清教徒革命
清教徒革命 | |
---|---|
ファイル:After the Battle of Naseby in 1645.jpg ネイズビーの戦い後の風景(1645年) | |
種類 | 市民革命 |
目的 | 王権の制限、カトリック勢力の排除 |
対象 | 絶対王政、カトリック勢力 |
結果 | 絶対王政の打倒。議会制民主主義の優位。アイルランド再征服 |
発生現場 |
イングランド スコットランド 25px アイルランド |
清教徒革命またはピューリタン革命(せいきょうとかくめい/ピューリタンかくめい、英語:Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms)は、狭義には1642年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命である。広義には1638年の主教戦争から1660年の王政復古までを含み、「大反乱」「三王国戦争」もしくは名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とも呼ばれる。革命中に起きた諸事件については清教徒革命の年表も併せて参照。
Contents
概要
ステュアート朝期イングランド王国は国教会による王の絶対主義によって維持されていたが、富をえて上昇する者と没落する者が錯綜し、社会のしくみが絶対主義の確立されたテューダー朝期とは大きく異なってきていた(ただし、ステュアート朝期における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝期に由来している)。三十年戦争では、1624年にフランスの呼びかけに応じてデンマーク=ノルウェーを対ハプスブルク同盟へ引き込む為に資金を提供した結果、王室は財政難に苦しむことになった。
しかし、1625年に王位を継承したチャールズ1世は、変化に対応する能力に欠けており、王権神授説にもとづき議会と対立し、大陸の戦火がイギリスにも及ぶことに成った。イングランド内戦は、1641年のアイルランドのカトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立したアイルランド革命(アイルランド同盟戦争の発端)から始まった。翌1642年にイングランドでも王と議会の対立から第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)が始まった。スコットランドでも二次にわたる主教戦争を経て1644年、盟約派と国王派の間でスコットランド内戦が始まっている。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していった。国王派(騎士党)と議会派(円頂党)の内戦は議会派が勝利して終わった。議会派内でも内部対立がおこって第二次イングランド内戦(1648年 - 1649年)が起こり、国王チャールズ1世の処刑が行われた。 共和政のイングランド共和国(1649年 - 1660年)が樹立された。第三次イングランド内戦(1649年 - 1651年)はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し(三王国戦争、英語: Wars of the Three Kingdoms)、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となったクロムウェルのアイルランド侵略(1649年 - 1653年)が行なわれた。1652年には第一次英蘭戦争が始まり、イングランド内戦を制した後もイングランド共和国は安定せず、1653年には大きな軍事的功績をおさめたオリバー・クロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となった。1654年に英西戦争が始まってダンケルクを占領したものの、護国卿体制は5年で破綻した。
1660年の王政復古によって清教徒革命は失敗に終わり、かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復した。しかし、星室庁や独自の財源を失ったステュアート朝の王権弱体化は明らかであった。実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招いて、王を中心とする絶対君主制から議会を中心とする立憲君主制へと移行することになった。清教徒革命はステュアート朝の王たちが目指していた絶対主義から脱却するという点から市民革命のひとつとして分類される。現在では名誉革命と併せてイギリス革命として議論されることが多い。
内乱の前提
革命の直接の原因としてチャールズ1世が政治能力に欠けていたことは確かであるが、遠因としてはエリザベス1世治世期、特に末期にその源泉はすでにもとめられる。農村や社会構造の変化に国家体制が対応できず、社会のひずみはしだいに大きくなっていた。かつては内乱の原因として「17世紀の危機」論争などが起こった。
富農の出現
農民(ヨーマン)は次第に裕福になってジェントリになってゆく者と、より貧しくなって離農する者へ二極化した。エリザベス1世は救貧法などによって社会的安定を保とうとしたものの、貧農が都市、中でもロンドンに集中して急激な人口増加をもたらした。この変化に宗教改革や修道院の解散も影響して、貧しい人々をみる視線が「慈善の対象」から「怠惰の結果」に変わっていった。こうして社会的・経済的に追いつめられた人々が急進的な思想を醸成していった。
ヨーマンや小作農のなかから、しだいに広い土地を持つものが出てきて、かれらはジェントリ化していった。これには、封建領主制からブルジョワ的土地経営に様変わりしたことが原因としてあげられる。すなわち、農民は階級的支配による耕作ではなく、商契約に基づく労働としての耕作という方向に徐々に変貌してゆく。そのなかで余裕をもてた者が、農業生産性の向上もあって、その所有する土地を漸次広げていった。そしてジェントリの一角に食い込んでいったばかりでなく、富農の発言力も強まっていった。
