大粛清
大粛清(だいしゅくせい、露: Большой террор, 英: Great Purge)とは、ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代にソ連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等でおこなった大規模な政治弾圧を指す。
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呼称
ロシアでは массовые репрессии (大弾圧)や Большой террор (大テロル)[1][2][3][4][5]、ежовщина (エジョフシチナ)などと呼ばれている。なお、ロシア語の чистка (粛清)は「党員を党から除名する」ことを意味するため、Great Purge の露訳に相当する Большая чистка ではあまり通じない。
概説
ソビエト連邦共産党内における幹部政治家の粛清に留まらず、一般党員や民衆にまで及んだ大規模な政治的抑圧として悪名高い出来事である。ロシア連邦国立文書館にある統計資料によれば、最盛期であった1937年から1938年までに、134万4923人が即決裁判で有罪に処され、半数強の68万1692人が死刑判決を受け、63万4820人が強制収容所や刑務所へ送られた[6]。ただしこの人数は反革命罪で裁かれた者に限る。ソ連共産党は大きな打撃を受け、旧指導層はごく一部を除いて絶滅させられた。とくに、地区委員会、州委員会、共和国委員会は、丸ごと消滅した。1934年の第17回党大会の1966人の代議員中、1108人が逮捕され、その大半が銃殺刑となった。1934年の中央委員会メンバー(候補含む)139人のうち、110人が処刑されるか、あるいは自殺に追い込まれた。1940年にトロツキーがメキシコで殺された後は、レーニン時代の高級指導部で生き残っているのは、スターリンを除けばカリーニンだけだった。また大粛清以前の最後の党大会(1934年)の代議員中わずか3%が次の大会(1939年)に出席しただけであった。1939年の党の正式メンバーのうち、70パーセントは1929年以降の入党――つまりスターリン期の入党――であり、1917年以前からの党員は3%に過ぎなかった。党の討論機関たる大会と中央委員会は――終には政治局さえも――1939年以後、スターリンが1953年に死ぬまでめったに開かれなくなった[7]。
党指導者を目指してスターリンに対抗していた者は全て見せしめ裁判(モスクワ裁判)で笑いものにされ死刑の宣告を受けた。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、トムスキー、ルイコフ、ピャタコフ、ラデックはイギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、ポーランド、日本のスパイもしくは反政府主義者、あるいは破壊活動家という理由で、さらし者にされた上で殺された[8]。
赤軍も5人の元帥の内3人、国防担当の人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人の内75人、軍管区司令官全員、陸軍司令官15人の内13人、軍団司令官85人の内57人、師団司令官195人の内110人、准将クラスの将校の半数、全将校の四分の一ないし二分の一が「粛清」され、大佐クラス以上の将校に対する「粛清」は十中八九が銃殺である[9]。
ソビエト国内にいた外国人の共産党員も被害者であった。1939年冬には600人のドイツ人がNKVDの手でゲシュタポに引き渡された。1919年のハンガリー革命の主導者クン・ベーラおよび1919年の革命政府人民委員12人が逮捕され処刑された。イタリア人共産党員200人、ユーゴスラヴィア人100人あまり、ポーランド共産党の指導者全員、そしてソビエトに逃亡していた5万人ほどのポーランド人の内、わずかな例外を除く全員が銃殺された[9]。コミンテルンは1942年に正式に解体された。しかし、そのスタッフと幹部は、ロシア人であるかによらず、ほぼ全員が1939年の夏までに粛清された[10]。
