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'''隋'''([[呉音]]: ずい、[[漢音]]: すい、{{ピン音|Suí}} 、[[581年]] - [[618年]]<ref>[[宮崎市定]]は「隋代史雑考」(中公文庫版『隋の煬帝』所収)において、隋は[[恭帝トウ|恭帝侗]]が帝位を奪われる[[619年]]まで存続していると説いた。しかし、唐の編纂した[[正史]]である『[[隋書]]』等では、618年に[[恭帝侑]]が唐に[[禅譲]]した時点をもって隋が滅んだものとしており、また『隋唐帝国』(布目潮渢、栗原益男著)では煬帝が暗殺されたことをもって隋が滅んだものとしている。本項ではより一般的と考えられる618年を滅亡年としている。</ref>)は、[[中国]]の[[王朝]]。[[魏晋南北朝時代]]の混乱を鎮め、[[西晋]]が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代[[煬帝]]の失政により滅亡し、その後は[[唐]]が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の[[中華人民共和国]][[西安市]])。[[国姓]]は楊。当時の日本である[[倭国]]からは[[遣隋使]]が送られた。
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'''隋'''([[呉音]]: ずい、[[漢音]]: すい、{{ピン音|Suí}} 、[[581年]] - [[618年]]<ref>[[宮崎市定]]は「隋代史雑考」(中公文庫版『隋の煬帝』所収)において、隋は[[恭帝トウ|恭帝侗]]が帝位を奪われる[[619年]]まで存続していると説いた。しかし、唐の編纂した[[正史]]である『[[隋書]]』等では、618年に[[恭帝侑]]が唐に[[禅譲]]した時点をもって隋が滅んだものとしており、また『隋唐帝国』(布目潮渢、栗原益男著)では煬帝が暗殺されたことをもって隋が滅んだものとしている。本項ではより一般的と考えられる618年を滅亡年としている。</ref>)
 
 
== 国号 ==
 
隋という国号(王朝名)は建業者である[[楊堅|高祖楊堅]]の[[北周]]時代の爵号である隨(随)国公に因む。この隨(国)は地名で現[[中華人民共和国]][[湖北省]][[随州市]]に名を遺しているが、唐の時代までは「隨」の略字として[[辵部]](しんにょう、辶)を省いた「隋」と相互に通用され、更にその「隋」から「エ」を省いた「陏」の字が用いられることもあり<ref>陏の例としては[[開皇]]13年(593年)の[[曹子建墓碑]]([[曹子建]]の墓碑)がある。</ref>、その後、おそらくは[[中唐]]以降に「隨」と「隋」とは区別されて地名は「隨(随)」、王朝名は 「隋」と固定したようである。その後、高祖楊堅が「隨」字に含まれる辵部に「走る」という字義があって前代迄の寧所に遑なく東奔西走した歴代を髣髴させるためにこれを去り、自らの王朝を「隋」と名付けたとする説、及び辵部には平穏に歩を進める字義がある一方で「隋」には供物としての肉の余りという字義があり、楊堅は改字によって却って王朝の命運を縮めたという附会説も行われ、これが[[宋 (王朝)|宋朝]]の[[儒学者]]たちの儒教的史観による[[革命]]解釈に適合するものとして喜ばれたために、以降はこの楊堅改字説が定説となった<ref>宮崎前掲論考。文献上で確認できる楊堅作字説の嚆矢は[[南唐]]の[[徐鍇]]『[[説文繋伝]]』という。</ref>。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 出自 ===
 
{{中国の歴史}}
 
{{ベトナムの歴史}}
 
隋の皇室である楊氏は『[[隋書]]』によれば、[[後漢]]代の有名な官僚・[[楊震]]の子孫にあたるという。楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を渡そうとしたところ、「天知,神知,我知,子知,何謂無知(天地の神々が知っている。私とあなたも知っている。誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したという[[四知]]の逸話で有名な人物である。その後、楊氏は[[北魏]]初期に[[武川鎮]]へと移住し、楊堅の父・[[楊忠]]に至るという。武川鎮とは北魏において首都・[[大同市|平城]]を北の[[柔然]]から防衛する役割を果たしていた軍事基地の一つである([[武川鎮軍閥]]、[[六鎮の乱]]などを参照)。
 
 
 
