長澤鼎
ながさわかなえ 長澤鼎 | |
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生誕 |
磯永彦輔 1852年 日本薩摩国鹿児島城下上之園通町 (現鹿児島県鹿児島市上之園町) |
死没 |
1934年3月1日(82歳没) アメリカ合衆国カリフォルニア州 |
国籍 | 日本 |
職業 | ファウンテングローブ・ワイナリー経営者 |
活動拠点 | アメリカ合衆国カリフォルニア州 |
親 |
父:磯永孫四郎 母:フミ |
親戚 |
弟:赤星弥之助 甥:赤星鉄馬 甥:伊地知共喜 |
長澤 鼎(ながさわ かなえ、本名:磯永彦輔、1852年 - 1934年3月1日)は江戸時代の薩摩藩士。薩摩国出身。13歳の時藩命でイギリスに留学し、後にカリフォルニアに渡り「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。
経歴
薩摩国鹿児島城下上之園通町(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)にて磯永孫四郎とフミの四男として誕生する[1]。生家は代々天文方で、父親の磯永孫四郎は儒学者。
1865年(慶応元年)、13歳のときに森有礼、吉田清成、五代友厚、鮫島尚信、寺島宗則らと共にイギリスに留学する(薩摩藩第一次英国留学生)。他の留学生はロンドン大学に入ったが、長澤は年齢が入学年齢に達していなかったため、スコットランドのアバディーンにあった貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に身を寄せ、地元のグラマー・スクールに2年間通う。藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国したが、長澤を含む森ら6名は、性的心霊主義者として知られるトマス・レイク・ハリスを信奉していたローレンス・オリファントの招きで慶応3年(1867年)に渡米し、ハリスが主宰するニューヨーク州ブロクトンのキリスト教系新興宗教団体「新生兄弟社(Brotherhood of the New Life)」に入り、信者らと共同生活を送る。薩摩藩留学生のうち何人かはハリスの思想に違和を感じてすぐ離反したが、長澤は森らとともに残り、翌1868年には森らも帰国した。長澤は唯一人教団に残って厳しい労働と信仰生活を送りながら、1870年には9月から3か月ほどコーネル大学にも通った。1871年にアメリカ永住を宣言[2]。教団の経営のためにワイン醸造をニューヨークのブルックリンでジョン・ハイド博士から学び、葡萄農園を中心とする農業で財政を支えた。
1875年、教団はカリフォルニアのサンタローザにワイナリーを開いた。しかし新生社の異端思想に対し、新聞が反教団運動を行ったために、1890年代前半にハリスが引退すると教団は事実上解散した。
1900年、長澤はワイナリーを教団から買い取り、品質向上に努力し、彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州10大ワイナリーのひとつにまで育て上げた。カリフォルニア大学デービス校の教授に醸造技術を学ぶなど研究を続け、高級ワインに育て上げた上に、フランスには特約店を設け、苗木を輸入するなど、商才にも長けていた[3]。彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。
生涯独身を貫き、83歳で死ぬと、ワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。その一部はパラダイスリッジ・ワイナリーとして継承されている。莫大な土地財産は排日土地法等のため相続できず他人の手に渡った[4]。
長澤の存在は一般的にはほとんど知られていなかったが、1983年に来日したレーガン大統領が日米交流の祖として長澤の名を挙げたことにより、広く認知されるようになった[2]。2011年末にいちき串木野市職員がサンタローザから日本へ持ち帰った資料から日記原文などが見つかった[5]。
家族
実弟に、金貸し業などで財をなした赤星弥之助[6][7]。甥(弥之助の子)に赤星鉄馬。
エピソード
- 禁酒法時代、密売を持ちかけた業者の前で樽を割って拒絶した。
- 主君筋である島津忠重がサンフランシスコに海軍の士官候補生として寄港したとき、土下座をして歓迎した。
- 2007年、サンタローザ市は長澤の功績を讃え、彼のワイン醸造所と農園跡地に市民公園Nagasawa Community Parkをつくった。
墓所・霊廟・銅像
遺骨は戦後日本に帰国し、鹿児島市冷水町の興国寺墓地に埋葬された[8]。昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生17名の像『若き薩摩の群像[9]』の一人として銅像が建てられている。
脚注
- ↑ 長沢鼎(磯永彦助)誕生地 - 鹿児島市、2013年8月11日閲覧。
- ↑ 2.0 2.1 アメリカに生きたサムライ・長沢鼎 森孝晴、鹿児島国際大学、国際文化学部論集、2015-09-30
- ↑ 「カリフォルニアのワイン王・長沢鼎」 羅府新報、October 23, 2014
- ↑ 侍から葡萄王へ カリフォルニアの日本人パイオニア在サンフランシスコ日本国総領事館、2005年3月号
- ↑ 長沢鼎の手紙の下書きとそこに込められた思いと精神森孝晴国際文化学部論集第13巻第1号(2012年4月)
- ↑ 赤星弥之助日本人名大辞典
- ↑ 『新薩摩学風土と人間』鹿児島純心女子大学国際文化研究センター、図書出版 南方新社, 2003
- ↑ 長沢鼎英文日記門田明、鹿児島県立短期大学、The annual research report 23, 1-23, 1995-03-25
- ↑ “若き薩摩の群像”. 鹿児島県観光連盟. . 2014閲覧.
関連文献
- 門田明「薩摩留学生覚え書き : とくに長沢鼎とアバディーンについて」(『英学史研究』第10号、日本英学史学会、1977年9月)
- 門田明「長沢鼎研究I」(『研究年報』第7号、鹿児島県立短期大学地域研究所、1979年3月)
- ゲイ・ルバロン「ファウンテングローブの日本人「貴公子」」(『研究年報』第7号、鹿児島県立短期大学地域研究所、1979年3月)
- Terry Jones「THE STORY OF KANAYE NAGASAWA」(『研究年報』第8号、鹿児島県立短期大学地域研究所、1980年3月)
- 門田明「長沢鼎研究III」(『研究年報』第9号、鹿児島県立短期大学地域研究所、1981年3月)
- 門田明、テリー・ジョーンズ著『カリフォルニアの士魂 : 薩摩留学生長沢鼎小伝』本邦書籍、1983年4月
- 門田明「鷲津尺魔『長沢鼎翁伝』」(鹿児島県立短期大学人文学会編『人文』第14号、1990年8月)
- 門田明「長沢鼎英文日記」(『研究年報』第23号、鹿児島県立短期大学地域研究所、1995年3月)、同「長沢鼎英文日記(二)」(同誌第26号、1997年3月)、同「長沢鼎英文日記(三)」(同誌第27号、1998年3月)
- 「カリフォルニアのブドウ王・長沢鼎」(産経新聞「日本人の足跡」取材班著『日本人の足跡 : 世紀を超えた「絆」求めて 2』産経新聞ニュースサービス、2002年2月、ISBN 4594034063)
- 門田明「鷲津尺魔『長沢鼎翁伝』・縮刷口語版」(鹿児島純心女子大学国際文化研究センター編『薩摩と留学生』南方新社、2006年3月、ISBN 486124076X)
- Long-forgotten diary of Japanese 'wine king' unearthed in California (The Japan Times, Thursday, March 15, 2012)
- 渡辺正清『長沢鼎―カリフォルニア・ワインに生きた薩摩の士』南日本新聞開発センター、2013
- 『ジャック・ロンドンと鹿児島-その相互の影響関係』森孝晴、高城書房 (2014/12)