なお、モスクワ裁判などのような政界、軍部の大物を除いては、処刑されたという事実さえ犠牲者の家族には伝えられなかったことが多く、家族には「通信の権利のない10年の懲役刑」「獄中で病死」などの虚偽の通達がなされることが多かった。中には、死亡時の詳細が現在も明らかになっていないものも多い。
大粛清の始まり
ウラジーミル・レーニンの死後、党内における政争に勝利し権力を掌握したスターリンであったが、党の中には古参党員を中心にスターリンの台頭に危機を覚える者が多数存在した。そんな中、1934年12月に共産党幹部セルゲイ・キーロフが、レニングラード共産党支部においてレオニード・ニコラエフという青年に暗殺されるという事件がおこる。この事件については、当時キーロフの存在に脅威を感じるようになっていたスターリンが部下のゲンリフ・ヤゴーダに命じ暗殺させたという説が有力視されているが、真相は不明である。
スターリンは、犯行は「レニングラード・テロリストセンター」と呼ばれるトロツキー一派の仕業であるというでっちあげの公式声明を行い、その逮捕を口実に、自らの反対派抹殺に乗り出すこととなった。スターリンは1937年3月の共産党中央委員会総会において、キーロフ事件以後の「教訓」として「階級闘争が前進するほどに、打ち破られた搾取者階級の残党たちの怒りはますます大きくなり、彼らはますますはげしい闘争形態にうつり、ソビエト国家にたいしてますます低劣な行動をとり、命運つきた者の最後の手段として死物狂いの闘争手段にますますかじりつくであろう」[11]などとする階級闘争激化論を定式化し、大粛清を開始した。
まずレニングラードの共産党関係者が5000人ほど逮捕され、強制収容所へ連行された。さらにかつて反トロツキーでスターリンと手を組んでいた大物たち、カーメネフとジノヴィエフらも「合同本部陰謀事件」を企んだとして逮捕され、1936年の第一次モスクワ裁判にかけて銃殺刑に処した。先に逮捕されたレニングラード共産党の関係者5000人もこの裁判の後に全員が銃殺刑に処されている。スターリン時代最初の大規模殺戮だった。
しかしこれはまだ序の口で、粛清はこの後さらに過激さを増すことになる。ソ連では1934年7月以来NKVD(エヌ・カー・ヴェー・デー)が秘密警察としての機能を兼務し、一連の粛清の指揮をとっていたが、スターリンはその長官ヤゴーダの取り組み方が手ぬるいと考え、1936年9月にはヤゴーダを解任した(ヤゴーダも1937年に逮捕され、1938年3月に銃殺)。後任のニコライ・エジョフ(彼も後にスターリンの信任を失い、1939年に逮捕され、1940年2月に銃殺)のもとで、粛清の規模は一気に拡大することとなった。
エジョフ体制の成立
スターリンに抜擢されたエジョフは、その期待にこたえるべくまずNKVDのヤゴーダ体制の刷新にあたった。NKVDの体制の刷新はエジョフが長官に就任した1936年9月の前後と1937年2月から3月の間の中央委員会総会中の二度にわたって大きく行われた。1936年9月前後の刷新は、要職をエジョフ派で固めることであり、ヤゴーダ派の左遷であった[12]。続く1937年の総会中の刷新がヤゴーダ派の粛清を意味していた。
この中でエジョフが自らの側近に選んだのは、ミハイル・フリノフスキー、レオニード・ザコーフスキー、ベールマン兄弟などであった。また1937年半ばに粛清したが、ヤーコフ・アグラーノフも初めは重用していた。前長官ヤゴーダ、および明確なヤゴーダ側近だったパウケル、ゲオルギ・モルチャーノフ、プロコーフィエフらは総会中に粛清された。ヤゴーダ派とされた下々の機関員達もこの時期に大量粛清されている[13]。
大量粛清でNKVDの組織を固めたエジョフは、共産党幹部たちを徹底的に調査させ、政治的逮捕の組織化を行うとともに、地域ごとの逮捕人数の割当まで指示している。エジョフ就任直後の1936年秋ごろから逮捕の範囲が一気に拡大している。また粛清の理由として「右翼」「トロツキスト」「ジノヴィエフセンター」「日独ファシストの手先」などかねてからのレッテル貼りに加えて「産業破壊活動」を理由にするようにもなった。ソ連の経済的混乱・貧困などスターリンの失政を「反ソ分子の陰謀」のせいにして覆い隠すためであった。
