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'''毛利 元就'''(もうり もとなり)は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[安芸国|安芸]]{{Efn|現在の[[広島県]]西部。}}の[[国人]]領主で、後の[[戦国大名]]。[[本姓]]は[[大江氏]]で、[[毛利氏]]の[[家系]]は[[大江広元]]の四男 [[毛利季光]]を祖とする血筋。[[寒河江氏]]などは一門にあたる。[[家紋]]は一文字三星紋。
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'''毛利 元就'''(もうり もとなり)
 
 
[[安芸国|安芸]](現在の[[広島県]]西部)の小規模な[[国人|国人領主]]に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して[[中国地方]]のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家{{Efn|元就は「能や芸や慰事、何もかも要らず。ただただ武略、計略、調略こそ肝要にて候」「謀多きは勝ち、少なきは負け候」と[[孫子 (書物)|孫子]]を踏まえて自らの信条を書き綴っている<ref>毛利家文書 第413号、嫡男・隆元宛の三子教訓状追伸文</ref>。}}として知られている。子孫は[[長州藩]]の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 家督相続 ===
 
[[ファイル:Alex K Hiroshima Mori (color).svg|thumb|left|155px|毛利家の家紋。]]
 
明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主[[毛利弘元]]と正室の[[安芸福原氏|福原氏]]との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の[[鈴尾城]](福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。
 
 
 
明応9年([[1500年]])に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて[[多治比猿掛城]]に移り住む。翌[[文亀]]元年([[1501年]])には実母が死去し、松寿丸10歳の[[永正]]3年([[1506年]])に、父・弘元が酒毒{{Efn|アルコール中毒や飲酒の害毒のこと{{Kotobank|酒毒|}}。}}が原因で死去。松寿丸はそのまま[[多治比猿掛城]]に住むが、家臣の[[井上元盛]]によって所領を横領され、城から追い出されてしまう{{Efn|{{Quotation|「我々は五歳にて母に離れ候、十歳にて父に離れ候、十一歳の時にて兄〔興元〕京都へ上られ候。誠に了簡なく、みなしご〔孤児〕に罷り成り」|毛利元就|毛利家文書 第420号|}}{{Quotation|「多治比を我々に弘元お譲り候へども、井上中務丞〔元盛〕渡し候わで押領候……」|毛利元就|毛利家文書 第420号}}と述懐している<ref name="mouri420">『毛利家文書』第420号 弘治4年([[1558年]])8月付 毛利隆元宛て毛利元就書状写</ref>。}}。この困窮した生活を支えたのが養母であった[[杉大方]]である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」<ref name="mouri420" />「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」<ref>『毛利家文書』第405号 [[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]付 毛利元就自筆書状(いわゆる「[[三子教訓状]]」)の第12条。</ref>と養母の杉大方について書き残している。永正8年([[1511年]])杉大方は、京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可をもらって松寿丸は元服。'''多治比'''('''丹比''')'''元就'''を名乗って分家を立て、多治比{{Efn|{{要出典範囲|date=2017年3月|「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む。}}}}殿と呼ばれるようになった。
 
 
 
永正13年([[1516年]])、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。家督は興元の嫡男・[[毛利幸松丸|幸松丸]]が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、[[佐東銀山城]]主・[[武田元繁]]が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた[[初陣]]であった。
 
 
 
[[武田氏|安芸武田氏]]重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒・[[熊谷元直 (戦国時代)|熊谷元直]]率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。一部の防備の兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死した結果、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この[[有田中井手の戦い]]は武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の[[鏡山城]]攻略戦([[鏡山城の戦い]])でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。
 
 
 
詳細な時期は不明であるが、この頃に[[吉川国経]]の娘(法名「[[妙玖]]」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われている。
 
 
 
甥の毛利幸松丸が[[大永]]3年([[1523年]])にわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が[[志道広良]]をはじめとする重臣たちの推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。しかし毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して重臣たちによる「元就を当主として認める」という連署状が作成されている。8月10日に元就は、[[吉田郡山城]]に入城した{{Efn|この家督相続について、元就は初め辞退したという話が元就自身の日記に記されているが、この日記は連署状を受け取った日時が現存する書状と違い、また日記といってもこの時の3日分しか存在しない史料であるため、疑問がもたれている。また、当主になった元就は連歌の席で「毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱(あくまで自分は分家の身であるから、と謙遜の意味)」という歌を詠んだというが、これも他の史料では確認できない{{Sfn|山室|1995|}}。}}。
 
 
 
元就の継承に不満を持った[[坂氏]]・[[渡辺氏]]らの有力家臣団の一部が、[[尼子経久]]の指示を受けた[[尼子氏]]重臣・[[亀井秀綱]]支援の下、元就の異母弟・[[相合元綱]]を擁して対抗したが、元就は執政・[[志道広良]]らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。
 
 
 
元綱粛清後、元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられている。元就自身が書いたとされる家系図にはこの元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれている。また、僧侶になっていた末弟(元就・元綱の異母弟)の就心に頼みこんで還俗させ、就勝の名を与え、北氏の跡を継がせて側に置いた。
 
 
 
なお、この事件はこれで収まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。なお、この事は毛利家中に広く伝わったらしく、後に防芸引き分けの際に隆元が元澄に、元就にあの時命を助けられたのだから今こそその恩を返すべく元就が陶氏に加勢しに行くのを引きとめてほしいと要請している。また、この時謀反を起こし粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げている。
 
 
 
=== 勢力拡大 ===
 
[[image:Mori-Gunori.jpg|thumb|毛利元就が所用していた伝わる軍幟(軍旗)。「一文字三星」が付いている。(毛利博物館蔵)]]
 
家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年([[1525年]])に尼子氏と関係を断ち[[大内義興]]の傘下となる立場を明確にした。そして[[享禄]]2年([[1529年]])には、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した[[高橋興光]]ら高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])には、隣国[[備後]]の[[多賀山通続]]を攻め、降伏させた。
 
 
 
一方で、長年の宿敵であった[[宍戸氏]]とは関係の修復に腐心し、娘を[[宍戸隆家]]に嫁がせて友好関係を築き上げた。元就が宍戸氏との関係を深めたのには父・弘元の遺言があった。元就が後年手紙で、「父・弘元は宍戸氏と仲をよくしろと言い遺されたが、兄の興元の時は戦になってそのまま病でなくなってしまい、父の遺言は果たせなかった。しかし、それは兄はまだ若かったからしかたなかったことだ。だが、元源殿はなぜか自分の事を気に入って下さって水魚の交わりのように親しくつきあってくださった。」と述べている。元就は[[宍戸元源]]の方から親しく思ってくれたとしているが、実際は宍戸氏とも争っていた高橋氏の旧領の一部を譲る等、積極的に働きかけていた。宍戸家家譜によると正月に数人の伴を引き連れて元就自身が宍戸氏の五龍城を訪れ、元源と気が合っため、そのまま2人で枕を並べて夜遅くまで語り合い、その中で元源の孫の隆家と娘(後の五龍)との婚約が決まったと伝わる。なお、宍戸隆家は生まれる前に父を亡くしており、母の実家の山内家で7歳まで育ったため、宍戸氏と誼を結ぶことで山内氏とも繋がりができた。前述の渡辺氏の生き残りである[[渡辺通 (武将)|渡辺通]]が許されて毛利家に戻って元就に仕えたのもこの頃と考えられている。
 
