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'''芸予諸島'''(げいよしょとう)は、[[日本]]の[[瀬戸内海]]西部に位置する諸島。[[広島県]]と[[愛媛県]]に属しているため、両県の[[旧国名]]である[[安芸国|安'''芸'''国]]と[[伊予国|伊'''予'''国]]から一文字ずつ取ってこう呼ばれている。
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'''芸予諸島'''(げいよしょとう)
  
== 概要 ==
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瀬戸内海の中西部,広島県と愛媛県にはさまれた島群。東端はおよそ鞆-今治を結ぶ線,西端は能美・倉橋島で限られる。因島,生口島,大三島,大崎上島などが主でミカンなど柑橘類の栽培が盛ん。本州四国連絡橋 (尾道-今治ルート) の一部,因島大橋,生口橋,大三島橋が完成し西瀬戸自動車道が通り,いくつかの島が陸路で結ばれて島の隔絶性は少くなった。
芸予諸島は広島県本土([[本州]])と愛媛県本土([[四国]])の間に位置する。広島県(旧[[備後国]]を含む)呉市から東の島すべてと、[[愛媛県]]旧[[越智郡]]島嶼部および若干の付属島嶼、大小数百の[[島]]から成る<ref name="kotobank">{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/芸予諸島-59188|title=芸予諸島|publisher=コトバンク|accessdate=2016-08-01}}</ref>。目安としては、東端が広島県福山市[[鞆の浦]]と愛媛県[[今治市]]を結ぶ線、西端が[[能美島]]・[[倉橋島]]までで狭義においては[[広島湾]]内は含まない<ref name="kotobank" />。西に[[防予諸島]]、東に[[笠岡諸島]]がある。かつては下蒲刈島から大崎上島・大三島の周辺のみの狭いエリアを芸予諸島と呼ぶことがあった<ref name="kotobank" />。また、芸備群島の一部と備後群島・走島群島は厳密に言えば旧[[備後国]]に属しており、かつてはこれを含めない場合があった。
 
  
[[市町村合併|平成の大合併]]の結果、芸予諸島の島々からなる市町村の多くは、本州・四国本土を中心とする広島県[[呉市]]・[[尾道市]]、愛媛県[[今治市]]などに組み込まれた。現在、芸予諸島に[[市役所]]・[[町役所・村役所]]を置く自治体には[[江田島市]]・[[大崎上島町]]・[[上島町]]がある。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
芸予諸島をより細かく分ける場合、西側から[[安芸群島]](江田島周辺のみ)・[[蒲刈群島]]・[[下大崎群島]]・[[上大崎群島]]・[[関前諸島]]・[[来島群島]]・[[越智諸島]]・[[芸備群島]]・[[上島諸島]]・[[備後群島]]・[[走島群島]]とする。
 
 
 
有人島は約50島、人口は合計約17万人。能美島・因島・向島・倉橋島の広島県4島の人口が比較的大きく、いずれも1万人を超えている。他5000人を超えている島として、広島県大崎上島・生口島、愛媛県大島・伯方島・大三島の5島がある。[[2010年]]の[[国勢調査]]によれば[[向島 (広島県)|向島]]([[尾道市]]市街)・[[因島]]に[[人口集中地区]]が存在している<ref>[http://www.stat.go.jp/data/chiri/gis/did.htm http://www.stat.go.jp/data/chiri/gis/did.htm]{{dead link|date=September 2017}}</ref>。ほとんどの島で本土より早いペースで[[過疎化]]・[[高齢化]]が進行している。
 
 
 
== 自然環境 ==
 
[[ファイル:芸予諸島.png|900px|center|thumb|芸予諸島の全体図。これには広島湾の島々も書かれているが、能美島(江田島)・倉橋島の西および北側の島々は芸予諸島には含まれない<ref name="kotobank" />。]]
 
芸予諸島に非常に多くの島が密集していることで、芸備地方の歴史の在り方に種々の影響を及ぼしてきた<ref name="hamada"/>。
 
 
 
瀬戸内海は地形の複雑さと干満の差の激しさが流れの速い[[潮]]を生み出した。[[大正時代]]の[[物理学者]]・[[文学者]]である[[寺田寅彦]]は、「広い[[灘]]と灘を連絡する[[海峡]]の両側の海面の高さが時刻によって著しく違うところが出来ます。そうすると水面の高い方から低い方へ海の水が盛んに流れ込むので強い潮の流れができます」(『寺田寅彦全集 第六巻』、[[岩波書店]]、1997年)と記した<ref name="hamada"/>。なかでも、四国と[[大島 (愛媛県今治市)|大島]]とに挟まれた[[来島海峡]]はちょうど瀬戸内海の中心に位置し海峡幅も広いため現在では国際航路として様々な船が航行しているが、古くは「一に来島、二に[[鳴門海峡|鳴門]]、三と下って[[関門海峡|馬関瀬戸]]」と唄われるように潮の流れが速く瀬戸内海有数の難所であった<ref>{{Cite web|publisher=しまなみ|url=http://www.imabari-shimanami.jp/kurushima/highlight.html|title=来島海峡のみどころ|accessdate=2016-08-01}}</ref>。こうした地形を巧みな操船技術を持つ者が支配権を握るようになる<ref name="hamada"/>。
 
 
 
元々陸地として繋がっていたものを、航路として用いるため開削したところも存在する。例えば、呉市本土と倉橋島の海峡である[[音戸の瀬戸]]には[[日宋貿易]]の航路として用いるため[[平清盛]]が沈む夕日を扇で招いて1日で開削したとの伝承「日招き伝説」が残る(実際に掘削したかは不明)<ref>{{Cite web|publisher=呉オープンカレッジネットワーク会議|url=http://www.kure-opencollege.jp/Material/Chiiki/2005/4.pdf|format=PDF|title=音戸瀬戸平清盛開削伝説に関する学際的研究とその地域教材化|accessdate=2016-08-26}}</ref>。
 
 
 
地形的特徴としては、どの島も平野部が狭く急峻な山あるいは丘陵地で占められている<ref name="i-manabi92">{{Cite web|publisher=愛媛県生涯学習センター|url=http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/1/view/92|title=(2)自給型農業から商品作物農業へ|accessdate=2016-08-27}}</ref>。芸予諸島最高峰は生口島の観音山で標高472.3m <ref>{{cite web|url=http://www.go-shimanami.jp/spot/?a=86|title=国立公園観音山|publisher=しまなみ海道観光マップ|accessdate=2016-08-27}}</ref>。
 
 
 
気候は[[瀬戸内海式気候]]である。丘陵地で温暖な気候を活かした農業が展開されている。
 
 
 
植生で特徴的なのは、ほぼ[[広葉樹]]による[[代償植生]]で占められている点である。これはこの地で古くから製塩業が盛んで、製塩の際に熱源を必要としたことから燃料用に大量に木々が伐採されたことにより[[はげ山]]となり、そこで繁殖力旺盛な[[アカマツ]]が植えられていったことによる<ref name="hamada"/>。
 
 
 
[[イノシシ]]が生息しており、海を泳いで島から島へ渡る様子が住民たちによって度々目撃されている。芸予諸島では、[[ドングリ]]が少なく田畑が休む冬場でも、柑橘類が豊富でイノシシが餌に困ることがない。近年では皮を剥いて食べた痕跡も発見されている<ref>{{cite web|url=http://0845.boo.jp/times/archives/971|title=イノシシ急増被害深刻【2】海を泳ぐ事情と犬嫌い|accessdate=2016-07-11}}</ref>
 
 
 
半無人島の[[上島町]][[赤穂根島]]では、[[タヌキ]]・[[ハツカネズミ]]などの[[哺乳類]]、[[イシガメ]]・[[クサガメ]]・[[ニホンヤモリ]]・[[ニホントカゲ]]などの[[爬虫類]]、[[モツゴ]]・[[ドジョウ]]・[[メダカ]]などの[[淡水魚]]などが調査によって見つかっている。このうち、ドジョウは愛媛県で[[準絶滅危惧種]]となっているが、水田の整備が進んでいないため赤穂根島では豊富に生息している。またモツゴは人の手によって導入された。<ref>[https://www.i-kahaku.jp/research/bulletin/12/kagaku04.pdf 愛媛県越智郡上島町 赤穂根島総合生物調査]</ref>
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 先史時代 ===
 
[[縄文時代]]における芸予諸島の遺跡は海岸に集中している。製塩や海上交通とのかかわりも指摘されている<ref name="ehime">{{Cite web|url= http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/26/view/3603|title=わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~|accessdate=2016-11-04}}</ref>。
 
 
 
