders-entirely-rational-says-new-Russian-textbook-praising-tyrant.html
 
|title=Stalin's mass murders were 'entirely rational' says new Russian textbook praising tyrant &#124;Mail Online
 
|newspaper=Dailymail
 
|date=2010-04-23
 
|accessdate=2012-09-11
 
}}</ref>。
 
 
 
スターリンの故郷であるジョージアのゴリ市のスターリン博物館は今なお健在<ref>[http://www.stalinmuseum.ge/ 国立スターリン博物館公式サイト(グルジア語、ロシア語、英語)]</ref>である。博物館ではスターリンが死ぬまで愛用したパイプやコートなど日用品や手紙や写真を展示し、ソ連を[[超大国]]に押し上げた指導者の足跡をたどる展示品がある<ref>[http://www.tokyo-p.co.jp/article/world/worldtown/CK2008060602000247.html]{{リンク切れ|date=September 2012}}</ref>。ただし未曾有の犠牲を出した大粛清に関する展示は皆無である。スターリンは現在でも「強い指導者」として肯定的に捉えられ、銅像や肖像画が掲げられているなど英雄視されている。ゴリ市の中心街には旧ソ連邦諸国で唯一スターリン像が残存していたが、[[2010年]][[6月25日]]未明に撤去された。取材に駆けつけたマスコミは警官に暴行されるなどして排除され、人目につかないよう隠密に行われた。2008年の[[南オセチア紛争 (2008年)|グルジア紛争]]での犠牲者の追悼記念碑を代わりに設置するとしている<ref>{{cite news
 
|url=生誕地でスターリン像撤去 グルジア、未明に隠密作戦
 
|publisher=47NEWS
 
|date=2010-06-25
 
|accessdate=2010-06-26
 
}}</ref>。[[2003年]]に発生した[[バラ革命]]では[[ミハイル・サアカシュヴィリ]]が[[エドゥアルド・シェワルナゼ]]政権に対するデモ行進をこの像の前から行うなど、現在でもグルジア人の愛国主義・ナショナリズムの象徴でもあった<ref>[http://www.guardian.co.uk/world/2004/apr/01/georgia.oil Georgia on their mind]</ref><ref>[http://www.eurasianet.org/departments/culture/articles/eav032604.shtml THE FLAG OF CHANGE:GEORGIA’S NEW BANNER A EurasiaNet Photo Essay by Chris Schuepp:3/26/04]EurasiaNet Culture</ref>。
 
 
 
[[2013年]]1月末、[[ヴォルゴグラード]]市議会が年間6日のみ、旧名「スターリングラード」の名称を復活させることを決定した。退役軍人などからの要請によるものである。ただ、こうした一連のスターリン復権の動きに関しては、「戦死者への侮辱」([[ウラジーミル・ルキン]]ロシア連邦人権委員会代表)と批判する声もある<ref>{{cite news
 
|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130202/erp13020219320002-n1.htm
 
|title=「スターリングラード」復活 攻防戦勝利から70年 愛国心高揚 独裁者賛美に反発も
 
|publisher=産経新聞
 
|date=2013-02-02
 
|accessdate=2012-02-03
 
}}</ref>。
 
 
 
==著作物==
 
*『無政府主義か社会主義か』
 
*『十月革命への道』
 
*『レーニン主義の基礎』スターリン全集刊行会翻訳 [[大月書店]] [[1952年]] ISBN 4272820109
 
*『レーニン主義の諸問題によせて』
 
*『民族問題とレーニン主義』
 
*『わが党内の社会民主主義的偏向について』
 
*『中国革命の見通しについて』
 
*『トロツキー主義かレーニン主義か?』
 
*『弁証法的唯物論と史的唯物論』
 
*『マルクス主義と民族問題』
 
*『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』
 
*『マルクス主義と言語学の諸問題』
 
*『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』
 
全集は大月書店より刊行された。全集に収録されなかった著作には、大月書店『スターリン戦後著作集』に収められている文献もある。
 
 
 
===日本語訳===
 
*似而非レニン主義の克服 [[益田豊彦]]訳. 共生閣, 1927.
 