 
 
その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた[[天野氏]]や、安芸武田氏と関係が悪化した[[熊谷氏]]とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。毛利家中においても、天文元年([[1532年]])に家臣32名が、逃亡した下人らを匿わずに人返しすることなどの3カ条を守り、違反者は元就が処罰するという[[起請文]]を連署して捧げている。
 
 
 
天文2年([[1533年]])[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]付けの『[[御湯殿上日記]]』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を[[応永]]の先例に倣って[[官位]]を授けるように[[後奈良天皇]]に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である[[毛利光房]]が[[称光天皇]]より[[従五位下]][[右馬頭]]に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000[[疋]]を朝廷に献上する事で叙任が実現することになった。これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である[[吉川氏]]当主[[吉川興経]]から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。また天文6年([[1537年]])には、長男の[[毛利隆元]]を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。
 
 
 
天文8年([[1539年]])、従属関係にあった[[大内氏]]が、北九州の宿敵[[少弐氏]]を滅ぼし、[[大友氏]]とも和解したため、安芸武田氏の居城[[佐東銀山城]]を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主[[武田信実]]は一時若狭へと逃亡している。後に信実は出雲の[[尼子氏]]を頼っている。
 
 
 
天文9年([[1540年]])には経久の後継者である[[尼子晴久|尼子詮久]]率いる3万の尼子軍に本拠地・[[吉田郡山城]]を攻められるが([[吉田郡山城の戦い]])、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した[[大内義隆]]の援軍・[[陶晴賢|陶隆房]]の活躍もあって勝利し、さらにこの戦いの顛末を記録した文書を幕府に提出([[毛利元就郡山籠城日記]])して称賛を受け、安芸国の中心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・[[武田信実]]の[[佐東銀山城]]は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の[[毛利水軍]]の基礎を築いた。
 
[[ファイル:Nanakizaka01.jpg|サムネイル|元就が九死に一生を得た七騎坂]]
 
天文11年([[1542年]])から天文12年([[1543年]])にかけて、[[大内義隆]]を総大将とした第1次[[月山富田城の戦い]]にも、元就は従軍。しかし[[吉川興経]]らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、さらには元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるが敗れ、大内軍は敗走する。この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって[[渡辺通 (武将)|渡辺通]]らが身代わりとして戦死、窮地を脱して安芸に帰還することができた。
 
 
 
天文13年([[1544年]])、元就は手始めに強力な水軍をかかえる[[小早川氏|竹原小早川氏]]の養子に三男・徳寿丸(後の[[小早川隆景]])を出した。小早川家には元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでおり、前当主の興景は吉田郡山城の戦いで援軍に駆けつけるなど元就と親密な仲であった。天文10年、興景が子もなく没したため、小早川家の家臣団から徳寿丸を養子にしたいと要望があったが、徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っている。しかし、当主不在のまま何度か戦いがあり、困った小早川家家臣団は今度は大内義隆に、元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこんだ。元就も義隆の頼みを断ることはできず、興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行った。なお、興景を失った竹原小早川氏に対しては、備後[[神辺城]]主である[[山名理興]](尼子派)が天文12年に攻め寄せたため、大内軍と共に毛利軍も救援に赴いている。6年後の神辺城陥落([[神辺合戦]])まで戦いは続いたが、この陣中で徳寿丸は元服して隆景を名乗るようになった。一方同年には、備後[[三吉氏]]へ遠征に出た尼子軍を撃退するため、[[児玉就忠]]・[[福原貞俊]]を派遣したが敗北している([[布野崩れ]])。ただし、三吉軍の[[夜戦|夜襲]]が成功したため、最終的に尼子軍は退却した。
 
 
 
天文14年([[1545年]])、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くしている。息子の隆元に宛てた手紙に「この頃は、なぜか妙玖のことばかりがしきりに思い出されてならぬ。」「妙玖がこの世にいてくれたらと、いまは語りかける相手もなく、ただ心ひそかに亡き妻のことばかりを思うのだ。」「内をば母親をもって治め、外をば父親をもって治め候と申す金言、少しも違わず」と述べている。妙玖の名前は、元就から息子に毛利家の結びつきを説くときに語られる、大切な結び目としての母の名であった{{Sfn|藤木|1976}}。
 
 
 
天文15年([[1546年]])、元就が隠居を表明。隆元が毛利家当主となる。ただし、完全に隠居したわけではなく実権はほぼ元就が握っていたため、隆元もこの時は元就の隠居に反対しなかった。
 
 
 
天文16年([[1547年]])、妻・妙玖の実家である吉川家へ元春を送りこむ。当時吉川家当主であった吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、[[吉川経世]]たち一族や重鎮と対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。そこで反興経派は元就に、吉川国経の外孫に当たる次男・[[吉川元春|元春]]を[[吉川氏]]に養子にしたいと申し出た。元就は初め、元春を子のなかった異母弟・北就勝の養子にする約束があったため断ったが、吉川家の再三の要求に応じて元春を養子に出した。一方、吉川家当主の吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。隠居させられた興経は、吉川家家臣団との約束で吉川氏の領内に隠居させる予定であったが、元就は興経派らの動きを封じるため興経を深川に移した。それでも興経派を警戒していた元就は吉川家の当主となった元春をなかなか吉川家の本城へ送らなかった。
 
 
 
ちなみに吉川家相続前に元春は熊谷信直の娘と独断で婚約を結び、元就は熊谷信直へ侘びの手紙と「あいつは犬ころの様なやつだが息子をどうかよろしく頼む」と一言書いている。元春夫婦は結婚後も、吉川家相続の後も吉田郡山城におり、長男の元資(元長)が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていた。元春が吉川氏の本城に入るのは、興経の隠居後の天文19年([[1550年]])に、将来の禍根を断つため興経とその一家を元就の命で熊谷氏が殺害してからである。
 
 
 
一方で、先の月山富田城の戦いで当主・[[小早川正平]]を失っていた[[小早川氏|沼田小早川氏]]の後継問題にも介入した。当主・[[小早川繁平]]が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった[[田坂全慶]]を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「[[毛利両川]]体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。
 
 
 