大粛清の国際的な正当化を図るため、外国ジャーナリストを招いた「公開裁判」を行うことも忘れなかった。ゲオルギー・ピャタコフ(重工業人民委員第一代理)、カール・ラデック(元コミンテルン執行委員)、グリゴリー・ソコリニコフ(元財務人民委員/駐英全権代表)、ニコライ・ムラロフ(ゴスプラン幹部会員)ら大物被告は、1937年1月の第2次モスクワ裁判にかけて、「併行本部陰謀事件」の首謀者として死刑判決を与えた上で銃殺刑に処した(ラデック、ソコリニコフは懲役10年。ただし両者とも翌1938年獄中で不審な死を遂げている)。さらに1937年2月の中央委員会総会中には、ブハーリン(元コミンテルン議長・元党政治局員)、ルイコフ(前首相・元党政治局員)、ヤゴーダ(前任の内務人民委員)らを「右翼トロツキスト陰謀事件」を企んだとして逮捕し、翌1938年の第3次モスクワ裁判において死刑にした。
粛清は、単に反スターリン的な人物だけに留まらず、スターリンに忠実だった者たちへも及び、パーヴェル・ポスティシェフ、スタニスラフ・コシオール、ヤン・ルズタークのような1920年代にスターリンの粛清や集団化を支持した共産党幹部たちも次々と粛清されていった。
また1937年春ごろからは地方党組織にも粛清を開始した。まずエジョフは各地域のNKVDトップの首を挿げ替えて、実質的な指揮権を現地の党組織からモスクワのNKVD本部へと変えた。そしてロシア革命以来、領主のようにふるまっている地方党組織の大物たち、イオシフ・バレイキス、ボリス・シェボルダエフなどを続々と粛清していった。
第十七回共産党大会において、中央委員または中央委員候補だった者139人のうち98人がこの時期にNKVDによって逮捕・銃殺されるに至った。
赤軍大粛清
第一次モスクワ裁判では、ムラチュコフスキー将軍(ウラル軍管区司令官)やスミルノフ将軍(シベリア方面赤軍司令官)など赤軍高官も処刑されていたが、彼等は赤軍としてというより、スターリンに並ぶオールド・ボリシェヴィキとしての側面を恐れられて粛清されたとみられる。
赤軍自体への粛清は、当初はスターリンといえどもなかなかできずにいた。だが、1936年7月にNKVDに逮捕されたドミトリー・シュミット将軍(キエフ軍管区戦車隊司令官)が、拷問のすえ廃人にされて赤軍内の“共犯者”の名前を“自白”したことで、徐々に赤軍高級将校への粛清がはじまった。さらに1937年6月11日にはミハイル・トゥハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)、イオナ・ヤキール一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)、イエロニム・ウボレヴィッチ一等軍司令官(白ロシア軍管区司令官)ら名だたる赤軍高官がまとめて“ナチスドイツのスパイ”として銃殺され、これを機に赤軍の粛清がいよいよ本格化する。
以降、翌1938年までいわゆる「赤軍大粛清」が吹き荒れることとなり、元帥5人のうち3名、軍司令官級15人のうち13人、軍団長級85人のうち62人、師団長級195人中110人、旅団長級406人中220人、大佐級も四分の三が殺され、大佐以上の高級将校の65%が粛清された計算になる。政治委員(共産党から赤軍監視のために派遣されている党員たち)も最低2万人以上が殺害され、また赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、そのうち半数の15万人が1938年代に命を落とした。
トゥハチェフスキー粛清の謎
「赤軍の至宝」「赤いナポレオン」と謳われる内乱時代の英雄で、その後も赤軍の機械化・近代化とその運用のための縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たしていたトゥハチェフスキー元帥の処刑は世界に衝撃を与えた。
トゥハチェフスキーとスターリンのそもそもの確執は、対ポーランド戦争に遡るといわれる。この戦争でトゥハチェフスキー軍はワルシャワを包囲したが、スターリンが政治委員をつとめるエゴロフ軍はワルシャワ包囲の増援を送らなかったため、陥落させられなかった。当時のスターリンは、トゥハチェフスキーの華々しい連勝に嫉妬し、自分も戦勝将軍としてどこかの都市に華々しく入城したいと考えていたとの説がある。だが、レーニンはこれに激怒し、ただちにスターリンの革命軍事会議議員の地位を剥奪した。これによって大恥をかかされたスターリンは、トゥハチェフスキーを逆恨みするようになったという。これが真実であれば、トゥハチェフスキーの存在感はスターリンの自尊心を傷つけるものであったろうことは想像に難くない[14]。