*支那革命の現段階 ブハーリン共著 [[蔵原惟人]]訳. 希望閣, 1927.
 
*支那革命の諸問題 [[高山洋吉]]譯. 叢文閣, 1927.9.
 
*資本主義安定の諸問題 ジヤン・ステン,ロゾヴスキー共著 [[広島定吉]]訳. 白揚社, 1927.4.
 
*新ロシア問答 益田豊彦訳. 希望閣, 1927.5. レニン主義の諸問題
 
*ソヴェート聯邦の内外政策 [[山内封介]]譯. 白揚社, 1927.
 
*トロツキーズムとレーニズム [[荒井眞次]]譯. 共生閣, 1927. レーニズム叢書
 
*レエーニニズムの基礎 [[河合勝三]]訳. プレブス出版社, 1927.7. イスクラ・パンフレット
 
*レニニーズム [[千葉太郎]]譯. 白揚社, 1927.
 
*レニン主義と民族問題 [[松本篤一]]譯. 希望閣, 1927. レニン主義の諸問題
 
*資本主義安定の最新現象と國際状勢について ブハーリン共著 岡田, 鳥海共譯. 南宋書院, 1928.
 
*十月革命への道 [[佐野学]],[[西雅雄]]訳編 白揚社, 1928. スターリン・ブハーリン著作集;第7巻
 
*世界資本主義の安定より危機へ ブハーリン共著 [[広島定吉]]訳編. マルクス書房, 1928.6.
 
*人間レニン クルプスカヤ共著 [[瓜生信夫]]訳. 希望閣, 1928.
 
*プロレタリア政治学 [[近藤栄蔵]]訳. 無産社, 1928.12.
 
*レーニン主義序論 高山洋吉譯. 希望閣, 1928. マルクス主義文庫
 
*レーニン主義の基礎 佐野學,西雅雄 編輯. スターリン・ブハーリン著作集刊行會, 1928.
 
*レーニン主義の爲の鬪爭 佐野學,西雅雄編輯. スターリン・ブハーリン著作集刊行會, 1928. スターリン・ブハーリン著作集 第12卷
 
*ロシア共産党第十五回報告演説 [[秋田篤]]訳. 希望閣,1928.6.
 
*我党と反対派 [[島田元麿]]訳. 平野書房, 1928.
 
*國際無産階級運動 ブハーリン 佐野學,西雅雄 編輯. 白揚社, 1929. スターリン・ブハーリン著作集 第16卷
 
*社會主義建設の爲の鬪爭 ブハーリン 佐野學,西雅雄 編輯. 白揚社, 1929. スターリン・ブハーリン著作集 第10卷
 
*報告と討論の結語 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編. 白揚社, 1929.6. スターリン・ブハーリン著作集 第11巻
 
*マルキシズム的指導に對する二文献 ブハーリン共著 [[和田英二]]譯. 希望閣, 1929. マルクス主義文庫
 
*マルクス主義入門 ブハーリン共著 佐野学, 西雅雄訳編. 白揚社, 1929. スターリン・ブハーリン著作集 第1巻
 
*労働者に答ふ ブハーリンスターリンより ブハーリン共著 [[滝口徹治]]訳. 希望閣, 1929.7.
 
*ロシアに於ける階級闘争と革命 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編 スターリン・ブハーリン著作集刊行会, 1929
 
*共産主義序説 レーニン共著 高山洋吉訳. 白揚社, 1930. 「マルクス主義の旗の下に」文庫
 
*最近の問題 [[入江武一]]訳 白揚社, 1930.
 
*サヴェート農村の社会主義的建設 [[山口信次]]訳. 希望閣, 1930.
 
*サヴエート国家の現勢 [[茂森唯士]]訳. 戦旗社, 1930.
 
*社会主義建設の勝利的躍進 全ソヴエート同盟第十六回党大会報告並ニ決議 [[大井三智夫]]訳 マルクス書房 1930.
 
