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済州島四・三事件 | |
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場所 | 韓国・済州島 |
日付 | 1948年4月 - 1949年5月 |
標的 | 済州島の島民 |
攻撃手段 | 反乱の鎮圧 |
死亡者 | 14000~30000人[1]、或いは全ての戦闘で死亡した国民の5分の1[2] |
動機 | 国家警察および韓国でのみ開催された選挙に対する抗議を鎮圧すること |
済州島四・三事件 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 제주 4•3 사건 |
漢字: | 濟州 4•3 事件 |
発音: | チェジュ サ サム サコン |
日本語読み: | さいしゅう よんさん じけん |
英語: | Jeju massacre |
済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[3]。戦前から済州島に穏やかに暮らしていた人々が、親族を頼るなどして戦後の日本に密入国して在日韓国・朝鮮人になる原因になった[4]。
南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された[5]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた[5]。
Contents
背景
1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた[3]。1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた[3]。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
特に上述の西北青年会は反共を掲げて島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした[3]。
済州島民の蜂起と韓国による鎮圧
1948年に入ると、南朝鮮当局が南側単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)韓国本土でも戦闘が行われ、その際に日本への密航者が多数生じることとなった。この事件以降に日本に密入国した者が在日朝鮮・韓国人の先祖の多くを占めている[6][7]。済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている[5]。
1948年9月に金日成は朝鮮統一国家を標榜する朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1949年12月24日には、朝鮮半島南側で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であると情報操作した[8]。
1950年に米軍から朝鮮半島を解放すべく朝鮮人民軍が進撃し朝鮮戦争となると「朝鮮労働党党員狩り」は熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された[9]。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている[10]。
歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難し、そのまま在日韓国人となった人々も多い。日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人[11]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる[12]。木村光彦(青山学院大学)によると、済州島四・三事件及び麗水・順天事件を政府は鎮圧したが、その後共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ないが1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされる[13]。野口裕之(産経新聞政治部専門委員)は、韓国保守政権及び過去の暴露を恐れる加害者の思惑が絡み合い済州島四・三事件の真相は葬られているが、「不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば」「事件で大量の密航難民が日本に押し寄せ、居座った正史も知るところとなろう」「膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま居座った非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因である」と述べている[14][15]。
この事件を初めて発表した在日韓国人作家の金石範は2015年4月1日に第1回済州四・三平和賞を授賞したが、授賞に際しては右翼団体の妨害もあった。
現在の韓国政府の対応
長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。
2000年に金大中政権のもとで4.3真相究明特別法が制定され、4.3委員会が設置された。 21世紀になって、2003年2月25日に韓国大統領に就任した盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪し、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置した。さらに2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに事件の真相解明を宣言した[16]。
事件から逃れて日本に渡った済州島出身の在日韓国人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めた[17]。
しかし、その後の保守派の李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)の時代には進展は見られなかった。むしろ2010年以後は中国観光客の増加と中国人による済州島不動産買い占め懸念が問題化し、過去の事件は忘れられつつあった。
2017年5月10日に大統領に就任した文在寅は、就任後初めての4・3事件犠牲者追念日である2018年4月3日の追悼式に2006年の盧武鉉以来、大統領として12年ぶりに出席した。