財政の悪化
当時、国家財政は急激に悪化していた。収入面では余剰生産が寄生地主・富農の手にとどまって国家まで上がってこなかったこと、支出面では価格革命による物価の上昇および戦費がかさんだことがそれぞれ原因だった。代々の王は王領地を売却することで当座をしのいできたが、すでに王領地はヘンリー8世時代の半分以下にまで目減りしていた[注 1]。結果として王室は議会の承認する税収への依存を強める一方で、中世以来の国王大権に基づいた徴発権・後見権・関税の徴収強化に乗り出して王権に基づいた財政基盤強化にも乗り出していた。これが農民のみならず、貴族や商人階層の不満をも高める結果となった。
特にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド国王(ジェームズ1世)に迎えられてステュアート朝が始まると、財政の膨張に拍車がかかる様になり、国王からの議会に対する予算の要求が増加していった。これを危惧する廷臣グループから1610年に「大契約」と呼ばれる仲裁案が国王と議会に出されたものの結局は失敗に終わり、それ以後も財政悪化が益々深刻化する中でジェームズ1世の息子チャールズ1世が王位を継ぐ事になったのである。
こうした情勢にもチャールズ1世は王権神授説を捨てず、議会に対して予算を要求するのみだった。一方で議員達にとっての議会とは、地元の陳情を処理する場であった。両者の関係はしだいに離れてゆき、1628年6月の「権利の請願」提出を経て1629年、議会は解散を命じられた。
親政(Personal Rule)
チャールズ1世の治世当初はジェームズ1世からの寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズが政治を取り仕切っていたが、失敗の連続で議会の不満を買い、1628年にバッキンガム公が暗殺された後はチャールズ1世が親政を始めた。この親政時代(1629年 - 1640年)は"Eleven Years' Tyranny"(en)(専制の11年間)とよばれる。親政では倹約と教会の監督制強化、新規課税による財政再建がおもな課題となった。財政再建においてはトン税・ポンド税・船舶税の徴収強化をはかったが、議会の承認を経ない税ゆえに反発を招いた[注 2]。チャールズ1世はジョン・ハムデンら反発した者を星室庁で裁き、投獄・耳そぎの刑に処した。教会の監督制強化の面では側近のカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの進言でスコットランドへの祈祷書施行が行われたが、スコットランド国民盟約の反発を招き主教戦争をおこした。戦争の結果、賠償金を支払うこととなり、資金が払底したチャールズ1世は再度議会を開かざるをえなかった。
短期議会と長期議会
かくして議会が召集されたのは1640年4月だったが、行き違いはむしろ深刻になっており、議会は3週間たらずで解散された。これが「短期議会」といわれるものである。しかし主教戦争を遂行するためにも予算が必要であり、予算を得るためには議会の開催が必要だった。こうしてやむなく再度議会を召集し、「長期議会」が同年11月に開会された。議会は国王とその側近、および国教会ヒエラルキー(特にアルミニウス主義)に対する攻撃を強調した。一方で治安が急速に悪化し、アイルランドでカトリック同盟による内戦が起こった。現地プロテスタント虐殺の報に沸騰したロンドンでは国教会に対する不満が噴出していた。1641年5月には国王派で議会内の反対派鎮圧を画策していたストラフォード伯トマス・ウェントワース(元は議会派であったが、親政期に国王側に離反して閣僚となっていた)が議会によって人身保護の権利を剥奪されて処刑されている。
1641年11月に、外交などの国王大権を制限して議会主権を主張する「議会の大諫奏」(英語: Grand Remonstrance)が僅差で可決されたことが、事態を決定的なものとした。この抗議文は急進性を有しており、すべての議員に支持されてはおらず、可決したものの票差は159対148とわずか11であった。この抗議文への姿勢の違いから議会は国王派(騎士党)と議会派(円頂党)に分裂した。続いて12月に議会が民兵条例を可決すると、国王側近はこれを「議会による絶対主義」であるとして激しく非難した。こうした状況を受けてチャールズ1世は1642年1月に議会派の中心人物の逮捕を命じ、これを見たロンドン市民は議会派についた。身の危険を感じて王がロンドンを離れると、国王派と議会派に分かれてイングランド全土を巻き込む内戦が始まった。この時期、民衆はピューリタンらの発行したパンフレットを通じて一連の政治問題に強い関心を示し、請願や暴動などが起きて民衆の政治活動が活発に起きはじめていた。この中から後述する平等派(レヴェラーズ)がつくられていき、長老派との抗争において独立派を支持した。
三十年戦争
三十年戦争とそれによる疲弊は、フランスなど大陸諸国が介入する余力を残さなかった。これによって清教徒革命は、大陸に波及することがなく、後の名誉革命やフランス革命と違って、海外の干渉をほとんど受けずに進展した。
内戦・革命における党派
ここでは、清教徒革命においてみられた主な党派について説明する。イングランドにおいては、各党派は階級や地方による分類が難しく、どの党派に属するかは血縁などの個人的関係が大きく影響していたといわれる。
国王派
議会にいたものの、大抗議文の趣旨に賛同せず国王側についた議員とその領袖をさす。国王派といっても議会との妥協をはかる者から徹底抗戦を主張する者まで、見解には振幅があった。産業化がすすんでおらず、ピューリタニズムの浸透が浅いイングランド北部・西部及びウェールズ・コーンウォールにおいて有力であり、1644年のニューモデル軍結成までは有利に戦局を展開させていた。ほぼ国教会信徒によって構成された。