*世界資本主義の現段階 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編. 白揚社, 1930.2. スターリン・ブハーリン著作集 第15巻
 
*レーニン主義の基礎 [[高木孝作]]訳 1930.6. 共生閣文庫
 
*レーニン主義の基礎 [[田畑三四郎]]譯. 白揚社, 1930.
 
*レーニン主義の基礎. 續 入江武一譯. 白揚社, 1930.
 
*レーニン主義とは何ぞや [[北輝夫]]訳 1932.4. 共生閣文庫
 
*レーニン主義の基礎 [[野沢孝平]]訳 1933. 改造文庫
 
*レーニン主義の諸問題 [[白井転]]訳. 白揚社, 1932-33 スターリン著作集
 
*支那革命論・民族問題 ブハーリン共著 [[有村俊雄]]等訳. 白揚社, 1936.
 
*十月革命への道 [[佐伯嶺三]]訳. 民主評論社, 1946.
 
*ソヴェト民族政策論 [[米村正一]]訳. ナウカ社, 1946.
 
*ソ聯憲法とソ聯民主主義 [[園部四郎]]訳. 人民社, 1946.
 
*プロレタリアートの戰略と戰術 スターリンの二論文 [[青野季吉]]譯. 社會書房, 1946.8.
 
*弁証法的唯物論と史的唯物論 [[石山正三]]訳. 社会主義著作刊行会, 1946. 社会主義著作集
 
*レーニン主義の基礎 北輝夫訳. 彰考書院, 1946.
 
*レーニン主義の基礎 [[秋山憲夫]]訳. 人民社, 1946.
 
*レーニン主義の諸問題 秋山憲夫訳. 人民社, 1946.
 
*レーニン主義の諸問題 第1 (レーニン主義の基礎) 広島定吉 訳. ナウカ社, 1946.
 
*レーニン小傳 ジノビエフ共著 船形書院, 1946.10.
 
*十月革命論 高山洋吉訳. 鮎沢書店, 1947.
 
*レーニン主義の諸問題 外国語図書出版所 訳. 外国語図書出版所, 1948.
 
*スターリン全集. 第15巻 (ソヴェート同盟共産党史) [[中城竜雄]]訳. 真理社, 1950.
 
*スターリン全集. 別巻 (レーニン主義の諸問題) 中城竜雄訳. 真理社, 1950.
 
*スターリン著作集 真理社 訳. 真理社, 1950.
 
*スターリン著作集. 第6,7 高山洋吉 訳. 第三書房, 1950.
 
*スターリンは答える アメリカ各界代表との会談を中心に 高山洋吉編. 五月書房, 1950.
 
*無政府主義か社会主義か [[片山サトシ]]訳編. 暁明社, 1950.
 
*スターリン著作集. 第8 (党内闘争論) 高山洋吉訳. 第三書房, 1951.
 
*世界はひとつ 高山洋吉 訳編. 五月書房, 1951.
 
*哲学論文集 真理社 訳編. 真理社, 1951.
 
*民族問題 [[箕浦義文]]訳. 五月書房, 1951.
 
*レーニン主義の諸問題 補集 高山洋吉訳. 第三書房, 1951.
 
*レーニン・スターリン中国論 解放社編集部編 [[平沢三郎]],[[松本滋]],[[小林信]]訳 五月書房, 1951.
 
*作家への手紙 [[除村吉太郎]]編. ハト書房, 1952.
 
*スターリン全集 第1-13巻 スターリン全集刊行会 訳. 大月書店, 1952-53.
 
*ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 日ソ親善協会 訳. 日ソ親善協会, 1952.
 
