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アメリカ合衆国副大統領(アメリカがっしゅうこくふくだいとうりょう、Vice President of the United States、略称:VPOTUS、通称:VP(ヴィーピー)・Veep(ヴィープ))は、アメリカ合衆国の行政府を代表する第2位の官職である。
職務
大統領の次席
大統領が死亡・辞任・免職などにより欠けた場合は、副大統領が大統領に昇格する(合衆国憲法修正25条第1節)。
事故・病気などにより大統領が一時的に職務遂行不能になった場合は、副大統領が臨時に大統領権限を代行する。副大統領による代行がなされた実際の事例は、大統領が手術を受けるに際して明示的に権限を一時委譲したケースのみである。憲法修正第25条第3節の規定では、大統領による反対申し立てがあった時点で大統領が職権を回復する。同条第4節では、一応の意志表示には支障がない大統領が精神的な責任能力を失ったような場合を想定し、副大統領と閣僚の過半数が申し立て議会両院それぞれで2/3多数による承認議決があれば、大統領による反対申し立てがあった場合でも副大統領が大統領権限を代行することを規定する。
大統領の名代として、儀式に参列したり、外交上の接受や表敬訪問を行う職務も大統領から都度委ねられる。
上院議長
副大統領はまた上院議長(President of the Senate)を兼務し、可否同数の場合のみ均衡を破る1票(議長決裁票、tie breaking votes)を投じる。議院規則により、議論に参加することはできない。
旧来は実際に上院本会議の議事を主宰していたが、今日では議事を主宰することは稀である。現代では通常の議事進行を上院仮議長代行が行う。
1960年代初頭までは日常的に上院本会議の議事進行を司っていた。副大統領に上院議員出身の者が圧倒的に多い一因もここにある。しかし第二次世界大戦終盤の1945年と冷戦中の1963年にハリー・トルーマンとリンドン・ジョンソンが次々に大統領に昇格するという事態が起こると、以後の副大統領にはもっぱら「控え」としての存在が求められるようになり、その結果ホワイトハウスに出入りして閣議に出席することの方が日常的となり、上院本会議の議事進行を行うことは稀となった。
国家的な儀式としての重要性の高い議長職務は今日でも副大統領自身が務める。大統領の一般教書演説などが行なわれる上下両院合同会議では、下院議長と共に共同議長として下院本会議場議長席に立つ。また、大統領選挙の選挙人投票結果は各州より上院議長としての副大統領に送付され、両院合同会議で副大統領自身の議事進行により集計・認証する。この際、副大統領自身が大統領候補もしくは副大統領候補であっても、それを理由として任務を上院仮議長等に委ねることはなく、自らの得票数と当落を最終的に認証する立場になることも多い。上院の改選・補欠選挙、あるいは補欠選挙まで務める議員の任命が行われた際、議長として本会議で議員の着任を宣言し就任宣誓を取り仕切ることも副大統領が自ら行う。
位置付け
副大統領職は創設以来長らくは閑職であり、初代副大統領のジョン・アダムズが「人類の作った最も不要な職」と嘆いたほどであった。政府の政策への関与は小さく、ハリー・トルーマンは副大統領から大統領への昇格時に初めて自国の原爆開発プロジェクトの存在を知らされたほどだった。大統領補佐官たちのオフィスがホワイトハウスのウエストウイングにある大統領執務室と同棟に設けられているのに対し、副大統領府がウエストウイングから小道を挟んだ別棟のアイゼンハワー行政府ビルに設けられているのは象徴的である。
しかし近年では、行政権の肥大化によって過重になった大統領の職責を分担していく傾向にあり、1993年に就任したアル・ゴアは通信政策や環境政策などを担当した。さらに2001年に就任したディック・チェイニーは当初より将来における大統領選への不出馬を表明し、実務担当を公言してホワイトハウス入りし、オフィスも例外的にウエストウイング内に構えている。2017年に就任したマイク・ペンスも、ウエストウイングに執務室をもつ。