ナチス・ドイツ情報部SD司令官ラインハルト・ハイドリヒも、独ソ戦があった場合に最大の強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺する絶好の好機を逃さなかった。「ドイツ軍とトゥハチェフスキーが接触した」という偽造文書を作成し、チェコスロヴァキアの親ソ政治家ベネシュ大統領を通じてモスクワのスターリンへ届くよう工作したとされる。一方で、スターリン側がドイツがそういう行動に出るよう仕向けたともいわれ、真相は定かではない。
いずれにせよ、「ナチスのスパイ」として逮捕されたトゥハチェフスキーは、NKVDの取調官から調書に血の跡が残るほど激しい拷問を受けて、スパイである事を自白せざるをえなかった。裁判ではゲシュタポの偽造した文書が証拠として利用され、有罪の判決を受けたトゥハチェフスキーは1937年6月12日に銃殺された。トゥハチェフスキーの妻ニーナも「共犯」として逮捕され強制収容所へ送られた後に1941年10月になって銃殺された。トゥハチェフスキーの12歳の末娘は自殺している。
外国人粛清者
当時のソ連にいた外国人といえば、コミンテルンに参加するためにソ連に来ている共産主義者か、または共産主義が禁止されている国からソ連に亡命してくる非合法組織の者か、そのどちらかがほとんどであったが、彼らもスターリンの大粛清の前で例外とはされなかった。
外国人の大粛清犠牲者で有名な人物としてはハンガリーの共産主義運動の始祖でレーニンの信頼も厚かったクン・ベーラ(1937年5月逮捕、1939年11月銃殺)、ソビエト著作家協会リトアニア支部の創設者で、1920年秋のカヒョフカ戦で活躍したリトアニア人共産主義者ロベルト・エイデマン(1937年6月銃殺)、スイス共産党創設者で、二月革命後のレーニンのロシアへの帰国を取り仕切ったフリッツ・プラッテン(逮捕後、1942年4月ラーゲリで銃殺)等が挙げられる。
日本人からは、山本懸蔵(日本共産党員。1937年11月逮捕、1939年3月銃殺)、伊藤政之助(日本共産党員。1936年11月逮捕、1937年銃殺)、国崎定洞(ドイツ共産党所属でソ連に移住した元東京帝大医学部助教授。1937年8月逮捕、同年12月銃殺)、杉本良吉(演出家、日本共産党員、女優岡田嘉子の愛人。1938年1月逮捕、1939年銃殺)などソ連亡命中の共産主義者を中心に10-20名前後が粛清されたと見られる。
大粛清の矛先は、コミンテルンに加盟している各国の共産党に対しても向けられ、ポーランド、ユーゴスラヴィア、モンゴル等の共産党幹部がソ連に召喚され、多くが粛清された。アドルフ・ヒトラーによる弾圧を逃れてソ連に亡命していたドイツ共産党指導部も、大粛清によって壊滅した。
また、ソ連国外でも共産主義者や共産党の政敵への殺害は行われた。当時内戦の最中にあったスペインでは、共産党の政敵だったマルクス主義統一労働者党(POUM)の幹部アンドレウ・ニンがNKVDの要員によって誘拐・殺害(1937年6月20日)されている。当時ソ連の衛星国だったモンゴル人民共和国やトゥヴァ人民共和国では、貴族やチベット仏教僧を始めとする反体制派への大規模な迫害や、「日本帝国主義のスパイ」に対する摘発が行われた。
大粛清の結末
スターリンとエジョフの粛清は広範に拡大され、おそらく人類の歴史の中でも名だたる政治抑圧の事例となった。その対象は政府や党の高級幹部に留まらず、作家マクシム・ゴーリキー、詩人オシップ・マンデリシュターム、演出家で俳優のフセヴォロド・メイエルホリド、経済学者ニコライ・コンドラチエフなどが犠牲になっている。
生物科学の分野においても、スターリンの寵愛を受けたトロフィム・ルイセンコに異を唱えたニコライ・ヴァヴィロフなど3千人を超える生物学者が「ブルジョワ疑似科学」の烙印を押された上で投獄、解雇、処刑され、遺伝学における科学研究は1953年にスターリンが死ぬまで事実上破壊された(ルイセンコ論争)。