*レーニン主義の基礎について 平沢三郎訳 1952. 国民文庫
 
*レーニン主義の諸問題によせて 他三篇 [[田中順二]]訳 1952. 国民文庫
 
*十月革命論 スターリン全集刊行会 訳 1953. 国民文庫
 
*スターリン [[新村猛]],[[松岡達也]]編訳 1953. 青木文庫
 
*ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 民主主義科学者協会訳編 1953. 青木文庫
 
*ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 他一篇 [[飯田貫一]]訳 1953. 国民文庫
 
*ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争 [[清水邦生]]訳 1953. 国民文庫
 
*第十四回協議会と大会の報告 [[萩原秀夫]]訳 1953. 国民文庫
 
*中国革命論 平沢三郎,松本滋共訳 1953. 国民文庫
 
*弁証法的唯物論と史的唯物論 他二篇 [[石堂清倫]]訳 1953. 国民文庫
 
*ボリシェヴィキ党の建設 スターリン全集刊行会訳 1953. 国民文庫
 
*マルクス主義と民族問題 他十篇 平沢三郎等訳 1953. 国民文庫
 
*レーニン・スターリン社会主義経済建設論 中共幹部必読文献編集委員会編 石堂清倫訳. 五月書房, 1953.
 
*レーニンについて スターリン全集刊行会訳 1953. 国民文庫
 
*スターリン戦後著作集 スターリン全集刊行会訳. 大月書店, 1954.
 
*ソ同盟共産党大会政治報告. 第15回 スターリン全集刊行会訳 1954. 国民文庫
 
*ソ同盟共産党大会政治報告. 第16回 スターリン全集刊行会訳 1954. 国民文庫
 
*民族問題とレーニン主義 他十篇 スターリン全集刊行会訳 1954. 国民文庫
 
*平和的共存 スターリン全集刊行会訳 1955. 国民文庫
 
*レーニン=スターリン青年論 自由ドイツ青年団中央委員会編 松本滋訳 1955. 国民文庫
 
*スターリン極秘書簡 モロトフあて・1925年-1936年 ラーズ・リーほか編 [[岡田良之助]],[[萩原直]]訳. 大月書店, 1996.12.
 
  
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1953年脳出血で死去。主著『マルクス主義と民族・植民地問題』 Marksizm i natsionalno-kolonialnyi vopros (1912~13) ,『レーニン主義の諸問題』 Voprosy leninizma (26) ,『ソ連における社会主義の経済的諸問題』 Ekonomicheskie problemy sotsializma v SSSR (52) など多数。
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==脚注==
 
==脚注==
 
{{Reflist}}
 
{{Reflist}}
 
==参考文献==
 
*狂信の創造者スターリン イサド・ベイ [[内山賢次]]訳. 論争社, 1961.
 
*スターリン時代 クリヴィッキー [[根岸隆夫]]訳. みすず書房, 1962.
 
*暴虐の人スターリン B.ハットン [[北見一郎]]訳. 新潮社, 1962.
 
*スターリン [[ドイッチャー]] [[上原和夫]]訳. みすず書房, 1963-64.
 
*トリアッティの証言 ドキュメント・スターリンの粛清 レナート・ミエーリ [[大石敏雄]]訳. 弘文堂, 1965.
 
*スターリン トロッキー 著 マルミュス編 [[武藤一羊]],[[佐野健治]]訳. 合同出版, 1967
 
*スベトラーナ回想録 父スターリンの国を逃れて スベトラーナ・アリルーエワ [[江川卓 (ロシア文学者)|江川卓]]訳. 新潮社, 1967
 
*スターリン主義に抗して あるアメリカ共産党員の回想 ジョン・ゲーツ 雪山慶正,西田勲共訳. 合同出版, 1968.
 
*スターリンとの対話 [[ミロヴァン・ジラス]] [[新庄哲夫]]訳. 雪華社, 1968.
 
*スターリンの肖像 ヴィクトール・セルジュ 吉田八重子訳. 新人物往来社, 1971.
 
*スターリンの死 ジョルジュ・ボルトリ 杉辺利英訳. 早川書房, 1975 のち文庫
 
*[[ロバート・コンクエスト|ロバート・コンクウェスト]]『スターリンの恐怖政治』[[片山さとし]]訳 [[三一書房]] [[1976年]]
 
*『スターリン批判 フルシチョフ秘密報告』[[志水速雄]]訳・解説、講談社学術文庫、1977年
 
*スターリン現象の歴史 J.エレンステン [[大津真作]]訳. 大月書店, 1978.10.
 
