千葉空襲
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千葉空襲(ちばくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた千葉市に対する空襲のうち、1945年6月10日と7月7日のものを一般的に指す。戦後半世紀経過し、被災者の高齢化や歴史の風化などによって、同空襲のことを知る人は減少している。
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千葉空襲前の状況
1942年4月18日、空母発艦によるドーリットル隊の本土初空襲が行われたが、前線は依然遠かった。しかし、1944年7月、サイパンなどマリアナ群島をアメリカ軍が制圧したことによって、日本の主要都市や軍事拠点に対し戦略爆撃が加えられるようになり、1945年3月10日には東京に大規模な空襲が行われた。
空襲の概要
6月10日の空襲
6月10日の空襲は7時45分からB-29の編隊100機によって攻撃された。被害地域は蘇我の日立航空機千葉工場(跡地は現在JFEスチール東日本製鉄所の一部)、新宿町、富士見町付近で、同日の空襲によって千葉県立千葉高等女学校(現:千葉県立千葉女子高等学校)などの施設も被災した。被災面積は26ha、死傷者は391名。
7月7日の空襲
7月7日の空襲は1時39分から3時5分にかけての夜間空襲で、B29・124機によって行われた。この空襲によって、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅のほか椿森や作草部等にあった鉄道第一連隊、気球聯隊、陸軍高射学校などの軍事施設に被害が出た。また、千葉市街地を目標にした129機のB29による焼夷弾などにより千葉市中心地のほとんどが焼け野原となった。被災面積205Ha、死傷者は1204人。