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源 等(みなもと の ひとし)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、中納言・源希の次男。官位は正四位下・参議。小倉百人一首では参議等。
経歴
昌泰2年(899年)近江権少掾に任ぜられた後、主殿助を経て、延喜4年(904年)従五位下に叙爵。以後、三河守・丹波守・美濃権守・備前守と地方官を歴任し、この間、治国の功労により延喜12年(912年)従五位上、延喜23年(923年)正五位下に昇叙され、同年10月には左中弁に補任されている。延長8年(930年)従四位下・大宰大弐に叙任。
朱雀朝では、弾正大弼・山城守・勘解由長官を歴任し、天慶6年(943年)従四位上・右大弁に叙任される。
村上天皇が即位した翌年の天暦元年(947年)参議に任ぜられ公卿に列す。天暦5年(951年)正月に正四位下に昇叙されるが、同時に議政官として兼帯していた右大弁・勘解由長官・讃岐守の官職を全て辞任し、同年3月10日に薨去。享年72。
勅撰歌人として『後撰和歌集』に4首が採録されている。百人一首に収録された歌は本歌取りである。
- 小倉百人一首
- 39番 浅茅生(あさじふ)の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき(『後撰和歌集』恋一 578)
官位歴
以下、公卿補任に拠る。
- 昌泰2年正月11日(899年2月24日) 近江権少掾。
- 昌泰4年3月15日(901年4月6日) 主殿助。(宇多院御給)。
- 延喜4年2月27日(904年3月16日) 従五位下。(朱雀院臨時御給一人叙)。
- 延喜5年4月5日(905年5月11日) 大蔵少輔。
- 延喜7年正月13日(907年2月27日) 三河守。
- 延喜12年
- 延喜16年(916年) 内匠頭。
- 延喜17年正月29日(917年2月23日) 美濃権守。(受領)。
- 延喜22年10月25日(922年11月16日) 大蔵大輔。
- 延喜23年
- 延長元年10月(923年-月-日) 任左中弁。
- 延長7年9月(929年-月-日) 主殿頭。
- 延長8年正月27日(930年2月28日)[2] 従四位下。(治国)。任大宰大弐。
- 承平7年3月8日(937年4月21日) 任弾正大弼。
- 天慶2年12月27日(940年2月7日) 山城守。
- 天慶3年12月6日(941年1月6日)[3] 兼勘解由長官。
- 天慶6年正月7日(943年2月14日) 従四位上。
- 天慶8年11月25日(946年1月1日) 右大弁。
- 天慶9年
- 2月7日(946年3月12日) 兼勘解由長官。
- 4月25日(946年5月28日) 昇殿。
- 天暦元年4月26日(947年5月19日) 任参議。大弁勘長官如元。
- 天暦2年正月30日(948年3月13日) 兼讃岐守。参議大弁勘長官如元。
- 天暦5年
- 正月7日(951年2月15日) 正四位下。上表辞大弁勘長官等。
- 3月10日(951年4月18日) 卒去。