これにより[[安芸国|安芸]]・[[石見国|石見]]に勢力を持つ吉川氏と、[[安芸国|安芸]]・[[備後国|備後]]・[[瀬戸内海]]に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。
 
 
 
天文18年([[1549年]])2月、元春と隆景を伴い山口へ下向する。この時大内家は陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派で対立が起こっていた。また、当主の大内義隆は月山富田城で負けて以来、戦に関心を持たなくなっていた事もあり、不満に思っていた陶隆房が山口下向中に元就達の宿所に何度か使いをやっている。なお、元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くかかり、吉田に帰国したのは5月になってからである。なお、この時元就を看病した井上光俊は懸命に看病したことで隆元から書状を貰っている。
 
 
 
天文19年([[1550年]])7月13日に家中において専横を極めていた[[井上元兼]]とその一族を殺害し、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させ、集団の統率力を強化。後に戦国大名として飛躍するための基盤を構築していく。しかしながら井上一族をすべて殺したわけではない。先の井上光俊のように看病してもらった者や、井上一族の長老である光兼は元就が太陽を拝むきっかけとなった客僧を招いた屋敷の主であったことなど恩があるものは助命しており、主だった30名のみ処分している。元就自身はこの誅伐に関して手紙で、幼いころに所領を横取りされたことなど積年の恨みつらみを書きしたためているが、家臣を切るのは自分の手足を切るような悪い事であるから決してしてはならないことであると隆景に宛てて書いている。
 
 
 
=== 厳島の戦い ===
 
[[ファイル:Mori Motonari Attacking Sue Harutaka at Itsukushima LACMA M.84.31.247.jpg|right|250px|thumb|[[月岡芳年]]『大日本名将鑑 毛利元就』[[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]所蔵]]
 
{{Main|厳島の戦い}}
 
天文20年([[1551年]])、防長両国の大名[[大内義隆]]が家臣の[[陶晴賢]]の謀反によって殺害され、養子の[[大内義長]]が擁立される([[大寧寺の変]])。元就は以前からこの当主交代に同意しており、隆房と誼を通じて[[佐東銀山城]]や[[桜尾城]]を占領し、その地域の支配権を掌握。隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。
 
 
 
元就はこれを背景として徐々に勢力を拡大すべく、安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。[[平賀隆保]]の籠もる安芸[[頭崎城]]を陥落させ隆保を自刃に追い込み、[[平賀広相]]に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめた。[[1553年]]には尼子方の江田氏が守っていた備後の[[高杉城]]、旗返山城を落とし、尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、[[江良房栄]]らとともに撃退した。
 
 
 
この際の戦後処理のもつれと毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。そこに[[石見国|石見]]の[[吉見正頼]]が隆房に叛旗を翻した。隆房の依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたが、陶氏への不信感を抱いていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵ができないでいた。そこで隆房は、直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。[[平賀広相]]からその事実を告げられた隆元や重臣たちは、元就に対して(安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるとした)約束に反しており、毛利と陶の盟約が終わったとして訣別を迫った。ここに元就も隆房との対決を決意した([[防芸引分]])。
 
 
 
しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000人以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000から5,000人であった。正面から戦えば勝算はない。さらに毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。
 
 
 
天文23年([[1554年]])、[[出雲国|出雲]]では尼子氏[[新宮党]]の[[尼子国久]]・[[尼子誠久|誠久]]らが尼子晴久に[[粛清]]されるという内紛が起こった<ref group="注釈">これを元就の謀略であると伝える軍記もあるが、尼子氏が、統率力強化のために自発的に行ったものとと考えられている。詳しくは[[新宮党]]の項目参照</ref>。尼子氏が新宮党を粛清の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄を毛利氏に300貫の領地を与えることを条件に内応させる。しかし、房栄がさらなる加増を求めたため、房栄の内応をわざと元就が晴賢に明かしている。実際隆元は、房栄は命を助けてやるだけでも有難いと思うべきなのに、要求する領地が多すぎると不満を手紙で述べている。
 
 
 
そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、謀反を起こした吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。晴賢は激怒し即座に重臣の[[宮川房長]]に3,000人の兵を預け毛利氏攻撃を命令。山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。これに対し元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死([[折敷畑の戦い]])。緒戦は元就の勝利であった。
 
 
 
これにまたもや激怒した陶晴賢は弘治元年([[1555年]])、今度は自身が大軍を率いて山口を出発した。交通と経済の要衝である[[厳島]]に築かれた毛利氏の[[宮尾城]]を攻略すべく、厳島に上陸した。しかし厳島周辺の制海権を持つ[[村上水軍]]が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる<ref group="注釈">この戦いは[[日本三大奇襲]]作戦の1つされるが、従来の通説は[[陰徳太平記]]など、後世に編纂された不確かな[[軍記物語]]によって構築されたもので、実際にどのような戦いが行われたかは不透明な部分が多い。</ref>。
 
 
 
弘治2年([[1556年]])、備前遠征から素早く兵を撤兵させた尼子晴久率いる25,000人と、尼子と手を結んだ[[小笠原長雄]]が大内方であった山吹城を攻撃。これに毛利氏は迎撃に出るが、忍原において尼子晴久に大敗し石見銀山は尼子氏のものとなる。([[忍原崩れ]])
 
 
 
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])、大内氏の内紛を好機とみた元就は、[[大内氏]]の当主[[大内義長|義長]]を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した([[防長経略]])。
 
 
 
同年、家督を嫡男・隆元に完全に譲ろうとするが、隆元はこれを拒絶。
 
 
 
永禄元年([[1558年]])、石見銀山を取り戻そうとして毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る[[川本温湯城|温湯城]]を攻撃。これに対して尼子晴久も出陣するが、互いに江の川で睨みあったまま戦線は膠着。翌永禄2年([[1559年]])には温湯城を落城させ[[山吹城]]を攻撃するが攻めあぐね、撤退中に城主[[本城常光]]の奇襲と本城隊に合流した晴久本隊の攻撃を受け大敗している。([[降露坂の戦い]])
 
 
 
=== 尼子氏・大友氏との戦い ===
 
弘治2年([[1556年]])以降、[[尼子氏]]当主・[[尼子晴久]]によって[[山吹城]]を攻略され[[石見銀山]]の支配権を失っていたが、永禄3年([[1560年]])にその[[尼子晴久]]が死去する。そして尼子氏の晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男[[尼子義久]]は[[足利義輝]]に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に破棄し、永禄5年([[1562年]])より出雲侵攻を開始する(第二次[[月山富田城の戦い]])。
 
 
 
これに対して晴久の跡を継いだ[[尼子義久]]は、難攻不落の名城[[月山富田城]](現在の[[島根県]][[安来市]])に籠城し[[尼子十旗]]と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし永禄6年([[1563年]])に、元就は尼子氏の支城である[[白鹿城]]を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功する。だが一方で、当主である嫡男、隆元の不慮の死という悲運にも見舞われている。
 