議会派
大抗議文の作成を主導したか、賛同して国王軍と戦った議員が議会派であるが、主張の濃淡は多様であった。イングランド東南部で支持された。多くは国教会改革を唱え、求める改革の方向は宗派によってまちまちであった。以下のほか、浸礼派(バプテスト)やクエーカーが入り乱れ、百家争鳴の様相を呈した。
- 長老派
- 中央権力を弱めた長老制教会をめざした一派であり、国王派と和解に積極的姿勢を示した穏健派である。同じ長老制教会をとるスコットランドと友好関係を保った。議会多数派であったが、チャールズ1世と妥協を図って独立派と対立し、『プライドのパージ』(en)によって議会から追われた。中産階級以上が多かったといわれ、追放後はランプ議会に対してパンフレットによる言論攻勢をかけた。
- 独立派
- 分離派の一派で、カルヴァン主義独立派(Independent、インディペンデント)に属する。ほかの分離派と長老派の中庸をめざした党派で、革命を積極的に推進した議会内勢力である。宗教面の主張よりも政治的利害の一致によって結びついた。オリバー・クロムウェルなど将校に多く、内戦においては主戦派であった。平等派や軍と共同歩調をとって長老派を追い落とし、ランプ議会で議会を掌握した。独立派の多くが国王の処刑に署名し、王政復古後逮捕・処刑された。
- 平等派
- 分離派のひとつ。もと独立派左翼で兵士やロンドンの一般市民からなり、平等な政治体制の実現をもとめて社会契約や普通選挙導入を主張した。「レヴェラーズ」(Levellers、「水平派」とも)と呼ばれ、教義より政治的主張を重視した。ジョン・リルバーンら論客のパンフレットにより盛り上がりを見せ、革命の徹底を主張した。当初は独立派と近かったものの、共和政以降対立し、1650年から弾圧に遭って衰退した。
- 第五王国派
- 分離派のひとつ(Fifth Monarchists)。アッシリア・ペルシア・ギリシア・ローマに続く第5のキリスト教千年王国を実現せんとした急進派である(Millennialism)。トマス・ハリソン等、一般市民や兵士および一部将校からなる。聖者による統治をめざし、共和政やクロムウェルを支持したが、護国卿制になってからは反体制側にまわって暴動を起こすなどテロリスト化していった。王政復古後弾圧に遭い勢力は衰え、その一部は北米植民地(後のアメリカ合衆国、カナダ)に移住した。
- 真正水平派
- 分離派の一つ。「ディッガーズ」(Diggers)と呼ばれる。指導者はウィンスタンリーで原始キリスト教的社会主義思想に基づく土地共有を推進した。貧農に支持者が多く、サリー州で1649年共有地を開拓した。議会派きっての穏健派でもっとも民衆のことを考えていた。ウィンスタンリー自身も平和的に説得して支持者を増やした。後に独立派によって弾圧され衰退した。初期のユートピア社会主義と見る向きもある。
中立派
便宜上中立派とよばれるが、まとまりのある党派ではなく、各党派をむすびつけて和解に至ろうとした個人を総称していう。その活動範囲は多様であり、精力的であったが、革命期において存在感を示すことはあまりなかった。
盟約派
スコットランドの勢力で、国民盟約に加わった者からなる。国教会の中央集権的教会制度をきらって長老制にもとづく。信仰面ではイングランド長老派とほぼ同じである。のち、スコットランドの完全支配をめざした強硬派と、あくまで王のもとでの長老制を支持した穏健派に分かれて抗争が起こった。
カトリック同盟
アイルランドの勢力。ゲール人・イングランド人ともに、官職から疎外されてきたカトリックが団結して作った。国王との和解およびカトリック信仰の承認を求めた。信仰面から、イングランド議会派や盟約派と対立した。大陸のスペインなど対抗宗教改革勢力の支援も受けていたといわれる。
イングランド内戦と革命政府
イングランド内戦
1642年からイングランドで議会軍と国王軍の内戦が始まった。当初は実戦経験や質でまさる国王軍が有利に戦ったが、ニューモデル軍をはじめとする軍制改革が行われて議会軍が強化されると、議会軍が優勢になった。当初騎兵隊の隊長に過ぎなかったオリバー・クロムウェルは議会軍のなかでしだいに頭角をあらわしてゆき、ニューモデル軍結成にあたってはその副司令官となった。議会軍はネイズビーの戦いで勝利を決定づけ、急進的になった民衆や議会のもと、1645年にウィリアム・ロードが、1649年にチャールズ1世が処刑された。
そのなかで、議会は革命の推進役となった軍に警戒を強めつつあった。軍はバプテストや独立派などが多く信条面で急進的であり、議会は長老派が一定数を占めていたため穏健であった。特にクロムウェルなど軍指揮官の名声はいや増す一方であり、議会としては革命の主導権を奪われかねない状況にあった。議会と軍の関係はしだいに疎遠になってゆき、議会が財政難を理由に軍隊の削減を主張するにおよんで、軍は反撃に出た。プライドのパージがそれであり、軍が長老派議員たちを議会から追放した。このパージ以降、軍の意を色濃く反映した議会運営がすすめられてゆくことになる。国王の処刑や対アイルランド・スコットランド戦争も、そうした文脈の中で起こった。
- 参照: イングランド内戦
共和政イングランド
共和政宣言をもって成立した共和政イングランド(1649年 - 1653年)はさまざまな内部対立を抱えていたが、これを維持しえたのは、軍人として名望が高まりつつあったクロムウェルの軍功と、三十年戦争で諸外国が消耗していたからだった。共和政府はまた、財政立て直しのために王・国王派の領地を没収・売却したが事足りず、軍縮に手を付けざるを得なかった。これによって軍との対立を招き、護国卿政治にとって代わられることとなった。
反革命勢力の排除