北魏において、皇室の[[拓跋氏]]を元氏に変えるといった風に、[[鮮卑]]風の名前を漢民族風に改めるという[[漢化政策]]が行われたことがあったが、北周ではこれに反発して、姓名を再び鮮卑風に改め、[[漢人]]に対しても鮮卑化政策を行った。この時、漢人である楊氏にも普六茹(ふりくじょ)という姓を与えられたとされる。普六茹とは[[鮮卑語]]で[[ヤナギ]]のことである。楊堅も、那羅延という鮮卑風の小字を持っていた。ただし楊氏については、[[鮮卑|鮮卑人]]の[[宇文泰]]が自分と同じ立場の[[武川鎮軍閥]]関係者から[[八柱国]]と十二大将軍を置いたが、十二大将軍の一人が陳留郡開国公[[楊忠]]([[楊堅]]の父)であること(なお、八柱国の一人の隴西郡開国公[[李虎]]の孫は[[唐]]の初代皇帝[[李淵]]である)<ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|authorlink=|date=2005-09-16|title=だれが中国をつくったか|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569646190|page=70|url=https://books.google.com/books?id=qn1xBAAAQBAJ&pg=PT70&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false}}</ref>、楊氏は[[楊震]]から出たとされるが真偽はわからないこと<ref name="守屋洋">{{Cite book|和書|author=[[守屋洋]]|authorlink=|date=2006-11-02|title=中国皇帝列伝|series=[[PHP文庫]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569667300|page=109|url=https://books.google.com/books?id=6p8AjHhmEkkC&pg=PT109&redir_esc=y#v=onepage&q&f=falseef}}</ref>、楊氏が[[五胡十六国時代]]から[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]に、数代にわたり鮮卑の国家[[南北朝時代 (中国)|北朝]]の[[官人]]を務めたことは事実であること<ref name="守屋洋"/>、楊堅の祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である鮮卑の[[エリート]]一族と[[通婚]]を行っていること<ref name="アーサー・F・ライト"/>、楊堅の皇后の[[独孤伽羅]]は鮮卑族の有力貴族の[[独孤部|独孤氏]]であること<ref>{{Cite book|和書|author=[[浅野典夫]]|authorlink=|date=2012-05-22|title=「なぜ?」がわかる世界史|series=|publisher=[[学研教育出版]]|isbn=978-4053033802|page=237|url=https://books.google.com/books?id=g4d1CwAAQBAJ&pg=PA237&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false}}</ref>、南北朝時代に[[華北]]を支配した北朝は鮮卑人を支配層とする王朝であり、隋も北朝の系統から成立したこと<ref>{{Cite book|和書|author=[[浅野典夫]]|authorlink=|date=2016-09-08|title=今を読み解く世界史講義|series=|publisher=[[新星出版社]]|isbn=978-4405120051|page=78|url=https://books.google.com/books?id=I8KyDQAAQBAJ&pg=PA78&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false}}</ref>などから、「元々は[[鮮卑]]の出身で本来の姓が普六茹であり、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊である」という説もある<ref name="アーサー・F・ライト">{{Cite book|和書|author=[[アーサー・F・ライト]]|authorlink=|date=1982-11|title=隋代史|series=|publisher=[[法律文化社]]|isbn=|page=64}}「隋朝の創業者である楊堅は、黄河平原の西端近く(弘農郡華陰県=陝西省渭南地区華陰県)に本貫のある古い名族に生まれた。その祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である[[テュルク系民族|テュルク]]・[[モンゴル系民族|モンゴル]](鮮卑)エリートの一族との通婚によってその権力と地位を維持してきた。楊堅の父である楊忠は、最初、北魏に仕えていたが、五三四年、北魏が西魏と東魏に分裂したとき、楊忠は西魏の創業者である宇文泰に忠節を尽くす道を選んだ。楊忠は、文武にわたる功績により、高位で酬いられ、隋公(隋国公)に封ぜられた。また、五世紀末年の徹底的な漢化政策において漢姓に変更されたテュルク・モンゴル(鮮卑)の姓を宇文泰が、その部下に対して復活したとき(虜姓再行)、彼のもとで軍功を立てた漢姓の者に漢姓と同じ意味の(鮮卑)の姓を授けた。楊忠は、[[モンゴル語族|モンゴル諸語]]で柳の一種(楊)を意味するブルスカンの転じた普六茹という姓を授けられた」</ref><ref>[[姚薇元]]『北朝胡姓考(修訂本)』([[中華書局]]、[[2007年]])P72-73は、楊氏(普六茹氏)は雁門茹氏、つまりは茹茹(蠕蠕、[[柔然]])の後裔とみる。</ref><ref>『文藝春秋SPECIAL』2016年7月号、[[文藝春秋社]]、p205[[楊海英]]「例えば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民の一つ、鮮卑系の王朝だった。それが漢人編纂の後の史書では、後漢の名臣、楊震の子孫であると漢化されて伝えられてきたのである」</ref><ref>『文藝春秋SPECIAL』2016年7月号、[[文藝春秋社]]、p67[[岡田英弘]]「この隋も鮮卑族の国ですから、シナは完全にアルタイ化してしまうわけです」「隋、唐ともの鮮卑人の創った王朝です」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|authorlink=|date=2004-12-18|title=中国文明の歴史|series=[[講談社現代新書]]|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061497610|page=102}}「この時代の王朝である隋も唐も、その帝室は鮮卑系の王朝であった北魏、西魏、北周のもとで実現した、鮮卑族と、鮮卑化した漢族の結合した集団の中から出てきたものである。」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[加藤徹]]|authorlink=|date=2006-06-16|title=貝と羊の中国人|series=新潮新書 169|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106101694|2006}}p112₋p113 「隋の楊氏も唐の李氏も、遊牧民族である鮮卑族の血を、濃厚に引いていた」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[守屋洋]]|authorlink=|date=2006-11-02|title=中国皇帝列伝|series=[[PHP文庫]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569667300|page=109|url=https://books.google.com/books?id=6p8AjHhmEkkC&pg=PT109&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false}}「楊氏はもと胡族(鮮卑)から出たのではないかと言われているが、このほうがむしろ信憑性が高いかもしれない」</ref><ref>[[外山軍治]]・[[礪波護]]「隋唐世界帝国」『東洋の歴史5』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p12「楊という漢姓を名乗っているが、その実は中国化した鮮卑人であろうという説が有力である」</ref><ref>{{Kotobank|鮮卑|日本大百科全書}} [[佐藤智水]]「その後の北朝王朝(北魏、東魏、西魏、北斉、北周)および隋・唐王朝の宗室も祖先は鮮卑系である」</ref>。
 
