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ハワイ王国(ハワイおうこく、ハワイ語: Aupuni Mōʻī o Hawaiʻi英語: Kingdom of Hawaiʻi)は、1795年から1893年までハワイ諸島に存在した王国である。1893年サンフォード・ドールなどアメリカ移民による革命アメリカ合衆国傀儡国家として名目上共和制ハワイ共和国となり、1898年にはハワイ準州 (Territory of Hawaiiとして併合されて消滅した。

歴史

カメハメハ王朝

ハワイ王国は初め、初代国王カメハメハ1世(カメハメハ大王)とその子孫によって統治された。カメハメハ2世カメハメハ3世はカメハメハ1世の息子である。

カメハメハ1世は白人から入手した武器を利用して領土を広げ、1795年にハワイ王国の建国を宣言した後、1810年に全ハワイ諸島を統一した。これ以前、ハワイはそれぞれの地方ごとに有力者が統治していた。

カメハメハ2世の治世の1820年キリスト教アメリカン・ボードから派遣された宣教師が相次いでハワイを訪れた。これはちょうどその頃生じていた宗教的な混乱と時期が重なり、ハワイのキリスト教化が進んだ一方、ハワイの古くからの宗教は衰退した。

カメハメハ3世の治世の1840年憲法が制定され、近代国家としての体裁が整うと各国が相次いでハワイ王国を承認し、名実ともに独立国家として認められるようになった。憲法制定に当たっては、特にイギリスを手本にしたとされている。この後もハワイ王国は親英外交を行った。

カメハメハ家による統治は、1872年カメハメハ5世の崩御によって終わった。カメハメハ5世は王女パウアヒEnglish版を呼び出して王冠を託したが、彼女にはすでに家庭があり、即位を拒否した。カメハメハ5世は代わりの後継者を指名する前に崩御した。

選挙君主制

カメハメハ5世の死後、ハワイ王国の司法府は国王選挙の実施を宣言し、1873年に議会での選挙でルナリロが国王に選ばれた。

カラカウア王朝

ルナリロもまたカメハメハ5世と同じように後継者を指名せず、即位から1年1ヶ月後に肺結核で崩御したため、ハワイ王国の司法府は再び国王選挙の実施を宣言した。この選挙は激しい中傷合戦となり、ハワイにおいてもっとも汚らしい選挙といわれた。選挙の結果、1874年にカラカウアが国王に選ばれた。治世5年の時、カラカウアはイオラニ宮殿を建設し、主殿が完成した1882年に宮廷を移動した。

王位継承に関する混乱を防ぐため、あらかじめ妹のリリウオカラニを後継者に指名した後、カラカウア王は1891年に崩御した。 同年、兄王の遺言に従いリリウオカラニはハワイ女王として即位し、同時に末妹リケリケの長女カイウラニの立太子が行われた。

滅亡

アメリカ合衆国からの入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的にも力をつけはじめると、より親米的な政治を求める声が特に経済界から強くなった。1887年クーデターが起こり、カラカウアは修正憲法(銃剣憲法English版)の成立を承認せざるを得なくなった。この「銃剣憲法」によって国王の権限は制限され、枢密院や内閣の政治的影響力を高めた。選挙権についても、アジア系移民から一切の投票権が剥奪された他、先住ハワイ人も投票権に収入や資産などの一定の基準を設けたことで、多くの人々が選挙権を剥奪された。一方で、ハワイ人エリートや富裕なアメリカ系・ヨーロッパ系移民は選挙権を所持したままであり、政治的発言力が劇的に強まった。結果として、「銃剣憲法」によりハワイ王室と大多数のハワイ人は政治力を失い、白人農場主らを中心とする共和派が王国の実権を手にした。ハワイ王国は対米従属を余儀なくされた。ハワイ王国の滅亡はこれに始まる。

1893年1月16日、アメリカ合衆国と関連の深いサトウキビを扱う業者らがさらに親米的な政権を打ち立てるため、政権の転覆を計画した。アメリカ海軍の軍艦ボストンは、首謀者サンフォード・ドールロリン・A・サーストンEnglish版を保護する名目でホノルルに到着し、リリウオカラニは幽閉状態となった。1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政の廃止を宣言した。

1894年7月4日、ドールはハワイ共和国の成立を宣言し、同国の最初で最後の大統領となった。1895年1月に王党派による最後の大規模な武力蜂起が起きたが鎮圧され、1月16日にはリリウオカラニも私邸から大量の武器が発見されたという理由で逮捕され、廃位された。ドールはハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作り、この条約が成立したときハワイ準州の初代知事に任命された。

