護国卿
護国卿(ごこくきょう、英語: Lord Protector)は、イングランド王国において王権に匹敵する最高統治権を与えられた官職。敬称は殿下(His Highness)。特にイングランドのピューリタン革命後に成立したイングランド共和国における国家元首としての官職を指すことが多い。
沿革
イングランドにおいて「護国卿」の称号は、王が幼年のときや執務不能のときの後見人の称号としてしばしば用いられていた。護国卿を名乗った後見人には以下の者がいる。
- ベッドフォード公ジョン、グロスター公ハンフリー(ヘンリー6世の幼少時)
- ヨーク公リチャード(ヘンリー6世の精神錯乱時)
- グロスター公リチャード(エドワード5世の幼少時)
- サマセット公エドワード・シーモア(エドワード6世の幼少時)
ピューリタン革命後の1653年にイギリス初の成文憲法として制定された「統治章典」は、チャールズ1世を処刑した後不在となっていた国家元首の地位を「護国卿」(Lord Protector)と定め、12月16日にオリバー・クロムウェルを終身任期の護国卿に任命した。この護国卿がイギリスを統治した時代を「プロテクトレート」(The Protectorate)と呼ぶ。
護国卿の職責職権は「統治章典」によって定められていたが、クロムウェルは護国卿に就任すると議会を解散し、護国卿を事実上の独裁者とする軍事政権を確立した。こうして護国卿の地位は、前国王を処刑してまで廃止したはずの旧君主のそれと実質的に同じものとなり、君主の専権事項だったナイト爵の叙任なども従前そのままに護国卿が行うようになっていった。護国卿の国家元首としての正式称号も
- By the Grace of God and Republic Lord Protector of England, Scotland and Ireland
- (神と共和国の恩寵による、イングランド、スコットランド、およびアイルランドの護国卿)
という旧態依然としたものになった。
クロムウェルが1658年に病死すると、護国卿の地位は子のリチャード・クロムウェルによって引き継がれた。リチャードは父の晩年に屋台骨が揺らぎ始めた共和制の引き締めを図るため、父に倣って議会を解散したうえで独裁強権政治を行おうとしたが、逆に議会の猛反発を買い、結局就任8か月後の1659年5月25日に護国卿を辞任するに至った。終身任期の護国卿が就任から1年も経たずに辞任に追い込まれたことで、イギリスの共和制はここに事実上崩壊した。この後は元オリバーの部下だった者たちと議会との間で勢力争いのいざこざが繰り返されて政局は空転、これをうけて翌1660年5月29日には故チャールズ1世の嫡男が亡命先から帰国、ロンドンでチャールズ2世として即位し、イギリスは王政復古を実現している。
クロムウェル父子の後、「護国卿」の称号はこの両名と不可分なものとなった。それはまた、不名誉な共和制を連想させて余りある語でもあった。これ以後イギリスでこの「護国卿」の称号が使用されることは二度となかった。