「奥羽越列藩同盟」の版間の差分

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[[Image:Flag of Ouetsu Reppan Domei or the Northen Alliance in Japan.svg|thumb|200px|奥羽越列藩同盟旗、黒地のものと白地のものがある]]
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'''奥羽越列藩同盟'''(おううえつれっぱんどうめい)
[[Image:Standard-bearer_in_2006_Aizu_parade.JPG|thumb|会津若松の祭典にて列藩同盟旗を掲げる旗手]]
 
'''奥羽越列藩同盟'''(おううえつれっぱんどうめい)は、[[戊辰戦争]]中の[[1868年]]([[慶応]]4年/[[明治]]元年)[[5月6日]]に成立した同盟で<ref name=reppann>TBS系列「水トク!林修の歴史ミステリー」2017年11月15日放送。[[仙台藩]]主・[[伊達慶邦]]の命を受け、『[[仙台藩]]の[[坂本龍馬]]』とも称された仙台藩士・[[玉虫左太夫]]が、[[薩長]]を中心とする新政府軍に対抗する「奥羽越列藩同盟」を成立させるために東北諸藩を回った。</ref>、[[陸奥国]](奥州)・[[出羽国]](羽州)・[[東北地方|蝦夷地]]([[東北地方|北海道]])および[[越後国]](越州)の諸藩が、[[輪王寺宮]]・[[北白川宮能久親王]]を盟主とし、[[薩長]]中心の新政府の圧力に対抗するために結成された。
 
  
新政府軍に対抗すべく、現在の[[東北地方]]と北海道(東北諸藩の領地と警衛地、[[東北地方|松前藩]])、および[[新潟県]]に位置する諸藩が「北日本」として独立することが同盟の目的であるが<ref name=reppann/>、最初は、奥羽諸藩が[[会津藩]][[庄内藩]]の「[[朝敵]]」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)であった。よって両藩は列藩同盟の盟約書には署名していなが会庄同盟を結成した。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新たな政権(北日本政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化した。
+
[[戊辰戦争]]に際して奥羽,北越の諸藩が,官軍に抗戦するために結んだ攻守同盟。[[会津藩]],[[鶴岡藩]]は,幕末の動乱期に最も強硬な佐幕活動を行なってきたが,[[江戸開城]]後,藩主らはそれぞれ藩地に戻って謹慎していた。しかし官軍側は,九条道孝を鎮撫総督に任じて会津,庄内両藩の追討を目指し,[[仙台藩]],[[米沢藩]]に使者を送って討伐を命じた。仙台,米沢藩重臣らは,会津,庄内両藩主の謹慎を官軍側に報告して,追討取消しの嘆願を行なった。官軍側がこれを却下すると,恭順の意を表わすものを討つのは不当であるとして,仙台,米沢両藩は総督府参謀世良修蔵を斬って抗戦の決意を表明し,慶応4 (1868) 年5月3日,奥羽 26藩の間に攻守同盟が成立した (奥羽列藩同盟) 。さらに会津藩と盟約を結んでいた[[新発田藩]]ら北越6藩がこれに加わり,30藩をこえる大同盟となった。同盟の大義名分は,「君側の奸」として薩摩藩を討つことにおかれ,[[彰義隊]]戦争で敗れ北走した輪王寺宮公現法親王を推戴し,白石に公議府,福島に軍事府を設置した。ところが,官軍が白河口,越後口から進攻すると,[[秋田藩]]をはじめ,脱退して官軍側に協力する藩が相次いだ。洋式軍備の点でまさっていた官軍がまず北陸を鎮定し,白河,棚倉,二本松を攻略したため,米沢,仙台両藩も降伏,同盟は瓦解した。最後まで抗戦した会津藩も9月 22日ついに降伏し,5ヵ月にわたる戦争は官軍の勝利に帰した。なお,同盟諸藩は,いずれも敗戦後,減封,処罰されたが,官軍側は特に寛大な処置をもってのぞんだ。 ([[会津戦争]] , [[五稜郭の戦い]] )  
  
同盟のイデオローグ・理論的指導者として[[仙台藩]]の[[大槻磐渓]]の存在が挙げられる。そして、同じく仙台藩の[[玉虫左太夫]]は、仙台藩主の[[伊達慶邦]]の命を受けて東北諸藩を回り同盟を成立させた立役者の一人として知られる<ref name=reppann/>。なお、加盟各藩はいずれも当初は、[[薩長]]など新政府が仙台に設置した奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく)に従っていた。 
 
