エマニュエル・ド・グルーシー

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エマニュエル・ド・グルーシー(Emmanuel de Grouchy,1766年10月23日 - 1847年5月29日)は、フランス革命戦争ナポレオン戦争期の軍人帝国元帥ナポレオン1世が任命した26人の元帥のうち最後に任命された一人で、それも1815年の百日天下においてだった。

略歴

パリ生まれ。父親はアンシャン・レジーム(旧体制 ブルボン朝フランス王国)時代の初代グルーシー侯爵。 また、エマニュエルの二人の姉妹が嫁いだのは、それぞれニコラ・ド・コンドルセ(社会学者、数学者)と、ピエール・ジャン・ジョルジュ・カバニス(心理生理学者)なので、彼らは義兄弟となる。

フリートラントの戦いライプツィヒの戦いで活躍したが、ワーテルローの戦いではナポレオンの命令に固執して敗因を作ったとされている。

ワーテルローの戦いでは、その2日前のリニーの戦いで破ったブリュッヘル率いるプロイセン軍を、騎兵35000人をもって追撃するようナポレオンから命じられていたものの、プロイセン軍に追いつき打撃を与えることが出来なかった。

その後、ワーテルロー近くで砲声が聞こえていたにもかかわらず、追撃命令を墨守して、ナポレオンが率いる主力との合流を決断できなかった。

このため、プロイセン軍は追撃を振り切り、ワーテルローの主戦場において初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍に有力な援軍として参戦する結果となってしまい、夕方まで優勢だったはずのフランス軍は敗北してしまった。

ただし、このときにグルーシーの下にいた兵力は主力が敗走したにもかかわらず無傷のまま帰還した。この兵力はパリの留守を守っていた陸軍大臣のダヴー元帥が収拾し、連合軍がなだれ込むのを防ぐ抑止力となった。

第六次対仏大同盟によりナポレオンがエルバ島に流された後の復古王政期、ルイ18世にも重用されたが、百日天下でナポレオンが帰還した際に合流。そのため、ワーテルローで敗れた百日天下後の1815年から、ルイ18世に許される1819年までアメリカ合衆国に亡命していた。

1840年12月、ナポレオンの遺体がパリに帰還したときの式典に、ナポレオンが任命した元帥の内ではスルトウディノモンセイと共に彼も出席している。

1847年、サン=テティエンヌで死去。

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