藤原基経

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ふじわらのもとつね

[生] 承和3(836).京都
[没] 寛平3(891).1.13. 京都

平安時代前期の廷臣。長良の子。母は光孝天皇の外祖父藤原綱継の娘乙春。叔父良房の養子となり宗家を継いだ。仁寿1 (851) 年文徳天皇の親臨を得て加冠し,翌年蔵人。その後,左兵衛少尉,侍従,左兵衛佐,少納言,左近衛少将,蔵人頭,播磨介,左近衛中将などを経て貞観6 (864) 年参議。同8年応天門の変に際しては良房とはかって大伴氏,紀氏の勢力をそぎ,藤原氏政権の基礎を築いた。同年中納言,同 10年左大将,同 11年按察使,同 12年大納言,同 14年右大臣。同 18年幼帝陽成天皇の践祚とともに摂政,元慶4 (880) 年関白,太政大臣。同7年頃からは天皇と不和となって出仕せず,翌年陽成天皇を廃し,時康親王を立てて光孝天皇とした。しかし,天皇は基経をはばかって皇太子を定めないまま仁和3 (887) 年に崩じたので次代宇多天皇も基経の意思によって嗣立された。即位の直後,関白の詔を受けたが,その辞句を口実としていわゆる阿衡事件を生み,ついに詔書を改作させて,天皇に対する発言力を絶対化した。寛平2 (890) 年病にかかって関白を辞した。死後正一位を贈られ越前国に封じられた。諡,昭宣公。撰修に『日本文徳天皇実録』がある。