公邸は1974年よりアメリカ海軍天文台内に設けられた。
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副大統領府のあるアイゼンハワー行政府ビル
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副大統領公邸
選出
4年ごとの大統領選挙の年は、年明けから各州で予備選挙や党員集会が行われ、春過ぎ頃には大統領候補指名を獲得するために必要な全国党大会代議員の過半数または大多数を得た候補が明らかになってくる。大統領候補指名の獲得が確実になると、その候補は夏の全国党大会に先立って「ランニングメイト」(running mate、伴走候補とも)と呼ばれる副大統領候補を発表する[1]。ただし、代議員獲得数が複数の候補間で大きく割れて明らかな本命がいない場合には、党大会における代議員投票で実際に大統領候補を選出して指名を行うまで、副大統領候補も決まらない。大統領候補が正式に指名されると、その候補は自分の副大統領候補を正式に発表する。
こうして大統領選は本番を迎えるが、副大統領候補となった者は多くの場合、知名度で大統領候補に大きく引けを取るので、選挙戦の前半は文字通り大統領の伴走者として二人三脚で各地を転戦し、顔と名前を売ることに努めることとなる。
大統領選挙は形式の上では間接選挙であるため、11月第1月曜日の翌日の一般投票日に有権者が票を投じるのは、それぞれ特定の「大統領候補と副大統領候補のペア」への投票をあらかじめ誓約している選挙人団に対してである[2]。したがって大統領候補と副大統領候補の一般投票での得票は同数とみなされ、大統領候補が当選すれば、その副大統領候補も当選者となる。
制定当初の連邦憲法では、各選挙人は2票を投じ、最多得票の候補が大統領、得票数2位の候補が副大統領となる規定であった。しかしこれは政党単位で争われる選挙にはなじまないため、1804年6月発効の憲法修正第12条で、大統領候補と副大統領候補に対する別個の投票を行う制度に改められた。
選挙人による投票で過半数を得た候補がない場合、副大統領は副大統領候補の高得票者2名から上院で選出される。
このように、固有の職務を担う複数の候補が組み合わせとして単一投票の候補者となっていることを「チケット」 (ticket) という。通常副大統領候補には大統領候補と支持基盤、政策、キャラクターなどが異なる人物が選ばれ、大統領候補の弱点を補完することになる。大統領候補と副大統領候補が夢の組み合わせのような場合には、これを特に「ドリームチケット」という[3]。再選出馬の場合は現職副大統領が引き続き指名されることが一般的であるが、フランクリン・ルーズベルトのように別の者を指名することもある。またジョージ・マクガヴァンのように、一旦指名された伴走副大統領候補を交代させた例もある。
副大統領が大統領昇格・死亡・辞任・免職などにより欠けた場合は、大統領の指名と上下両院の過半数の承認をもって、新副大統領が就任する[4]。2度の例があり、いずれも共和党所属の大統領が、民主党支配の両院の同意を得て、中道寄りの共和党員を副大統領に指名した事例である。
資格
憲法修正第12条は副大統領に大統領と同様の資格を求めており、生まれながらにしての合衆国市民であり、通算14年以上合衆国に居住する、35歳以上の者に副大統領としての資格がある。
また憲法修正第22条は大統領の3選を禁止しているが、大統領を2期務めた者がその後副大統領になることができるかどうかについては、憲法に規定がない。
一般に憲法学者は、修正22条が禁じているのは「大統領に3回以上選ばれること」であって「大統領職を3期以上務めること」ではないので、大統領を2期務めた者がその後副大統領になり、さらにその後大統領に昇格してもう1期務めることは、憲法上は可能だとしている。
2000年の大統領選挙では、共和党のジョージ・W・ブッシュ候補相手に苦戦が予想されていた民主党のアル・ゴア候補に対して、伴走候補に退任を控えたクリントン大統領を推す案が取り沙汰された。冷めやらぬクリントン人気をもってすれば勝利確実のドリームチケットと期待する向きも多かったが、脱クリントン色を願うゴア候補はこれに乗らず、結局副大統領候補にはジョー・リーバーマン上院議員を指名、獲得票数ではブッシュを上回ったものの、選挙制度の関係で敗退している。