共和政イングランドにおいては独立派がランプ議会を主導し、保守派(長老派)と革命の徹底を求める平等派の追い落としを始めた。追放された長老派はスコットランドにその活路を求め、オランダに亡命していたチャールズ2世を迎え入れた。一方、平等派は独立派に徹底的な弾圧を加えられ、その勢力はなお健在ではあったが、組織化されることはなくなり、独立派の単独政権が確立された。平等派を追い落とした独立派はアイルランドのカトリック同盟をすみやかに鎮圧し、チャールズ2世を擁するスコットランドとの間に1650年7月戦端を開いた。
9月3日のダンバーの戦いでスコットランド軍は決定的敗北を喫し、イングランドに潜入したチャールズ2世もちょうど1年後の1651年9月3日、ウスターの戦いで完膚なきまでに叩きのめされた。一連の戦闘を指揮していたのはクロムウェルであり、この華々しい戦果に圧倒的な名声を得た。また共和政イングランドは、これらの勝利によっていちおうの安定を得た。
議会と軍の不和
反乱の鎮圧には膨大な戦費がかさんでおり、一段落したところで議会は財政立て直しのために軍の削減を主張した。さらに議会は航海条例を通過させ、オランダと険悪な関係になった。革命の担い手と自負していた軍は議会に対する態度を硬直させ、軍隊内では議会の解散をもとめる声が大きくなっていった。軍隊の立場を代弁・代表していたのはトマス・ハリソンであった。彼をはじめとする軍隊内の「第五王国派」は、神の王国の実現は近いとし、革命を導いたニューモデル軍こそその担い手であると主張していた。両者の対立を軟着陸させようと考えていたクロムウェルも、こうした軍隊内の過激化を抑えきれず、ついにハリソンと同調して議会の解散を強行し、「聖者議会」を成立させた。
聖者議会
「指名議会」「ベアホーンズ議会」「小議会」「いやしい身分の狂信者たちの集まり」などとよばれたこの議会は、ランプ議会にかわって1653年7月2日に開会した。この議会で中心的役割を果たしたのが急進派(第五王国派)ハリソンと穏健派ジョン・ランパードであり、クロムウェルは両派から英雄として担ぎ上げられていた。穏健派は議会の解散とクロムウェルの国王就任を目論み、その思惑通りに事態が進展した。こうして聖者議会は4ヶ月で自主解散した。クロムウェルはこの構想に同意したわけではなかった。しかし議会がなくなってしまった以上、政権を引き受けざるを得ず、KingではなくLord Protector(護国卿)として渋々政権の座についた。
護国卿体制
1653年12月16日に成立し、元首である護国卿(Lord Protector)、内閣にあたる国務会議、そして議会の三者均衡をめざしていた護国卿体制は、独裁制とは性格を異にしていた。護国卿の権力は「統治章典」によって制限され、立法権は州選出の議員によって運営される議会に留保された。しかしこの制度はすぐに破綻をきたし、反乱分子を抑えるために強権的にならざるを得なかった。
クロムウェルは独裁者たることを望んでおらず、合意による国政運営を目指していたといわれるが、国王派から平等派・第五王国派まで包含していたイングランド内にあって合意などもとより不可能な状況にあった。反革命勢力は議会に選出され、政府の支配の道具として使われた軍隊の削減を求めた。革命勢力たる軍と保守化する議会の間に「合意」を引き出せるはずもなく、クロムウェルはどちらにつくか逡巡したのち議会の解散(1655年1月22日)を選択せざるをえなかった。各地で平等派や国王派の反乱が相次いでおり、軍縮できる状況になかったためである。また、これら反乱分子を抑えるため、独裁的行政手段に訴えなければならなくなってきていた。
こうして解散された議会だったが、財政の逼迫はクロムウェルに変節をよぎなくさせた。「議会の同意なき課税は無効」という伝統がすでにイングランドに成立しており、これに基づいて議会を再召集する以外になかった。1656年9月17日に開かれた2度目の議会は、議員資格をめぐって混乱があったもののどうにか開かれた。議会は保守化の傾向を促進させようとし、クロムウェルに王の称号を贈り、上院の復活を求めるなどステュアート朝時代の政治体制に戻そうと腐心した。クロムウェルは王の称号以外の部分はおおむね受諾した(1657年5月25日)が、これが王政復古への道を決定づけたとも指摘されている。
王政復古
軍の弱体化を狙う政府内の動きに、第五王国派や平等派、そして兵士たちは反感を募らせていき、請願や抗議行動を活発化させていった。自らの支持基盤が軍であることを知っていたクロムウェルは、こうした動きにやむなく1658年2月4日議会を解散し、軍から忠誠をとりつけた。しかし議会を解散したことによって、いままでの反乱分子だけでなく独立派なども反対勢力にまわり、軍以外に支持基盤を見出せない状況に追い込まれていた。そんな中クロムウェルがインフルエンザにかかり、1658年の彼が名声を得た日と同じ9月3日世を去った。
後を継いだ3男のリチャード・クロムウェルは無能ではなかったといわれるが、またも財政問題から議会を開かざるを得ない状況に追い込まれていた。また、オリバー・クロムウェルという核を失って、再度ひらかれた議会と軍の対立はもはや覆いがたくなった。選挙資格や選挙区の区割りを元に戻して行われた選挙から選ばれた議会には長老派と党派抗争をも復活させた。そしてクーデターによる議会の解散、ランプ議会の復活という変遷をへて、限界を悟ったリチャードは引退を決意した。クロムウェルを失ったことは軍隊をも四分五裂させたが、そこにジョージ・マンクが率いるスコットランド軍の侵攻が重なった。
チャールズ2世はこの好機を逃さず、1660年4月4日ブレダ宣言[注 3]を発して復位を促した。混乱と内紛にうんざりしていた議員や国民の圧倒多数によってこれは支持され、5月7日、宣言を受諾する使節がオランダに向けて出航していった。
スコットランド革命
1639年の盟約戦争・主教戦争から1651年のクロムウェルによる征圧までの内戦はスコットランド革命とよばれる。イングランドにおける急進勢力が独立派やバプテストであったのに対し、スコットランドでは長老派の中で強硬派(アーガイル侯・リーヴン伯)と穏健派(モントローズ侯など)に分かれ、強硬派は王に対する徹底抗戦とスコットランドの実効支配を目指した。いっぽう穏健派は、盟約の目的は長老制の確立のみであり、スコットランドは国王のもとに帰するべきと考えた。この違いが、内戦のみならず対イングランド外交にも影響し、強硬派の勝利・実権掌握がイングランドとの対立を招いた一因となった。これに続くクロムウェルの遠征によって、スコットランドは史上初めて直接支配を受けることになった。