 
 
=== 隋の建国まで ===
 
楊堅の父・楊忠は北魏が[[西魏]]・[[東魏]]に分裂する際(後にそれぞれ北周・[[北斉]]が取って代わる)に[[宇文泰]]に従って西魏の成立に貢献し、大将軍を務め、隋国公の地位を得ていた。
 
 
 
[[568年]]に楊忠は死去し、楊堅が大将軍・随国公の地位を受け継いだ。北周の[[武帝 (北周)|武帝]]は宿敵の北斉を滅ぼし、更に南の[[陳 (南朝)|陳]]を滅ぼす前段階として北の[[突厥]]への遠征を企図していたが、[[576年]]に崩御した。武帝の跡を継いだ[[宣帝 (北周)|宣帝]]は奇矯な人物で、5人の[[皇后]]を持っていた。このうちの1人が楊堅の長女である[[楊麗華|麗華]]であり、麗華は宣帝の側室である[[朱満月]]が生んだ太子の宇文闡(後の[[静帝]])を育てた。宣帝の奇行は留まるところを知らず、在位8ヶ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を名乗って政務を放棄したので、静帝の後ろに立つ丞相の楊堅への声望が高まっていった。[[580年]]に宣帝が崩御すると、楊堅は静帝の摂政として全権を掌握した。これに反発する[[武川鎮軍閥]]内の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こす。この中で最も大規模なものが[[尉遅迥]]によるもので、一時は楊堅の押さえる[[関中]]地域以外のすべてで反乱が起きるほどになったが、楊堅は巧みにこれを各個撃破して、北周内における覇権を確固たるものとする。
 
 
 
同年末に随国公から随王へと進み北周の兵権を与えられ、更に581年に静帝より[[禅譲]]を受けて隋を建国した<ref name="新十八史略248">駒田『新十八史略4』、P248</ref>。
 
:※これ以降は楊堅を[[諡]](おくりな)の「文帝」で呼ぶ。
 
 
 
=== 南北統一 ===
 
既に北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めた。当時、南朝の陳では[[宣帝 (陳)|宣帝]]が北周末期より江北への進出を試みていたが、文帝は陳の間諜を捕縛しても衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、陳とは友好関係を保つようにしていた<ref name="新十八史略249">駒田『新十八史略4』、P249</ref>。[[582年]]、文帝は陳に対して討伐軍を送り出したが、この年に宣帝が崩御したこともあり、討伐を中止して使者を派遣して弔意を表して軍は撤退した<ref name="新十八史略249"/>。
 
 
 
北の突厥に対しては[[万里の長城|長城]]を修復して防備を固める<ref name="新十八史略249"/>。[[584年]]に突厥が北方で暴れると、文帝は長城を越えて突厥を攻撃し、その後文帝は突厥内部に巧みに介入して東西に分裂させた<ref name="新十八史略264">駒田『新十八史略4』、P264</ref>。
 
 
 
そして[[淮河]]と[[長江]]を結ぶ[[大運河|邗溝]](かんこう)を開削して補給路を確保する。更に、かつて南朝[[梁 (南朝)|梁]]から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた[[後梁 (南朝)|後梁]]を併合して前線基地を作る。また文帝は連年にわたり農繁期になると軍を南下させる気配を見せて陳軍に常に長江沿岸に大軍を配置させることを繰り返させることで人心を動揺させて収穫を減らさせ、更に間諜を使って民家に放火させたりした<ref name="新十八史略250">駒田『新十八史略4』、P250</ref>。こうして陳の国力は急速に衰退し、また皇帝が宣帝の子[[後主 (陳)|陳叔宝]]でこれが暗愚極まりない愚帝だったため、陳は内部からも次第に崩壊の色を深めた<ref name="新十八史略250"/>。
 
 
 
[[588年]]、文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男楊広(後の[[煬帝]])であり、51万8000という過大とも思える大軍の前に[[589年]]に陳の都[[建康 (都城)|建康]]はあっけなく陥落し、陳の皇帝[[後主 (陳)|陳叔宝]]は井戸に隠れているところを捕らえられた<ref name="新十八史略252">駒田『新十八史略4』、P252</ref>。ここに[[西晋]]滅亡以来273年、[[黄巾の乱]]以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結した<ref name="中華の崩壊181">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P181</ref>。
 
 
 
=== 開皇の治・文帝の治世 ===
 
[[File:東西突厥帝国.png|thumb|450px|7世紀初めの隋と周辺国。]]
 