 
== 救会・救庄のための同盟 ==
 
=== 会津、庄内藩の立場 ===
 
[[会津藩]]は[[京都守護職]]、[[庄内藩]]は江戸市中取締を命ぜられ、旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために[[朝敵]]として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。会庄両藩の外交の動きは、[[2011年]][[2月]]、[[東京大学史料編纂所]]箱石大[[准教授]]らにより、両藩が当時の[[プロイセン王国|プロイセン]]代理[[公使]][[マックス・フォン・ブラント]]を通じて、領有する[[北海道]]の[[根室]]や[[留萌]]の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を模索していたことを示す、ブラントから本国への書簡が[[ドイツ国立軍事文書館]]で発見された<ref>{{cite web| url = http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html| title = 維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認| author =| work = [[朝日新聞]]| publisher = www.asahi.com| date = 2011-02-07| accessdate = 2011-02-09}}</ref>ことにより、明らかになってきた。この文書において、プロイセン宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]は中立の立場から会庄両藩の申し出を断っている。しかしプロイセン海軍大臣は、日本が混迷している隙をつき、他国同様、領土確保に向かうべきであると進言している。
 
 
=== 会津への出兵 ===
 
会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主[[松平容保]]は家督を養子の[[松平喜徳|喜徳]]へ譲り、謹慎を行い恭順の意志を示した。しかし、この武装恭順は認められず、[[慶応]]4年([[1868年]])1月17日、新政府は[[仙台藩]]・[[米沢藩]]をはじめとする東北の[[雄藩]]に[[会津藩]]追討を命じた。[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]、奥羽鎮撫総督・[[九条道孝]]が京都をたって[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]仙台に入った。
 
 
鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵したが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。4月29日、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津藩による談判がもたれ、会津藩が謀主の首級を出し降伏することで一旦同意した。<ref>『仙台藩記』土佐云 謝罪嘆願被致ニテ開城某主の首級を差出候哉 平馬答 容保城外に謹慎ハ勿論ニ候得共首級ハ差出兼候伏見ニテ大概戦死生残ル者僅一両輩是等ハ皆国家盡尽忠ノ者ニテ斬首ニ及候ハバ国中同様事却て被可申全体徳川慶喜一身ニ引受壱人ノ罪にて他将卒の誤ニハ無之趣意を以謝罪嘆願御採用の上ハ会藩等ノ如キハ己に罪状消滅今更征討ヲ蒙ル謂レ無之依テハ首級迄ハ差出兼申候 土佐云 其趣ニテハ執達致兼候尤御受取ニハ相成魔敷其節ハ何様所置致候哉 平馬云 一国死ヲ以守申候 土佐云 一国拳テ死ノ覚悟ならは僅一両輩ノ死ヲ以一藩助命相成候ハバ一ツ二ツノ首級ハ安キ事に可有之ト申候其折傍座致居候 </ref>しかし、数日後にはそれを翻した内容の嘆願書を持参する。これを見て仙台藩は説得を諦めることとなる。
 
 
=== 庄内・清川口の戦い ===
 
{{main|清川口の戦い}}
 
一方、庄内藩では、江戸市中警備を行っていた[[新徴組]]を引き上げるのに当たって、その褒賞として最上川西岸の[[天領]]を旧幕府より与えられる。しかし、領民はこれを不服として仙台の奥羽鎮撫府に申し出たため、4月10日この申し出を口実に庄内征伐を決め、[[久保田藩]]、[[弘前藩]]の両藩に討ち入りを命じた。14日には副総督[[澤為量]]ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かい、奥羽諸藩の兵とともに新庄城を拠点に庄内藩へ侵攻した。24日に清川口で最初の戦闘が発生したが、庄内軍が薩長軍を撃退する。この段階では各藩とも戦闘に消極的であった。
 
 
=== 会庄同盟 ===
 
あくまで武力討伐にこだわる奥羽鎮撫府に対して、会津藩は[[南摩綱紀]]を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の[[松平親懐|松平権十郎]]らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。なお、松平権十郎は米沢藩が同盟に加われば仙台藩も同盟に加わると意見を述べており、この時期に「奥羽列藩同盟」構想の萌芽が現れていたと言える。<ref>『南摩綱記筆記 復古記十二巻』権十郎曰、会、庄一致、而後米沢を説諭セン、米同盟セハ、仙ハ直ニ同盟セン、仙、米会、庄同盟セハ、奥羽諸藩一言ニシテ同盟スヘシ、然後、速ニ兵ヲ江戸ニ出シ、江戸城ヲ以テ軍議本営トシ、諸藩ノ兵を合シテ凶徒ヲ掃ヒ、君側ヲ清ムヘシ、如此ナレハ、則唾手シテ天下ノ事成ル可シ、是寡君江戸ニ在ル時ヨリノ持論ナル故ニ、密使ヲ以テ貴藩ヘ謀ラント、已ニ菅、本多等ニ命シタレトモ、病ニ臥シテ発スルコト能ワス、遅延今日ニ及ヒタリ、今卿等来テ此約成ル、何ノ幸カ之ニ若ンヤト、庄両候、八之丞、平介ヲ城内ニ召テ、懇篤ノ面命アリ、又賜物ヲ辱フス、平介庄藩戸田文之助ト共ニ米藩ニ赴キ、同盟ヲ謀ル、八之丞ハ菅、本多ト共ニ四月廿六日会津ニ帰結シ、一両人を撰テ彼此互ニ交萬シ、密議ヲ預リ聞クコトヲ約ス、庄ヨリハ物頭戸田文之助、軍事掛吉野遊平穉松ニ来萬ス、我藩ヨリハ佐久間平介、鶴岡ニ往テ寓居ス、後平介故アリテ帰国、上島良蔵之に代ル、是同盟ノ濫觴ナリ</ref>そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人[[本間家]]の莫大な献金を元に商人[[スネル兄弟|エドワード・スネル]]から[[スナイドル銃]]など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。結局、前述の仙台藩の会津出兵による説得は功をなさないものであったと言えよう。
 