国民盟約の成立
スコットランドは山岳地帯や大小の島々が多く、中央集権に向かない地域であった。地方ごとに有力貴族・氏族がそれぞれの領地をおさめ、王がそれを束ねる分権的な封建制にも似た国制をとっていた。そうした地方における宗教は、信徒の代表である治会長老と、教役者である宣教長老という長老が、合議によって教会自治を行う長老制が優勢となっていた。
1637年、チャールズ1世は国教会祈祷書(儀式などの手順を指定した書)を施行した。国教会は監督制すなわち国王を頂点とするヒエラルキー構造に基づく主教制的な要素が強いものであり、したがってスコットランドの激しい反発を招いた。スコットランドの有力貴族らは反乱を起こし、モントローズ侯らは1638年2月「国民盟約」を成立させて長老主義のもと団結した。
盟約派のねらいは、1603年の同君連合成立以来のスコットランド・イングランド両国のありかたを問い直すものであった。すなわち、イングランドに吸収合併されるスコットランド(ロンドン中心の物的同君連合)ではなく、対等な関係をめざしていた。しかし対等な関係はイングランド側からすれば分不相応な要求というべきものであった。人口比で5対1、経済力ではそれ以上の開きがある両国が対等などとは、とうてい応じられないものであった。
主教戦争
- 参照:主教戦争
第1次(1639年)および第2次(1640年)の主教戦争によってイングランド王室は財政の限界に達し、親政を中止して議会を召集せざるをえなくなった。これがイングランド議会と国王の対立を招いた一因とされる。
スコットランド内はほぼ盟約派として団結し、祈禱書の停止を議会で宣言した。さらにイングランドのチャールズに主教戦争を挑み、両軍はイングランド北端、トゥイード川河口のベリックで対峙した。これは結局対峙しただけでチャールズが和議を申し込み、ベリックの和約が成立した。
和約が成立したものの、チャールズは主要な対立点である宗教問題について譲歩しなかった。それだけでなくカトリックの有力氏族を北方長官に任命し、スコットランドに主教制度の浸透をはかった。必然的にスコットランド盟約派はふたたび軍をおこし、モントローズ侯がディー橋の戦いで国王派を破った。これによって、第2次主教戦争が始まった。
盟約軍の南進の報がイングランドに届いたが、チャールズには軍をしたがえるだけの資金が底をついていた。盟約軍がニューバーンの戦いでイングランド軍を破り、ニューカッスル・アポン・タインを占領したところでチャールズが和平をもとめてやってきた。こうして締結されたリポン条約は賠償金の支払いが盛り込まれた。これがイングランド財政をいよいよ払底させ、長期議会召集につながることになった。主教戦争が一段落すると、スコットランド議会は国政の中心機関となり、さまざまな議会改革が進められた。この改革がイングランド長期議会での改革および大抗議文のモデルとして採用された。
派兵と内紛
スコットランドを統治していた盟約派は、「敵の敵は味方」の論理でイングランド議会派と誼を通じるようになった。議会軍の求めに応じて、盟約軍はカトリック同盟を平定すべくアイルランドに遠征したり、イングランドの国王軍の背後を襲うためにイングランド侵攻も行った。これは平定後、イングランドに「貸し」を作って将来の関係を優位にしたいという思惑があった。しかしこれはのちにことごとく共和政府に裏切られる結果となる。
そのいっぽうで、長老制を守り抜いて(ほかの二ヶ国と比べれば)平和になったスコットランドでは、盟約軍が結集する意味が薄れてきていた。こうしたなかで盟約軍のなかから、これ以上チャールズと争う必要はないとする者たちが出てきていた。モントローズ侯を中心とする盟約軍穏健派は、スコットランドで得た権力を失うまいとする強硬派のアーガイル侯およびリーヴン伯らと対立しはじめた。モントローズ侯はチャールズのもとに赴いて国王への忠誠を誓い、派遣軍が留守の間にスコットランドを平定してしまった。盟約軍穏健派は、実質国王派となった。
しかしイングランド内戦は議会軍の勝利に終わり、戻ってきた派遣軍・アーガイル侯と対立した。しかし戦闘は農繁期で、モントローズ侯のもとにはほとんど兵は集まらず勝負にならなかった。モントローズ侯は処刑され、スコットランドは束の間、アーガイル侯の執政体制となった。
なお、アーガイル侯は王政復古の後叛徒として処刑され、モントローズ侯は英雄となった。
対イングランド戦争
強硬派が勝利した盟約軍は、イングランド共和政府に長老制実施の約束を履行するよう求めた。しかし独立派などのセクトが力を持つ共和政府、特に政府軍の反発を招き、両者の関係は険悪になってきていた。1648年盟約軍はイングランドに攻め込んだがプレストンで逆撃をこうむり、さらに1650年クロムウェルの来寇という事態を招いた。ダンバーとウースターで決定的敗北を喫し、スコットランドは共和政府に吸収合併されることになった。
アイルランドの清教徒革命と内戦
イングランドが混乱していたころ、アイルランドでも1641年からカトリック勢力による武力蜂起が起こっていた。彼ら反乱勢力は国王軍とどうにか和平を結んだが、共和政イングランドによるクロムウェル遠征にあって鎮圧された。クロムウェルとその幕僚たちは敗残兵や民衆の虐殺を行い、共和政政府は債務弁済のためにアイルランドの土地をイングランドのプロテスタントに分与した。このことはアイルランドの人々の間に長く禍根を残し、現在に続くアイルランド問題の源となった。
アイルランドにおける清教徒革命・内戦では、しばしば三〜四の勢力で説明される。アイルランドの有産階級は、ほぼこのいずれかに分類できる。
- ミア・アイリッシュ