このように一般の文化人や市民にも粛清の恐怖が広まり、社会は相互監視と密告に支配された。国民は恐怖や猜疑心に脅える悪夢のような日々を送るはめになり、「ロシア人の亭主が家族と安心して話せるのは、夜布団の中で丸くなって妻子と一緒の時だけ」とさえ言われた。
さらに、ウラジーミル・ヴァランキンやニコライ・ウラジミロヴィチ・ネクラーソフなどのようなエスペランティストも、その国際的な活動が災いしてスパイとの嫌疑をかけられ、その多くが銃殺されたり投獄された。これにより、ソ連でのエスペランティストの活動は、スターリンの死後まで一時途絶えることになる。
また、外国から帰国した元亡命者たちもスパイの烙印を押され、多くが逮捕・処刑された。1937年9月20日、エジョフはNKVD指令書の付属文書の中で、北満鉄道讓渡協定によるハルビンからの帰国者を「日本のスパイ」と決めつけて大量に逮捕するよう指令 (NKVD命令 第593号)。結果、4万8千人以上が逮捕されてそのうち3万992人が銃殺された[15]。この時の犠牲者にはアナトリー・ヴェデルニコフの父イワン・ヴェデルニコフなどがいる。
しかし1938年後半にはいると、大量抑圧によって国家機能や経済運営が支障を来たすほどになり、弾圧の実行者である治安機関がその責任を問われることとなった。1938年末になると、スターリンはエジョフとNKVDを批判するようになり、エジョフはついにNKVD長官の座をラヴレンチー・ベリヤに奪われ、さらにスターリン暗殺計画を企んだとして1940年に銃殺された。またフリノフスキーはじめエジョフの部下たちも次々と処刑され、粛清にあたったNKVDの関係者たちでスターリン時代を生き残れた者は多くなかった。
その後、独ソ戦期・冷戦期にもベリヤの指導で政治弾圧は続いたものの、大粛清期に比べるとはるかに縮小した。1953年3月5日にスターリンが死ぬと、ソ連共産党第一書記になったニキータ・フルシチョフが、大粛清をはじめとするスターリンの個人崇拝政治を批判し(スターリン批判)、これにあわせて、大粛清で処刑・流刑された共産党や赤軍の幹部たちに対する恩赦や名誉回復がはじまった。
1964年のフルシチョフの失脚後、レオニード・ブレジネフの政権下では一時名誉回復運動も停滞したが、1985年にはミハイル・ゴルバチョフによって再び「改革派」が勢いづき、スターリン政治の実態が明らかにされる一方で、更に多くの死亡者たちの名誉が回復された。
しかしソ連崩壊後、第二次ウラジーミル・プーチン政権下においては、2014年クリミア危機以降、欧米諸国による経済制裁が強化されたことに対抗する形でソ連時代の「再評価」が進められており、それに伴い大粛清の資料の公開も滞りつつある。例としては、上記のエジョフの機密文書を2014年7月にウクライナ保安庁が機密解除したのに対し、ロシア連邦保安庁は未だに機密扱いしている[15]。
死亡者数
情報公開
大粛清による死亡者の総数は判明していない。ただし、ソ連は公式の人口統計を残していた[16]。ソ連崩壊後もレーニン廟は残されたが、スターリン廟は撤去されたことから、大粛清はロシア連邦政府公式声明においても「歴史的悲劇」であるという解釈で一貫している。
ソ連政府はミハイル・ゴルバチョフの時代にNKVDの後身KGBがスターリンが支配した1930年から1953年の時代に786,098人が反革命罪で処刑されたことを公式に認めた。さらにソ連崩壊後にはロシア連邦国立文書館(GARF)がNKVDグラーク書記局が1953年に作成したという統計報告書を公開した。それによるとNKVDは1937年と1938年の2年間に1,575,259人の者を逮捕しており、このうち87%以上の1,372,382人に及ぶ人が「反革命罪」・「反ソ扇動罪」などに問われた政治犯であった。そして逮捕された者のうち85%が有罪にされており、有罪者のうち半数強が死刑判決を受けているのである(それ以外の者もほとんどが強制収容所送りか流刑だった)。
しかしながらこのロシア連邦国立文書館の公表した統計報告書の数だけがソ連の粛清の犠牲者のすべてではない。過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば死亡者数は増大するはずである。また農業集団化に伴う「富農」追放や、飢饉によって死亡した人数は、公式統計を優に上回る可能性がある。ロシア・ソ連公式の人口統計においても大きな人口減が確認できるので、ソ連共産党が数百万人の人口減を粛清時に把握していたことは間違いがない。