大統領が死亡や辞任などで欠けて副大統領が大統領に昇格した場合、前大統領の任期が残り2年以内であれば、その後の大統領選挙に2度挑戦できる。つまり、アメリカ合衆国大統領は最高で10年出来ることになる。ただし、憲法修正第22条によりこの制度が導入された後に、8年を超えて大統領を務めた者はいない。
憲法修正第12条で、選挙人はいずれかの1票を自分とは別の州の住民に投じなければならないと規定されているため、正副大統領候補の州籍が一致していると、当選は不可能ではないしてもハンデキャップを負うことになる。2000年の大統領選挙では、共和党の正副大統領候補の州籍がともにテキサス州であったため、同党副大統領候補のディック・チェイニーが、以前住んでいたワイオミング州に有権者登録と運転免許登録を移したことがある。この選挙では両候補ともテキサス州から得票している。
出身
プロテスタントの白人(広義のWASP)男性が選出されることがほとんどであるが、2008年にはローマ・カトリックの白人男性であるジョー・バイデンが当選した。プロテスタント白人男性以外の2大政党指名候補としては、カトリック白人女性のジェラルディン・フェラーロ、ユダヤ教徒白人男性のジョー・リーバーマン、プロテスタント白人女性のサラ・ペイリンがいる。
歴代副大統領一覧
各種記録
- 大統領に昇格した副大統領
- ジョン・タイラー: 1841年4月4日、ウィリアム・ヘンリー・ハリソン大統領病死により昇格。
- ミラード・フィルモア: 1850年7月9日、テイラー大統領病死により昇格。
- アンドリュー・ジョンソン: 1863年4月15日、リンカーン大統領暗殺により昇格。
- チェスター・アーサー: 1881年9月20日、ガーフィールド大統領暗殺により昇格。
- セオドア・ルーズベルト: 1901年9月14日、マッキンリー大統領暗殺により昇格。
- カルヴァン・クーリッジ: 1923年8月3日、ハーディング大統領病死により昇格。
- ハリー・トルーマン: 1945年4月12日、フランクリン・ルーズベルト大統領病死により昇格。
- リンドン・ジョンソン: 1963年11月22日、ケネディ大統領暗殺により昇格。
- ジェラルド・フォード: 1974年8月9日、ニクソン大統領辞任により昇格。
- 大統領権限を一時的に委譲された副大統領
- ジョージ・H・W・ブッシュ: レーガン大統領の全身麻酔を必要とする大腸ポリープ摘出手術に伴い、1985年7月13日、約8時間にわたって大統領権限を臨時代行。
- ディック・チェイニー: ジョージ・W・ブッシュ大統領の全身麻酔を必要とする大腸内視鏡検査に伴い、2002年6月29日、約2時間にわたって大統領権限を臨時代行。
- 在任中死亡した副大統領
- ジョージ・クリントン: 1812年死亡。
- エルブリッジ・ゲリー: 1814年死亡。
- ウィリアム・キング: 1853年死亡。
- ヘンリー・ウィルソン: 1875年死亡。
- トマス・ヘンドリックス: 1885年死亡。
- ギャレット・ホーバート: 1899年死亡。
- ジェームズ・シャーマン: 1912年死亡。
- 辞任した副大統領
- ジョン・カルフーン: 1832年、出身地選出の上院議員に空席が生じたため、これを補填するため上院に転出し副大統領を辞任。
- スピロ・アグニュー: 1973年、州知事時代の収賄罪が確定したのを受けて副大統領を辞任。
- 在任中に次期大統領選に当選した副大統領
- ジョン・アダムズ: 副大統領を2期務め、1796年の大統領選で勝利。
- トマス・ジェファソン: 副大統領を1期務め、1800年の大統領選で勝利[5]。
- マーティン・ヴァン・ビューレン: 副大統領を1期務め、1836年の大統領選で勝利。
- ジョージ・H・W・ブッシュ: 副大統領を2期務め、1988年の大統領選で勝利[6]。
- 退任後間をおいて大統領選に当選した元副大統領