[[ファイル:1099821363427.jpg|right|thumb|250px|隋帝国〔煬帝時の領土〕と周辺国]][[File:隋末群雄割據圖.PNG|right|thumb|250px|隋末の農民反乱地域と群雄の拠点]]
 
前後して、文帝は即位した直後から内政面についても次々と改革を打ち出した。
 
 
 
{{See also|隋#政治}}
 
 
 
『[[周礼]]』と[[鮮卑]]回帰政策を進めた北周の路線を改めて、北斉の制度も参照しつつ改革を行った。[[581年]]には新たな[[律令]]である[[開皇律令]]を制定した。この律令は晒し首・[[車裂きの刑|車折]]などの残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかりやすく改めたものであり、後の唐律令はほぼこの開皇律令を踏襲したものである。官制にも大改革を加え、最高機関として[[尚書省]]・[[門下省]]・[[内史省]](唐の[[中書省]])の3つを置き、尚書省の下に文書行政機関である六部、即ち人事担当の吏部・財政担当の度支部・儀礼担当の礼部・軍政担当の兵部・法務担当の都官部・土木担当の工部の6つを設けた。その下に実務機関である九寺、またこれとは別に監察機関である[[御史台]]を置いた。地方についてもそれまでの州>郡>県という区分を止めて、州>県の2段階に再編を行った。そして文帝の治績の最大のものとして称えられるのが、[[科挙]](正式には貢挙)の実行である。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]では[[九品官人法]]により、官吏の任命権が[[貴族 (中国)|貴族]]勢力の手に握られていた。科挙は地方豪族の世襲的任官でなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するという極めて開明的な手段であり、これを持って官吏任命権を皇帝の元へ取り返すことを狙ったのである。このように文帝によって整備された諸制度はほとんどが後に唐に受け継がれ、唐朝274年の礎となった。これらの文帝の治世をその[[元号]]を取って'''[[開皇の治]]'''と呼ぶ。
 
 
 
文帝の皇后の[[独孤伽羅]]は非常に強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独孤皇后は文帝の周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近付くことを警戒していた。文帝と独孤皇后の間には6人の子がおり、その長男[[楊勇]]が初め皇太子に立てられていたが、楊勇は派手好みで女好きであり、質素を好む文帝・貞操を重視する皇后の両者から嫌われ、それに代わって両親の気に入るように振舞っていた次男楊広が皇太子に立てられる。
 
 
 
[[604年]]、文帝は病に倒れた<ref name="新十八史略258">駒田『新十八史略4』、P258</ref>。この病床の間に楊広の本性を知った文帝は激怒して廃太子にした長男楊勇を再び太子にしようとした<ref name="新十八史略259">駒田『新十八史略4』、P259</ref>。しかしそれが叶う直前に文帝は崩御した<ref name="新十八史略260">駒田『新十八史略4』、P260</ref>。病死ともいわれているが、楊広に先手を打たれて右庶子の[[張衡 (隋)|張衡]]に殺害されたともいわれる<ref name="新十八史略260"/>。
 
 
 
=== 煬帝の治世 ===
 
楊広は文帝の崩御により、[[煬帝]]として即位した<ref name="新十八史略260"/>。煬帝は即位後すぐに廃太子の楊勇を探し出して殺害し<ref name="新十八史略260"/>、更に弟の漢王[[楊諒]]の反乱も抑えた<ref name="新十八史略258"/>。こうして兄弟たちを策謀によって殺害して競合相手を消した煬帝は質素を好んだ文帝とは対照的に派手好みで、父がやりかけていた大土木事業を大々的に推し進め、完成へと至らせた。主なものが首都大興城の建設と、[[大運河]]を大幅に延長して河北から江南へと繋がるものとしたことである。これらの大土木工事で河南諸郡の100万余の男女が徴発されて労苦に喘いだ<ref name="新十八史略261">駒田『新十八史略4』、P261</ref>。更に大運河工事に関しても煬帝自身の行幸や首都に対する輸出入、軍隊の輸送などに使われて民間への便益は極めて薄かった<ref name="新十八史略261"/>。煬帝の派手好みは臣下にも広まり<ref name="新十八史略262">駒田『新十八史略4』、P262</ref>、風紀の弛緩を招いた。更に煬帝は当時は従属していた突厥に備えるため、100万余の男女を徴発して長城の修築を行ない、この過酷な労役で多くの男女が命を落とした<ref name="新十八史略265">駒田『新十八史略4』、P265</ref>。煬帝が行幸を東西に繰り返したことも、国庫や民衆に多大な負担をさせるには十分だった。[[610年]][[1月]]には[[洛陽]]で諸国の朝貢使節を招いて豪勢な接待をしたことも、民衆に多大な災難を招いた<ref name="新十八史略267">駒田『新十八史略4』、P267</ref>。
 
 
 
[[ファイル:The invasion of Goguryeo.png|250px|thumb|隋の高句麗遠征<br>隋の大陸統一により、脅威を感じた[[高句麗]]が隋の敵・突厥と結んで隋に対抗しようとする様子を見せたため、隋は100万に及ぶ大軍を起こし、これを3度にわたって攻撃した]]
 
