阿衡事件

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阿衡事件(あこうじけん)は、平安時代前期に藤原基経宇多天皇の間で起こった政治紛争である。阿衡の紛議とも呼ばれる。

経緯

887年仁和3年)11月21日、藤原基経の推薦により臣籍から皇太子、次いで天皇に即位した宇多天皇は、その即位に際して、基経を関白に任じる詔勅を出した。基経は先例により一旦辞退する[1]。天皇は左大弁橘広相に命じて二度目の詔勅を出した。その詔勅に「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」との一文があった。阿衡は中国の代の賢臣伊尹が任じられた官であり、この故事を橘広相は引用したのである。これを文章博士藤原佐世が「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げたことにより大問題となる。基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。心痛した天皇は基経に丁重に了解を求めるが、確執は解けなかった。

藤原佐世が基経にこうした騒ぎの種になるようなことを言ったのは、橘広相の出世を妬んだためとする説もある。

888年(仁和4年)4月、天皇は左大臣源融に命じて博士らに阿衡に職掌がないか研究させた。藤原基経の威を恐れた博士らの見解は佐世と同じであった。広相はこれに反駁するが、6月、天皇は先の詔勅を取り消して、広相を罷免した。天皇は無念の思いを日記に記している。

基経は執拗になおも広相を遠流(おんる。島流し等の追放刑)に処すよう求める。広相の無実を知る天皇は窮するが、讃岐守菅原道真がこれ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない旨の書を基経に送り、基経が怒りを収めたことにより、ようやく事件は終息した。この事件により基経は藤原氏の権力の強さを世に知らしめ、天皇が事実上の傀儡であったことが証明された。

矛盾点

ところが、『日本三代実録元慶8年(884年)7月8日条によれば、同年6月7日に光孝天皇から政務の要請をされた際に、一旦これを辞退した際の藤原基経の返答に「如何、責阿衡、以忍労力疾、役冢宰以侵暑冒寒乎(果たして暑さや寒さに関係なく一生懸命に職務を行なうとしても、阿衡の責任を全うできるかどうか、私にはわかりません)」という語句を含めている。問題の「阿衡」という言葉を基経自身が用いたこととなり、基経が本当に元の意味を知らなかったのか疑問が持たれるところである。また、『政事要略』巻30に採録された『宇多天皇御記』仁和4年6月2日条には天皇が以前「卿従前代猶摂政焉、至朕身親如父子、宜摂政耳(そなたは前代[光孝天皇の代]から摂政です。だから親しいことは父と子に対する如く、子に当たる私にも摂政であって下さい)」と基経に伝えたことに対して基経が「謹奉命旨必能奉(謹んでご命令を承ります。必ず天皇の御意に従い奉ります)」と返答しているのに裏切られたと憤慨する記述が残されている。

佐々木宗雄[2]は、基経の本心は「阿衡」という言葉の正否よりも、光孝天皇の時に彼に与えられていた政務の全面委任(王権代行の権限)の授与を示す言葉が宇多天皇2度の詔には明記されなかったために、天皇が自己の政治権限の削除を図っているとの反感を抱いて、光孝天皇の時と同等の権限を求めたのではないかという説を立てている。

補足

なお884年の光孝天皇から藤原基経への政務の要請を関白の開始とする説があるが、「関白」という言葉は宇多天皇が出した887年の詔が初出であって、太政大臣あるいは摂政としての継続の意味であった可能性もある。

注・出典

  1. 天皇により高級官僚に任じられた者は一旦形式的にその着任を辞退し、その後天皇が改めて任じ、受諾する慣例があった。

関連文献

  • 坂本太郎『菅原道真』
  • 萩野由之「阿衡問題と菅公左遷」
  • 弥永貞三「阿衡の紛議」
  • 佐々木宗雄「摂政制・関白制の成立」『平安時代国制史研究』