芸予諸島の島々は平野部が狭く、温暖小雨であることから古くから[[製塩]]が盛んであった。古くは小型の土器に海水・海藻を入れ煮沸させて製塩しており、芸予諸島近辺では椋の原清水遺跡(松山市)から出土した3世紀末[[弥生時代]]中期末の製塩土器が最古のものになる<ref name="harc">{{cite web|url=http://www.harc.or.jp/iseki/f13/p03.htm|title=広島県の土器製塩 |publisher=広島県教育事業団事務局 |accessdate=2016-08-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/26/view/3603|title=芸予諸島の古代製塩 |publisher=愛媛県生涯学習センター |accessdate=2016-08-23}}</ref>。製法が発明あるいは伝達したルートは不明であり、一説では[[岡山県]][[児島地域]]から山陽側を伝わり芸予諸島の島々に広がっていったとしている<ref name="harc" />。
 
 
 
芸予諸島で最も古い製塩土器は、馬島のハゼヶ浦遺跡と亀ヶ浦遺跡から出土したもので、時期は弥生時代末頃(3世紀末)。伯方島の袈裟丸遺跡からは、4世紀末頃の製塩土器が出土している。この後、伯方島では、少なくとも7世紀初め頃まで製塩が続けられた。また、豊島・津波島など、今では無人島の状態に近いような島からも製塩土器が出ている。このような小さな島にも弥生時代以来人が住み、製塩が行われていたことを意味する<ref name="ehime"/>。
 
 
 
芸予諸島とその周辺沿岸部地域では、弥生時代の製塩遺跡数は少ないが、古墳時代前半(4世紀頃)になると、数多く出土している。古墳時代後半(6世紀後半)になると、従来とは比較にならない程の最大規模の生産が行われた。塩は地元やその近辺のみならず、新たに成立した[[ヤマト王権]]の関与の元、[[近畿地方]]にも運ばれたと考えられている。この時期は、[[和歌山県]]・[[大阪府]]の沿岸部などの近畿地方周辺部では、土器製塩が衰え、それまで頼っていた[[福井県]]・[[兵庫県]]の生産量でも足らず、瀬戸内中部地域からのも潮がもたらされた<ref name="hiroshima">{{Cite web|url= http://www.harc.or.jp/iseki/f13/p03.htm|title=ひろしまの遺跡|accessdate=2016-11-04}}</ref><ref name="harc"/>。[[藤原京]]・[[平城京]]跡などから出土した木簡には、塩に関係するものが多い。考古学的な証拠はないが、伊予製の塩も運ばれていたと思われる<ref name="ehime"/>。
 
 
 
なお、[[庄原市]]・[[三次市]]・[[東広島市]]など、海から離れた内陸部から製塩土器が見つかることもあるため、製塩土器は塩の運搬容器にも使われたとみられている<ref name="hiroshima"/>。
 
 
 
'''芸予諸島(広島県側)の主な遺跡'''<ref name="hiroshima"/>
 
* 宇治島 - 宇治島北の浜遺跡
 
* 小細島 - 小細島I遺跡、小細島II遺跡、小細島III遺跡
 
* 宿祢島 - 宿祢島遺跡
 
* 佐木島 - 須波遺跡、佐木島東遺跡
 
* 小佐木島 - 北浦遺跡、清水谷遺跡、西谷遺跡
 
* 生野島 - 小馬取遺跡、大馬取遺跡、榎迫遺跡、観音浦遺跡、月の浦3号遺跡、かんね1号遺跡、かんね2号遺跡、七谷遺跡、福浦2号遺跡、草の浦1号遺跡、大がね遺跡
 
* 臼島 - 臼島牛ヶ首遺跡
 
* 折免島 - 折免島南遺跡
 
* 長島 - 長島布浦遺跡
 
* 向島 - 古江波貝塚
 
* 大崎上島 - 長松遺跡、瀬井遺跡
 
* 因島 - 大浜広畠遺跡
 
* 細島 - 細島I遺跡、細島II遺跡
 
* 上蒲刈島 - 沖浦遺跡
 
* 斎島遺跡 - 豊田郡豊浜町斎島
 
 
 
=== 神話 ===
 
{{節スタブ|イキチシマヒメ伝説、神武天皇の神武東征、神功皇后による三韓征伐、など}}
 
 
 
=== 大山祇神社と河野氏 ===
 
[[ファイル:Ōyamazumi-jinja keidai.JPG|200px|right|thumb|大山祇神社]]
 
芸予諸島のほぼ中央である大三島には、[[オオヤマツミ|大山積神]]を祭神とする[[一宮|一の宮]][[大山祇神社]]が鎮座する。島は古くは「御島」と言われていた<ref name="NDLDC963633">{{Cite book|和書|author=赤尾政雄|publisher=以文会|title=大三島と大山祇神社 |url ={{NDLDC|963633}}|date =1921|accessdate =2016-08-24}}</ref>。神社は[[宝亀]]9年(778年)[[光仁天皇]]が勧請したものとされ、水の神・山の神・海の神として、そこから航海の神・戦いの神・農耕の神・漁業の神・酒造の神などとして、歴代の朝廷や芸予諸島周辺の信仰の対象であった<ref name="NDLDC963633" /><ref>{{cite web|url=http://www.ooyamazumi.net/rekishi.html|title=大山祇神社について|publisher=大山祇神社 |accessdate=2016-08-24}}</ref>。
 
 
 
大宮司は代々[[越智氏]]、そして越智氏を出自とする[[大祝氏]]が務めた。彼らが後に[[三島水軍]]となる<ref name="NDLDC963633" />。そして越智氏を出自として[[河野氏]]が生まれ河野水軍が編成され、瀬戸内海の広い範囲を支配した<ref name="NDLDC963633" />。[[平安時代]]末期の[[治承・寿永の乱|源平合戦]]で[[源氏]]方に呼応し、[[壇ノ浦の戦い]]では150艘もの水軍を編成し勝利に導いた<ref name="1sho" />。鎌倉時代の[[元寇]]の役では[[河野通有]]が水軍勢として活躍した<ref name="1sho" />。大山祇神社の社宝として剣・甲冑・弓箭具などの武器武具類の多いのは、神社を氏神とした河野氏が奉納したことによる<ref name="NDLDC963633" />。後述の村上水軍(海賊)も形式上は河野氏配下になる。
 
 
 
大山祇神社領は三島領七島と呼ばれ、室町時代前期時点で生奈島(現在の生名島)・岩城島・大三島・大下島・岡村島・御手洗島(あるいは下島・現在の大崎下島)・豊島で構成されていた<ref name="kennkyuuhoukoku3">{{Cite journal|和書|author1=山口佳巳|publisher=広島大学総合博物館|journal=広島大学総合博物館研究報告 -(3)|url=http://home.hiroshima-u.ac.jp/museum/siryou-data/kennkyuuhoukoku3/13%20data%20yamaguchi(135-156).pdf|format=PDF|title=広島県呉市大崎下島大長の宇津神社棟札|date=2011|accessdate=2016-09-16}}</ref>。つまり現在の広島県側である大崎下島・豊島・斎島は、中世においては伊予国側であった。
 
 
 
=== 水軍の勢力争い ===
 
[[ファイル:Gthumb.svg|200px|right|thumb|村上水軍の総領家で能島殿と呼ばれた[[村上武吉]]。]]
 
[[ファイル:Tsuruhime.jpg|200px|right|thumb|三島水軍(大祝氏)の[[鶴姫 (大三島)|鶴姫]]。大内氏との争いの中で生まれた伝承上の人物とされている。]]
 
[[ファイル:Kobayakawa Takakage (Beisanji Mihara).jpg|200px|right|thumb|小早川水軍、後の[[毛利水軍]]を指揮した[[小早川隆景]]。]]
 
[[律令国家]]は陸路を重視し、[[大宰府]]から[[都]]につながる[[大宰府道]]・[[山陽道]]を交通の中心としたが、平安時代以降は、[[平安京]]で消費される米・塩など重量の重い物資を輸送力の高い海運に頼るようになり、波が穏やかで大きな[[潮汐差]]を船の推進力に利用できる瀬戸内海には多くの輸送船が往来するようになった。経済的な価値を高めた芸予諸島は、[[畿内]]の[[貴族]]・大寺社などによって荘園化が進められた。[[国司]]や[[荘園領主]]は[[徴税]]を強化することで、製塩や海産物資源を獲得し、住民の移動・流浪を抑えて定住化を図った。これに反発する海運従事者や異郷に流浪する人々などは各地で紛争を引き起こし、海賊を生む状況を作り出した<ref name="hamada"/>。
 
 
 