 
 
元就は大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うため離間策を巡らせた。これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である[[宇山久兼]]を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。永禄9年([[1566年]])11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大名になった。
 
 
 
出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、[[尼子勝久]](尼子誠久の子)を擁した[[山中幸盛]]率いる尼子残党軍が[[織田信長]]の支援を受けて山陰から侵入し、毛利氏に抵抗した。さらに[[豊後国|豊後]]の[[大友義鎮|大友宗麟]]も[[豊前国|豊前]]の制覇を目指しており、永禄11年([[1568年]])には北九州での主導権を巡る争いの中で、陽動作戦として元就自身によって滅ぼされた[[大内氏]]の一族である[[大内輝弘]]に兵を与えて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの働きにより、大友氏と和睦しつつ尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。しかし大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた[[博多]]の支配権を譲る結果になった<ref group="注釈">しかし大友の立場からすれば、同じく毛利の侵攻に悩まされ危機的な状況に陥り、龍造寺氏や島津氏の勢力伸長を押さえる事ができなかった。</ref>。
 
 
 
===元就の最期 ===
 
[[File:Motonari Mouri's Tombstone.JPG|thumb|吉田郡山城跡の毛利元就墓所]]
 
1560年代の前半より元就はたびたび体調を崩していたが、将軍・[[足利義輝]]は名医・[[曲直瀬道三]]を派遣して元就の治療に当たらせている{{Sfn|宮本|1993a|}}<ref name="miyamoto">{{Harvnb|宮本|1993b}}</ref>。元就の治療は「道三流」と称される道三門下の専門医によって行われ、道三門下の専門医と道三との往復書簡いわゆる「手日記」を通して処方が決定された{{Sfn|宮本|1993a|}}<ref name="miyamoto"/>。その効果もあったのか、元就の体調は一時は持ち直したようで、永禄10年([[1567年]])には最後の息子である[[毛利秀包|才菊丸]]が誕生している。なお、毛利氏領国では、専門医・専従医不足に伴う医療基盤の軟弱さが、永禄9年に曲直瀬道三が下向して一挙に改められた<ref name="miyamoto"/>。
 
 
 
元亀2年([[1571年]])6月14日、吉田郡山城において死去。死因は[[老衰]]とも[[食道癌]]とも言われる。[[享年]]75{{refnest|group=注釈|死後、織田信長より哀悼の使者が遣わされた<ref>[[歴史群像]]シリーズ毛利元就 P168</ref>。}}。
 
 
 
家督そのものはすでに嫡男の毛利隆元に継承済であったが、隆元は永禄6年([[1563年]])に早世していたため、嫡孫の[[毛利輝元]](隆元の嫡男)が後を継いだ。
 
 
 
== 人物・逸話 ==
 
[[image:Motonari Mouri02.jpg|thumb|毛利元就寿像(山口県[[豊榮神社・野田神社|豊榮神社]]蔵)]]
 
; 朝倉宗滴による評価
 
: 越前[[朝倉氏]]の名将、[[朝倉宗滴]]は自身の著作『朝倉宗滴話記(続々群書類従所収)』の中において、元就のことを「日本に国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、今川殿([[今川義元]])、甲斐武田殿([[武田信玄]])、三好修理大夫殿([[三好長慶]])、長尾殿([[上杉謙信]])、'''毛利某'''、織田上総介方([[織田信長]])、関東正木大膳亮方([[正木時茂 (正木時綱子)|正木時茂]])…此等の事」と書いており、政務・家臣掌握術において[[今川義元]]や[[武田信玄]]らと共に高く評している<ref group="注釈">『[[甲陽軍鑑]]』にも、武田信玄の軍師[[山本勘助]]が「[[源義光]]公の時代以来、この世に戦巧者といえば[[楠木正成]]を除いて、他には毛利元就しかおりません」と評した逸話があるが、これに関しては創作の可能性が高い。</ref>。
 
 
 
; 厳島神社への参拝
 
: 「江譜拾遺」には、元就がまだ[[元服]]前に家臣と共に[[厳島神社]]へ[[参拝]]に行った際の逸話が残っている{{Sfn|吉田龍司|2010|}}。元就が、家臣に祈願の内容を訊ねると、家臣は「松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました」と答えた。それに対して元就は「何故天下の主になれるように願わなかったのだ」と言った。家臣は「実現不可能な事を祈願しても意味がありますまい。せいぜい[[中国地方]]でござろう」と笑ったが、元就は、「天下の主になると祈願して、やっと[[中国地方]]が取れようというもの。まして、最初から安芸一国を目標にしていたのでは、安芸一国すら取れずに終わってしまう」と反論し、自らの理想の高さを示した。しかし、彼は後述のように、年を経るにつれて、天下獲りよりも家名の保全に腐心するようになった。
 
 
 
; 天下を競望せず
 
: 尼子氏の滅亡後、中国地方の覇者となった元就だったが、自身は「'''天下を競望せず'''」と語り、自分の代での勢力拡大はこれ以上望まない意志を明らかにしていた(とはいえ、大内氏の支配圏だった北九州進出にはこだわり、晩年まで大友氏と激しい抗争を続けた)。またそれは息子や孫達の代に至るも同様であり、三男・隆景を通じて輝元の短慮を諌めるようにたびたび言い聞かせ、これが元就の『遺訓』として毛利家に浸透していったという{{refnest|group=注釈|「当分五ヶ国十ヶ国御手に入れ候は、時の御仕合せにて候(我々が5ヶ国10ヶ国を手に入れられたのは時の運であり、これ以上望むべきではない)」と元就がこぼしていたことに触れている<ref>吉川家文書 第917号、吉川広家卿自筆覚書</ref>。}}。
 
 
 
[[File:Shoueiji temple.JPG|thumb|教訓状を書いた勝栄寺(山口県[[周南市]])]]
 
; 三本の矢
 
: 死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたというものである。この逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名だが、実際には元就よりも隆元が早世しているなど史実とは食い違う点も多く、弘治3年(1557年)に元就が書いた直筆書状『[[三子教訓状]]』に由来する創作とされる。
 
{{see also|三子教訓状}}
 
 
 
; 家臣・周辺国人への気遣い
 
:「元就はいつも餅と酒を用意し、地下人などの身分が低い者達まで声をかけて親しくしており、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。家来が持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいですと答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあげていた」(『吉田物語』)
 
 
 
