青野季吉
青野 季吉(あおの すえきち、1890年(明治23年)2月24日 - 1961年(昭和36年)6月23日)は日本の文芸評論家。
生涯
新潟県佐渡島出身。早稲田大学英文科卒業後、読売新聞記者となるが争議を指導したことにより解雇され、その後は新聞社を転々とした。1922年(大正11年)からプロレタリア文学評論家として文筆活動を始め、『種蒔く人』の同人として活動。「しらべた芸術」「目的意識論」などで、1920年代前半のプロレタリア文学運動の指導的な立場に立った。
評論活動のかたわら、(第一次)日本共産党員として実践活動をおこない、第一次共産党解散後、残務処理のための「ビューロー」で活動し、1924年(大正13年)には党の再建のため、徳田球一とともに上海に渡ったこともある。
帰国後は実践活動から退き、『文藝戦線』における文筆活動に専念した。1926年(大正15年)に最初の評論集『解放の芸術』を出版し、以後プロレタリア文学評論家として活動したが、1927年のプロレタリア文学団体の分裂の際には、労農芸術家連盟(労芸)に所属し、「文藝戦線」派の重鎮として、「戦旗」派とは一線を画した。労芸解散後の1938年(昭和13年)の第二次人民戦線事件で検挙された。
第二次世界大戦後は、日本ペンクラブの再建に尽力し、1948年から副会長。1951年から日本文藝家協会会長を務めた。
1950年(昭和25年)に『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞、1956年(昭和31年)に日本芸術院会員、1958年(昭和33年)に『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞した。1961年(昭和36年)6月23日、胃癌のため慶應義塾大学病院で死去[1]。
1911年、下谷の小学校教師・島田みづほ(瑞穂)と結婚するが、妻には子ができず、瑞穂が病気で実家へ帰っている間に松井松栄(1910-1945)を愛人として共同生活を送り、四人の子供をなす。作家の青野聰はその次男か三男。戦後そのことを知った瑞穂が四人の子供を育てたことは青野聰の「母と子の契約」に詳しい[2]。
著作
- 『無産政党と社会運動』白揚社 1925
- 『解放の芸術』解放社 1926
- 『転換期の文学』春秋社 1927
- 『観念形態論』南宋書院 1928
- 『社会思想と中産階級』春秋社 1929
- 『マルクス主義文学闘争』神谷書店 1929
- 『サラリーマン恐怖時代』先進社 1930
- 『社会は何故に悩むか』改造社 1930
- 『マルキシズム文学論』天人社 1930
- 『実践的文学論』千倉書房 1931
- 『文芸と社会』中央公論社 1936
- 『文学と精神』河出書房 1940
- 『文学の場所』高山書店 1941
- 『文学の本願』桜井書店 1941
- 『経堂襍記』筑摩書房 1941
- 『回心の文学』有光社 1942
- 『文學の美徳』小学舘 1942
- 『佐渡』小山書店(新風土記叢書) 1942
- 『一つの石』有光社 1943
- 『文学と人間』玄同社 1946
- 『文学歴程』万里閣 1946
- 『読書論』川崎出版社 1947
- 『文学的人生論』桜井書店 1947
- 『芸術の園』欧亜社 1947
- 『戦争と平和』鱒書房 1947
- 『私の文学手記』日東出版社 1947
- 『一九一九年』新興芸術社 1947
- 『明治文学入門』全国書房 1948
- 『社会思想入門』三興書林 1949
- 『現代文学論』六興出版社 1949
- 『文学今昔』ジープ社 1950
- 『文学五十年』筑摩書房 1957
- 『文学という鏡』弥生書房 1957
- 『文学の歴史と作家」春歩堂 1959
- 『青野季吉日記』河出書房新社 1964
翻訳
- ウラジーミル・レーニン『帝国主義論』希望閣 1925
- レーニン『何を為すべきか』白揚社 1926
- ロバート・オーエン『人類に与ふ』人文会出版部 1926
- ダヴィト・リャザーノフ『マルクス・エンゲルス伝』南宋書院 1927
- エメリヤン・ヤロスラフスキー『レーニン』南宋書院 1927
- ハリー・レードラー『社会思想物語』春秋社 1929
- レフ・トロツキー『革命裸像』アルス 1930
- トロツキー『自己暴露』アルス 1930
- レーニン『民族問題』白揚社 1930
- アダム・スミス『国富論』春秋社 1933
- トロツキー『わが生涯』改造社 1937
- ヨシフ・スターリン『プロレタリアートの戰略と戰術』社會書房 1946
参考
- 日本近代文学大辞典