[[611年]]、煬帝は文帝がやりかけていた[[隋の高句麗遠征|高句麗遠征]]を以後3度にわたって行なった<ref name="新十八史略269">駒田『新十八史略4』、P269</ref>。[[612年]]から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであり、[[来護児]]や[[宇文述]]らが指揮官として高句麗を攻めた<ref name="新十八史略269"/>。しかし1回目の遠征は大敗し、更に兵糧不足もあって撤退する<ref name="新十八史略270">駒田『新十八史略4』、P270</ref>。[[613年]]には煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻めるが結果は得られず、[[614年]]に行なわれた3度目の遠征では高句麗側も疲弊していたこともあって煬帝に恭順の意を示したが、煬帝が条件とした高句麗王の入朝は無視され、煬帝は4回目の遠征を計画する<ref name="新十八史略270"/>。
 
 
 
=== 相次ぐ反乱と群雄割拠、隋の滅亡 ===
 
煬帝の施政による度重なる負担に民衆は耐えかね、遂に第2次高句麗遠征からの撤兵の途中にかつての煬帝の側近[[楊素]]の息子[[楊玄感]]が[[黎陽]]で反乱を起こして洛陽を攻撃した<ref name="新十八史略271">駒田『新十八史略4』、P271</ref>。これは煬帝が派遣した隋軍により鎮圧されて楊玄感は敗死したが、この反乱を契機にして中国全土で反乱が起こり出した<ref name="新十八史略271"/>。
 
 
 
これまで従属していた突厥は隋の衰退を見て再び北方で暴れだしたので、煬帝は自ら軍を率いて北方に向かうも突厥軍に敗れて洛陽に撤退<ref name="新十八史略271"/>。この敗戦が更なる引き金となり、[[616年]]には反乱が各地でピーク状態に達した<ref name="新十八史略280">駒田『新十八史略4』、P280</ref>。やがて反乱軍の頭領は各地で群雄として割拠し、楊玄感の参謀を務めていた[[李密 (隋)|李密]](北周八柱国・[[李弼]]の孫にあたり、[[武川鎮軍閥|関隴貴族集団]]の中でも上位の1人。楊玄感の敗死後に、洛口倉という隋の大食料集積基地を手に入れることに成功し多数の民衆を集めた)、この李密と激しく争っていた[[西域]]出身で隋の将軍を務めていた[[王世充]]、高句麗遠征軍から脱走し、同じ脱走兵たちを引き連れて河北に勢力を張った[[竇建徳]]、そして隋の太原留守であった[[李淵]](後の[[唐]]の高祖)などが独立勢力となった([[隋末唐初の群雄の一覧]])。
 
 
 
この反乱に対して煬帝は最初は鎮圧に努めたが、その処理が反徒の殺戮政策という過酷なものだったため、却って逆効果を招いた<ref name="新十八史略280"/>。激しくなる反乱の中、もはや隋軍では対処し切れなくなり、煬帝は[[揚州市|江都]]に行幸してここに留まり、反乱鎮圧の指揮を執った。しかし煬帝が南方に行幸したことは実質北方を放棄して逃走したも同じであり、北方の反乱はますます激しくなり、遂に李淵により首都大興城までもが落とされてしまう。大興城を掌握した李淵は首都に不在であった煬帝の退位を宣言し(表面上は煬帝を尊んで太上皇としている)、煬帝の孫'''[[恭帝侑|楊侑]](恭帝侑)'''を即位させた<ref name="新十八史略273">駒田『新十八史略4』、P273</ref>。
 
 
 
このような事態にも関わらず、江南に腰を据えた煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みなくなり、遂には諫言や提言する臣下に対して殺戮で臨むようになってまったく民心を失った<ref name="新十八史略273"/>。だが、煬帝に従って江都に赴いていた隋軍は多くが北方の出身者であり<ref name="新十八史略273"/>。重臣の[[宇文化及]]はこうした情勢の中でついに煬帝を見限り、反煬帝勢力を糾合して[[618年]]に謀反を起こし<ref name="新十八史略274">駒田『新十八史略4』、P274</ref>、煬帝を縊り殺した<ref name="新十八史略274"/>。こうして政権を奪取した宇文化及は、煬帝の甥(煬帝の弟の秦孝王[[楊俊]]の子)の秦王'''[[楊浩]]'''を皇帝に擁立し、江都の隋軍を率いて北へと帰還しようとしたが、[[王世充]]・李淵・[[李密]]らの勢力に阻まれて大興城を恢復することはできなかった。そこで宇文化及は皇帝楊浩を毒殺し、国号を'''許'''として自ら皇帝に即位する。しかし宇文化及は天寿2年(619年)に竇建徳との決戦に大敗して殺害され、ここに許の政権は崩壊した。
 
 
 
また、東都洛陽の留守を任されていた煬帝の孫の[[恭帝トウ|越王楊&#20375;]]は大業14年(618年)の煬帝の死を受け、[[王世充]]、[[元文都]]、皇甫無逸などに擁立されて皇帝に即位した。これが'''[[恭帝トウ|恭帝&#20375;]](皇泰主)'''である。しかし[[619年]]には王世充は恭帝&#20375;に禅譲を迫り、自ら皇帝に即位して'''鄭'''を立国した。
 