アメリカ合衆国ハワイ準州

1898年8月12日、時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーはハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言し、同日イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国国旗が降ろされて星条旗が揚げられた。この時、古来のハワイ住民らは悲しみの声をあげたという。これによりハワイはアメリカ合衆国の準州として編入され、王国の約100年間の歴史は完全に幕を閉じた。

アメリカ合衆国ハワイ州

ハワイは準州となった後も、表向きにはアメリカ合衆国の領土として扱われることはなかったが、名実ともにアメリカ合衆国領へと変貌していった。これは準州知事が設置されていながら、アメリカ合衆国自治領という形がとられたためであった。1959年8月21日には完全なアメリカ合衆国領としてハワイ州が成立し、今ではアメリカ合衆国50番目の州として認知されている。

1993年11月、アメリカ合衆国議会はハワイ併合に至る過程が違法だったと認め、公式に謝罪する両院合同決議をした[1]。「ハワイ憲法制定会議2008」はウェブサイト(HAWAII - INDEPENDENT & SOVEREIGN)を開設している。

政治

国王

政治体制

ハワイ王国は1840年の憲法制定により、政治的には立憲君主制をとった。この憲法により、ハワイ王国は国王を元首とし、勅選議員からなる上院と直接選挙による民選議員からなる下院とによって構成する二院制議会を置き、大臣を集めた会議を開いて行政を行い、国王の任命する長官を長とする司法府を置いた。地方行政は国王の任命する知事が管轄した。

外交

日本との関係

ハワイ王国と日本との間には1867年に日布親善協定を締結して外交関係が樹立された後、1868年には日本から民間の第1号移民団153名がハワイに渡った。これは明治元年に相当するため、ハワイ移民のパイオニアである彼らは「元年者」と呼ばれている。ハワイ王国はこの後も日本人移民を積極的に受け入れたため、21世紀の現在でもハワイには日系人が多い。また、当時の東京にはハワイ王国公使が駐在しており、群馬県伊香保温泉にはその別邸も現存している。

1881年、世界一周旅行の最初の訪問国として来日した国王カラカウアは明治天皇に謁見した際、ハワイ王国の安泰のため日本とハワイの連邦化を提案した[2]。その時のカラカウアからの提案は次の通りである。

  • 日本・ハワイの連邦化[2]
  • 日本・ハワイ間のホットライン敷設
  • 日本主導によるアジア共同体の創設
  • カイウラニ王女と山階宮定麿王の縁談[2]
  • 同じ有色人種である日本人のハワイへの移民(当時のハワイは西欧からもたらされた疫病により、原住民の人口が激減していた)

日本政府はアメリカとの対立を避けるため、これらの提案を「良友 睦仁」の御筆の入った親書をもって丁重に断った。しかし、移民の促進に関しては問題がないと考え、1885年には日布移民条約が締結され、官製移民団が組織されるようになった。官製の移民は1885年から1894年まで続き、総計29,339人がハワイに渡った。

1893年のクーデターの際、明治政府は「在留邦人保護」を名目として、巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)、帆走コルベット金剛」をホノルル港へ派遣し、米艦ボストンの真横に投錨して新政権を牽制した。これは王国政府側からの要請であったという説もあり、それを裏付けるかのように東郷は新政権を完全に無視し、リリウオカラニ女王の側近とのみ接触している。

現王室

カワナナコア王朝

リリウオカラニ女王の統治時代、故兄王の妃カピオラニの妹キノイキの婚先であるカワナナコア家に、カラカウア家に次ぐ王位継承権が付与された。女王の姪であるカイウラニ王女の死去により、カラカウア王家は1899年に断絶した。王国時代に定められた王位継承順位に則り、キノイキの長子カハレポウリが王太子を継いだ。しかし、カハレポウリは1908年に死去したため、後継はカハレポウリの長男カラカウア2世が、女王崩御の1917年に継承した。(名目上の)新国王カラカウア2世は幼君のため、叔父のジョナ・クヒオ・カラニアナオレEnglish版 が摂政兼家長代行となった。1953年に他界したカラカウア2世には子がなく、姉のカピオラニが家長を継いだ。カピオラニの後は世嗣ケリイアオヌイが家長となった。ケリイアオヌイの嫡男が現当主のクヒオである。なお、居城だったイオラニ宮殿は、カピオラニ王女の姪、ケカウリケEnglish版を中心にボランティア団体イオラニ宮殿友の会が管理・維持を行なっている。

現家長

旧ハワイ王室は今日もハワイ州民の尊崇を浴している。2017年現在、家長はカピオラニ王女の嫡孫で、元ハワイ州下院議員のクエンティン・クヒオ・カワナナコアEnglish版である。

脚注

関連項目

外部リンク