*スターリン主義を語る G.ボッファ, G.マルチネ [[佐藤紘毅]]訳 1978.2. 岩波新書
 
*クレムリンとのわが闘争 私はスターリンに裏切られた ミロヴァン・ジラス 新庄哲夫訳. 学習研究社, 1980.12.
 
*スターリンとスターリン主義 ロイ・メドヴェーデフ 石堂清倫訳. 三一書房, 1980.9.
 
*スターリン主義とはなにか ジュゼッペ・ボッファ [[坂井信義]]訳. 大月書店, 1983.8.
 
*デービッド・シプラー『ロシア 崩れた偶像・厳粛な夢』[[川崎隆司]]監訳、[[時事通信社]] 1984年
 
*{{Cite book|和書
 
|author=ニコライ・トルストイ
 
|title=スターリン その謀略の内幕
 
|date=1984
 
|publisher=読売新聞社
 
|ref=harv
 
}}
 
*大粛清・スターリン神話 アイザック・ドイッチャー [[大島かおり]],菊地昌典訳 ティビーエス・ブリタニカ 1985.4
 
*評伝スターリン アルド・アゴスティ [[坂井信義]]訳. 大月書店, 1985.4.
 
*スターリンと闘った人々 オールド・ボリシェヴィキの回想録 [[水谷驍]],E.マンデル著 井上隆太,鎌倉良訳 柘植書房, 1987.11.
 
*バーナード・ハットン『スターリン その秘められた生涯』[[木村浩]]訳、[[講談社学術文庫]] [[1989年]]
 
*アブドゥラフマン・アフトルハノフ『スターリン謀殺―スターリンの死の謎 ベリヤの陰謀』[[田辺稔]]訳、中央アート出版社 [[1991年]]
 
*{{Cite book|和書
 
|author=ドミトリー・ヴォルコゴーノフ
 
|authorlink=ドミトリー・ヴォルコゴーノフ
 
|title=勝利と悲劇 スターリンの政治的肖像
 
|date=1992
 
|publisher=朝日新聞社
 
|ref=harv
 
}}
 
*クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー共著『KGBの内幕』[[福島正光]]訳、[[文藝春秋]] [[1993年]]
 
*ロバート・コンクエスト著『スターリン ユーラシアの亡霊』[[佐野真]]訳、[[時事通信社]] [[1994年]]
 
*{{Cite book|和書
 
|author=ワレンチン・M・ベレズホフ
 
|coauthors=栗山洋児訳
 
|title=私は、スターリンの通訳だった。:第二次世界大戦秘話
 
|date=1995
 
|publisher=同朋舎出版
 
|isbn=4810422283
 
|ref={{Harvid|ベレズホフ|1995}}
 
}}
 
*King, David ''The Comissar Vanishes'', Metropolitan Books, 1997, ISBN 0-8050-5294-1
 
*イリヤ・ズバルスキー/サミュエル・ハッチンソン共著『レーニンをミイラにした男』[[赤根洋子]]訳、[[文春文庫]]、[[2000年]]
 
*ルドルフ・シュトレビンガー『赤軍大粛清』[[守屋純]]訳 [[学研ホールディングス|学習研究社]] 1996年/学研M文庫、2001年
 
*アンソニー・リード、デーヴィッド・フィッシャー共著 『ヒトラーとスターリン 死の抱擁の瞬間』[[根岸隆夫]]訳、[[みすず書房]]、2001年
 
*[[アラン・ブロック]]『対比列伝 ヒトラーとスターリン』[[鈴木主税]]訳、[[草思社]] 2003年
 
*ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ『知られざるスターリン』[[久保英雄]]訳、[[現代思潮新社]] [[2003年]]
 
