農奴制(ロシア)

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のうどせい krepostnoe pravo

ロシアでは 11~12世紀までは,農民の大部分は自由で自治を享受していたといわれるが,13~15世紀の間に徐々に農奴化され,1497年と 1550年の法令によって「聖ユーリの日 (旧暦 11月 26日) 」の前後2週間以外には,農民がその土地から離れることが禁止されるようになり,さらに 81年にはイワン4世 (雷帝) によってこれも事実上廃止されてしまった。このような農民の土地への緊縛は 1649年の会議法典で確立し,次いで 1723年ピョートル1世 (大帝) によって奴隷 (ホロープ) と同様に農奴にも人頭税が課せられるようになり,それまでの農奴と奴隷の区別もなくなり,完全に不自由な農奴となった。

18世紀になるとこれら農奴は,
(1) 国有地農民,
(2) 王室領地農民,
(3) 地主領農民,
(4) 農奴占有工場農民
の4つに区分されるようになった。

(3) の地主領農民は最も悲惨で,家族と切り離されたり土地と別に売買されたり,さらに地主の一方的意志で軍隊にやられたり,シベリアへ流されたりした。このような農民はときとして地主や政府に対して一揆を起したが,なかでも 17~18世紀の I.I.ボロトニコフ,ステンカ・ラージン,E.I.プガチョーフの乱が有名である。 19世紀に入ると農民を家族から切り離して売ったり,土地をつけないで競売にしたりすることが禁じられ,また 1842年の法令で地主に金を支払って解放される者も出てきたが,農奴の悲惨な状態は 61年の農奴解放令発布まで基本的には大きく変ることがなかった。