- リチャード・ニクソン: 副大統領を2期務め、1960年の大統領選に出馬するも敗北。8年間の雌伏の後、1968年の大統領選に再出馬して勝利。
- 大統領指名により就任した副大統領
- ジェラルド・フォード: アグニュー副大統領の辞任に伴い、ニクソン大統領による指名と上下両院の承認を得て、1973年に副大統領に就任。
- ネルソン・ロックフェラー: フォード副大統領の大統領昇格に伴い、フォード大統領による指名と上下両院の承認を得て、1974年に副大統領に就任。
- 2人の大統領の下での副大統領
- ジョージ・クリントン: ジェファソン大統領とマディソン大統領の下で副大統領。
- ジョン・カルフーン: ジョン・クィンシー・アダムズ大統領とジャクソン大統領の下で副大統領。
- 事実上更迭された副大統領
現職大統領が再選を目指す大統領選で副大統領候補を差し替えたことは過去に6例を数えるが、そのうちの4例までが事実上の更迭となっている[7]。
- アーロン・バー: ジェファソン大統領の1期目の副大統領。1期目終了の後、ニューヨーク州知事選挙に出馬を表明。このバーの2期目不出馬のみが更迭ではないが、一方でジェファソンも慰留はしていない[8]。
- ハンニバル・ハムリン: リンカーン大統領の1期目の副大統領。リンカーンは急進派のハムリンと反りが合わなくなり、事実上の更迭となる。
- スカイラー・コルファクス: グラント大統領の1期目の副大統領。在任中に起きた公共事業不正発注疑惑への関与が疑われ、事実上の更迭となる。
- リーヴァイ・モートン: ベンジャミン・ハリソン大統領の副大統領。在任中に上院が与野党同数となったが、公正中立を掲げるモートンはなかなか議長決裁権を与党側に有利な形で行使しなかったため、大統領との関係が冷却、事実上の更迭となる。新しい副大統領候補で大統領選挙に臨んだハリソンは敗北している。
- ジョン・ガーナー: フランクリン・ルーズベルト大統領の1期目と2期目の副大統領。ルーズベルトの3選出馬に反対して、事実上の更迭となる。ガーナーは自ら民主党の大統領候補指名争いに名乗りを上げるが、力及ばず予備選の段階で敗北。
- 在任が最長の副大統領
いずれも在任2期8年を務めあげている。
- 在任が最短の副大統領
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- ジョン・タイラー: ウィリアム・ヘンリー・ハリソン大統領が極寒の中で強行した就任演説が元でが風邪をこじらせ、間もなく肺炎により死亡したことから、副大統領在任わずか31日で大統領に昇格。
- 最年長の副大統領
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- アルバン・バークリー: 1953年1月20日の退任時、75歳。
- 最年少の副大統領
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- ジョン・ブレッキンリッジ: 1857年3月4日の就任時、36歳。
- 在任中に人を銃撃した副大統領
- ディック・チェイニー: 2006年2月11日、友人の弁護士ハリー・ウィッティングトンを狩猟中に誤射。ウィッティングトンは顔面を中心に150〜200発の散弾を受け緊急入院、14日には軽い心臓発作に見舞われるが回復、17日に無事退院。誤射の原因は酒に酔った状態での射撃とされる。ちなみにチェイニーは青年時代に飲酒運転による逮捕歴がある。
- ノーベル平和賞を受賞した副大統領
- セオドア・ルーズベルト: 大統領に昇格後の1906年に受賞(日露戦争の調停と講和会議の斡旋)。
- チャールズ・ドーズ: 副大統領在任中の1925年に受賞(第一次世界大戦後のドイツ経済を回復・安定させる計画の研究)。
- アル・ゴア: 副大統領を退任後の2007年に受賞(講演や著書『不都合な真実』などによる環境問題の啓蒙活動)。
- 存命の元副大統領
2017年1月現在。副大統領は退任後も儀礼上は副大統領の接遇を受け「ミスター・ヴァイス・プレジデント」と呼ばれる。
- ウォルター・モンデール: 第42代副大統領。