中世の荘園時代でも[[塩]]の生産が盛んで、[[室町時代]]には「[[備後]]」という名称で年9万石余が畿内に送られていた<ref>[[今谷明]]「米・塩・木材の道」、『週刊朝日百科日本の歴史』20、中世II-9([[琵琶湖]]と淀の水系)、5-263頁。</ref>。『[[万葉集]]』では「朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ…」と詠まれている<ref name="hamada">{{cite web|url=https://www.shidaikyo.or.jp/newspaper/online/2299/8_1.html|title=海・島が織りなす瀬戸内海の歴史 ~芸備地方を中心に~|accessdate=2016-07-11}}</ref>。[[応安]]4年(1371年)[[今川貞世]](了俊)の紀行文『[[道ゆきぶり]]』には向島を見て「しほやどもかすかにて、やきたつるけぶりのすえ物あはれなり。此島にしほやくたびに、一日二日のほどに必ず雨のふり待るといひならはしなり。(沿岸部で盛んだった製塩業では塩を焼くときの煙で雨を呼んでいた。)」と書かれている<ref>{{Cite web|publisher=海事都市尾道推進協議会|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/kaijitoshi/history/h02.pdf|format=PDF|title=海をめぐる歴史と文化 中世|accessdate=2016-08-23}}</ref>。
 
 
 
当時の海賊衆の様子がわかるものの一つに、[[室町時代]]に[[朝鮮通信使|朝鮮使節]]として来日した[[宋希璟]]の『[[老松堂日本行録]]』(1420年)がある。そこには、京都への往路、「[[三之瀬|鎌刈三の瀬]]」を通過する際の記事として、「かつてここで[[朝鮮通信使|朝鮮使]]が海賊に遭遇し、船中の[[礼物]]や食糧・衣服などを全部[[掠奪]]されたが使者以下は害を免れたこと、そこは[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]]の威光の届かない場所であるが、東より西に向かう船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊が害を及ぼさず、西より東に向かう船は西の海賊を乗せれば東の海賊が害を及ぼさないことになっているので、七[[貫|貫文]]出して東の海賊を乗せてきたこと」などを記している。このことから海賊衆が瀬戸内海各地に[[関所]]を設定して[[船舶]]から[[関銭]]を徴収したり、船舶に乗船して水先案内や警護の見返りに金銭を受け取っていたことが分かる<ref name="hamada"/>。
 
 
 
こうした海賊は時代が下ると組織だって行動し始め、水軍となっていった<ref name="1sho">{{cite web|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/madamada/setonaikai/suigun/1sho.html|title=あけぼのの伊予水軍|publisher=広島観光ナビ|accessdate=2016-08-19}}</ref>。そして[[戦国大名]]は彼らと対立、あるいは“警固衆”として味方に引き入れようと画策していった<ref name="co0000024749">{{cite web|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/info/0000024749.pdf|format=PDF|title=Ⅲ 水軍と城跡 |publisher=尾道市|accessdate=2016-08-19}}</ref>。
 
 
 
芸予諸島の海賊衆の中で最も有名なのが[[村上水軍]](村上海賊)である。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[南朝 (日本)|南朝方]]として活躍した[[村上義弘 (武将)|村上義弘]]が祖と伝えられ、この時代に[[東寺]][[弓削島]]荘の近海で活動を行っていたことが確認されている。彼らは形式上は河野氏配下であったが独自路線を歩み、芸予諸島において西瀬戸内海の海上交通・海上運輸における「独自の秩序」を作り上げ、瀬戸内海航路を縦横に遮る連繋をとることで活動を行っていたと考えられている<ref name="hamada"/>。伝承によればもともと同一の家から次の3つの一族に分立した<ref name="hamada"/>。
 
* [[能島]]村上氏 - 芸予諸島の[[大島]]-[[伯方島]]間の船折の瀬戸の真ん中にある[[能島城]]・[[大三島]]と[[伯方島]]間の屈曲の多い鼻栗の瀬戸にのぞむ[[甘崎城]]などを築いて活動した。[[能島城]]には[[居館]]・[[家臣屋敷]]・[[職人屋敷]]が、隣接する[[鵜島]]には[[造船所]]・[[船奉行屋敷]]・[[船大工屋敷]]などが存在した。
 
* [[来島]]村上氏 - [[高縄半島]]-[[大島]]間の[[来島瀬戸]]に[[来島]]・[[中渡島]]・[[武志島]]の砦を築く
 
* [[因島]]村上氏 - 因島南端にあり燧灘に対する基地となった長崎城、尾道水道への抑えとして築かれた青木城、島の中央の青陰城などを拠点に活動
 
[[宣教師]][[ルイス・フロイス]]は、村上水軍を“日本最大の海賊”と評した<ref name="nihon_isan36">{{Cite web|publisher=文化庁|url=http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/nihon_isan/pdf/nihon_isan36.pdf|format=PDF|title=“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-|accessdate=2016-08-05}}</ref>。
 
 
 
また南北朝時代、[[北朝 (日本)|北朝方]]として備後沼田(三原市)を拠点とした[[小早川氏]]が南下してくる<ref name="co0000024749" />。勢力を拡大した小早川氏はそれぞれの島で警固衆([[小早川水軍]])を編成すると、室町時代に前述の"備後"と呼ばれた塩の取引に絡んでいる<ref>{{cite web|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/info/0000014564.pdf|format=PDF|title=尾道の歴史と遺跡 近世編|publisher=尾道市教育委員会 |accessdate=2016-08-05}}</ref>。その[[庶家]]の一つ[[生口氏]]の拠点である瀬戸田(生口島)から出る"生口船"は室町幕府保護のもとで備後を運び、その取引量は文安2年(1445年)[[大輪田泊|兵庫湊]]([[神戸港]])海関の通行記録である『兵庫北関入船納帳』で瀬戸内海有数のものであったことがわかっている<ref>{{cite web|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/info/0000009790.pdf|format=PDF|title=尾道の歴史と遺跡 中世編 第1章 港町の成立と発展|publisher=尾道市教育委員会 |accessdate=2016-08-05}}</ref>。室町時代前期に伊予国であった大崎下島・豊島は室町後半ごろに小早川氏が掌握、ここから安芸国に属するようになった<ref name="kennkyuuhoukoku3" />。彼ら小早川一門はのちに安芸の戦国大名・[[毛利元就]]の傘下に入ることになる。
 
 
 
そして、西側は南北朝時代に倉橋島や蒲刈群島に移り住んだ[[多賀谷氏]](倉橋多賀谷氏・蒲刈多賀谷氏)が、現在の呉市中心部には呉衆とよばれる連合水軍がおり、戦国時代中期にはそれらは[[大内氏]]警固衆として活躍している<ref>{{cite web|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-206121100.html|title=広島県の文化財 - 丸子山城跡|publisher=大山祇神社 |accessdate=2016-08-24}}</ref>。
 
 
 
[[1551年]]、[[大内義隆]]に仕えていた[[陶晴賢]]は[[下剋上|主君を倒し]]、瀬戸内海上の交通・運輸ルートを掌握した。晴賢は海賊衆の秩序に介入し、海賊衆らの警固料徴収を禁止し、商人からの礼銭を独占しようとした。村上水軍はこれに反発し、晴賢と元就が衝突した[[1555年]]の[[厳島の戦い]]では、小早川氏を介して元就に味方した。村上水軍を味方につけた元就は厳島で4000人余の軍勢を率い、2万人の陶軍を破って瀬戸内海の交易路を掌握した。これ以降、毛利氏は中国地方の覇権を握ることになる<ref name="hamada"/>。
 
 
 
ただ、彼ら海賊衆は天正16年(1588年)[[豊臣秀吉]]の[[海賊停止令]]により、事実上解体されることになる。この中で「伊郡喜島(斎島)では海賊行為を禁止したにもかかわらず、まだ出没している」と名指しされており、伝承によると当時の島民は秀吉により虐殺されたという<ref>{{cite web|url=https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00240/contents/019.htm|title=瀬戸内を生きた人びと|publisher=日本観光振興協会 |accessdate=2016-08-27}}</ref>。
 
 
 
=== 交易路としての発展 ===
 
[[近世]]に入ると瀬戸内海一体では[[木綿帆]]が普及しており、水主の労働力の省力化と高速化を可能にする帆走専用の[[弁財船]]が発達し、ある程度の横風や逆風のなかでも帆走が可能になった。特に古くから造船業で栄えていた[[広島藩]][[倉橋島]]では「終日丁々戞々の音」絶えないほど盛んに船が造られ、全国各地から注文が殺到したといわれる<ref name="hamada"/>。
 
 
 