- カトリックであり、アイルランドにおけるイングランド王の支配を認めない人々。ゲール人などからなる。隠遁生活を送るかカトリック国に亡命する者が多く、地主として力を持つ者は皆無だった。
- オールド・イングリッシュ
- カトリックで国教会には従わないが、イングランド王への忠誠も併せ持つ。それ以前に植民してきたイングランド人の子孫とゲール人の双方から成る。信仰面から国教会やプロテスタンティズムを認めず、官職にありつけなかったものの、地主としては最も大きい勢力であった。
- ニュー・イングリッシュ
- プロテスタントのイングランド人たちの総称。それまでアイルランド総督府・議会を支配していたのみならず、地主として勢力を伸長しつつあった。イングランド内戦では国王派と議会派および多数の日和見に分かれた。
蜂起とアイルランド・カトリック同盟
武装蜂起は1641年10月23日におこった。この蜂起の理由については、アイルランドの地主たちの債務の帳消しを狙ったものであるとする説、ニュー・イングリッシュに奪われた土地を取り戻そうと立ち上がったとする説などがある。当初アルスターで起こったこの武装蜂起の首謀者はゲール系オールド・イングリッシュであったと推定されるが、多くのオールド・イングリッシュは蜂起に否定的であった。これが債務説が支持されるゆえんであるが、とにもかくにも武装蜂起はたちまちアイルランド全土に飛び火した。これには、総督府がオールド・イングリッシュをも反乱勢力とみなして敵視したため、彼らは反乱に合流せざるを得なかったという事情があった。したがって反乱勢力といっても徹底抗戦を主張する者と、早期の和平を望む者とが混ざりあっていたのである。
やがて総督府が反攻に出ると、反乱勢力はカトリック聖職者の助けをえて評議会「アイルランド・カトリック同盟(キルケニー同盟ともよばれる)」をつくり、組織化して対抗した。最高評議会員24名のうち5名が高位聖職者であり、その後かれらの意向が色濃く反映されてゆくことになる。
国王軍との和平
カトリック同盟は自らの名分として「神のため、王のため」立ったとした。したがって国王軍との和解・協力は既定の路線になるはずであったが、国王派の中にはカトリックを快く思わない者も少なからず存在しており、また同盟側にも国王を敵視する勢力があり、交渉は難航をきわめた。
当初チャールズ1世はカトリック同盟を敵視せざるを得なかった。国王派は国教会に与しており、カトリックを嫌う者も多かったためである。そのため一時はアイルランドに兵を差し向けたが、議会軍との戦闘が始まると、アイルランドどころではなくなり和平に傾いた。しかし和平交渉はようやく1644年に始まったものの両者の要求が紛糾して進まなかった。特に国王側はカトリック教会の財産保持を認めず返還するよう要求したが、聖職者の影響力が強いカトリック同盟には応じられるものではなかった。
交渉が加速するのは1646年3月に国王軍の拠点チェスターが陥落してからのことである。3月28日に和平条約に調印したが、この条約は遅きに失した。勝利をおさめつつある議会軍はカトリックを敵視していたからである。さらに、条約調印をめぐってカトリック同盟内で抗争がおこり、条約賛成派が投獄されるという事件も起こった。そうこうしているうちにチャールズ1世は断頭台の露と消え、クロムウェル率いる共和政府軍が迫ってきていた。
クロムウェルの遠征と虐殺
クロムウェルがアイルランドに上陸すると、たちどころにカトリック同盟は敗勢となり、1652年には組織的抵抗が不可能な状況になっていた。このクロムウェルの征服のさなか、および彼がスコットランドに渡ったのち、酸鼻をきわめる虐殺がアイルランド各地でおこった。かつて蜂起の際にニュー・イングリッシュへの略奪・虐殺があったことは確かであるが、それを遥かに上回る規模の意趣返しが行われた。陥落した都市から小舟で逃げようとする市民を舟ごと沈めたり、敗残兵・農民が避難した教会を建物ごと焼いたりといったことが繰り返され、当時の人口の1/3であった60万人が殺されるか奴隷として売られるか、あるいは餓死したとされる。
ゲール人の中心都市ゴールウェイの市民は追放され、3万人が大陸に移住してゆき、残ったのは「トーリー」とよばれる追いはぎだけであった。これが後にトーリー党の名の由来となる。殺戮がここまで大規模になったのは、クロムウェル自身が「野蛮人に対する神の正当な裁き」であるとしたこともあるが、共和政府軍の兵士たちの間にもバプティズムが浸透しており、これがカトリックに対する過剰な敵意となったことが指摘されている。こうした虐殺はアイルランド人の記憶に残り、現在まで語り継がれている。
土地収用
共和政府は、征服したオールド・イングリッシュらの土地をイングランド人に分配しはじめた。これにはふたつの事情があった。ひとつには兵士に支払う給料を滞納しておりアイルランドの土地をかわりに付与する旨の証書を発行していたこと、いまひとつは商人たちからアイルランドの土地を担保に投資を受けていたことである。このふたつを弁済するため、ミア・アイリッシュのみならずオールド・イングリッシュまでも追い払われ、商人や兵士に分配されていった。生活苦に陥っていた兵士の証書は軍の士官たちに安く(額面の1/4~1/5といわれる)買い集められ、士官がアイルランドの地主となるケースも多かった。
ヘンリー・クロムウェルの統治
クロムウェルが護国卿に就任したころ、総督府はバプテストが政権を主導していた。彼らは復讐心に燃え、カトリック信徒は民衆にいたるまで強制移住させるべきという主張がかまびすしくなってきていた。このころクロムウェルは保守化してきており、政権の安定のために過激な思想を抑え込もうとしていた。クロムウェルは4男のヘンリーをアイルランド軍最高司令官に任命し、かの地の安定化をはかった。現地に赴任したヘンリーはバプテストでも独立派でもなく、ニュー・イングリッシュによる統治を行い、蜂起以前の体制に徐々に戻していった。しかし、オールド・イングリッシュの勢力は著しく減退していた。
王政復古の影響