被粛清者
西暦 | 逮捕者総数 | 政治犯数(全逮捕者中の割合) | 有罪者数 | 死刑者数(有罪者中の割合) |
---|---|---|---|---|
1921年 | 200,271 人 | 76,820 人( 38 % ) | 35,829 人 | 9,701 人( 27 | % )
1922年 | 119,329 人 | 45,405 人( 38 % ) | 6,003 人 | 1,962 人( 32 | % )
1923年 | 104,520 人 | 57,289 人( 54 % ) | 4,794 人 | 414 人( | 8 % )
1924年 | 92,849 人 | 74,055 人( 79 % ) | 12,425 人 | 2,550 人( 20 | % )
1925年 | 72.658 人 | 52,033 人( 71 % ) | 15,995 人 | 2,433 人( 15 | % )
1926年 | 62,817 人 | 30,676 人( 48 % ) | 17,804 人 | 990 人( | 5 % )
1927年 | 76,983 人 | 48,883 人( 63 % ) | 26,036 人 | 2,363 人( | 9 % )
1928年 | 112,803 人 | 72,186 人( 64 % ) | 33,757 人 | 869 人( | 2 % )
1929年 | 162,726 人 | 132,799 人( 81 % ) | 56,220 人 | 2,109 人( | 3 % )
1930年 | 331,544 人 | 266,679 人( 80 % ) | 208,069 人 | 20,201 人( | 9 % )
1931年 | 479,065 人 | 343,734 人( 71 % ) | 180,696 人 | 10,651 人( | 5 % )
1932年 | 410,433 人 | 195,540 人( 47 % ) | 141,919 人 | 2,728 人( | 1 % )
1933年 | 505,173 人 | 283,029 人( 56 % ) | 239,664 人 | 2,154 人( | 0.9% )
1934年 | 205,173 人 | 90,417 人( 44 % ) | 78,999 人 | 2,056 人( | 2 % )
1935年 | 193,083 人 | 108,935 人( 56 % ) | 267,076 人 | 1,229 人( | 0.4% )
1936年 | 131,168 人 | 91,127 人( 69 % ) | 274,670 人 | 1,118 人( | 0.4% )
1937年 | 936,750 人 | 779,056 人( 83 % ) | 790,665 人 | 353,074 人( 44 | % )
1938年 | 638,509 人 | 583,326 人( 91 % ) | 554,258 人 | 328,618 人( 59 | % )
ソ連ではウラジーミル・レーニンによる建国以来、政治犯の逮捕(すなわち粛清)は常時行われていたが、逮捕者数や死刑数がとりわけ目立つのはやはりスターリン時代の大粛清最盛期である1937年と1938年である事がわかる。
大粛清の背景
大粛清の要因として主に指摘されているのは、何よりスターリン自身の猜疑心である。スターリンの側近ラーザリ・カガノーヴィチは、晩年のフェリックス・チュエフとのインタビューにおいて、モスクワ裁判で粛清された古参ボリシェヴィキらがかつてはレーニンと敵対関係にあったことについて言及しており、スターリンは、彼らを生かしておけば彼らに取り囲まれてロベスピエールのように殺されると考えたのだと発言している[19]。ブハーリンは、逮捕前に妻に記憶させて焼き捨てた遺書の中で、NKVDはスターリンの病的な猜疑心のいいなりになって下劣極まりない仕事に精を出している、と批判している。