江戸幕府は各地に[[海駅]](海路における公認[[宿場]])を置き、芸予諸島内では[[三之瀬]]([[下蒲刈島]])と[[鞆の浦]]が整備された。江戸時代の[[1605年]]以後、将軍代替わりを慶賀して[[朝鮮王朝]]から[[朝鮮通信使]]が[[1811年]]まで計12回来日した。通信使は瀬戸内海を通り、芸予諸島で接待を受けた。特に三之瀬は評判がよく、通信使一行から「安芸蒲刈御馳走一番」と絶賛された。また、鞆の浦からながめた瀬戸内海の風景は「日東第一形勝」(日本一の景勝)と賞賛された<ref name="hamada"/>。
 
 
 
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大望月造船場.jpg|大崎上島にあった和船の造船場
 
Syoutou-en 2 Kamagari-shima Bansho.jpg|(復元)蒲刈島御番所
 
Yutakamachi-mitarai.jpg|御手洗の町並み
 
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{{Location map~|Japan |lat=34.17|long=132.86||marksize=10|position=bottom| label=御手洗}}
 
{{Location map~|Japan |lat=33.83 |long=132.11|marksize=10|mark = Yellow pog.svg|position=bottom| label=上関}}
 
{{Location map~|Japan |lat=33.98 |long=132.50|marksize=10|mark = Yellow pog.svg|position=left| label=津和地}}
 
{{Location map~|Japan |lat=34.07 |long=132.55|marksize=10|mark = Green pog.svg |position=top| label=鹿老渡}}
 
{{Location map~|Japan |lat=34.19 |long=132.68|marksize=10|mark = Green pog.svg |position=top| label=三之瀬}}
 
{{Location map~|Japan |lat=34.33 |long=132.99|marksize=10|mark = Green pog.svg |position=left| label=忠海}}
 
{{Location map~|Japan |lat=34.35 |long=133.17|marksize=10|mark = Green pog.svg}}<!-- 布刈瀬戸 -->
 
{{Location map~|Japan |lat=34.22 |long=133.05|marksize=10|position=top| label=鼻栗}}
 
{{Location map~|Japan |lat=34.26 |long=133.20|marksize=10|position=right| label=弓削}}
 
{{Location map~|Japan |lat=34.24 |long=133.14|marksize=10|position=bottom| label=岩城島}}
 
{{Location map~|Japan |lat=34.38 |long=133.38|marksize=10|mark = Yellow pog.svg|position=top| label=鞆}}
 
{{Location map~|Japan |lat=34.40 |long=133.20|marksize=10|mark = Green pog.svg|position=top| label=尾道}}
 
{{Location map~|Japan |lat=34.06 |long=132.99|marksize=10|mark = Green pog.svg|position=bottom| label=今治}}
 
{{Location map~|Japan |lat=33.86 |long=132.72|marksize=10|mark = Green pog.svg|position=bottom| label=三津浜}}
 
|caption=近世における主な地乗りおよび沖乗りの港<ref name="westjr1">{{Cite web|publisher=JR西日本|url=http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/04_vol_94/feature01.html|title=御手洗 -1|accessdate=2016-08-01}}</ref>。赤が沖乗り、緑が地乗り、黄が共通。
 
}}
 
[[17世紀]]後半[[寛文]]期頃、[[河村瑞賢]]によって[[東廻り航路]]・[[西廻り航路]]が整備され、[[東北地方]]・[[北陸地方]]の米穀などを[[江戸]]に運輸送する海上ルートが発達した。すでに西日本各地を水運でつないでいた瀬戸内海は、西廻り航路の整備によって、「天下の台所」[[大坂]]と、[[蝦夷地]]、東北・北陸・[[山陰地方]]を結ぶ物資輸送の大動脈となった。これによって島伝いに沖合を航行する「[[沖乗り]]」が発達し、[[御手洗 (呉市)|御手洗]]・木江(大崎上島)・鼻栗(大三島)・岩城・弓削など瀬戸内中央部の港町は成長を遂げた。芸予諸島には「[[風待ち]]」「[[潮待ち]]」の船が入港した。御手洗では船宿・商家・倉庫、船の発着場の雁木や船番所などもできて港町としての整備がはかられ、当初は、薪・水・燃料供給が中心であったが、18世紀以降は北国米を中心とする廻船間の仲介・中継的[[問屋]]商業も盛んになった<ref name="hamada"/>。
 
 
 
近世から近代にかけて塩作りはピークを迎える。江戸時代中期、西廻り航路が確立すると塩が大量に扱われ、瀬戸内海一帯は一大塩田地帯となった<ref name="co000009490">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000009490.pdf|format=PDF|title=第17回企画展示「尾道あ・ら・かると~塩と鉄~」 |accessdate=2016-08-23}}</ref>。商人たちによって島嶼沿岸部が塩田として整備され「浜旦那」と呼ばれた地主・経営者が誕生した<ref name="co000009490"/>。また本州・四国側においては、[[竹原]]塩田(広島藩)・松永塩田(備後福山藩)・[[多喜浜塩田]](西条藩)・波止浜塩田(伊予松山藩)が藩主導で整備され藩財政を潤し、近代に入ると[[専売制]]となり国が管理した<ref name="co000009490" /><ref>{{cite web|url=http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/31/view/4402|title=愛媛県の塩田 |publisher=愛媛県生涯学習センター |accessdate=2016-08-23}}</ref>。その伝統を受け継いで現在も残るのが「[[伯方の塩]]」である。
 
 
 
江戸時代後期、藩の影響力を超えて芸予の地域交流が盛んになり、安芸の[[忠海]]からは塩・[[綿実]]・[[煙草]]・[[菰俵]]・[[苧]]などの特産品が多く輸出され、[[伊予廻船]]を通じて伊予から[[干鰯]]([[肥料]])・[[炭]]・[[蝋]]・[[紙]]などが輸入された。この頃の芸予諸島は物流の発展により、全国的にみても[[貨幣経済]]の浸透度が高かったとされる<ref name="hamada"/>。
 
 
 
[[下見吉十郎]]によって[[サツマイモ]]栽培が導入されたのもこの頃である。
 
 
 
=== 近代化と新産業 ===
 
[[ファイル:Shikokumura32s5s3200.jpg|thumb|200px|三原瀬戸航路に設置された9つの灯台の一つ、[[大久野島灯台]]。現在は[[四国村]]に移設。]]
 
こうした繁栄は、[[明治時代]]以降[[機帆船]]の登場により風待ち潮待ちは必要がなくなり、そして鉄道の登場により物流も変わったため、港の存在意義はなくなり衰えていった<ref name="uminet">{{Cite web|publisher=瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会|url=http://www.uminet.jp/know/history/index.html|title=瀬戸内海の歴史|accessdate=2016-08-06}}</ref>。その様子は「まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほどであった<ref name="uminet"/>。
 
 
 
ただ、機帆船にとっても来島海峡は航行困難な海峡であった。航行速度の遅い船はそこを避けるように北側を大きく迂回する航路、大三島と大崎上島の間-三原沖-向島と因島の間を通る”三原瀬戸航路”が活用されるようになる<ref>{{Cite web|publisher=土木学会|url=http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/403|title=旧大浜埼船舶通航潮流信号所|accessdate=2016-08-06}}</ref>。そして航行困難な来島海峡と、航行は比較的容易ではあるが狭い航路幅に多くの船が航行した三原瀬戸航路では、船のトラブルが多発したためその周辺で近代的な造船所が出来ていくのである<ref>{{Cite journal|和書|author1=杉本誠起|publisher=岡山医学会|journal=岡山医学会雑誌 No.114|url=http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/metadata/13624|format=PDF|title=因島総合病院|date=2002-09-30|accessdate=2016-08-06}}</ref>。
 
 
 
丘陵地を活かし、さらに温暖な機構を活かして近代から取り組まれてたのが柑橘栽培である。愛媛では江戸時代終わりからミカンの栽培が始まり、現在では日本有数の産地となった<ref>{{Cite web|url=http://www.pref.ehime.jp/h35500/7757/documents/page1-4.pdf|format=PDF|title=愛媛県はなぜ日本有数のみかん産地か|publisher=愛媛県|accessdate=2016-08-06}}</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Tanacetum cinerariifolium in Shigei.JPG|thumb|200px|因島で観光用に栽培されている除虫菊]]
 