; 後世に遺された数多くの手紙
 
: 元就は筆まめな人物であり、数多くの手紙が残っている。明和4年(1767年)に毛利家で編纂された毛利氏の訓戒集には手紙などに残された元就の小言が30近く羅列されている。また、前述の『三子教訓状』の紙幅は2.85メートルにもなり、同じような内容が繰り返し記される。[[吉本健二]]、[[舘鼻誠]]など戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記している理由である{{Sfn|舘鼻誠|2006|}}。吉本は元就の手紙を「苦労人であった為かもしれないが説教魔となっている」と評した。
 
 
 
;酒でのウサ晴らしを戒め、下戸で通す
 
:元就は嫡男の隆元に、酒は分をわきまえて飲み、酒によって気を紛らわすことなどあってはならないと、節酒の心得を説いている。孫の輝元が元服を済ませた際には、輝元の実母の尾崎の局に小椀の冷汁椀に一杯か二杯ほど以外は飲ませないように忠告している。このような背景に、元就は毛利氏歴代が酒に害されやすい体質であることを熟知しており、そのために元就自身は節酒をしてその延命効果を説いたのである{{Sfn|宮本|2002|pp=121-123}}。
 
 
 
== 政策 ==
 
=== 政治体制 ===
 
 
 
元就が構築した政治体制は領内の国人領主や地方勢力との共生を念頭とした典型的な集団指導体制であり、同年代の他の戦国大名と類似する点が多い。また元就の統治には、[[三子教訓状]]や[[百万一心]]などの標語による家臣・領民の心理的な変革が含まれていた。この点は[[武田信玄]]などに通じるものがある。毛利氏の統治の特色として挙げられるのは地方領主の独立性の高さであり、大名(毛利氏当主)による独裁とは程遠い体制だったことである。その詳細は[[甲斐武田氏|武田氏]]などと同様に複雑かつ煩雑で把握しにくいが、家中に[[奉行]]制度を確立して政務を効率化すると共に、毛利家当主のサポート体制を盤石なものとして政権の基盤構築に成功していたことは確かである。
 
 
 
だが、これは古来の血族支配や、国人・土豪といった守旧的勢力の存在を前提にした良くも悪くも保守的な体制でもあった。特に地方勢力の独立性を認めることは、軍事組織(戦国大名)としての一体性をやや欠き、脆さをも内包することになったからである。この結果、嫡孫・輝元の代には革新的かつ強権的な軍事体制を実現した[[織田氏]]との交戦により苦境に陥り、一部国人衆の離反を招いた。また両川(元春・隆景)や[[穂井田元清]]など有力な血族が死去した後の[[関ヶ原の戦い]]では、家中が東軍派と西軍派に割れて一貫した行動が取れず、結局敗軍の烙印を押されてしまうという醜態を演じた。(これは元来優柔不断な性格だった輝元の不手際によるものであるが、そもそも有力な血族による直接的補佐を必要とした毛利氏の体制から言えば、やむを得ないことであったとも言える。)
 
 
 
にもかかわらず毛利氏が大名として生存を果たせたのは、元就の政治理念と異常なまでの家名存続の意志が、その死後も家中に色濃く残っていたためである([[吉川広家]]の機転など)。後述する毛利両川とそれを筆頭とした奉行らによる集団指導体制の構築、そして「天下を競望することなかれ」という言葉を残したのは、自らの死による体制の変質や時流の変化を見越した判断でもある。
 
 
 
=== 毛利両川体制 ===
 
防長経略の年(1557年)に、元就は長男の[[毛利隆元]]に家督を譲って[[隠居]]した。しかし隆元が政権の移譲を拒絶したため、実権は元就がなおも握り、吉川元春と小早川隆景による[[毛利両川]]体制を確固たるものとしていったのである。隠居に際しての同年11月25日、14箇条の遺訓(いわゆる「[[三子教訓状]]」)を作成、家中の結束を呼びかけた。この遺訓が後に「三本の矢」(前述)の逸話の基となったとされている。
 
 
 
続いて同年12月2日、元就以下12人の主だった安芸国人領主<ref group="注釈">元就を基準とすると、時計回りに毛利元就、吉川元春、[[阿曽沼広秀]]、毛利隆元、宍戸隆家、[[天野元定]]、[[天野隆誠]]、[[出羽元祐]]、天野隆重、小早川隆景、平賀広相、熊谷信直の12名。</ref>が著名な「傘連判状」を結んでいる。これは上下関係を明らかにはせず、彼ら国人領主皆が対等の立場にある事を示している{{refnest|group=注釈|この「傘連判状」の解釈には異論も存在する。元就が時計の十二時の最も目立つ位置に署名していること、この申し合わせが毛利家に伝わっており、国衆が元就に提出したと見られること、恩賞は一般に主人が部下に与えるものだが、この中の平賀氏は「御恩賞は決して忘れはしません」と書かれた書状が残っている等の理由から、傘連判は多分に形式的なもので、実質的に国衆と家中の間に差はなかったとする意見もある{{Sfn|鴨川達夫|2011|pp=69-76}}。}}。
 
 
 
だが、裏を返せば、当時の毛利氏は井上一族の粛清によってようやく自己の家臣団を完全に掌握したばかりの状態であって、未だに安芸の土豪連合の集団的盟主という立場から完全には脱却できず、実子が当主である吉川・小早川両氏といえども主従関係にはなかったのである。毛利氏がこうした土豪の集団的盟主という立場から脱却して、土豪連合的な要素の強かった安芸国人衆の再編成と毛利家の家臣への編入を通じて、名実ともに毛利氏による安芸統一が完成する事になるのは隆元が安芸国守護に任じられた[[永禄]]3年([[1560年]])頃とされている。
 
 
 
ただし、その後もこうした国人領主は毛利氏との主従関係を形成しつつも、限定的ながら一部においてその自立性が認められていくことになった。こうした直臣家臣団と従属土豪(国人領主)という二元的な主従関係は関ヶ原の合戦後の[[長州藩]]移封まで長く続き、その統率が破綻することなく続いたのは毛利氏当主とこれを支える両川の指導力によるところが大きかったのである<ref group="注釈">こうした二元的な主従関係の複雑さから、元就没後の織田氏との戦いでは軍がまとまらず、常に後手に回る醜態を晒した。また関ヶ原以前の毛利氏では[[分国法]]が編纂されず、代わりに当主の下に官僚組織を形成することで人的に対応する方針を採った。</ref>。
 
 
 
=== 朝廷・幕府との関係 ===
 
毛利氏は小豪族ではあったが、朝廷との結びつきが強い大内氏と同盟関係にあったことから、元就が当主となる以前から既に中央との政治的な繋がりを持っていたようである。また[[吉田郡山城の戦い]]で勝利した顛末を記した「[[毛利元就郡山籠城日記]]」を幕府に提出し、[[管領]][[細川晴元]]らの歓心を得た{{Sfn|吉田龍司|2010|}}。大内氏の滅亡後、1557年に即位した[[正親町天皇]]に即位料・御服費用として総額二千五十九貫四百文を進献し{{Sfn|宮本|1978|}}、その[[即位の礼|即位式]]を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる(同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任、元就・隆元父子揃っての[[相伴衆]]就任、孫の輝元が将軍[[足利義輝]]から[[偏諱]]の拝領などは全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である)。
 