 
 
その一方で、煬帝の死を聞いた李淵は、恭帝侑から[[禅譲]]を受けて'''唐'''を建てた。
 
 
 
こうして煬帝は殺害されたし、煬帝の後継者として隋の正統を名乗った恭帝侑、恭帝&#20375;、秦王楊浩も、それぞれ李淵の唐、王世充の鄭、宇文化及の許に簒奪されたため、隋は完全に滅亡した。なお、煬帝の「'''煬'''」の文字は、「天に逆らい、民を虐げる」という意味を持ち、[[李淵]]が贈った[[諡]]である。
 
 
 
なお、煬帝の孫の一人である[[楊政道]](斉王[[楊カン|楊暕]]の遺腹の子)のみ、唯一生き延びた。彼は突厥の[[処羅可汗]]の庇護を受けたが、630年、突厥が滅亡すると、楊政道は唐に帰順して、官職を賜った。
 
 
 
== 政治 ==
 
{{節スタブ}}
 
 
 
=== 律令 ===
 
{{Main|開皇律令}}
 
[[律令制|律令]]は基本法典として定められた律(刑法)令(行政規定)格(追加規定)式(施行規定)に基づいて国家を運営する体制で、刑法、衛禁、服務、戸婚、後述の均田制や府兵制などもこれによって定められている。隋は政治的には[[北周]]を継承したが、[[律令]]制度は混乱を招いた『[[周礼]]』を基にした北周のものではなく、[[梁 (南朝)|梁]]を基礎とした[[北斉]]のものを模範とした。北斉の『河清律令』が基とされる。[[583年]]に[[高ケイ|高熲]]や[[蘇威]]の貢献が大きい'''開皇律令'''を規定した。律・令を補う法制としての格・式も隋代において完成した<ref name=":0" />。また、残酷な刑罰の廃止や律の簡素化などの改革が行われた。律令は本来皇帝の代替わりごとに修正公布されるもので、煬帝が即位すると'''大業律令'''を定めた。大業律令にも大幅な改革が加えられていたが詳細は判明しない<ref name=":0" />。
 
 
 
=== 官制 ===
 
唐代の律令官制の中央行政機関である[[三省六部]]は、開皇律令で既に完成しており、三省([[中書省]]・[[門下省]]・[[尚書省]])、六部([[吏部|吏]]・[[戸部 (六部)|戸]]・[[礼部|礼]]・[[兵部|兵]]・[[刑部|刑]]・[[工部|工]])、九寺([[鴻臚館|鴻臚寺]]など)、一台([[御史台]])という。ただし隋では「刑部」を「都官」、「戸部」を「度支」とするなど官名が一部異なる。
 
 
 
地方官制としては、州・郡・県の三級制から州・県の二級制([[州県制]])へ改革した。これは地方長官が任命していた州県官を中央からの派遣に改めて兵権を取り上げることで、門閥貴族を抑圧すると同時に中央集権化を進めた<ref name=":0">{{Cite book|和書|author=布目潮渢・栗原益男|title=隋唐帝国|date=|year=|publisher=講談社学術文庫}}</ref>。
 
 
 
=== 科挙制度 ===
 
{{Main|科挙#隋}}
 
[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|曹魏]]以来、官制としては[[九品官人法]]が使われていたが、この制度は家格の高低によって郷品が決められてしまう問題があったため、文帝の時代の地方官制改革と共に廃止された。そのかわりに導入されたのが科挙制度即ち科目別の試験制度である。[[宮崎市定]]によると[[587年]]に試験が開始され、及第者には高等官となる資格が与えられて科挙の起源となった<ref>{{Cite book|和書|author=宮崎市定|title=大唐帝国|date=|year=|publisher=中公文庫}}</ref>。ただし、当時の科挙の合格者は毎年数名程度であった<ref name=":0" />。
 
 
 
== 軍事 ==
 
{{節スタブ}}
 
 
 
=== 府兵制 ===
 
 
 
== 経済 ==
 
{{節スタブ}}
 
税制としては、隋は北朝以来の[[均田制]]を継承しながら[[租庸調|租庸調制]]を確立した。
 
 
 
== 文化 ==
 
{{節スタブ}}
 
 
 
=== 宗教 ===
 
 
 
== 国際関係 ==
 
{{節スタブ}}
 
 
 
=== 日本 ===
 
{{See also|遣隋使}}
 
[[ヤマト王権|ヤマト政権]]の[[推古天皇]]の摂政であった[[聖徳太子]]は遣隋使を5回以上派遣して隋の文化を輸入した。仏教意識が強く、『[[隋書]]』内の遣隋使の言葉の中で煬帝に対して「海西の[[菩薩]]天子」と呼びかけ、留学僧数十人を派遣している<ref name=":0" />。[[小野妹子]]が煬帝の家臣である[[裴世清]]を連れて帰国した。
 
 
 
=== 朝鮮半島 ===
 
 
 
=== 西域 ===
 
 
 
=== 突厥 ===
 
 
 
== 隋の皇帝一覧 ==
 
#[[楊堅|文帝]](楊堅、在位[[581年]] - [[604年]])
 