護国卿政が頓挫して王政復古が実現したが、ブレダ宣言にもとづきカトリックに返還された土地は多くはなかった。返還を訴えたカトリックの地主8000名のうち、返還が実現されたのは1000名に満たなかった。こうして、ゲール人のみならずカトリックも力を失い、イングランドによる植民地化が決定的となった。
清教徒革命の影響
王政復古は前体制にもどすことを目指したが、革命以前の状況になることはなかった。特に国王大権と国教会の融合による支配体制は求心力を失い、より安定した国家システムが模索されつつあった。なお、かつては前時代との断絶が強調されたが、現在は社会・経済構造など革命前のありようと変わらなかった点も多かったことが明らかにされている。
経験論
革命の失敗はピューリタニズムなど神秘主義的思想・セクト信仰の敗北を意味し、かわって経験論や政治算術など合理的思考の時代となった。これはのちに啓蒙思想や古典派経済学につながってゆくことになった。しかし分離主義・独立派などを信奉する人々が消えたわけではなく、細々とではあるが命脈を保ちつづけた。
絶対王政の終焉
後期ステュアート朝は国王至上法にもとづく絶対王政への回帰をめざした。しかし収入を議会による税に頼り、国王が直接裁く星室庁裁判所が廃止され、翼をもがれた状態にあった。実際の国政は議会が大きな影響力を持ち、回帰への志向と実情の落差は次第に溝を深めてゆくことになった。この落差は、後に名誉革命として表面化するにいたる。
文民統制の確立
軍隊、特に陸軍が革命において決定的役割をはたし、それによって一個の利益集団として権勢を振るった。これによって多数の勢力が弾圧・粛清され、陸軍の地位低下とともに、軍は政治権力を持つべきでないとする思想がひろく共有された。以降、軍人は下院に若干の議席を確保しつづけたが、それは主に軍人の待遇改善をもとめたり、軍隊内での出世のための手段として議員になったりというケースにとどまった。陸軍の地位低下は、海軍の地位上昇にもつながり、以降予算は優先的に海軍に回されるようになった。
財政軍事国家への出発
ランプ議会によって制定された航海条例はひきつがれ、王の勅許を得て正式に航海法となり、商業の振興に力を入れた。これには内戦による国家財政の困窮で消費税などの税収を上げたいという政府側の思惑もあったが、革命以前から活発になっていた新興産業と結びつき、商工業の発展に大きく寄与した。財政面では大蔵省の組織改革と効率化が進み、各種税金を効率的かつ迅速に国庫に納める仕組みが徐々につくられていった。財政軍事国家とよばれるこうした経済・財政政策とその体制が、名誉革命以降の対フランス戦争(第2次百年戦争ともよばれる)を有利に戦う下地を作った。
革命の歴史的評価
清教徒革命はさまざまに評価されてきた。原因や歴史的位置づけについて、自由主義やマルクス主義など、その時代の風潮によって異なる視点から捉えられてきた。また、同一時代にあっても識者の立場によっても違う見方をされている。革命直後からしばらくは歴史上の不祥事として描かれることが多かったが、次第に絶対王政から近代化への第一歩と評価されるようになった。20世紀に入ると、歴史研究者それぞれのイデオロギー・学派から活発な論戦が行われることもしばしば見られた。
ロックの革命権
ジョン・ロックは財産・自由の保全のために革命権の行使を肯定したが、清教徒革命については「無益な企て」と断じている。革命権の行使が許されるのは勤勉で理性的な人であり、貪欲な暴徒ではないとした。教養を重んじ賃労働を軽視するジェントリたちにとって、清教徒革命は「暴徒」に国政を牛耳られた不名誉な事件であり、名誉革命がその汚名をそそぐものであった。その原因は無知で横暴なスコットランド人の王チャールズ1世に帰すると考えられていた。結果、王権の大幅な制限と民衆の非政治化はジェントリたちの大きな関心事となった。
ホイッグ史観・唯物史観による評価
自由主義経済のもと世界帝国を築いていたころのイギリスでは、清教徒革命は「イングランドの騒乱」「ピューリタン革命」「イングランド革命」とよばれた。専制・封建制に対する自由・資本主義の闘いとして描写され、近代社会の画期とされた。さらにピューリタニズムに民主主義の精神を見出し、同時代のフランスなどと比較してその先進性が主張された。
19世紀に入ってチャーティスト運動の盛り上がりなどの社会現象もあいまってマルクス主義史観が広まると、清教徒革命はブルジョワ革命に分類された。マルクス主義史学は史家クリストファー・ヒルやリチャード・ヘンリ・トーニーらによって支持され一定の勢力を持ち、正統学説に対するアンチテーゼとして存在感を示し続けた。 この理論は日本にも取り入れられ、大塚史学としてイギリス史研究の本道となった。
ジェントリ論争と地方史研究
この正統学説は1950年代に入ってヒュー・トレヴァ=ローパーによって批判され、苛烈な論戦がたたかわされた。トレヴァ=ローパーによれば、この内戦は宮廷の官職を独占する大ジェントリたちに対する、中小ジェントリの挑戦であり、ピューリタニズムは華美にふける大ジェントリたちへの嫌悪感にもとづく貧困なジェントリの宗教とされる。これをトレヴァ=ローパーはコート対カントリという対立概念を用いて説明した。これに対してトーニーは、ジェントリの規模ではなく土地経営のしかたを重視した。すなわち、伝統的に地代を徴収する方法にとどまったジェントリは没落し、いっぽう地代のつり上げや牧羊業への柔軟な転換などブルジョワ的経営を行ったジェントリが勃興したとするものである。
こうした論戦は、根拠となる情報が少ないうえに議論が大局的にならざるをえず、不毛な議論となって尻すぼみになり、これをみた若い研究者らは情報が出し尽くされていない地方史研究をこころざすようになった。いずれにしてもこの時代まで、革命は社会矛盾の顕在化によって必然におこったものであるという考え方が前提にあった。
「17世紀の危機」