近代のみ栄えた農業の一つに除虫菊([[シロバナムシヨケギク]])栽培が挙げられる。外来種の除虫菊が日本に導入されたのが明治初期[[上山英一郎]]によって導入された<ref name="i-manabi92" /><ref name="hb870">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=870|title=因島の除虫菊(いんのしまのじょちゅうぎく)|accessdate=2016-08-24}}</ref>。大正になって普及が進み、第一次世界大戦によって輸入殺虫剤が途絶えると除虫菊の需要は高まった<ref>{{Cite journal|和書|author1=内山幸久|publisher=立正大学人文科学研究所|journal=立正大学人文科学研究所年報 No.5|url=http://repository.ris.ac.jp/dspace/handle/11266/2241|format=PDF|title=III 因島市における商品作物生産の特徴|date=1985|accessdate=2016-08-24}}</ref>。ただ戦後になると[[ピレスロイド|ピレトリン]]が化学合成されるようになったため作付は激減した<ref name="hb870"/>。
 
 
 
近代、芸予諸島では大勢の[[移民]]を輩出した。平野部がほぼ塩田で耕地が少なくその面積に対して農業人口が多かったこと、また江戸時代から[[出稼ぎ]]が多かったことも一因として挙げられる<ref name="hamada"/>。例えば、内海(福山市)の田島・横島の漁民は江戸時代から[[西海捕鯨]]に従事し、近代以降は漁業移民として[[マニラ湾]]へ進出したという<ref>{{Cite web|url=https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/miryoku/37253.html|title=≪インタビュー企画≫捕鯨文化が生んだ技術と組織産業の礎|publisher=福山市|accessdate=2016-08-06}}</ref>。そして明治29年(1896年)船舶職員法改正により、それまでの廻船船頭は近代船の船長として認められなくなったことから専門知識を学ぶ商船学校が設立されることになり<ref>{{Cite book|和書|author=望月圭介伝刊行会|publisher=羽田書店|title=望月圭介伝 |url ={{NDLDC|1908669}}|page=26|date =1945|accessdate =2016-08-12}}</ref>、これが現在[[弓削商船高等専門学校]]や[[広島商船高等専門学校]]などとして存続している。
 
 
 
一方で女性の仕事としては[[おちょろ舟]]があった。これは港に停泊する船に対して陸側から小舟で春を売りに行く遊女舟で、船員に対して夜の世話だけでなく家事などの身の回りの世話もしていた<ref name="nk_sp02_67">{{Cite journal|和書|author=布川弘|publisher=広島大学|url=http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/16019/20141016124425766532/nk_sp02_67.pdf|format=PDF|title=近世後期瀬戸内における「船後家」について|date=2006|accessdate=2016-08-26}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=岩波書店|url=https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0247020/top3.html|title=“瀬戸内の遊女と「おちょろ」”より|accessdate=2016-08-26}}</ref>。近世において沖乗りの港として大きく栄えた大崎下島の御手洗や、近代に石炭輸送の中継基地として栄えた大崎上島の木江が有名で、[[井伏鱒二]]『人と人影』など近代小説・紀行文などにも登場する。[[売春防止法]]以降廃止されているが、現在でも遊郭跡など当時のものが残っている。特に御手洗では、彼女たちを敬い大切に扱った痕跡が残っている<ref name="nk_sp02_67" />。
 
 
 
=== 近代の軍事拠点 ===
 
{{節スタブ|呉鎮守府、芸予要塞、大久野島、太平洋戦争末期の空襲のことなど}}
 
明治以降、芸予諸島にはいくつかの軍事拠点が置かれた。
 
* [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]] - 江田島。[[海上自衛隊幹部候補生学校]]の前身
 
* [[芸予要塞]]
 
 
 
[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])では、芸予諸島にも[[空襲]]が行われた。因島では、[[1945年]]3月19日と7月28日に[[アメリカ軍]]から空襲を受け、造船工場などが破壊され、数十人が犠牲となった([[因島空襲]])<ref>{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%A0%E5%B3%B6%E7%A9%BA%E8%A5%B2-881984|title=因島空襲|accessdate=2016-11-10}}</ref>。同年7月24日には、[[江田島湾]]奥に避難停泊していた[[重巡洋艦]]「[[利根]]」を[[アメリカ空軍]]の大編隊が襲撃し、乗組員や周囲島民から多くの死傷者が出た<ref>{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%A0%E5%B3%B6%E7%A9%BA%E8%A5%B2-881984|title=因島空襲|accessdate=2016-11-10}}</ref>。
 
 
 
=== 平成の大合併 ===
 
[[1990年代]]初頭に[[バブル崩壊]]が起きると財政がひっ迫した日本政府は、自治体の財政基盤を強化し、複雑化・多様化する行政サービスに対応できる人員を確保するために[[市町村合併]]を推し進めた。その結果、市町村数は3232(1999年3月)から1718(2014年4月)に再編された。愛媛県の市町村は同時期に70から20に減り、減少率は全国4位の71.4%だった<ref name="henkyo">{{Cite web|url=http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO012651/20150511-OYTAT50000.html|title=辺境の島の悲哀|accessdate=2017-03-19}}</ref>。
 
 
 
芸予諸島の市町村でも[[平成の大合併]]にともなって[[日本の市町村の廃置分合|廃置分合]]が行われた。芸予諸島に市町村役場を置いていた自治体の多くは、[[呉市]]や[[今治市]]など、本州・四国本土に市役所を置く自治体と合併した。一方、'''[[江田島市]]'''・'''[[大崎上島町]]'''など、芸予諸島に役場を置く形で合併が行われたケースもある<ref>{{Cite web|url=http://ksmdi.jpn.org/k8.html|title=中国・四国の市町村合併|accessdate=2016-09-12}}</ref>。
 
 
 
平成の大合併の当初、因島市の市長・[[村上和弘]]は、芸予諸島の中核都市「しまなみ市」(仮称)を模索しながら段階的に合併を進めて行く方針だった。まず、島同士ということから因島市の経済圏である愛媛県の上島4町村との[[広域行政]]を試みた。次に生口島などから成る[[瀬戸田町]]に対等の新設合併方式を申し入れた。瀬戸田町側は因島市と確執を抱えており、[[三原市]]との合併を模索した。しかし、町議会で反対が1票差で上回り、合併交渉は中断された。その後、[[住民投票]]の結果を受けて瀬戸田町と因島市の間で協議が行われたが、瀬戸田町議会の決議によって立ち消えになった<ref name="setouchi041106">{{Cite web|url=http://0845.boo.jp/times/archives/000960.shtml|title= 因島・瀬戸田の合併 待ったなしの選択肢 尾道圏域で仕切り直し|accessdate=2016-09-12}}</ref>。合併相手のいなくなった因島市と瀬戸田町に対して、尾道市が合併を持ち掛けた。財政難の両市町は尾道市の提案を受け入れ、それぞれ合併協議に入った。尾道市側としては、合併特例債がなければ因島市と瀬戸田町が[[財政再建団体]]に転落しかねず、広域行政の中核を担う自治体として看過できなかったとされる。一方で、因島の市民・経済界の間では、海事事務所(国の出先機関)移転など、合併によるデメリットに反発する声も聞かれた<ref name="setouchi041106"/>。
 
 
 
国の方針を受けた愛媛県庁は市町村合併を積極的に推し進め、2001年2月末に「愛媛県市町村合併推進要綱」を発表、県内70市町村を11に統合する「基本パターン」が示された。芸予諸島の一部を含む[[越智郡]]10町5村([[朝倉村]]・[[玉川町]]・[[波方町]]・[[大西町]]・[[菊間町]]・[[吉海町]]・[[宮窪町]]・[[伯方町]]・[[上浦町]]・[[大三島町]]・[[関前村]]・[[生名村]]・[[岩城村]]・[[弓削町]]・[[魚島村]])は今治市との合併が提案された。また、今治市と越智郡を3自治体に統合するという「参考パターン」も併せて発表された。これは、「今治市と越智郡陸地部(朝倉村・玉川町・波方町・大西町・菊間町)・関前村」「吉海町・宮窪町・伯方町・上浦町・大三島町」「上島地区(生名村・岩城村・弓削町・魚島村)」に再編されるという案である。これらの案は今治市と越智郡が歴史・文化・生活圏を共有し、今治を中心とした航路・道路が整備されていたことを考慮したものだった。2002年1月に今治市長[[繁信順一]]の呼びかけで「今治・越智郡合併問題検討首長会」が開催された。翌2月の第2回首長会で、今治より広島県(特に因島)との関わりが強い上島地区は、この1町3村で合併を目指すと表明した。残りの今治市と越智郡11町村は2002年8月に12市町村(多くはしまなみ海道で結ばれていた)による任意合併協議会を発足させた。一時住民アンケートの結果から菊間町が離脱し大西町・波方町との合併を独自に模索するなど紆余曲折を経て、2004年6月に合併協定調印式が行われた。全国最多となる12市町村の新設合併により、2005年1月に新今治市が誕生することが取り決められた。特異なことに新市長には、新市の人口の約65%を占める旧今治市からは候補者が擁立されず、周辺部([[大西町]]→大三島町)出身の前県議[[越智忍]]が就任した<ref>{{Cite web|url=http://ci.nii.ac.jp/els/110009656968.pdf?id=ART0010131241&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1489929022&cp=|title=愛媛県における市町村合併に対する住民評価② ――「周辺部編入型合併」――|accessdate=2017-03-19}}</ref>。
 
