「細川斉茲」の版間の差分
ja>豊臣日向守秀郷 細 |
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細川 立禮 / 細川 斉茲 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 宝暦5年4月26日(1755年6月5日) |
死没 | 天保6年10月23日(1835年12月12日) |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 肥後宇土藩主→肥後熊本藩主 |
氏族 | 細川氏 |
細川 斉茲(ほそかわ なりしげ)は、肥後熊本藩第8代藩主、熊本藩細川家9代。
もともとは同国宇土藩細川家の出身で同藩の第6代藩主であった。この当時は藩祖・細川立孝の1字を取って細川 立禮(新字体:立礼、たつひろ)を名乗っていた。立孝は熊本藩初代藩主・忠利の異母弟であり、その子孫である立礼(斉茲)が熊本藩主家を継いだことにより、この家は忠利の母・細川ガラシャの血を引かない家となった。
生涯
宝暦5年(1755年)4月26日、宇土藩第5代藩主・細川興文の三男として生まれる。母の長照院(薗氏)は、同年内[1]に埴姫(のちの謡台院)を生んでいる[2]ため、現実的に考えればこれと双子として生まれた可能性が高い。
長兄(異母兄)の興武(おきたけ、母は八条隆英の娘)が早世したのに伴い、宝暦12年(1762年)3月18日、父・興文の嫡子となる。明和8年(1771年)2月15日、将軍徳川家治に拝謁する。この頃に元服して立禮と名乗る。明和9年(1772年)1月25日、父興文の隠居により家督を継いで宇土藩主となり、12月18日に従五位下、和泉守に叙任する。宇土時代には、藩財政再建のために倹約を行ない、天明の大飢饉で大被害を受けたときには、窮民救済に尽くした。
天明7年(1787年)9月19日、姉・謡台院の夫である本家の熊本藩主・細川治年が実子が全て喪って死去したのにともない、治年の義弟である立禮が養子となって跡を継いだ。これに伴い、宇土藩の藩主は長男・立之が継いだ。同年11月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従四位下侍従に昇進、将軍徳川家斉から偏諱の授与を受けて斉茲に改名した。
熊本藩主時代には、先々代の名君・重賢以来の名臣を登用して倹約を主とした藩財政再建に乗り出す。寛政4年(1792年)10月には銀札を発行して藩財政再建を目指したが、これが不首尾に終わって享和2年(1802年)には御銀所騒動が起こった。しかも江戸の藩邸が焼失するなど、結局は出費も重なり、藩財政再建には失敗した。
文化7年(1810年)11月10日、(廃嫡された次男・斉詮に代わって嫡男となっていた)三男・斉樹に家督を譲って隠居し、天保6年(1835年)10月23日に死去した。享年81。