プロイセン
プロイセン(ドイツ語: Preußen、ポーランド語: Prusy、リトアニア語: Prūsija、プロシア語: Prūsa)の歴史的地域はグダニスク湾(現、ポーランド、ロシア)からバルト海南東岸のクルシュー砂州(現リトアニア、ロシア)の端、そして内陸のマズールィ(Masuria、現ポーランド北部)までに及ぶ。プロシア(普魯西)は、英語名Prussiaに基づくの名称。
西暦98年、タキトゥスの「ゲルマニア」記述によると、スエビ族、ゴート族とその他のゲルマニア民族がヴィスワ川両岸から北東は (en:Aesti) まで居住していた。約800-900年後、Aestiは古プルーセン (Old Prussians) と名づけられ、997年以降ポラン族の新公国からの侵略には幾度も抵抗に成功した。1230年代、プルーセン人と近隣のen:Curonians、リーヴ人達の領土は、教皇の秩序の基、ドイツ騎士団国家とし成立した。1466-1772年、プロイセンは政治的に西と東に分裂された。西はポーランド・リトアニア公国の王の守護下、東は1660年までポーランド領地となった。プロイセンの統一は、東西がプロイセン王国により政治的にも再統一されたるまで、国境、市民権、自治権により俟たれていた。
プロイセン公国とブランデンブルク辺境伯を起源とするドイツ帝国のプロイセン (1701–1947年)(ドイツ語:Preußen、英:Prussia、ポーランド語:Prusy)は、この地域の名が由来する。
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領域・由来
プロイセン地方の領域は西側はポメラニア(ポーランド名ポモージェ、ドイツ名ポンメルン)でドイツに接し、東はネマン川(ドイツ名メーメル川)を境にポーランドとリトアニアに隣接、ヴィスワ川(ドイツ名ヴァイクセル川)で東プロイセンと西プロイセンに分けられる。東プロイセンの中央には東西にプレゴリャ川(ドイツ名プレーゲル川)が流れ、その河口に中心都市カリーニングラード(ケーニヒスベルク)がある。プロイセンの住民のほとんどは第二次世界大戦後、ドイツ人追放または国外避難でドイツに移住し、領域はロシアとポーランドに分割され現在ではプロイセンという地域名は使われていない。
プロイセンという名前は、プルーセン人またはプルッツェン人として知られるヴィスワ河口付近に居住した先住民に由来する。民族大移動以降はソルヴ人やカシューブ人のようなスラヴ系諸民族も移住してきた。またもう一つの説では、ロシアあるいはルーシの近くを「プロシア」と呼んだことから来ているとも言われている。
歴史
古プロイセン人、キリスト教伝来
10世紀、西スラブ民族のキリスト教化後、977年ポーランドのボレスワフ1世はアーダルベルト司教を軍事とキリスト教化の布教目的でプロイセンに送り込むが、プルーセンの異教司祭により殺された[1]。プルーセン人は、1015年、1147年、1161-1166年、そして13世紀中幾度ものポーランドによる侵略を撃退した。
ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は北方十字軍を徴集し、何年もプロイセン侵略を試みたが敗北に終わった。教皇は十字軍をさらに準備した。終にコンラト1世は、クルムラント(現ヘウムノ)領有権と引き換えにドイツ騎士団を招聘し、プロイセンはプロイセン十字軍の期間にドイツ騎士団により征服され、ドイツ騎士団国家の管理下となった。
ドイツ騎士団
1228年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の発したリミニの金印勅書(現在では偽造だとされる[2])により騎士団のプロイセン領有が認められ、この金印勅書を根拠として1230年に結ばれたクルシュヴィッツ条約でドイツ騎士団はプロイセンの領有権を確立、ケーニヒスベルク(現ロシア、後にプロイセン公国、プロイセン王国の首都とし発展)やトルン(トルニ)、マリエンベルク(マルボルク)、アレンシュタイン(オルシュティン)などに城を築き拠点とし発展していった。残忍な征服者に対し先住民は頑強に抵抗し1260年–1274年の古プロイセンの大蜂起となった。だがローマ教皇のドイツ騎士団は軍事的にも優勢で14世紀前半までにプロイセンの大半はキリスト教化された。文字を持たなかったプルーセン人は文字での記録を残さず、生き残った人々も次第にドイツや周辺地域からの移民に同化されたため、今ではこれら先住民のことはドイツ騎士団が作成した原住民語の記録がいくつか残っているほかは史料が少なく、ほとんど分からない。