 
 
因島市や今治市との合併を選ばなかった[[上島諸島]]に対しては、[[愛媛県庁]]が「合併すれば弓削、生名、岩城の3島を結ぶ橋を架ける」と提示して、弓削町・生名村・岩城村・魚島村の合併を推し進めた。その結果、旧4町村からなる越智郡'''[[上島町]]'''が誕生した。合併協定調印式に出席した[[愛媛県知事]][[加戸守行]]は、4町村の合併は必要だが魚島村だけ明確なメリットがなかったと考え、式典に参加した町村長たちに「魚島への気配り」を求めた<ref name="henkyo"/>。
 
 
 
== 経済・産業 ==
 
主な産業は[[造船]]・[[観光]]・[[柑橘類]]栽培である。愛媛県であっても広島県への依存度は強く、全域が[[中国電力]]の電力[[送電]]網に属しており、[[中国新聞]]が購読できる。特に[[上島町]]は自動車で四国側に直接渡る手段がなく、一旦[[フェリー]]で広島県側に出て再度愛媛県に入る必要があるほか、[[水道水]]・[[医療]]・防災事業なども一部広島県に依存している。
 
 
 
=== 造船 ===
 
[[ファイル:JCG Takuyou HL02.jpg|200px|right|thumb|内海造船因島工場]]
 
古くから造船で栄えていた芸予諸島では、[[明治時代]]以降も日本造船業の一大拠点であった。造船業は波が激しく、戦争による[[特需]]とその反動が繰り返されていた。しかし、[[オイルショック]]が起きた[[1970年代]]以降は「構造的不況」によって造船業が衰退し、造船によって成り立っていた因島では不況により「'''島が沈む'''」とまで言われた。[[2000年代]]には、[[中華人民共和国|中国]]の経済成長によって造船の発注が増え、特需を迎えた<ref>{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000008091.pdf|format=PDF|title=第15回企画展示 てっぱん」・造船のまち尾道|accessdate=2017-07-14}}</ref>。
 
 
 
'''芸予諸島に造船所を置く主な企業'''
 
* [[内海造船]]
 
* [[ジャパン マリンユナイテッド]]
 
* [[三和ドック]]
 
* [[佐々木造船]]
 
* [[新来島宇品どっく]]
 
* [[向島ドック]]
 
* [[藤原造船所]]
 
* [[村上秀造船]]
 
* [[しまなみ造船]]
 
 
 
=== 農業 ===
 
[[蜜柑]]をはじめ、柑橘類の栽培が盛ん。急峻な山の頂上まで[[段々畑]]を築き、無人島に出向いて蜜柑畑を作る[[出作]]も行われている<ref>{{Cite web|url=http://www.ja-h-yutaka.or.jp/gaiyou.html|title=概要|accessdate=2017-07-14}}</ref>。[[ハッサク]]は、[[幕末]]に[[因島]]田熊町(旧[[因島市]])の[[浄土寺 (尾道市)|浄土寺]]で[[原木]]が発見された<ref>[http://island.geocities.jp/citrus_innoshima/ 因島柑橘史]</ref>。生口島と大崎下島では国産レモン([[広島レモン]])の栽培が盛んで、この2島だけで国内生産量のの50%以上を占めている<ref>{{cite web|url=http://web.archive.org/web/20150414024736/http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemon.html|title=瀬戸内 広島レモンとは|publisher=広島県|date=2012-11-29|accessdate=2016-08-24}}</ref>。
 
 
 
=== 観光 ===
 
芸予諸島の近海は「'''日本の[[エーゲ海]]'''」とも呼ばれ、多島からなる景観が高く評価されている。また、新鮮な[[魚]]や[[柑橘]]、[[郷土料理]]など、多くの[[観光資源]]を有している<ref>{{cite web|url=http://alkg.jp/contents/201509282017/38/138008/|title=
 
海の道 瀬戸内しまなみ海道|accessdate=2016-07-11}}</ref>
 
 
 
'''主な観光資源'''
 
[[File:Kurushimakaikyou ohashi01.jpg|thumb|right|しまなみ海道の一部、[[来島海峡大橋]]]]
 
* '''[[しまなみ海道]]'''(広島県尾道市-愛媛県今治市間、約70km) - サイクリングコースがある<ref name="agora">{{cite web|url=http://agora-web.jp/archives/1444672.html|title=広島で「おしい」のは、観光資源?いや、交通インフラでしょう|accessdate=2016-07-11}}</ref>
 
* '''[[契島]]''' - 島全体が工場となっている。[[廃墟]]である世界遺産「[[端島]]」と比較して「生きた[[軍艦島]]」と呼ばれる<ref name="chigiri">{{cite web|url=http://www.sankei.com/life/news/150927/lif1509270015-n1.html|title=【探訪】広島県・契島 雨にかすむ「生きた軍艦島」|accessdate=2016-07-11}}</ref>
 
* [[大久野島]] - '''[[ウサギ]]の楽園'''と言われる
 
* '''[[来島海峡]]''' - [[日本三大急潮]]の一つ
 
 
 
=== 海運 ===
 
愛媛県今治市の旧伯方町の島々では[[海運業]]が盛んであり、昔から地元造船所が船主に対して建造代金の分割払いを認める「'''愛媛方式'''」という[[商慣行]]によって、零細事業者が何隻もの船を持つ独特の経営が根付いている<ref>{{cite web|url=http://globe.asahi.com/movers_shakers/120115/01_01.html|title=日本海運支える「愛媛船主」 生き残りかけた正念場に|accessdate=2016-07-11}}</ref>
 
 
 
かつては本州・四国とその間の島々を結ぶ多数の[[旅客船]]・[[フェリー]][[航路]]が存在したが、過疎化・人口減少、架橋による陸路シフトの影響もあり、航路休廃止・減便等が続いている。
 
 
 
'''主なフェリー会社'''
 
{{Col-begin}}
 
{{Col-2}}
 
* [[大三島ブルーライン]]
 
* [[斎島汽船]]
 
* [[しまなみ海運]]
 
* [[山陽商船]]
 
* [[大崎汽船]]
 
* [[安芸津フェリー]]
 
* [[三光汽船]]
 
* [[斎島汽船]]
 
{{Col-2}}
 
* [[瀬戸内クルージング]]
 
* [[土生商船]]
 
* [[今治市営フェリー]]
 
* [[芸予汽船]]
 
* [[家老渡フェリー汽船]]
 
* [[尾道渡船]]
 
* [[歌戸運航]]
 
{{Col-end}}
 
 
 
=== 架橋 ===
 
広島県側は県の積極的な架橋により、[[大崎上島]]を除く大型の島は[[離島]]指定が解除されている。一方、愛媛県はしまなみ海道を除けば架橋が進んでいない。[[上島町]]や大下島などの離島が存在するほか、岡村島は四国ではなく本州に接続されている。
 
 
 
小さな島が密集していることから架橋が盛んな地域であり、本州と四国をつなぐ[[西瀬戸自動車道|瀬戸内しまなみ海道]]が[[向島 (広島県)|向島]]-[[因島]]-[[生口島]]-[[大三島]]-[[伯方島]]-[[見近島]]-[[大島 (愛媛県今治市)|大島]]-[[馬島 (愛媛県)|馬島]]を通る形で建設されている。また、[[下蒲刈島]]-[[上蒲刈島]]-[[豊島 (広島県)|豊島]]-[[大崎下島]]-[[平羅島]]-[[中ノ島]](以上広島県)-[[岡村島]](愛媛県)までは、[[安芸灘諸島連絡架橋]]の一部として愛称・[[安芸灘とびしま海道]]で連結している(全体構想としては[[大崎上島]]までのルート)。[[江田島]]・[[倉橋島]]なども本州と橋で繋がっている。
 
 
 
{{本州四国連絡橋尾道・今治ルート}}
 
{{安芸灘諸島連絡架橋}}
 
 
 
=== 本社 ===
 
芸予諸島に本社を置く企業
 
* 江田島 - [[江田島バス]]
 
* 倉橋島 - [[倉橋交通]]・[[榎酒造]]
 
* 下蒲刈島 - [[ひまわり交通]]
 
* 豊島 - [[斎島汽船]]
 
* 大崎上島 - [[佐々木造船]]
 
