ロシア史
ロシアの歴史はその広大な国土、さえぎるもののない平原、長くゆったりと流れる川、そして厳しい気候と深く関係している。1991年に解体したソビエト連邦は、地球上の全陸地面積の6分の1を誇っていたが、ロシア共和国はその約3分の2を占め、アメリカ合衆国の1.8倍もある。これは世界一広い国であるが、その8割はウラル山脈以東のシベリアと極東である。ロシアはこのウラル山脈によってヨーロッパ部とアジア部に分けられるが、この国が広いユーラシア平原にまたがっていることが異民族との絶えざる戦争を引き起こし、開拓と植民による領土の拡張を可能にしてきた。
ロシアの歴史はモスクワ大公国より前、9世紀の末に成立したキエフ・ロシアに始まる。この国はバルト海から黒海にいたる地域を占め、ドネプル川など多くの河川を利用して中継貿易で栄えた、ゆるやかな地域連合国家であった。しかし、この広大なロシアは、さえぎるものがないところから、絶えず外敵の侵入に悩まされてきた。とりわけ13世紀半ばから約2世紀半にわたるモンゴル・タタールの支配は、それ以前のキエフ・ロシアと以後のモスクワ・ロシアの政治体制をすっかり変えてしまった。キエフ・ロシアは王朝の姻戚関係や貿易を通じてヨーロッパとの関係が深かったが、モンゴル支配下のモスクワ・ロシアではこのような関係はなくなった。また西ヨーロッパ諸国がローマ・カトリックであったのに対し、キエフ・ロシアは10世紀の末にビザンチン帝国からギリシア正教を取り入れたが、そのビザンチン帝国が15世紀にオスマン帝国に滅ぼされたところから、モスクワ・ロシアは「第3のローマ」を自称して、みずから西ヨーロッパとの相違を強調し、それを誇るようになった。このモスクワ・ロシアでは、キエフ時代のベーチェ(民会)に象徴される民主制がすっかり姿を消して、大公はサモジェルジェツ(専制君主)を自称し、国は専制国家となった。一方、それまで比較的自由に移動できた農民が、領主の土地に縛りつけられる農奴となった(農奴制(ロシア))。
モスクワ・ロシアはまた、ロシアの領土拡大の歴史の始まりでもあった。16世紀の末にウラル山脈を越えてシベリアに進出したロシアは、わずか60年ほどで早くも太平洋に達し、さらに18世紀末にはアリューシャン列島からアラスカにまでその領地を拡大した。ロシア人が初めて日本の土を踏んだのは、ビトゥス・J.ベーリングの第2次探検隊の一部が日本への航路を探した1739(元文4)年のことである。
ロシアが世界の大国として登場してくるのは、18世紀前半のピョートル1世(大帝)の時代からである。北欧の雄スウェーデンを破ったロシアは帝国となり、バルト海のほとりにサンクトペテルブルグ(略称ペテルブルグ)を築いて、長年の念願であった海への出口を獲得した。18世紀後半のエカテリーナ2世(大帝)の時代には、クリム・ハン国を滅ぼし、さらにポーランド分割を行なって領土を拡大した。しかし、この時代に農民や少数民族の不満がプガチョーフの反乱となって爆発した。19世紀初めにロシアは、世界最強を誇ったナポレオン1世の大軍を破って、ヨーロッパの列強に加わった。しかし、19世紀中葉のクリミア戦争に敗北し、農奴解放をはじめとして上からの近代化が行なわれた。一方、西ヨーロッパの自由思想や革命思想を学んだ若者は、ラジカルな変革を望んでしだいに革命的になり、一部はテロリズムに走って、アレクサンドル2世の暗殺に成功した。
20世紀の初頭にロシアは日本と戦って敗れ、1905年には革命が起こった。政府はこれをしずめるため憲法を発布し、国会を開設したが、革命的な社会主義者を満足させることができなかった。第1次世界大戦に連合国の一員として参加したロシアは、戦争が長引くにつれ国内に不満が増大し、ついに1917年2月(旧暦)にはロマノフ朝が倒れ、10月(旧暦)にはウラジーミル・I.レーニンに率いられたボルシェビキが革命を成功させて、ここに世界で初めての社会主義国家が誕生した。1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が成立したが、この国は共産党の一党独裁体制であった。レーニンの死後、党の書記長となったヨシフ・V.スターリンは、その独裁的な権力を行使して、工業化と農業の集団化を行なった。ソ連社会全体が秘密警察によって完全に支配され、この国は個人の自由のない全体主義国家となった。
ソ連は第2次世界大戦でドイツに勝利し、東ヨーロッパを共産化したが、計画的・指令的経済システムの弊害は経済的停滞や社会的諸問題を顕在化させるようになった。1985年にミハイル・S.ゴルバチョフが共産党の書記長となり、「ペレストロイカ」をスローガンに掲げて、思いきった変革を始めた。これは外交と言論の自由の分野では成功したが、経済はさらに悪化し、加えてソ連邦内の民族問題が表出してきた。国内は保守派と改革派に分かれ、ゴルバチョフはその間にあって連邦人民代議員大会を創設したり、大統領制を導入したりしたが、これは保守派の反発を呼び、1991年8月にはクーデターが起こった。保守派の政権奪取は失敗したが、この事態を傍観していた共産党はついに解体した。このあと15の共和国はバルト3国をはじめとして次々に独立し、12月にはバルト3国とグルジア(ジョージア)を除いた11ヵ国が、独立国家共同体(CIS)を結成し、ここにソ連は崩壊した。しかしそのあと、ロシアとウクライナとの軋轢や、ロシア連邦内の諸民族の独立要求などが噴出した。さらに計画経済から市場経済への移行の過程で、ロシアの経済はますます混乱をきわめた。
日本は北方領土問題が未解決なところから、ソ連と平和条約を締結しないまま、今日にいたっている。ロシアは日本に対して大幅な経済援助を求めているが、日本政府は政経不可分の原則から、医療や緊急な食料援助など比較的小規模な援助にかぎっている。
なお、ロシアでは1918年2月までユリウス暦(旧暦)を使用していた。これを新暦に直すには18世紀で11日、19世紀で12日、20世紀で13日加えなければならない。