かつての歴史研究において、革命の原因であると主張され論争がたたかわされた「17世紀の危機」は、現在ではあまり顧みられなくなっている。「17世紀の危機」論争はトレヴァ=ローパーとホブズボームによるもので、ヨーロッパ全般の危機として論じられた。この危機とは、以下のような社会の変化に旧来の国家が対応できず、社会が不安定になったとするものである。すなわち社会の変化とは、16世紀は好況だったヨーロッパ経済が天候不順などによって停滞し、これによって農村のありかたが封建的から資本制に変貌しつつあり、さらにルネサンス以降、膨張しつつあった官僚制を王室財政で賄いきれなくなってきていた、というものである。しかし現在は、17世紀は経済不況からオランダの重商主義経済にいたる過渡期であったとされている。
修正主義以降
1970年代に入ると、正統学説にふたたび反論がおこるようになった。修正主義とよばれるこの流れは、革命の断絶性・近代社会化の側面および必然性を批判し、さらにイングランド内で完結されていた議論をおし拡げようとするものであった。修正主義は、革命の源泉をジェームズ1世の第1子ヘンリーが若くして死んだことなどに求め、ヘンリーが王位を継承すれば革命は起こらなかったであろうと指摘する。こうした修正主義によって明らかにされた研究成果は多岐にわたったが、なかでもイングランド一国史観に対して包括的なブリテン史を提唱した点は耳目を集めた。
1980年代には修正主義と正統学説の間で論争もおこっている。修正主義の流れは長期的な視点にとぼしく、革命の原因を偶発的要素にもとめすぎているなどの批判がある。現在、修正主義を批判的に継承したポスト修正主義やネオ=ホイッグなどの流れが複雑に交錯しているが、名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とよばれ、名誉革命以上に歴史的意義を見出されることが多い。一方で、イングランド革命政府とスコットランド・アイルランドの3ヶ国の戦争であるという捉え方も提唱されている。
脚注
- ↑ エリザベス1世治世期で82万ポンド、ジェームズ1世は77万ポンド、チャールズ1世は65万ポンドの領地を売りに出して当座をしのいだ。革命中に政府が売却した残りの王領地は200万ポンド未満であったといわれるから、3人の王をあわせて半分以上となる。
- ↑ 船舶税の徴収を確実なものとするために、徴税にあたっている州長官(Sheriff)に歩合制報酬と、徴税を監視する没収官の派遣を導入した。無給の名誉職であった州長官にとって屈辱的なこの改革はかえって反発を招き、税収は予定額の2割に落ち込んだ。
- ↑ 「ブレダ宣言」は以下の4項目からなり、チャールズ2世の寛容さを印象づけた。(1)革命中の行動は、議会の指名したものを除き大赦を与える。(2)宗教上の意見の相違は、議会の定めにより寛容を認める。(3)軍隊の給与は、議会に決定に従ってすみやかに支払う。(4)革命中の土地所有権の移動は、議会によって処理する。
参考文献
- 書籍
-
- 今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』、山川出版社、1990年。ISBN 4634460203
- 今井宏『クロムウェルとピューリタン革命』、清水書院、1984年。ISBN 4389440233
- 岩井淳・指明博編『イギリス史の新潮流 修正主義の近世史』、彩流社、2000年。ISBN 4882026716
- 浜林正夫『増補版 イギリス市民革命史』、未來社、1971年。ISBN 4624110293
- 松浦高嶺『イギリス近代史論集』、山川出版社、2005年。ISBN 4634674505
- 松村赳・富田虎男編著『英米史辞典』、研究社、2000年。ISBN 476743047X
- 山本正『「王国」と「植民地」——近世イギリス帝国のなかのアイルランド』、思文閣出版、2002年。ISBN 4784210962
- Brewer, John., 大久保桂子訳『財政=軍事国家の衝撃』、名古屋大学出版会、2003年。ISBN 4815804656
- Fréchet, René., 山口俊章・山口俊洋訳『アイルランド』、白水社(文庫クセジュ791)、1997年。ISBN 4560057915
- MacCall, Seamus., 小野修編、大渕敦子・山奥景子訳『アイルランド史入門』、明石書店、1996年。ISBN 4750308099
- Mitchison, Rosalind(ed.,) 富田理恵・家入葉子訳『スコットランド史——その意義と可能性』、未來社、1998年。ISBN 4624111680
- Tranter, Nigel., 杉本優訳『スコットランド物語』、大修館書店、1997年。ISBN 4469244015
- 論文
-
- 近藤和彦「「イギリス革命」の変貌——修正主義の歴史学——」『思想』第964号、pp.42-51、岩波書店、2004年。
- 玉木俊明「ヨーロッパ近代国家形成をめぐる一試論——「軍事革命」・「軍事財政国家」・「プロテスタント=インターナショナル」」『歴史の理論と教育』第95号、pp1-10、名古屋歴史科学研究会、1997年。
- 酒井重喜「最後の船舶税と議会」『海外事情研究』31-2号、熊本学園大学付属海外事情研究所、2004年。
- 友田卓爾「イギリス革命における一般民衆の政治化——B・ホワイトロックの『メモリアルズ』に関する覚え書き」(1)-(2)『地域文化研究(広島大学総合科学部)』(1)第26号、pp137-159、2000年、(2)第27号、pp113-137、2001年。
- 同「イギリス革命期「大衆請願」の用法にみられる革新性」『地域文化研究(広島大学総合科学部)』第28号、pp39-69、2002年。
- ジョン・モリル著、富田理恵訳「17世紀ブリテンの革命再考」『思想』第964号、pp.42-51、岩波書店、2004年。
また、イングランド議会について
- House of Commons Journal (British History Online)(ユーザ登録が必要)
関連項目
外部リンク