#[[煬帝]](楊広、在位604年 - [[618年]]) 文帝の子
 
#[[恭帝侑]](楊侑、在位[[617年]] - 618年) 煬帝の孫。李淵に擁立される。
 
#[[恭帝トウ|恭帝&#20375;]](楊&#20375;、在位618年 - [[619年]]) 煬帝の孫、楊侑の兄。王世充に擁立される。
 
#秦王[[楊浩]](在位618年) 煬帝の弟の秦孝王楊俊の子。宇文化及に擁立される
 
 
 
=== 皇帝略歴 ===
 
{{Col|
 
;文帝
 
*出生 - [[541年]]
 
*姓名 - [[楊堅]]
 
*父 - [[楊忠]]
 
*妻 - [[独孤伽羅]]
 
*子供 -
 
:男子5人
 
:女子1人([[北周]]の[[宣帝 (北周)|宣帝(宇文贇)]]の妃・[[楊麗華]])
 
*即位前の地位 - 北周の[[静帝]]の摂政
 
*即位 - [[581年]]
 
*没年 - [[604年]]
 
*陵墓 - 太陵([[陝西省]])
 
*諡号 - 文帝
 
|
 
;煬帝
 
*出生 - [[569年]]
 
*姓名 - [[楊広]]
 
*父 - 楊堅
 
*母 - 独孤皇后
 
*妻 - [[煬愍蕭皇后|蕭皇后]]([[後梁 (南朝)|後梁]]の出身)
 
*即位前の称号 - 太子
 
*即位 - [[604年]]
 
*没年 - [[618年]]
 
*諡号 - 煬帝
 
|
 
;恭帝
 
*出生 - [[611年]]頃
 
*姓名 - [[楊侑]]
 
*家系 - 楊広の孫
 
*即位 - [[617年]]
 
*没年 - [[619年]]
 
*諡号 - 恭帝
 
}}
 
 
 
== 系図 ==
 
{{familytree/start}}
 
{{familytree|border=1 | AAA | | | | | | | | |,| BBB | | | | |,| CCC |  AAA=[[楊禎]] |BBB=[[楊勇|廃太子房陵王勇]] |CCC=[[楊タン|燕王倓]]}}
 
{{familytree|border=1 | |}|-|-| DDD | | | | |!| | | |,| EEE |(| | | | DDD=[[楊忠|武元皇帝忠]] |EEE=[[楊昭|元徳太子昭]]}}
 
{{familytree|border=1 | FFF | | |}|-|v| GGG |(| HHH |!| | | |)| III | FFF=[[蓋氏]] |GGG=<sup>1</sup>'''[[楊堅|高祖文帝堅]]''' |HHH=[[煬愍蕭皇后|蕭皇后]] |III=<sup>(3)</sup>'''[[恭帝トウ|恭帝侗]](皇泰主)'''}}
 
{{familytree|border=1 | | | | | JJJ |!| | | |!| |}|-|^| KKK |!| | | | JJJ=武元皇后呂氏 |KKK=[[楊カン|斉王暕]]}}
 
{{familytree|border=1 | | | | | | | |)| LLL |)| MMM | | | | |`| NNN | LLL=[[楊整|蔡王整]] |MMM=<sup>2</sup>'''[[煬帝|世祖煬帝広]]''' |NNN=<sup>3</sup>'''[[恭帝侑]]'''}}
 
{{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | |!| |}|-|-| OOO | | | | | OOO=[[楊杲|趙王杲]]}}
 
{{familytree|border=1 | | | | | | | |)| PPP |!| QQQ | | | | | | | | | PPP=[[楊サン|滕王瓚]] |QQQ=[[蕭嬪]]}}
 
{{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree|border=1 | | | | | | | |)| RRR |)| SSS | | | | | | | | | RRR=[[楊嵩|道王嵩]] |SSS=[[楊俊|秦王俊]]}}
 
{{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree|border=1 | | | | | | | |`| TTT |)| UUU | | | | | | | | | TTT=[[楊爽|衛王爽]] |UUU=[[楊秀]]}}
 
{{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |`| VVV | | | | | | | | | VVV=[[楊諒]]}}
 
{{familytree/end}}
 
 
 
== 年号 ==
 
#[[開皇]]([[581年]] - [[600年]])
 
#[[仁寿 (隋)|仁寿]]([[601年]] - [[604年]])
 
#[[大業]]([[605年]] - [[618年]])
 
#[[義寧]]([[617年]] - 618年)
 
#[[皇泰]](618年 - [[619年]]
 