*ステファヌ・クルトワ/ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書(ソ連篇)』[[外山継男]]訳、恵雅堂出版、[[2006年]]
 
*{{Cite book|和書|author=エドワード・ラジンスキー|authorlink=エドワード・ラジンスキー|title=赤いツァーリ:スターリン、封印された生涯|date=1996|publisher=日本放送出版協会|ref=harv}}
 
*ユーリイ・ボーレフ『スターリンという神話』[[亀山郁夫]]訳、[[岩波書店]] [[1997年]]
 
*サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』[[染谷徹]]訳、白水社、2010年
 
*サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 青春と革命の時代』[[松本幸重]]訳、[[白水社]]、2010年
 
*{{Cite book
 
|last=Applebaum
 
|first=Anne
 
|title=Gulag:A History
 
|publisher=Doubleday
 
|year=2003
 
|isbn=0-7679-0056-1
 
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}}
 
*{{Cite book
 
|last=Brackman
 
|first=Roman
 
|title=The Secret File of Joseph Stalin:A Hidden Life
 
|publisher=Frank Cass Publishers
 
|year=2001
 
|isbn=0-7146-5050-1
 
|ref=harv
 
}}
 
*{{Cite book
 
|last=Overy
 
|first=R. J.
 
|title=The Dictators:Hitler's Germany and Stalin's Russia
 
|publisher=W. W. Norton & Company
 
|year=2004
 
|isbn=0-393-02030-4
 
|ref=harv
 
}}
 
*{{Cite book
 
|last=Tucker
 
|first=Robert C.
 
|title=Stalin in Power:The Revolution from Above, 1928–1941
 
|publisher=W. W. Norton & Company
 
|year=1992
 
|isbn=0-393-30869-3
 
|ref=harv
 
}}
 
;日本人の著作
 
*革命の挫折 スターリン主義の歴史 1913-60年 [[佐久間元]] 論争社, 1961. 論争叢書
 
*スターリン主義の解剖 [[勝部元]]編. 合同出版社, 1963.
 
*異端の哲学史 スターリン主義への葬送曲 [[山田宗睦]] 弘文堂, 1966.
 
*マルクス主義とスターリン主義 [[対馬忠行]] 現代思潮社, 1966.
 
*歴史としてのスターリン時代 [[菊地昌典]] 盛田書店, 1966
 
*スターリン批判以後 [[黒田寛一]] 現代思潮社, 1969.
 
*スターリン 鋼鉄の巨人 人物現代史 [[大森実]] 講談社、1978
 
*スターリン [[木村武雄]] 土屋書店, 1978.12.
 
*スターリン暗殺計画 ドキュメンタル・ミステリィ [[桧山良昭]] 徳間書店, 1978.10.
 
*スターリンと大国主義 [[不破哲三]] 1982.3. 新日本新書
 
*[[福田ますみ]]『スターリン 家族の肖像』文藝春秋 [[2002年]] ISBN 416358160X
 
*亀山郁夫『大審問官スターリン』[[小学館]] [[2006年]] ISBN 4093875278
 
*[[斎藤勉]]『スターリン秘録』[[産経新聞]]社、2001年 のち[[扶桑社]]文庫
 
*横手慎二『中公新書 2274 スターリン「非道の独裁者」の実像』2014年 中央公論社 ISBN 978-4-12-102274-5
 
  
 
==関連項目==
 
==関連項目==

2018/9/8/ (土) 20:26時点における版

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン
Иосиф Виссарионович Сталин (ロシア語)

იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი (グルジア語)