* 生口島 - [[内海造船]]
 
* 因島 - [[三光汽船]]・[[万田発酵]]・[[因の島ガス]]・[[因の島運輸]]・[[因島汽船]]・[[三和ドック]]・[[しまなみ海運]]・[[土生商船]]・[[家老渡フェリー汽船]]
 
* 向島 - [[向島ドック]]・[[尾道渡船]]・[[歌戸運航]]・[[丸善製薬]]
 
* 大三島 - [[藤原造船所]]・[[瀬戸内海交通]]
 
* 伯方島- [[村上秀造船]]・[[しまなみ造船]]・[[伯方塩業]]
 
 
 
=== その他 ===
 
芸予諸島の中には、一企業・団体が島全体を所有しているものがある。
 
* [[契島]]  : [[東邦亜鉛]]によって[[銀]]・[[銅]]・[[鉛]]が生成されている。特に鉛は日本全体の90%を生産しており、その大部分が[[自動車]]の[[バッテリー]]に使われる<ref name="chigiri"/>。
 
* [[三ツ子島 (広島県)|三ツ子島]] : [[三ツ子島埠頭]]によって工業塩が貯蔵されている。
 
* [[長島 (広島県)|長島]] : 元々は[[中国電力]][[大崎発電所]]。現在は中電と[[電源開発]]の共同出資で設立された大崎クールジェンによる石炭ガス化複合発電用の試験プラントが置かれている。
 
* ([[大久野島]]) : [[環境省]]所有の[[休暇村]]
 
 
 
== 文化 ==
 
[[ファイル:HYOTAN-SHIMA Island 1981.jpg|180px|right|thumb|瓢箪島の上空写真。上(北)が広島県、下(南)が愛媛県]]
 
江戸時代における朝鮮王国(朝鮮通信使)との交流によって、芸予諸島の人々は日本文化の独自性を認識するようになったとされる。また、経済的豊かさや[[上方文化]]をはじめ各地との交流によって芸予諸島の町人・民衆文化が隆盛した。『[[日本外史]]』を著した[[頼山陽]]は晩年に京都の自邸書斎を「[[山紫水明処]]」と名付けた。この「山紫水明」(山影は青紫に沈み、海面は乳白色に光り、刻一刻暮色を深める風景)は、瀬戸内海の素晴らしい景観を伝える表現と言われている。
 
 
 
広島・愛媛県境がある[[瓢箪島]]は[[日本放送協会|NHK]]の[[人形劇]]『[[ひょっこりひょうたん島]]』(1964年放送開始)のモデルとする見方もある<ref>{{cite web|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/www/info/detail.jsp?id=4386|title=瓢箪島が登録記念物に登録されます|publisher=尾道市|accessdate=2016-07-10}}</ref>
 
 
 
=== 日本遺産 ===
 
「'''“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる[[村上水軍|村上海賊]]“Murakami KAIZOKU”の記憶-'''」として[[2016年]]4月25日に[[日本遺産]]の第2期の19箇所の一つに認定された。全42項目のうち、[[今治市]]本土(7箇所)と[[尾道市]]本土(3箇所)と以下の島々の中の30箇所に対象がある<ref name="nihon_isan36" />。なお生口島([[生口氏]])や瓢箪島と村上氏とは直接関係ないものも含まれている。
 
* 今治側:大三島(3箇所)、古城島、伯方島、能島、見近島、大島(5箇所)、武志島・中渡島、来島、小島、怪島
 
* 尾道側:因島(8箇所)、向島(2箇所)、生口島(2箇所)、瓢箪島、百島
 
 
 
=== 姓 ===
 
{{節スタブ|村上、河野、越智などの水軍由来の姓について。分かれば人数、%などの数字も}}
 
大三島では、菅・藤原・越智・渡辺・浅野などの姓が多い。同島の中心市場である宮浦地区は、江戸時代初期には瀬戸内海各地から様々な商人たちが集まっていた。しかし、明治になるとこれらの姓の割合が8割を近くを占めており、宮浦地区の商人たちが土着化したことが伺える<ref>{{Cite web|url=http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/1/view/152|title=瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)|accessdate=2016-11-10}}</ref>。
 
 
 
=== 櫂伝馬 ===
 
[[櫂伝馬船]]とは、一般には[[櫂]]で漕ぐ[[伝馬船]]のことで、特に船神事での[[神幸祭|神輿渡御]]において[[御座船]]を曳航する船([[タグボート]])のことを言う<ref name="kaidenma">{{cite web|url=http://www.kaidenma.jp/kaidenma/index.html|title=櫂伝馬の由来|publisher=大崎上島櫂伝馬|accessdate=2016-09-01}}</ref>。ルーツは中世における水軍が用いた「小早」と呼ばれた行き足の早い船にあるという<ref name="kaidenma" />。
 
 
 
芸予諸島に点在する[[厳島神社]]分社あるいは[[住吉大社|住吉神社]]分社では、櫂伝馬を用いた例祭が行われていた。それが長じて地区ごとで櫂伝馬を走らせ競争する祭事、そして観光用の祭りとして発展した。ただ高齢化により漕ぎ手が不足したことから姿を消しているものもある<ref>{{cite web|url=http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20140602/news20140602493.html|title=「櫂伝馬」15年ぶり復活 今治・大三島|publisher=愛媛新聞|date=2014-06-02|accessdate=2016-09-01}}</ref>。以下、櫂伝馬の祭りを列挙する。
 
* 大三島 : [[三島水軍鶴姫祭り]]鶴姫レース、宗方八幡神社櫂伝馬
 
* 大崎上島 : [[大崎上島櫂伝馬競漕]]
 
* 因島 : [[因島水軍まつり]]海まつり
 
* 高根島・生口島 : [[ホーランエ (広島県)|ホーランエ]]
 
* 上蒲刈島 : 日高神社例祭
 
* 豊島 : 室原神社奴行列
 
 
 
== 各島の概要 ==
 
* 各島の詳細は各島の頁を参照
 
* 面積の単位は平方キロメートル
 
* 人口の単位は人([[2010年]][[国勢調査]])
 
* 芸予諸島に[[市役所]]・[[町役所・村役所]]を置く[[市町村]]は'''太字'''表記
 
 
 
=== 広島県 ===
 
{| class="sortable wikitable" style="border-collapse:collapse; font-size:90%;"
 
|-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;"
 
! 名称 !! 市町村 !! 架橋 !! 面積 !! 人口 !! 備考
 
|-
 
! {{Display none|おおくろかみ}}[[大黒神島]]
 
| rowspan="3"|{{Display none|えたしま}}'''[[江田島市]]''' ||  || 7.31 || 0 ||
 
|-
 
! {{Display none|おきの}}[[沖野島]]
 
| [[沖野島橋]] || 0.75 || 4 ||
 
|-
 
! {{Display none|のうみ}}[[能美島]]<br>([[江田島]])
 
| 沖野島橋・[[早瀬大橋]] || 91.53 || 27027 || かつては能美島と江田島に分かれていた
 
|-
 
! {{Display none|くらはし}}[[倉橋島]]
 
| rowspan="13"|{{Display none|くれ}}[[呉市]] || [[早瀬大橋]]・[[音戸大橋]]・<br>第二音戸大橋・堀切橋・<br>鹿島大橋 || 69.59 || 18628 ||
 
|-
 
! {{Display none|みつこ}}[[三ツ子島 (広島県)|三ツ子島]]
 
|  || 0.10 || 0 || 工業塩の貯蔵用に使われている
 
|-
 
! {{Display none|か}}[[鹿島 (広島県)|鹿島]]
 
| [[鹿島大橋]] || 2.64 || 324 ||
 
|-
 
! {{Display none|なさけ}}[[情島 (広島県)|情島]]
 
| || 0.69 || 10 ||
 
|-
 
! {{Display none|しもかまかり}}[[下蒲刈島]]
 
| [[安芸灘大橋]]・[[蒲刈大橋]] || 8.00 || 1635 ||
 
|-
 
! {{Display none|かみかまかり}}[[上蒲刈島]]
 
| 蒲刈大橋・[[豊島大橋]] || 18.91 || 2060 ||
 
|-
 
! {{Display none|おくひ}}[[屋久比島]]
 
| || 0.66 || 0 ||
 
|-
 
! {{Display none|とよ}}[[豊島 (広島県)|豊島]]
 
| [[豊島大橋]]・[[豊浜大橋]] || 5.67 || 1373 ||
 
|-
 
! {{Display none|いつき}}[[斎島]]
 
| || 0.70 || 21 ||
 
|-
 
! {{Display none|みかど}}[[三角島]]
 
