高瀬舟
高瀬舟(たかせぶね)とはかつて日本各地で使用されていた小型船である。
概要
高瀬舟は河川や浅海を航行するための木造船である。 高瀬舟の文献資料上の初見は『三代実録』の886年(元慶8)9月16日の条で、近江・丹波両国でそれぞれ高瀬舟を造っているとある。[1] 室町時代末期頃の岡山県の主要河川(吉井川、高梁川、旭川等)で使用され始め、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。中世には船体が小さく、底が深く(高背)、近世には型が大きくなり、底が平たく浅くなった。帆走もしくは馬や人間が曳いて運行され、物資の輸送を主な目的としていた。輸送した主な物資は、岡山においては、年貢米や木材。また塩などの海産物、しょうゆや酒などがある。[2]。 角倉了以が、京都・伏見間で開いた高瀬川は、高瀬舟の運航にちなんで名付けたものである。
高瀬舟の構造
高瀬舟は帆船であり、帆は1反の布を細い綱(船頭綱)でからめて連結したもので、中央の帆柱・帆けた・帆綱で支えられており、船体内部は張り板(船首から前舟張り,中舟張り,後舟張り)で区切られ、それぞれ表の間・胴の間・艫(とも)の間と呼ばれている。 船頭は舳先の立板に立ち、棹で岩を避けつつ操作した。[3]
高瀬舟の規模
高瀬船は江戸時代の利根川舟運の代表的な川船の一種で、大小さまざまなものが建造されていた[4]。
高瀬船の規模が求められる史料には、『忍藩御手船新艘注文帳』正田家文書がある[✝ 1]。 これは、文化14年(1817年)に、忍藩が高瀬船1艘を新造した時の注文書である[4]。 それによると、注文した高瀬船の敷長12尋1尺、横胴敷1丈3寸、敷板厚1寸6分、巾78寸、釘間5寸とある[5]。 忍藩から、全長約22メートルの大型船の高瀬船新造を注文した記録がある[4]。
その大きさのため、川を下るときは櫓などを使って下り、反対に上る際には帆を張って風の力で進んだり、人力で網を引っ張り上げたりした。[6]。
舟での生活
船頭たちは川水を飲料水に使用し、陸上の宿に泊まることはほとんどなく釜・瓦くどなどの炊事道具やふとんを積み込んでいた。 高瀬舟に土足ではいると縁起が悪くなるといって水できれいに洗ったアシナカをはいて舟に乗った。[7]。
船頭歌
高瀬舟が荷積して山峡の船路を上るのは大変な重労働であった。 船頭は川底に竿をつき、その端を自分の胸に当て、舟尾に向かってふんばり歩いて舟を押し進めながら、さび声ででまかせ歌を歌う。 「ヨーイヤナー、ソーリヤーヨー 赤いやつを出してヨー せんたくしとるノー。」[8]。
日本各地の高瀬舟
岡山旭川の高瀬舟
- 真庭市勝山の高瀬舟。
真庭市勝山にはかつて高瀬舟が行きかった発着場が残っている。 かつてここでは、川下から塩や海産物、干し海老、畳表などの生活必需品の多くが高瀬舟によって山間部の地へもたらされ、さらにここから山中地域(旧真庭郡地域)へ送り出していた。そして山中地域からは木炭や米、こんにゃくなどの物資を積み下ろしたりなど、物資の集散地となっていた[9]。 岡山方面への舟は、午前中に荷積みをし落合で1泊、翌日岡山まで下る。その翌日に荷を下ろし、終わり次第もどり荷を積む。岡山よりの帰りは、4日程度かかっていた。[10]
享保17年(1732)の高田村絵図に描かれた高瀬舟の発着場は現在の中国勝山駅の裏辺りであり、「浜」と呼ばれ、岡山まで18里、蔵から年貢米を積み出していたと思われる。[11]。
明治期には、約370艘ぐらいあり、そのうち落合に100艘、久世に30艘、勝山には48艘程度の船が発着していた。[12]
- 真庭市落合の高瀬舟。
脚注
- 注釈
- ↑ 「242 文化十四年(一八一七)二月 忍藩御手船新艘注文帳」(埼玉県立文書館所蔵 正田家文書)拠り、(行田市史編さん委員会『行田市史 資料編 近世1』2010年所収)。
- 出典
- ↑ 「吉井川を科学する シリーズ『岡山学』2」(岡山理科大学『岡山学』研究会。2004年。72貢所収)
- ↑ 「みんなで学ぶふるさと美作のあゆみ」(美作国建国1300年記念事業実行委員会。2014年。72頁所収)
- ↑ 岡山県史.岡山県史編纂委員会.昭和58年3月31日.321,322頁。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 行田市史編さん委員会(2010)498頁。
- ↑ 行田市史編さん委員会(2010)494-498頁。
- ↑ 「みんなで学ぶふるさと美作のあゆみ」(美作国建国1300年記念事業実行委員会。2014年。73頁所収)
- ↑ 「岡山県史 第15巻 民俗1」(岡山県史編纂委員会。1983年。320頁)
- ↑ 「岡山の庶民夜話」(日本文教出版株式会社。昭和62年3月1日。77,78頁)
- ↑ 岡山県郷土文化財団「岡山の自然と文化 14 ―郷土文化講座―」p219-220、1995年3月31日発行。
- ↑ 勝山町史編集委員会 『勝山町史(前編)』 勝山町、1974年、702頁。
- ↑ 「旭川を科学するPart2 シリーズ『岡山学』4」 岡山理科大学『岡山学』研究会 p45、2006年12月10日発行。
- ↑ 勝山町史編集委員会 『勝山町史(前編)』 勝山町、1974年、703頁。
参考文献
文献
- 行田市史編さん委員会「242 文化十四年(一八一七)二月 忍藩御手船新艘注文帳(埼玉県立文書館所蔵 正田家文書)」、『行田市史 資料編 近世1』、行田市、2010年、494-498頁。