また、赤軍出身の歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフ(彼自身も父を大粛清で失っている)は一連の著作の中で、大粛清はボリシェヴィキ政権が行った赤色テロの最終的な到達点であると主張している。1930年代のドイツにおけるヒトラー政権の誕生や極東における日本帝国主義の台頭などが、スターリンにはソ連に対する包囲網と取れたから[20]、という解釈を含めても行き過ぎた粛清であったのである。
なお、大粛清の目的は、「敵の脅威」を作り出すことで国民を恐れさせ、団結させることにあるという指摘もある[15]。このような例は共産圏や独裁国家のみならず、規模の大小こそあれどどこの国でもよく見られることである。
大粛清を逃れた者たち
- ゲンリフ・リュシコフ[21] - 著書に『リュシコフ大将手記』がある。
- フロントヤルマル・フランツェウィチ[22][21]
- ビンバー - 著書に『外蒙古脱出記』がある。
- 高谷覚蔵 - 著書に『コミンテルンは挑戦する[23]』(前編に「在露十年記」を含む)がある
- 正兼菊太 - 著書に『ロシア潜行六ケ年』がある。
- 熊谷大信
- 勝野金政 - 著書に『赤露脱出記』がある。
- 久保田栄吉 - 大粛清より前ではあるが、便宜上ここに記す。モスクワにおいて軍事探偵疑惑としてチェーカーに捕まった。著書に『赤露二年の獄中生活[24]』がある。
大粛清の犠牲者追悼と擁護論
ロシアの人権団体メモリアルは、連邦保安庁(旧KGB)本部前のルビャンカ広場に建立した追悼慰霊碑の前で犠牲者の名前などを読み上げる追悼式典を開いている[25]。
2017年10月30日には、ロシア連邦政府による初の公式追悼碑「嘆きの壁」がモスクワに設置された。ウラジミール・プーチン大統領は「数百万人が亡くなったり、苦しんだりした。この悲劇を忘れないことが、我々の義務だ」と式典で挨拶した[26]。
一方で、「こうした弾圧措置は道義的また倫理的には問題があったとはいえ、そのおかげでロシア・ソ連の近代化が成功した」として、この時期のスターリンの行動を肯定・正当化しようとする論者も存在している[27]。その根拠は、スターリンの時代を矛盾の時代だと定義することから出発している。すなわち、ソビエト成立時の産業構造は農業主体であったが、本来であれば数十年をかけて工業化を進めるところを、農民を犠牲にした強制的な資本蓄積を図ることで産業構造の近代化を成功させた、というのである。また、大粛清によって排除された高級将校は現代戦の知識に疎く、大粛清の後にはゲオルギー・ジューコフやイワン・コーネフのようにそれを補う有能な若手将校が現れたと主張されることもある。しかし、一般には、赤軍が熟練将校や指揮官の大半を失ったことが冬戦争と独ソ戦での甚大な損害を招いたとされている。トゥハチェフスキーのような先進的戦略家らも犠牲になる一方で、冬戦争や独ソ戦争における失態から無能との悪評高いクリメント・ヴォロシーロフや騎兵を過大評価し戦車を軽視するセミョーン・ブジョーンヌイらは粛清を免れたことから、現代戦の知識よりも党への忠誠が重視された大粛清であった。
参考文献
- ルドルフ・シュトレビンガー 著\守屋純 訳『赤軍大粛清 20世紀最大の謀略』
- (学習研究社、1996年) ISBN 4-05-400650-7
- (学研M文庫、2001年) ISBN 4-05-902041-9
- ドナルド・キャメロン・ワット『第二次世界大戦はこうして始まった[上]』(河出書房新社 1955) ISBN 4-309-22275-7
- 世界大百科事典 第16巻(平凡社)
- 『ソ連秘密資料集 大粛清への道』大月書店
- ドミトリー・ヴォルコゴーノフ著『レーニンの秘密』NHK出版より下巻
- 『共産主義黒書(ソ連篇)』恵雅堂出版
- ジョン・デューイ調査委員会編著『トロツキーは無罪だ! モスクワ裁判検証の記録』現代書館2009年
関連項目
- ホロドモール
- カティンの森事件
- ヴィーンヌィツャ大虐殺
- 露西亜通信社 - 日本の機密費によって、ソ連の状況調査を行っていた通信社[28]。満州のハルピンに本社があり、ソ連内に支社を置いていた。
脚注
- ↑ 「スターリンの大テロル - 恐怖政治のメカニズムと抵抗の諸相 -」(O.フレヴニューク、富田武訳、岩波書店、1998年)
- ↑ 「新たにシベリア抑留と大テロルを問う:バイカル湖の丘に立ちて恒久平和を祈る」(石井豊喜、日本文学館、2008年)
