リチャード3世 (イングランド王)

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リチャード3世英語: Richard III, 1452年10月2日 - 1485年8月22日)は、ヨーク朝最後のイングランド王(在位:1483年 - 1485年)。薔薇戦争の最後を飾る王である。

エドワード3世の曾孫であるヨーク公リチャード・プランタジネットセシリー・ネヴィルの八男で、エドワード4世ラトランド伯エドムンドクラレンス公ジョージの弟。即位前はグロスター公に叙されていた(在位:1461年 - 1483年)。護国卿でもあった(在位:1483年)。

戦死した最後のイングランド王であるが、他に戦死した王は1066年ヘイスティングズの戦いで敗死したハロルド2世と、1199年に矢傷がもとで死亡したリチャード1世がいるのみである。1484年1月に王直属の機関として紋章院を創設したことでも知られる。旗印は白い猪、銘は“Loyaulté Me Lie”(ロワイオテ・ム・リ)で、意味は古フランス語で「忠誠がわれを縛る」。

生涯

幼くして父を失ったリチャードは、兄エドワードや母方の従兄にあたる実力者ウォリック伯リチャード・ネヴィルの庇護をうけて成長した。ウォリック伯の元で少年期を過ごし、騎士としての修業を積み、1461年に兄がエドワード4世としてイングランド王に即位するとグロスター公に叙位された。

政権内の争いから、1470年にエドワード4世がランカスター派に寝返ったウォリック伯によって追放されたとき、ウォリック伯の誘いを拒否して一貫してエドワード4世に忠誠を誓い、翌1471年の兄王の復位に貢献した。1472年ヘンリー6世の継嗣エドワード・オブ・ウェストミンスターの寡婦であったウォリック伯の娘アン・ネヴィルと結婚した。アンの姉イザベル・ネヴィルの寡夫であったリチャードの兄クラレンス公ジョージが1478年に処刑されると、リチャードは広大なウォリック伯領を独占相続して、名実ともに実力者としての地位を確立した。

その後、王妃エリザベス・ウッドヴィル一族が政権内で勢力を伸ばすと、これと対立するようになる。1483年にエドワード4世が病死するとその息子(リチャード自身にとっては甥)であるエドワード5世の摂政(護国卿)に就任。まもなくリヴァース伯アンソニー・ウッドヴィルEnglish版らの王妃一派を捕らえて粛清し、さらにエドワード5世とその弟リチャード・オブ・シュルーズベリーロンドン塔に幽閉した。2人はそのまま消息不明になり、殺されたとみられる。3ヵ月後の同年6月26日、エドワード5世の正統性を否定した議会に推挙されて(エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚は無効、2人の間の子供は庶子とされた)、イングランド王リチャード3世として即位した。同年、支持者の一人ジョン・ハワードノーフォーク公位(ロンドン塔に幽閉された甥リチャードから剥奪された)を与える。

1483年10月、リチャード3世政権の樹立に貢献のあったバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードが反乱を起こすとこれを鎮圧したが、反乱の噂は絶えず、政情は不安定なままに置かれた。1484年4月には一人息子のエドワード・オブ・ミドルハムが夭折し、1485年3月には王妃アン・ネヴィルも病死する。唯一の子供であったエドワードの死後、リチャード3世は一時、自身と王妃の甥であるクラレンス公の幼い遺児ウォリック伯エドワードを王位継承者に指名したが、王妃の死後にそれを取り消し、代わって別の甥(姉エリザベス・オブ・ヨーク (enの息子)であるリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを王位継承者に指名した。

1485年8月、ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)がフランスから侵入し、ボズワースの戦いで国王自ら軍を率いて決戦する。この戦いでリチャード3世は味方の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが戦死した。遺体は、当時の習慣に従って、丸裸にされ晒された。

死後

評価

ファイル:Memorial to King Richard III of England in Leicester Cathedral.jpg
2015年までリチャード3世の墓とされたレスター大聖堂の「リチャード3世の墓碑。「1485年8月22日にボズワースにて殺害されたイングランドの王、リチャード3世」と刻まれている。

リチャード3世はウィリアム・シェイクスピアによって、ヨーク朝の後継王朝であるテューダー朝の敵役として稀代の奸物に描かれ、その人物像が後世に広く伝わった。

リチャード3世の悪名はテューダー朝によって着せられたものであるとして、汚名を雪ぎ「名誉回復」を図ろうとするリカーディアン (Ricardian と呼ばれる歴史愛好家たちもおり、欧米には彼らの交流団体も存在する。リチャード3世を兄(エドワード4世)思いで甥殺しなどしない正義感の強い人物として描くベストセラー小説も、ジョセフィン・テイ時の娘』(1951年)をはじめとして数多くある。1980年代以降には以下のような作品がある。