ドイツ騎士団領プロイセンは20の大管区に分割、中央集権的システムにより各地の修道院を拠点に管区長が選挙で選ばれた総長の指示に従い統治した。騎士団員は修道士の戒律で私有財産の所有も妻帯も許可されないが、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が入会し人材は豊富で、移民の受け入れも盛んであった。14世紀、騎士団領は繁栄の頂点にあった。
ポーランド、リトアニア
1326年–1332年のポーランド・ドイツ騎士団の戦争(1326–1332)後、ポーランドはリトアニアに支援を求めポーランド・リトアニア連合は、1409年–1411年にポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団の戦争をした。1410年グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を討った。1411年第一次トルニの和約で騎士団は領土の一部を失い、ポーランド・リトアニアは14000人を捕虜にした[3]、ポーランド王は膨大な身代金の年4回払いと引き換えに釈放するとした[4]。身代金はイギリス王の収入の10倍であった[5]。多額の戦争賠償金により、騎士団国家は債務負担と増税で経済は悪化、1440年反ドイツ騎士団のプロイセン連合が結成されポーランド王に支援を求め、1454年(十三年戦争)でプロシア連合側は勝利した。1466年の第二次トルニの和約により西プロイセンの全域と東プロイセンの一部はポーランド王領プロイセンとなり、ドイツ騎士団は東プロイセンを保持したがポーランド王の従属国の位置となった。1467年(司祭戦争)が起こり、1479年ピョトルクフ和約でポーランド王が支配権を得た。
宗教改革
プロテスタント宗教改革の時代、1525年最後のドイツ騎士団総長、ホーエンツォレルン家分家の騎士団総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(アルブレヒト (プロイセン公))は、ルター派に改宗、辞職し、プロイセン公爵のタイトルを想定していた。しかし、マルティン・ルターにより約束は破棄され、プロイセン公国は初めてのプロテスタント国家となりポーランド従属であった。公爵の首都ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)には、1544年アルブレヒトによって設立されたケーニヒスベルク大学があり、プロテスタントの教えの中心地となった。
15世紀-18世紀
1618年プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの死去でホーエンツォレルン家は断絶した。プロイセンはヨアヒム・フリードリヒの子でブランデンブルクの選帝侯であるヨーハン・ジギスムントがプロイセン公を兼ねる同君連合ブランデンブルク=プロイセン(1618年–1701年)となった。
スウェーデン・ポーランド戦争やロシアとの数々の戦争でポーランド・リトアニア共和国は衰退。1660年フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯とポーランド王ヤン2世カジミェシュ・ヴァーサは、オリヴァ協定で、プロイセン公領はプロイセン公国(1525年-1701年)となった。
1701年、フリードリヒ3世は神聖ローマ皇帝から、スペイン継承戦争に参戦することを条件に「プロイセンの王」となりプロイセン公国(1525年-1701年)も王国となった。スペイン継承戦争に備えて皇帝レオポルト1世が一兵でも多くの軍勢を集めねばならず、フリードリヒ1世は8,000の兵を援軍として送ることを約束した。これによりブランデンブルク選帝侯は、帝国の領内ではないプロイセンにおいて王 (König in Preußen) と許可された。大北方戦争後期、スウェーデンからポンメルンを獲得した。
その後、プロイセン王国(1701年-1918年)はホーエンツォレルン家の支配の下軍事大国への道を歩んでいく。移民を受け入れる伝統は新たな王国に受け継がれ、プロイセン地方にはフランス王国やザクセン公国などから追放された有能なユグノーたちが移住してきて産業を振興させた。1772年にはフリードリヒ大王による第一次ポーランド分割の結果、西プロイセンもプロイセン王国領となった。
19世紀-20世紀
プロイセン王国は19世紀後半さらに勢力を増し、1867年北ドイツ連邦の盟主となる。さらに1871年プロイセン国王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝となったが、皇帝自身はそれがドイツ帝国によるプロイセン王国の併合だと感じ、嫌悪感を隠さなかった。事実プロイセン王国意識は急速に薄れていき、皇帝ヴィルヘルム2世がプロイセン王を名乗ることはもはやほとんどなかった。プロイセン地方もまた大帝国の中では影が薄くなってしまった。