 
 
また、その後の尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を得た([[雲芸和議]]){{Sfn|宮本|1974a}}。また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた{{Sfn|宮本|1974b|}}{{Sfn|宮本|1974c|}}。
 
 
 
===女子の資産相続 ===
 
毛利氏領国では、女性の資産が、その本人ばかりか嫡男にも相続されるなど、女性の財産所有権および相続権が一面的とはいえ、認められていた。武家女性の社会的地位に関する特殊性が見て取れる{{Sfn|宮本|1975|}}。また成人した庶子の男子よりも実子の女子に優先相続権がある場合もあった<ref>田端泰子「戦国期女性の役割分担」(『日本中世女性史論』塙書房、1994年)91頁</ref>。
 
 
 
== 官歴 ==
 
※日付=旧暦(明治5年12月2日まで)
 
* [[1533年]]([[天文 (元号)|天文]]2年)9月25日、従五位下に叙位。9月28日、右馬頭に任官。
 
* [[1560年]]([[永禄]]3年)2月15日、従四位下に昇叙し、陸奥守<ref group="注釈">陸奥守は毛利家の祖先である[[大江広元]]が就いていた官職</ref>に遷任。
 
* [[1561年]](永禄4年)12月8日、幕府相伴衆となる。
 
* [[1562年]](永禄5年)5月18日、従四位上に昇叙し、陸奥守如元。
 
* [[1571年]]([[元亀]]2年)6月14日、卒去。享年75
 
* [[1572年]](元亀3年)、贈従三位。
 
* [[1908年]]([[明治]]41年)4月2日、追贈正一位。
 
 
 
== 系譜 ==
 
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{{col-4}}
 
* 父:[[毛利弘元]]
 
* 母:[[福原夫人]]([[福原広俊]]娘)
 
* 継母:[[杉大方]](高橋氏)
 
* 兄弟
 
** [[毛利興元]]
 
** [[相合元綱]]
 
** [[北就勝]]
 
** [[見付元氏]](弘元庶子?)
 
** 宮姫(武田某室)
 
** [[八幡新造]]([[渋川義正]]室。天正5年([[1577年]])没)<ref name=yawata></ref>
 
** [[相合大方]]([[井上元光]]室)
 
** 松姫([[吉川元経]]室)
 
** 竹姫([[井原元師]]室)
 
{{col-4}}
 
* 正室:[[妙玖]]([[吉川国経]]娘)
 
** 長女(夭折。高橋氏の人質。のち高橋氏により殺害)
 
** [[毛利隆元]]
 
** [[五龍局]]([[宍戸隆家]]室)
 
** [[吉川元春]]
 
** [[小早川隆景]]
 
* 継室:[[乃美大方]]([[乃美隆興]]娘)
 
** [[穂井田元清]]
 
** [[天野元政]]
 
** [[毛利秀包]](小早川秀包)
 
{{col-4}}
 
*側室:[[中の丸]]
 
* 側室(三吉氏)
 
** [[毛利元秋|椙杜元秋]]
 
** [[出羽元倶]]
 
** [[末次元康]]
 
** 三女([[上原元将]]室)
 
* 側室(矢田氏)
 
** [[二宮就辰]]?
 
{{col-4}}
 
* 孫
 
** [[毛利輝元]]
 
** [[吉川元長]]
 
** [[毛利元氏|繁沢元氏]]
 
** [[吉川広家]]
 
** [[吉川松寿丸]]
 
** [[毛利秀元]]
 
** [[宍戸元秀]]
 
** [[毛利元倶]]
 
** [[毛利元宣]]
 
** [[毛利元景]] など
 
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== 毛利十八将 ==
 
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{{col-3}}
 
* [[小早川隆景]]
 
* [[吉川元春]]
 
* [[宍戸隆家]]
 
* [[天野隆重]]
 
* [[吉見正頼]]
 
* [[児玉就忠]]
 
{{col-3}}
 
* [[桂元澄]]
 
* [[福原貞俊|福原貞俊(11代当主)]]
 
* [[口羽通良]]
 
* [[志道広良]]
 
* [[赤川元保]]
 
* [[粟屋元秀]]
 
{{col-3}}
 
* [[渡辺長]]
 
* [[熊谷信直]]
 
* [[国司元相]]
 
* [[粟屋元親]]
 
* [[飯田元親]]
 
* [[井上元兼]]
 
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: 十八将以外の家臣については、[[毛利氏#家臣団|毛利氏の家臣団]]の項を参照。
 
 
 
== 偏諱を与えた人物 ==
 
* [[粟屋元通|粟屋'''元'''通]]
 
* [[北就勝|北'''就'''勝]]
 
* [[毛利元氏|吉川'''元'''棟(毛利元氏)]]
 
* [[林就長|林'''就'''長]]
 
* [[弘中方明|弘中'''就'''慰(弘中方明)]]
 
* [[福原元俊|福原'''元'''俊]]
 
* [[村上元吉|村上'''元'''吉]]
 
* [[益田元祥|益田'''元'''祥]]
 
 
 
== 毛利氏が支配した主な城 ==
 
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{{col-3}}
 
'''安芸国'''
 
* [[吉田郡山城]]
 
* [[多治比猿掛城]]
 
* [[壬生城 (安芸国)|壬生城]]
 
* [[船山城]]
 
* [[長見山城]]
 
* [[三入高松城]]
 
* [[鳥籠山城]]
 
* [[八木城 (安芸国)|八木城]]
 
* [[己斐城]]
 
* [[佐東銀山城]]
 
* [[桜尾城]]
 
* [[宮尾城]]
 
* [[草津城]]
 
'''長門国'''
 
* [[且山城]]
 
{{col-3}}
 
'''備後国'''
 
* [[高山城 (安芸国)|高山城]]
 
* [[新高山城]]
 
* [[三原城]]
 
* [[旗返城]]
 
'''備中国'''
 
* [[備中高松城]]
 
* [[備中松山城]]
 
'''周防国'''
 
* [[高嶺城|鴻之峰城]]
 
'''出雲国'''
 
* [[月山富田城]]
 
* [[三刀屋城]]
 
* [[荒隈城|洗骸城]]
 
{{col-3}}
 
'''石見国'''
 
* [[山吹城]]
 
* [[温湯城]]
 
* [[福光城]]
 
* [[七尾城 (石見国)|益田城]]
 
* [[津和野城]]
 
'''因幡国'''
 
* [[鳥取城]]
 