ただし、デイヴィッド・スターキーEnglish版のように著名な歴史家が「甥殺しのあの悪人」と書くなど、評価はいまだ分かれている。2002年、BBCが発表した「100名の最も偉大な英国人」では82位に選出された。

2012年にリチャード3世の遺骨が発掘されると、「530年ぶりに駐車場の下から悪名高い王の遺体が見つかる」と大きく報じられた。2015年3月26日にレスター大聖堂に改葬されたが、遺体はコーンウォール産のの木の棺に納められ、霊柩馬車に牽かれ、ヨーク家の象徴白い薔薇を持つ市民に見守る中、レスター市内を回り、レスター大聖堂に「国王の礼をもって」改葬された。そのときにはカンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビーウェセックス伯爵夫人ソフィーグロスター公爵リチャード(即位前のリチャード3世と同名同号である)、同公爵夫人バージッドが臨席し、桂冠詩人キャロル・アン・デュフィーによる詩が俳優のベネディクト・カンバーバッチ(遺体のDNA分析で血縁者と判明)の朗読によって捧げられ、リオネル・パワーによる「詩編」を基に作曲した音楽が演奏された。また女王エリザベス2世から直筆の手紙が贈られた。

遺体

ファイル:Picture of Richard III's new tomb.jpg
2015年に改葬されたリチャード3世の墓。ヨーク家の紋章と「リチャード3世」「忠誠が我を縛る」のモットーが刻まれている。また白い猪の幟が飾られている。

2012年8月、リチャード3世の遺骨が、記録された埋葬場所と一致するレスター市中心部の駐車場の地下から発見された。遺骨は頭蓋骨に戦闘で受けたとみられる複数の傷があり、また脊柱に強い脊椎側彎症が確認された。王の遺骨発見に大きく貢献した歴史家のジョン・アッシュダウン・ヒル博士によって探し出されたリチャード3世の姉アン・オブ・ヨーク(en, 1439年 - 1476年)の女系の子孫(カナダ人マイケル・イブセン)のミトコンドリアDNA鑑定をレスター大学が行い、2013年2月に遺骨をリチャード3世のものと断定した[1]

また、同チームは遺骨からDNAを採取し、ゲノム解析のうえ髪や瞳の色などの容姿の特定、ならびに健康状態の調査をする方針を2014年9月に発表している[2]

その後、遺骨を法医学的に分析し、ボズワースの戦いでは11カ所の傷を負っていたことが明らかになった。そのうち9カ所は兜によって防護されていなかった頭部にあり、頭蓋骨にはのこぎりのような武器で削いだ傷や、骨を貫き脳にまで達した刺し傷もあった。致命傷になったとみられる2カ所の傷は、脳内に数cmから10cm程度入り込む頭蓋骨への刺し傷であり、この傷によって一瞬にして意識を失い、その後心肺が停止したと考えられる[3][4][5]

リチャード3世のY染色体DNAが、曾祖父の兄であるジョン・オブ・ゴーントから続く同家系の男系の5人の子孫が共通に持つY染色体DNAと一致しなかったことから、ある時点で5人の共通祖先あるいはリチャード3世の祖先(リチャード3世自身を含む)には、公式の家系図に書かれていない父親を持つ男子がいたことが判明した。その結果、ランカスター朝ヘンリー4世ヘンリー5世ヘンリー6世と、ヘンリー7世から始まりヘンリー8世とその3人の子に至るまでのテューダー朝全体に、嫡出に関する疑念が生まれている[6]。これはさらに、ヘンリー7世の嫡出子孫である後継のステュアート朝、ならびに21世紀初頭の時点でイギリス君主の座にあるウィンザー朝の正当性に疑いがあることを意味している。

その他、リチャード3世が96%の確率で青い目の、77%の確率で金髪の持ち主だったとの結果が出ている[6]

2015年3月26日、調査が終了した遺骨はレスター大聖堂に再埋葬された[7]

登場作品

シェイクスピアの史劇
小説
漫画

脚注

関連項目

公職
先代:
新設
護国卿
1483年
次代:
消滅
イングランドの爵位
先代:
新設
グロスター公
1461年 - 1483年
次代:
消滅