- ↑ Seventeen Moments in Soviet History
- ↑ 「The great terror:Stalin's purge of the thirties」(Robert Conquest, 1968)
- ↑ 「The voices of the dead: Stalin's great terror in the 1930s」(Hiroaki Kuromiya, 2007)
- ↑ アーチ・ゲッティ・オレグ・V・ナウーモフ編「ソ連極秘資料集 大粛清への道」(大月書店)p622参照
- ↑ スティーヴン・F-コーエン、塩川 伸明 訳『ブハーリンとボリシェヴィキ革命―政治的伝記、1888-1938年』(1979未來社)p421参照
- ↑ ワット 1955, pp.171-172
- ↑ 9.0 9.1 ワット 1955, p.172
- ↑ ワット 1955, pp.172-173
- ↑ スターリン「党活動の欠陥とトロツキスト的およびその他の二心者を根絶する方策について」(共産党中央委員会総会報告、1937年3月3日)J.V. Stalin, Defects in Party Work and Measures for Liquidating Trotskyite and Other Double Dealers:Report to the Plenum of the Central Committee of the RKP(b), March 3, 1937
- ↑ この時はまだヤゴーダ派の多くは引き続きNKVDの職務にあたっていた
- ↑ 後に自らも粛清された際にエジョフは弁論の中で「私は1万4000人のチェキストを粛清しましたが・・・」などと述べている
- ↑ また一説によると実際に1937年の春から夏ころにかけてトハチェフスキーを国家元首にかついでスターリンを追放しようという陰謀が正統派コミュニスト・党官僚・軍人らの間であったという説もある(クルボーク事件)(亀山郁夫著『大審問官スターリン』(小学館)160ページ)
- ↑ 15.0 15.1 15.2 「『外敵つくり団結』変わらぬ露―1937年『エジョフ機密書簡』が示すもの」、産経新聞、2014年11月20日号8面。
- ↑ 1930年代から1945年までの統計は依然として不明だが、公式統計を再開した年に大きな人口減が確認できる。(Podiachikh, 1961;Gozulov and Grigoriants, 1969; Vorobev, 1977)
- ↑ 外部リンク webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、12 May 2017 11:49:27 UTC閲覧。
- ↑ 外部リンク webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、12 May 2017 11:53:55 UTC閲覧。
- ↑ 「陰謀説の嘘」デビッド・アーロノビッチ著、佐藤美保・訳、PHP研究所、2011年
- ↑ ヤルタ会談の際にもスターリンは「やつら(日本人全員を指す)はどうせまた這い上がってくる」というコメントを残している。
- ↑ 21.0 21.1 昭和十三年の国際情勢(一九三八年) P.331- 赤松祐之 1939年
- ↑ 明と暗のノモンハン戦史 秦郁彦 2014年
- ↑ [1]
- ↑ [2]
- ↑ スターリン大粛清80年、ロシアで追悼式毎日新聞 (2016年11月1日)
- ↑ 「スターリンらの粛清、追悼碑 モスクワで完成式典」『朝日新聞』朝刊2017年11月1日
- ↑ 外部リンク webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、12 May 2017 12:06:12 UTC閲覧。
- ↑ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003869100、昭和04年「密大日記」第3冊(防衛省防衛研究所)」 標題:機密費使用に関する件
外部リンク
- 反ソヴィエト「右翼トロッキー派ブロック」の公判記録 外務省調査部 1938年6月
- 日本人粛清犠牲者リスト
- スターリンの肖像画を13枚