'''播磨国'''
 
* [[上月城]]
 
'''豊前国'''
 
* [[門司城]]
 
* [[豊前松山城]]
 
'''筑前国'''
 
* [[立花山城]]
 
{{col-end}}
 
 
 
== 関連作品 ==
 
一代で西日本最大の戦国大名となりその名を広く知られるようになったため、現代でも小説・ゲーム・アニメなどで取り上げられている<ref>郡山城観光パンフレット「国指定史跡毛利氏城跡 郡山城」(発行:安芸高田市未来創造事業 歴史・伝統文化を活用した地域活性化実行委員会) - [http://www.akitakata.jp/ja/sightseeing/recommend/jikokuhyou/ 郡山城趾観光ルート(時刻表付き)]{{リンク切れ|date=2017年3月}} (安芸高田市)</ref>。
 
 
 
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
 
;小説
 
<!--主題として登場する小説-->
 
*毛利元就([[山岡荘八]])
 
*元就、そして女たち([[永井路子]])
 
*覇道の鷲 毛利元就([[古川薫]])
 
*毛利元就とその時代(古川薫)
 
*毛利元就と戦国武将たち(古川薫)
 
*毛利元就([[童門冬二]])
 
*毛利元就([[谷恒生]])
 
*毛利元就([[徳永真一郎]])
 
*毛利元就([[松永義弘]])
 
*毛利元就([[榊山潤]])
 
*毛利元就([[内館牧子]])
 
*毛利元就 秀吉が、そして家康が畏怖した男([[堺屋太一]])ほか
 
*毛利元就 知略に長けた西国の覇者([[和田恭太郎]])
 
*毛利元就と陶晴賢([[山本一成]])
 
*荒天は吉日([[馬場誠二]])
 
*智将毛利元就・勝利の方程式99([[藤田公道]])
 
*元就軍記 歴史小説([[桜田晋也]])
 
*厳島の戦い 戦史ドキュメント([[森本繁]])
 
*我、天下を望まず([[渡辺寿光]])
 
 
 
;テレビドラマ
 
*[[毛利元就 (NHK大河ドラマ)|毛利元就]]([[1997年]] NHK大河ドラマ 元就役:[[岩渕幸弘]]→[[森田剛]]→[[中村芝翫 (8代目)|中村橋之助]])<ref group="注釈">毛利元就の自筆が題字として採用されたため、スタッフの一人として毛利元就自身がクレジットされている。</ref>
 
 
 
;ゲーム
 
*[[西国の雄]]([[ツクダホビー]]) [[ボード・ウォー・シミュレーションゲーム のタイトル一覧#さ|ボードゲーム]]。毛利元就の中国地方制圧の戦いを再現。
 
*[[毛利元就 誓いの三矢]]([[コーエー]])- 1997年発売。声:[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]。
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{notelist}}
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2016年2月|section=1}}
 
*[[石黒吉次郎]]『安西軍策 毛利元就合戦記(日本合戦騒動叢書)』(勉誠出版) ISBN 978-4-585-05111-4
 
*[[小和田哲男]]『戦国武将「名将」のすごい手の内』(三笠書房) ISBN 978-4-8379-7656-1
 
*『歴史群像1996年12月号 総力特集〜毛利元就軍団』(学研)
 
* 金谷俊則『毛利隆元』(中央公論事業出版) ISBN 4-89514-301-5
 
* {{Citation|和書|last=河合|first=正治|authorlink=|date=1984-11|title=安芸毛利一族|series=|volume=|publisher=[[新人物往来社]]|id={{全国書誌番号|85019269}}|ncid=BN01455089|isbn=440401239X|oclc=672973935|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=鴨川達夫|editor=|date=2011-4|title=武田信玄と毛利元就 : 思いがけない巨大な勢力圏|series=日本史リブレット人, 043|publisher=[[山川出版社]]|id={{全国書誌番号|21938299}}|isbn=978-4-634-54843-5|ncid=BB05531898|oclc=752050531|ref=harv}}
 
* [[岸田裕之]]『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房) ISBN 978-4-623-07224-8
 
* {{Citation|和書|last=阪本|first=是丸|authorlink=阪本是丸|date=1994-1|contribution=[[豊榮神社・野田神社|豊栄神社]]|editor=渡邊静夫|title=[[日本大百科全書]]|publisher=[[小学館]]|volume=17|id={{全国書誌番号|99096908}}|isbn=409526117X|ncid=BN10240516|oclc=683132570|ref=harv}}
 
*『新説戦乱の日本史38 厳島の戦い』(小学館)
 
*『新説戦乱の日本史39 月山富田城の戦い』(小学館)
 
* 『戦乱中国の覇者 毛利の城と戦略』(成美堂出版) ISBN 4-415-09216-0
 
*[[谷口克広]]『信長の政略 -信長は中世をどこまで破壊したか-』(学研) ISBN 978-4-05-405710-4
 
*[[田端泰子]]「戦国期女性の役割分担」(『日本中世女性史論』塙書房、1994年)
 
* {{Cite book|和書|author=舘鼻誠|title=戦国争乱を生きる : 大名・村、そして女たち|series=NHKライブラリー, 209|date=2006-12|publisher=日本放送出版協会|isbn=4-14-084209-1|id={{全国書誌番号|21155354}}|ncid=BA79725929|oclc=675126696|ref=harv}}
 
*『大日本古文書 家わけ第八 毛利家文書』[[東京大学史料編纂所]]
 
** {{Cite book|和書|author=東京帝国大学文学部史料編纂所編|date=1920-11-30|title=[[大日本古文書]]|volume=家わけ八ノ一 毛利家文書之1-4|publisher=東京帝国大学|id={{全国書誌番号|73018527}}|ncid=BN04859787|oclc=33677381|ref=harv}}{{オープンアクセス}}[{{NDLDC|1915632}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
*『大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書』東京大学史料編纂所
 
*『大日本古文書 家わけ第十一 小早川家文書』東京大学史料編纂所
 
**{{Cite book|和書|author1=東京帝国大学文学部史料編纂所編|date=1927|title=大日本古文書|volume=家わけ十一ノ一:小早川家文書之1|chapter=|publisher=東京帝国大学|id={{全国書誌番号|73018529}}|ncid=BN04860811|oclc=835258028|ref=harv}}{{オープンアクセス}}[{{NDLDC|1908791}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
**{{Cite book|和書|author1=東京帝国大学文学部史料編纂所編|date=1927|title=大日本古文書|volume=家わけ十一ノ二:小早川家文書之2|chapter=|publisher=東京帝国大学|id={{全国書誌番号|73018529}}|ncid=BN04860811|oclc=834195954|ref=harv}}{{オープンアクセス}}[{{NDLDC|1908801}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
* {{オープンアクセス}}{{Cite book|和書|author=時山弥八編|date=1916|title=稿本もりのしげり|url={{NDLDC|969141}} 国立国会図書館デジタルコレクション|id=|ncid=BN04718592|ref=harv}}
 