1914年第一次世界大戦で、東プロイセン南部にロシア軍が侵攻、ドイツ軍はタンネンベルクの戦いで勝利を収め、ロシア軍を撃退した。
1919年、ヴェルサイユ条約よりプロイセン王国はヴァイマル共和国の一邦・プロイセン州となり、西プロイセンはポーランド回廊となる。これにより東プロイセンはドイツ本土の飛び地となった。この地域に対するドイツの領土要求が第二次世界大戦勃発の原因となる。
1933年フランツ・フォン・パーペンのクーデターによりプロイセン州内閣が解散させられ、ナチ党政権下で大管区(ガウ)に分割された。第二次世界大戦中、プロイセン地方はドイツ軍の劣勢になるにつれ東部戦線の戦場となり、プロイセンの人々は敗戦直前の混乱の中ソ連軍を恐れて多くは難民となり西方に押し寄せ、(ドイツ人追放)跡地にはポーランド人やロシア人などが移住した。戦争中、ナチス・ドイツによって追放されたポーランド人の多くもプロイセンに帰還した。ドイツ人ではないスラヴ系民族は追放を免れたが、激しい人口の入れ替わりのためプロイセン地方固有の文化はほとんど失われ、終戦後1947年2月25日、連合国管理理事会法令47号によりプロイセン自由州の解体が宣言された。
戦後-現在
1945年ポツダム会談により、プロイセンは東プロイセン(現リトアニアに接する北部と現カリーニングラード州)はソ連に、東プロイセン南部(ヴァルミア)と西プロイセンとポンメルン東部(現ポモージェ)はポーランドに分岐された。
終戦直前までプロイセンに居住していたバルト・ドイツ人の多くは自発的に避難又はドイツ人追放により国外移住となった。ドイツ西部に移住や新天地に溶け込み、その方言や習慣などは故郷を覚えている高齢者のなかで細々と保たれている。
戦後の混乱の中で追放されなかった少数の人々もまた共産主義のソ連とポーランドによる支配下では、強制的なソ連化によりドイツ人としてのアイデンティティを放棄し、領地や資産は全て没収された。ドイツに移住した人々の一部は故郷追放者連盟を組織している。現在もポーランド政府は、没収した個人の資産や土地の返却及び賠償において拒否を続け、両国間の問題となっている[6]。
歴代プロイセン公
- アルブレヒト(在位:1525年 - 1568年)
- アルブレヒト・フリードリヒ(在位:1568年 - 1618年)
- ヨーハン・ジギスムント(在位:1618年 - 1619年) 兼ブランデンブルク選帝侯(在位:1608年 - )
- ゲオルク・ヴィルヘルム(在位:1619年 - 1640年) 兼ブランデンブルク選帝侯
- フリードリヒ・ヴィルヘルム(在位:1640年 - 1688年) 兼ブランデンブルク選帝侯
- フリードリヒ1世(在位:1688年 - 1701年) 兼ブランデンブルク選帝侯(在位: - 1713年)
- 1701年、フリードリヒ1世は「プロイセンの王」(König in Preußen) の称号を獲得した。
以後はプロイセン王国を参照。
脚注
- ↑ "St. Adalbert", The Catholic Encyclopedia, New York: Robert Appleton Company, 1907
- ↑ キェニェーヴィチ編『ポーランド史』
- ↑ Turnbull, Stephen (2003), Tannenberg 1410: Disaster for the Teutonic Knights, Campaign Series 122, London: Osprey Publishing, ISBN 978-1-84176-561-7、p. 68
- ↑ Urban, William (2003), Tannenberg and After: Lithuania, Poland and the Teutonic Order in Search of Immortality (Revised ed.), Chicago: Lithuanian Research and Studies Center, ISBN 0-929700-25-2、p. 175
- ↑ Christiansen, Eric (1997), The Northern Crusades (2nd ed.), Penguin Books, ISBN 0-14-026653-4、p. 228
- ↑ http://www.dw.com/en/reconciliation-instead-of-reparation/a-1365292
参考文献
- 『ポーランド史』 ステファン・キェニェーヴィチ編、加藤一夫、水島孝生訳、恒文社〈東欧の歴史〉、1986-11。全国書誌番号:87052044。ISBN 978-4-7704-0637-8。