| || 0.58 || 34 ||
 
|-
 
! {{Display none|おおざきしも}}[[大崎下島]]
 
| [[豊浜大橋]]・[[平羅橋]] || 17.48 || 2572 ||
 
|-
 
! {{Display none|へら}}[[平羅島]]
 
| [[平羅橋]]・[[中の瀬戸大橋]] || 0.15 || 0 ||
 
|-
 
! {{Display none|なかの}}[[中ノ島]]
 
|  [[中の瀬戸大橋]]・[[岡村大橋]] || 0.18 || 0 ||
 
|-
 
! {{Display none|おおしは}}[[大芝島]]
 
| {{Display none|ひかしひろしま}}[[東広島市]] || || 1.70 || 169 ||
 
|-
 
! {{Display none|おおざきかみ}}[[大崎上島]]
 
| rowspan="4"|{{Display none|おおさきかみしま}}'''[[大崎上島町]]''' || || 30.38 || 8160 ||
 
|-
 
! {{Display none|なが}}[[長島 (広島県)|長島]]
 
| || 1.06 || 17 ||
 
|-
 
! {{Display none|ちきり}}[[契島]]
 
| || 0.09 || 42 || 全島が[[東邦亜鉛]]の[[私有地]]。いわゆる[[軍艦島]]
 
|-
 
! {{Display none|いくの}}[[生野島]]
 
| || 2.26 || 23 ||
 
|-
 
! {{Display none|おおくの}}[[大久野島]]
 
| {{Display none|たけはら}}[[竹原市]] || || 0.7 || 26 || 多数の[[ウサギ]]が生息
 
|-
 
! {{Display none|さき}}[[佐木島]]
 
| rowspan="2"|{{Display none|みはら}}[[三原市]] || || 8.73 || 841 ||
 
|-
 
! {{Display none|こさき}}[[小佐木島]]
 
| || 0.5 || 22 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|こうね}}[[高根島]]
 
| rowspan="7"|{{Display none|おのみち}}[[尾道市]] || || 5.57 || 550 ||
 
|-
 
! {{Display none|いくち}}[[生口島]]
 
| || 31.06 || 9674 ||
 
|-
 
! {{Display none|いんの}}[[因島]]
 
| || 34.98 || 23953 || 芸予諸島の中心的な島。造船が盛ん
 
|-
 
! {{Display none|ほそ}}[[細島 (広島県)|細島]]
 
| || 0.76 || 53 ||
 
|-
 
! {{Display none|いわし}}[[岩子島]]
 
| || 2.45 || 649 ||
 
|-
 
! {{Display none|むかい}}[[向島 (広島県)|向島]]
 
| || 22.23 || 23510 ||
 
|-
 
! {{Display none|もも}}[[百島 (広島県)|百島]]
 
| || 3.08 || 584 ||
 
|-
 
! {{Display none|た}}[[田島 (広島県)|田島]]
 
| rowspan="3"|{{Display none|ふくしま}}[[福山市]] || || 8.59 || 1630 ||
 
|-
 
! {{Display none|よこ}}[[横島 (広島県福山市)|横島]]
 
| || 4.05 || 1207 ||
 
|-
 
! {{Display none|はしり}}[[走島]]
 
| || 2.13 || 667 ||
 
|}
 
 
 
=== 愛媛県 ===
 
{| class="sortable wikitable" style="border-collapse:collapse; font-size:90%;"
 
|-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;"
 
! 名称 !! 市町村 !! 架橋 !! 面積 !! 人口 !! 備考
 
|-
 
! {{Display none|ほうしようか}}{{要出典|[[北条鹿島|鹿島]]|date=2018年6月}}
 
| {{Display none|まつやま}}[[松山市]] ||  || 1.11 || 0 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|おおみ}}[[大三島]]
 
| rowspan="14"|{{Display none|いまはり}}[[今治市]] ||  || 64.56 || 7838 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|おお}}[[大島 (愛媛県今治市)|大島]]
 
| || 41.89 || 8372 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|はかた}}[[伯方島]]
 
| || 20.85 || 8031 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|おかむら}}[[岡村島]]
 
| || 3.13 || 648 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|おおけ}}[[大下島]]
 
| || 1.75 || 87 ||
 
|-
 
! {{Display none|}}[[津島 (今治市)|津島]]
 
| || 1.49 || 18 ||
 
|-
 
! {{Display none|おこけ}}[[小大下島]]
 
| || {{Display none|0.99}} || 32 ||
 
|-
 
! {{Display none|くる}}[[来島]]
 
| || {{Display none|0.99}} || 23 ||
 
|-
 
! {{Display none|う}}[[鵜島 (今治市)|鵜島]]
 
| || {{Display none|0.99}} || 33 ||
 
|-
 
! {{Display none|お}}[[小島 (愛媛県)|小島]]
 
| || {{Display none|0.99}} || 25 ||
 
|-
 
! {{Display none|うま}}[[馬島 (愛媛県)|馬島]]
 
| || {{Display none|0.99}} || 32 ||
 
|-
 
! {{Display none|ひき}}[[比岐島]]
 
| || {{Display none|0.99}} || 3 ||
 
|-
 
! {{Display none|みちか}}[[見近島]]
 
| || {{Display none|0.99}} || 0 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|さ}}[[佐島 (上島諸島)|佐島]]
 
| || 2.67 || 519 ||
 
|-
 
! {{Display none|いわき}}[[岩城島]]
 
| rowspan="8"|{{Display none|かみしま}}'''[[上島町]]''' ||  || 8.95 || 2309 ||
 
|-
 
! {{Display none|ゆけ}}[[弓削島]]
 
| || 8.66 || 2885 ||
 
|-
 
! {{Display none|いきな}}[[生名島]]
 
| || 3.68 || 1705 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|あかほね}}[[赤穂根島]]
 
| || 2.09 || 2 || かつては無人島
 
|-
 
! {{Display none|うお}}[[魚島]]
 
| || 1.37 || 190 ||
 
|-
 
! {{Display none|たかいかみ}}[[高井神島]]
 
| || 1.34 || 38 ||
 
|-
 
! {{Display none|とよ}}[[豊島 (愛媛県)|豊島]]
 
| || {{Display none|0.99}} || 2 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|ひやつかん}}[[百貫島 (愛媛県)|百貫島]]
 
| || {{Display none|0.99}} || 0 || 人口は2000年
 
|-
 
! {{Display none|にいはま}}[[新居大島]]
 
| {{Display none|にいはま}}[[新居浜市]] ||  || 2.14 || 257 ||
 
|}
 
 
 
=== 2県に渡る島 ===
 
{| class="sortable wikitable" style="border-collapse:collapse; font-size:90%;"
 
|-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;"
 
! 名称 !! 県 !! 市町村 !! 架橋 !! 面積 !! 人口 !! 備考
 
|-
 
! {{Display none|ひようたんしま}}[[瓢箪島]]
 
| 広島県<br>愛媛県 || 尾道市<br>今治市 || || {{Display none|0.99}} || 0 || 広島・愛媛県境がある<br>『[[ひょっこりひょうたん島]]』のモデルとする説がある
 
|}
 
 
 
== ギャラリー ==
 
<gallery>
 
ファイル:Innoshima habu port 001.JPG|[[因島]]中心部
 
ファイル:Japanesenavalacademy001.JPG|[[江田島]]の[[海上自衛隊幹部候補生学校|海自幹部候補生学校]](旧[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]])
 
ファイル:Chigirishima001.jpg|[[契島]]
 
ファイル:Iwagijima.JPG|[[岩城島]]の[[岩城漁港]]
 
</gallery>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[防予諸島]]
 
* [[笠岡諸島]]
 
* [[塩飽諸島]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
{{芸予諸島}}
 
  
 
{{デフォルトソート:けいよしよとう}}
 
{{デフォルトソート:けいよしよとう}}

2018/12/30/ (日) 11:57時点における版

芸予諸島
地理
場所 瀬戸内海
主要な島 能美島大崎上島向島因島大三島
行政
都道府県 広島県の旗広島県愛媛県の旗 愛媛県
市町村 江田島市呉市東広島市大崎上島町竹原市三原市尾道市福山市今治市上島町新居浜市松山市

芸予諸島(げいよしょとう)

瀬戸内海の中西部,広島県と愛媛県にはさまれた島群。東端はおよそ鞆-今治を結ぶ線,西端は能美・倉橋島で限られる。因島,生口島,大三島,大崎上島などが主でミカンなど柑橘類の栽培が盛ん。本州四国連絡橋 (尾道-今治ルート) の一部,因島大橋,生口橋,大三島橋が完成し西瀬戸自動車道が通り,いくつかの島が陸路で結ばれて島の隔絶性は少くなった。



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