* {{Citation|和書|last=宮本|first=義己|authorlink=宮本義己|date=2002-3|title=歴史をつくった人びとの健康法 : 生涯現役をつらぬく|series=中災防新書, 008|volume=|publisher=[[中央労働災害防止協会]]|id={{全国書誌番号|20342773}}|ncid=BA57557401|isbn=4805908068|oclc=166676820|ref=harv}}
 
* {{Citation|和書|last=山室|first=恭子|authorlink=山室恭子|date=1995-4|title=群雄創世紀 : 信玄・氏綱・元就・家康|series=|volume=|publisher=[[朝日新聞社]]|id={{全国書誌番号|95045017}}|ncid=BN12621962|isbn=4022568437|oclc=675061775|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=吉田龍司|editor=|date=2010-9|title= 毛利元就 : 「猛悪無道」と呼ばれた男|series=Truth in history, 22|publisher=[[新紀元社]]|id={{全国書誌番号|21821591}}|isbn=9784775308400|ncid=BB03590229|ref=harv}}
 
* ビジュアル日本の名将100傑(歴史魂編集部) ISBN 978-4048709408
 
*[[渡辺世祐]]編『毛利元就卿伝』マツノ書店、1997年
 
 
 
;論文
 
* {{Citation|和書|last=藤木|first=久志|authorlink=藤木久志|chapter=戦国乱世の女たち|title=彼岸に生きる中世の女|series=日本女性史3|editor=[[笠原一男]]|year=1976|publisher=評論社}}
 
* {{Cite journal|和書|last=宮本|first=義己|authorlink=宮本義己|title=足利将軍義輝の芸・雲和平調停―戦国末期に於ける室町幕政―|year=1974a|journal=国学院大学大学院紀要|volume=6輯|issue=|id={{全国書誌番号|00008276}}|naid=|pages=|ncid=|issn=0388-9599|ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|last=宮本|first=義己|title=足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)|year=1974b|date=1974-11|publisher=日本政治経済史学研究所|journal=政治経済史学|volume=11|issue=102|id={{全国書誌番号|00013066}}|naid=|pages=1-6|ncid=|issn=02864266|ref=harv}}{{クローズドアクセス}}[{{NDLDC|2744531}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
* {{Cite journal|和書|last=宮本|first=義己|title=足利将軍義輝の芸・豊和平調停(下)|year=1974c|date=1974-12|publisher=日本政治経済史学研究所|journal=政治経済史学|volume=12|issue=103|id={{全国書誌番号|00013066}}|naid=|pages=12-20|ncid=AN0012728X|issn=02864266|ref=harv}}{{クローズドアクセス}}[{{NDLDC|2744532}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
* {{Cite journal|和書|last=宮本|first=義己|title=武家女性の資産相続--毛利氏領国の場合|date=1975-07|publisher=国学院大学出版部|journal=国学院雑誌|volume=76|issue=7|id={{全国書誌番号|00008272}}|naid=40001281543|pages=18-30|ncid=AN00087221|issn=02882051|ref=harv}}{{クローズドアクセス}}[{{NDLDC|3365465}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
* {{Cite journal|和書|last=宮本|first=義己|title=戦国大名毛利氏の和平政策--芸・雲和平の成立をめぐって|date=1978-12|publisher=[[吉川弘文館]]|journal=[[日本歴史]]|volume=|issue=367|naid=40003065611|pages=19-36|ncid=AN00198834|issn=0386-9164|ref=harv}}{{クローズドアクセス}}[{{NDLDC|7910420}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
* {{Cite journal|和書|last=宮本|first=義己|title=戦国期毛利氏領国における医療体制刷新の実相--曲瀬道三の医術教導と元就の医道伝授|year=1993a|date=1993-01|publisher=帝京大学文学部史学科|journal=帝京史学|volume=|issue=8|id={{全国書誌番号|00043595}}|naid=|pages=53-105|ncid=AN10065407|issn=09114645|ref=harv}}{{クローズドアクセス}}[{{NDLDC|4424100}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
* {{Citation|和書|last=宮本|first=義己|chapter=戦国期における毛利氏領国の医療と医術|title=戦国織豊期の政治と文化|editor=米原正義先生古稀記念論文集刊行会|year=1993b|date=1993|publisher=続群書類従完成会}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Category:Mōri Motonari}}
 
* [[厳島神社]]、[[毛利水軍]]
 
* [[百万一心]]、[[三子教訓状]]
 
* [[メイショウモトナリ]]
 
* [[毛利昭彦]]
 
* [[広島市森林公園]] - [[山城]]を再現した展望台を設置。
 
* [[サンフレッチェ広島]]
 
* [[元就。]] - [[中国放送]]で放送されているローカルバラエティ番組。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/ 毛利博物館公式ホームページ]
 
*{{YouTube|DC0U94yIoYk|毛利元就公墓所を訪ねる}}(朝日新聞社提供、2018年3月23日公開)
 
  
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戦国時代の武将。弘元の子。幼名,松寿丸。少輔次郎と称した。大永3 (1523) 年家督を継ぎ郡山城に拠った。初め尼子晴久に仕えたが,天文3 (1534) 年大内義隆に属して尼子氏に対抗。義隆が家臣[[陶晴賢]]に殺されると,その弔い合戦と称して弘治1 (1555) 年[[厳島の戦い]]で晴賢を討ち,その余党も撃滅して長門,周防をその勢力下に収め,さらに永禄9 (1566) 年までに尼子氏ならびにその余党を討って山陰,山陽 10ヵ国と九州,四国の一部をも領有する一大勢力を形成した。
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毛利元就
時代 戦国時代
生誕 明応6年3月14日[1]1497年4月16日
死没 元亀2年6月14日[1]1571年7月6日
幕府 室町幕府 相伴衆[1]
主君 毛利興元毛利幸松丸尼子経久大内義隆
氏族 大江氏毛利氏

毛利 元就(もうり もとなり)

戦国時代の武将。弘元の子。幼名,松寿丸。少輔次郎と称した。大永3 (1523) 年家督を継ぎ郡山城に拠った。初め尼子晴久に仕えたが,天文3 (1534) 年大内義隆に属して尼子氏に対抗。義隆が家臣陶晴賢に殺されると,その弔い合戦と称して弘治1 (1555) 年厳島の戦いで晴賢を討ち,その余党も撃滅して長門,周防をその勢力下に収め,さらに永禄9 (1566) 年までに尼子氏ならびにその余党を討って山陰,山陽 10ヵ国と九州,四国の一部をも領有する一大勢力を形成した。




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