  
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中国,古代の王朝 (581~618) 。本来は「随」であったが,宋代以降「隋」の字が用いられる。漢帝国の崩壊後約 400年続いた分裂を克服して再び中国に統一をもたらし,唐朝の前駆となった。帝室楊氏は[[鮮卑]]風に染まった漢人武将の家柄の出で,[[北周]]の外戚となって実権を握り,楊堅 ([[文帝]]) が北周の幼主を廃して新王朝を建てた。楊堅は開皇律令を施行して国制を整備し,六朝伝来の門閥制を打破し,中央集権の強化につとめた。郡の廃止や冗官の整理,[[中正]]をやめて科挙制を推進し,地方属官の辟召 (へきしょう) を流外官以下に制限して中央吏部の人事権を強化するなど,いずれもその目的のための施策であり,他面では[[均田制]]や食糧蓄積により民生安定をはかり,南北に通じる[[大運河]]を開いて華北と華中を経済的に連結させた。こうして国力は充実し,衰弱していた南朝の陳を滅ぼして統一を完成 (589) ,さらに突厥,[[吐谷渾]] (とよくこん) などを破って勢威を増し,内には礼制を整え,仏教を奨励して精神的統一を試みた。しかし2代目[[煬帝]] (ようだい) の対外膨張策が高句麗遠征の大失敗を招いて破綻をきたし,全国に反乱が起き,滅亡した。
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== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
<references/>
 
== 参考文献 ==
 
* 『[[隋書]]』
 
* [[川本芳昭]]『中国の歴史05、中華の崩壊と拡大。魏晋南北朝』([[講談社]]、[[2005年]][[2月]])
 
* [[駒田信二]]ほか『新十八史略4』([[河出書房]]新社、[[1997年]][[7月]])
 
* [[谷川道雄]] 『世界帝国の形成』新書東洋史2 中国の歴史2、講談社〈講談社現代新書〉452 1977年
 
* [[布目潮フウ|布目潮渢]]・[[栗原益男]] 『隋唐帝国』 講談社〈講談社学術文庫〉1997年
 
* 『世界史大系 中国史2 三国〜唐』 山川出版社、1996年 ISBN 4-634-46160-9
 
* [[礪波護]] 『隋唐帝国と古代朝鮮』 中央公論社、1997年 ISBN 4-12-403406-7
 
* [[金子修一]] 『隋唐の国際秩序と東アジア』 名著刊行会 2001年
 
* [[氣賀澤保規]] 『絢爛たる世界帝国 : 隋唐時代』(『中国の歴史』06)講談社 2005年、ISBN 4-06-274056-7
 
* [[外山軍治]]「中国文明の歴史〈5〉隋唐世界帝国 (中公文庫)」(中央公論新社、2000年) ISBN 978-4122036727
 
* 稲畑耕一郎監修「図説中国文明史6」(創元社 、2006年) ISBN 978-4422202570
 
* [[宮崎市定]]「大唐帝国―中国の中世 (中公文庫)」(中央公論社、1998年) ISBN 978-4122015463
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[隋書]]
 
* [[遣隋使]]
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Sui Dynasty}}
 
*[http://www.geocities.jp/mapqin/06/581.html 隋代形勢図 (581年)]
 
*[http://www.geocities.jp/mapqin/06/590.html 隋代形勢図 (590年)]
 
*[http://www.geocities.jp/nafricap/07/605.html 隋代形勢図 (605年)]
 
  
 
{{先代次代|[[中国の歴史]]||[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]|[[唐]]}}
 
{{先代次代|[[中国の歴史]]||[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]|[[唐]]}}
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:すい}}
 
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[[Category:隋朝|*]]
 
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[[Category:中国の王朝]]
 
[[Category:中国の王朝]]

2018/10/5/ (金) 22:33時点における最新版

呉音: ずい、漢音: すい、拼音: Suí581年 - 618年[1]

中国,古代の王朝 (581~618) 。本来は「随」であったが,宋代以降「隋」の字が用いられる。漢帝国の崩壊後約 400年続いた分裂を克服して再び中国に統一をもたらし,唐朝の前駆となった。帝室楊氏は鮮卑風に染まった漢人武将の家柄の出で,北周の外戚となって実権を握り,楊堅 (文帝) が北周の幼主を廃して新王朝を建てた。楊堅は開皇律令を施行して国制を整備し,六朝伝来の門閥制を打破し,中央集権の強化につとめた。郡の廃止や冗官の整理,中正をやめて科挙制を推進し,地方属官の辟召 (へきしょう) を流外官以下に制限して中央吏部の人事権を強化するなど,いずれもその目的のための施策であり,他面では均田制や食糧蓄積により民生安定をはかり,南北に通じる大運河を開いて華北と華中を経済的に連結させた。こうして国力は充実し,衰弱していた南朝の陳を滅ぼして統一を完成 (589) ,さらに突厥,吐谷渾 (とよくこん) などを破って勢威を増し,内には礼制を整え,仏教を奨励して精神的統一を試みた。しかし2代目煬帝 (ようだい) の対外膨張策が高句麗遠征の大失敗を招いて破綻をきたし,全国に反乱が起き,滅亡した。

脚注

  1. 宮崎市定は「隋代史雑考」(中公文庫版『隋の煬帝』所収)において、隋は恭帝侗が帝位を奪われる619年まで存続していると説いた。しかし、唐の編纂した正史である『隋書』等では、618年に恭帝侑が唐に禅譲した時点をもって隋が滅んだものとしており、また『隋唐帝国』(布目潮渢、栗原益男著)では煬帝が暗殺されたことをもって隋が滅んだものとしている。本項ではより一般的と考えられる618年を滅亡年としている。
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