文在寅大統領は追念辞で「私は今日、その(金大中政権と盧武鉉政権の取り組みの)土台の上に4.3の完全な解決を目指し揺らぎなく進むことを約束します。これ以上4.3の真相究明と名誉回復が中断したり、後退することは無いでしょう。それと共に4.3の真実はどんな勢力も否定することのできない明らかな歴史の事実として、位置付けられたことを宣言します。国家権力が加えた暴力の真実をきちんと明らかにし犠牲となった方たちの怒りを解き名誉を回復するようにします。このために遺骸の発掘事業も悔いが残らないよう最後まで続けて行きます。遺族たちと生存犠牲者たちの傷と痛みを治癒するための政府としての措置に最善を尽くす反面、賠償・補償と国家トラウマセンターの建設など立法が必要な事項は国会と積極的に協議いたします。」と事件の完全解決に意欲を示した。
文大統領はまた、「未だに4.3の真実を無視する人々がいます。未だに古い理念の屈折した目で4.3を眺める人々がいます。未だに韓国の古い理念が作り出した憎悪と敵対の言葉が溢れています。もう私たちは痛みの歴史を直視できなければなりません。不幸な歴史を直視することは国と国のあいだでだけ必要なことではありません。私たち自らも4.3を直視できなければなりません。古い理念の枠に考えを閉じ込めることから逃れなければなりません。」「恒久的な平和と人権に向かう4.3の熱望は決して眠ることはないでしょう。それは大統領である私に与えられた歴史的な責務でもあります。今日の追念式が4.3の英霊たちと犠牲者たちに慰安となり、わが国民たちにとっては新しい歴史の出発点になることを願います。」と強調した[18][19]。
題材にした作品
- 金石範 『火山島』全7巻、文藝春秋、1983.6、1983.7、1983.9、1996.8、1996.11、1997.2、1997.9。ISBN 4163631704、ISBN 4163631801、ISBN 4163631909、ISBN 4163635904、ISBN 4163636005、ISBN 4163636102、ISBN 416363620X。
- 玄基栄・金石範訳 『順伊おばさん』 新幹社、2001(日本語版の刊行年、翻訳初出は1984年、原作発表は1978年)。ISBN 978-4884000158。
- 金吉浩『生野アリラン 』<在日>文学全集第15巻、勉誠出版2006、ISBN 4585011250
- 金石範『鴉の死』(1957年初稿)
- 高橋悠治 - あなたへ 島(李静和作詞)(事件を題材にした男声合唱曲。法政大学アリオンコールにより2005年に初演。作曲者HPにて楽譜閲覧可能)
- 梁石日 『大いなる時を求めて』 幻冬舎、2012年。ISBN 978-4344021402。
- 『チスル』映画(2012年)監督:オ・ミヨル
- 『水の声を聞く』映画(2014年)監督:山本政志
脚注
- ↑ Johnson, Chalmers. Blowback: The Costs and Consequences of American Empire, 2000, rev. 2004, Owl Book, 99–101. ISBN 0-8050-6239-4. According to Chalmers Johnson, death toll is 14,000–30,000
- ↑ “Ghosts of Cheju”. Newsweek. (2000年6月19日) . 2010閲覧.
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 済州島四・三事件と私たち 大阪産業大学藤永壯教授HP
- ↑ [1]<南北首脳会談>苦しみ越え前へ 4・3事件で渡日の87歳
- ↑ 5.0 5.1 5.2 “Ghosts Of Cheju A Korean Island's Bloody Rebellion Sheds New Light On The Origin Of The War” (英語). ニューズウィーク. (2000年6月19日) . 2010閲覧.
- ↑ 祖国捨て日本へ「済州島虐殺」という地獄
- ↑ “【その時の今日】「在日朝鮮人」北送事業が始まる”. 中央日報. (2010年8月23日) . 2012.08.27閲覧.
- ↑ “두 민간인 학살 사건, 상반된 판결 왜 나왔나?(2つの民間人虐殺事件、相反した判決はなぜ出されたか?)”. オーマイニュース. (2009年2月17日) . 2012閲覧.
- ↑ “Truth commission confirms Korean War killings by soldiers and police” (英語). ハンギョレ. (2009年3月3日) . 2010閲覧.
- ↑ “4・3事件犠牲者の遺体、日本から済州送還を本格推進”. 中央日報. (2002年10月1日) . 2010閲覧.
- ↑ 文京洙 (2005) 69頁。
- ↑ 地域でつくる平和と共生フォーラム 2008年5月聖トマス大学図書館ニュース
- ↑ 木村光彦 『日本帝国と東アジア』 統計研究会『学際』第1号、2016。p56
- ↑ “韓国・済州島に「慰安婦像」 日本史捏造でも、消し去れぬ島の数万人虐殺史”. 産経新聞. (2015年10月23日). オリジナルの2016年5月7日時点によるアーカイブ。
- ↑ “【野口裕之の軍事情勢】韓国・済州島に「慰安婦像」 日本史捏造でも、消し去れぬ島の数万人虐殺史”. 産経新聞. (2015年10月23日). オリジナルの2016年4月19日時点によるアーカイブ。
- ↑ “【済州4.3事件】盧大統領、慰霊祭に出席・謝罪” (日本語). 朝鮮日報(電子版). (2006年4月4日) . 2008閲覧.
- ↑ 「60年ぶり、故郷済州島へ 独裁下の韓国を逃れた在日女性、「4・3事件」慰霊式参加」『朝日新聞』2008年3月29日、東京夕刊、18面。
- ↑ “全訳 4.3犠牲者追念日 追念辞(2018年4月3日、文在寅大統領)”. The Korean Politics (2018年4月3日). . 2018-5-27閲覧.
- ↑ 青瓦台(韓国大統領府)公式ウェブサイト
参考文献
- 金石範・金時鐘 『なぜ書きつづけてきたかなぜ沈黙してきたか-済州島四・三事件の記憶と文学』 文京洙編、平凡社、2001年。ISBN 978-4-582-45426-0。
- 文京洙 『韓国現代史』 岩波書店〈岩波新書〉、2005年。ISBN 978-4-00-430984-0。
- 文京洙 『済州島四・三事件―「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語』 平凡社、2008年。ISBN 978-4-582-45437-6。
- 済州島四・三事件を考える会・東京 『済州島四・三事件記憶と真実』 新幹社、2010年。ISBN 978-4-88400-091-2。[2]
- 横田英明 『済州島四・三事件を生きぬいて』 リーブル、2010年。ISBN 978-4947581617。