- ジョージ・H・W・ブッシュ: 第43代副大統領(のち大統領に当選したため、儀礼上の接遇は大統領、呼称は「ミスター・プレジデント」)。
- ダン・クエール: 第44代副大統領。
- アル・ゴア: 第45代副大統領。
- ディック・チェイニー: 第46代副大統領。
- ジョー・バイデン: 第47代副大統領。
注釈
- ↑ 近年の大統領選挙では、ほとんどの副大統領候補の発表が全国党大会の2〜3週間前から2〜3日前の間に行なわれている。
- ↑ 特定候補への投票を誓約しない選挙人団の立候補・被選出も可能だが、近年では非誓約選挙人が選出された例はない。
- ↑ 1980年の共和党の予備選挙では、前半でブッシュ元CIA長官が予想以上に善戦した。そのため過半数を優に超える代議員数を得ていたレーガン元カリフォルニア州知事も、副大統領候補の選定には慎重にならざるを得ない状況にあった。指名は全国党大会の最終日前日に行われる大統領候補指名の後まで持ち越しとなったが、このときドリームチケットとして紙面を賑わせたのがフォード前大統領をレーガンの伴走者にするという「レーガン=フォード」チケット構想である。フォードはニクソン大統領の指名と上下両院の承認をもって副大統領に就任、さらに翌年にはニクソン辞任にともない大統領に昇格した。ところが現職大統領として戦った1976年の大統領選挙では民主党のカーター候補に敗れている。この「大統領選挙に一度も勝ったことがない大統領」に何とか勝利の美酒を味わわせたいという願いもあって、この案は各方面から支持され、一時は既定のシナリオとみなされていた。しかし「ホワイトハウスは2人の大統領の仕事場としては狭すぎる」と判断したレーガンは、結局党内融和と左右のバランスを優先、予備選挙で次点となったブッシュを副大統領候補に指名した。
- ↑ 合衆国憲法修正25条第2節
- ↑ この選挙は現職副大統領のジェファソンが現職大統領のアダムズを破るという「革命的な選挙」だった。詳細は「1800年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照。
- ↑ 副大統領2期目在任中に大統領選に出馬して当選したのは初代副大統領のアダムズ以来192年ぶりのことで、ブッシュは「副大統領職は長く務めるほど自身の大統領選が不利になる」という長年のジンクスを覆している。
- ↑ クエール副大統領は1988年の選挙戦の頃から失言や出来の悪いジョークなどが目立ち、これが副大統領となってからも一向に改まる気配がなかったことから、「万が一の場合の大統領」としての資質を各方面から問われていた。そのため1992年の大統領選で再選を目指すブッシュ大統領には、与党共和党からクエールを更迭すべきだという要請が数多く寄せられていた。しかし自分もレーガン大統領のもとで8年副大統領を務め、何かとこの「偉大な大統領」と比較されることが多かったブッシュは、こうした勧告に一切耳を貸さなかった。ブッシュはこの大統領選で敗北している。
- ↑ なお、バーはニューヨーク州知事選落選直後の1804年7月、法曹界時代から家族ぐるみで対立関係にあったハミルトン財務長官を「ウィホーケンの決闘」で殺害したことにより、ニューヨーク・ニュージャージー両州から殺人罪で起訴されている(ただし後に両州とも起訴を取下げている)。決闘の直接原因は1800年の大統領選挙で、連邦党に属しながら民主共和党のジェファソンを支持していたハミルトンは、同じ民主共和党から立候補していたバーの当選を阻止するため、下院で多数を占める連邦党を説得しジェファソン支持に回らせ、バーの怒りを買った。この大統領選挙の混乱と顛末が憲法修正第12条提案につながる。決闘は修正第12条の批准完了から約1ヶ月後の出来事だった。バーは政界引退後大西部探検旅行に出るが、帰ってきたところを今度は国家反逆罪容疑で逮捕収監されている。合衆国が新たに購入したルイジアナを奪って帝位に即き、スペイン領メキシコに対して戦争を仕掛けることを目論んだ、という壮大な内容の容疑だったが、公判では証拠不十分で無罪となっている。その後は人目を避けてしばらく欧州に「亡命」するなど、何かにつけて異色の副大統領だった。