Flag of the Soviet Union 1923.svg.png ソビエト社会主義共和国連邦
連邦共産党書記長
任期
1922年4月3日 – 1953年3月5日
前任者 ヴャチェスラフ・モロトフ(筆頭書記)
後任者 ニキータ・フルシチョフ(第一書記)
Flag of the Soviet Union 1923.svg.png ソビエト社会主義共和国連邦
人民委員会議議長
ソビエト連邦閣僚会議議長
任期
1941年5月6日 – 1953年3月5日
第一副首相 ニコライ・ヴォズネセンスキー
ヴャチェスラフ・モロトフ
前任者 ヴャチェスラフ・モロトフ
後任者 ゲオルギー・マレンコフ
Flag of the Soviet Union 1923.svg.png ソビエト社会主義共和国連邦
国家防衛委員会議長
任期
1941年7月19日 – 1946年2月25日
総理 自身
前任者 セミョーン・チモシェンコ
後任者 ニコライ・ブルガーニン
ソ連共産党書記
任期
1922年4月3日 – 1953年3月5日
政治局員
任期
1919年3月25日 – 1953年3月5日
ソ連共産党組織局員
任期
1919年1月16日 – 1953年3月5日
個人情報
生誕 (1878-12-18) 1878年12月18日
Flag of the Russian Empire (black-yellow-white).svg ロシア帝国
グルジア地方(現ジョージア国)、ゴリ
死没 1953年3月5日(1953-03-05)(74歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦内、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
モスクワ市、クンツェヴォ・ダーチャ
墓地 ロシアの旗 ロシア
モスクワ市、クレムリン共同埋葬地
市民権 グルジアロシア人
政党 ロシア社会民主労働党
ボリシェビキ派
ソビエト連邦共産党
配偶者 エカテリーナ・スワニーゼ (1906–1907)
ナジェージダ・アリルーエワ (1919–1932)
子供 ヤーコフ・ジュガシヴィリ
ワシーリー・ジュガシヴィリ
スヴェトラーナ・アリルーエワ
宗教 無神論棄教者)
兵役経験
所属組織 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
部門 ソビエト陸軍
軍歴 1943–1953
最終階級 元帥 (1943–1945)
大元帥 (1945–1953)
指揮 全軍指揮 (最高司令官)
戦闘 ロシア内戦
第二次世界大戦
冷戦
受賞 Hero of the USSR.png Hero of Socialist Labor medal.png


ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日[1] – 1953年3月5日

ソ連共産党指導者。本名は I.V.Dzhugashvili。靴職人の子に生れ,1894年チフリス高等神学校に入学,98年グルジアの愛国的社会主義団体に加入し,マルクス主義に接近,99年神学校から追放された。職業革命家となり,革命まで逮捕,流刑,逃亡を繰返した。

1912年党中央委員となって機関紙編集を担当,スターリン (鋼鉄の人) を名のった。 17年の二月革命後党政治局員となり,ソビエト政権では民族問題人民委員に就任,ボルシェビキ内での発言力を強めていった。 22年党書記長に就任,死ぬまでその地位にあった。

1924年 V.I.レーニンの死後,L.トロツキーを排除するため G.E.ジノビエフ,L.B.カーメネフとトロイカ方式を組み,同年「一国社会主義」理論を提起。 28~29年トロツキー,ジノビエフ,カーメネフ,N.I.ブハーリン,A.I.ルイコフ,M.P.トムスキーなどを順次排除し,独裁体制を固めるとともに,28年からの5ヵ年計画により工業化を強行。 36年の「スターリン憲法」は社会主義の勝利とソビエト市民の権利擁護を打出したが,皮肉なことにその前後から膨大な数の党員が投獄,処刑される「大粛清」が開始された。

1941年首相の地位をも兼ね,第2次世界大戦では国防会議議長,赤軍最高司令官として戦争を指揮。戦後東欧諸国で新体制が生れたが,ユーゴスラビアをコミンフォルムから追放したり,画一的な路線や粛清を各国に押しつけたりして,その後の動乱のきっかけをつくった。

1953年脳出血で死去。主著『マルクス主義と民族・植民地問題』 Marksizm i natsionalno-kolonialnyi vopros (1912~13) ,『レーニン主義の諸問題』 Voprosy leninizma (26) ,『ソ連における社会主義の経済的諸問題』 Ekonomicheskie problemy sotsializma v SSSR (52) など多数。

脚注

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関連項目