=== 天童の戦い ===
 
{{main|天童の戦い}}
 
4月24日清川口の戦いで奥羽鎮撫府軍を撃退した庄内軍は、勝勢に乗じて[[大越 (山形県の峠)|六十里越]]を通り[[最上川]]左岸([[寒河江市]]・[[河北町]])に布陣する。閏4月4日最上川を越えて天童を襲撃、市街地の半分を焼く。朝敵の誹りを恐れた庄内藩主・[[酒井忠篤 (庄内藩主)|酒井忠篤]]は撤退の命を下し閏4月12日に撤退するが、官位は剥奪され庄内藩は正式に討伐の対象になってしまう。
 
 
=== 白石列藩会議 ===
 
こうした中、閏4月4日米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の[[白石城]]において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。しかしこれが却下されたため、閏4月19日、諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言した。
 
 
{{main|白石会議}}
 
 
=== 世良修蔵の暗殺 ===
 
奥羽鎮撫総督府[[下参謀]]の[[世良修蔵]]は[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していたが、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していた。ここで、同じく下参謀であった[[薩摩藩]][[大山綱良|大山格之助]]に密書を書いた。
 
 
内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであったが、この密書が仙台藩士・瀬上主膳や[[姉歯武之進]]らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある'''「奥羽皆敵」'''の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、[[阿武隈川]]の河原にて斬首された。
 
 
=== 奥羽列藩同盟の誕生===
 
会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。そのためには奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23日新たに11藩を加えて'''白石盟約書'''が調印された。その後、仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟諸藩の相互協力関係を規定して、[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]に25藩による'''盟約書'''<ref>『東北征討始末五・奥羽征討二 国立公文書館デジタルアーカイブ』今度奥羽列藩会議於仙台表告 鎮撫総督府欲以修盟約執公平正大之道同心協力上尊王室下撫恤人民維持皇国而安宸襟仍条例如左 一 以伸大義于天下為目的不可拘泥小節細行事 一 如同舟渉海可以信居以義動事 一 若有不義危急之事比隣各藩速援救可報告総督府事 一 勿負強凌弱勿営私計利勿漏洩機事勿離間同盟 一 築造城塁運搬食糧不得止勿漫令百姓労役不勝愁苦 一 大事件列集儀、可帰公平之旨、細微則可随其宣事 一 通謀他国、或出兵隣境、可報同盟事 一 勿殺戮無辜、勿掠奪金穀、凡事渉不義者可加厳罰事 右条々於有違背者、則列藩集儀、可加厳譴者也、慶応四年閏四月</ref>が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟成立の月日については諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようである。
 
 
=== 北越諸藩の加盟~奥羽越列藩同盟の成立 ===
 
翌4日には、新政府軍との会談に決裂した[[越後長岡藩]]が加盟、6日には[[新発田藩]]等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による'''奥羽越列藩同盟'''が成立した。
 
 
=== 列藩同盟結成後の撫順総督府 ===
 
副総督の[[澤為量]]が率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていた。[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]、[[松島]]に新政府軍の[[佐賀藩]]、[[小倉藩]]の兵が上陸し、九条の護衛のため仙台城下に入った。九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督の沢と合流して上京する旨を仙台藩側に伝えた。翌15日、列藩会議が開かれてこの問題が討議され、九条の解放に反対する意見も出たが、結局九条の転陣が内定し、18日、仙台を発って盛岡に向かった。
 
 
== 北日本政権 ==
 
=== 奥羽越公議府 ===
 
奥羽越列藩同盟の政策機関として奥羽越公議府([[公議所]]とも)がつくられ、諸藩の代表からなる参謀達が白石城で評議を行った。
 
 
=== 列藩同盟の戦略 ===
 
奥羽越公議府において評議された戦略は、「白河処置」及び「庄内処置」、「北越処置」、「総括」であり、全23項目にのぼる。主に次のような内容で構成される。
 
 
* 白河以北に薩長軍を入れない、主に会津が担当し仙台・二本松も出動する
 
* 庄内方面の薩長軍は米沢が排除する
 
* 北越方面は長岡・米沢・庄内が当たる
 
* 新潟港は列藩同盟の共同管理とする
 
* 薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる
 
* 世論を喚起して、諸外国を味方につける
 
 
このほか、プロシア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請している。
 
 
=== 二人のミカド ===
 
{{main|北白川宮能久親王}}
 
[[上野戦争]]から逃れ、[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王(のちの[[北白川宮能久親王]])を同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、結局[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]に盟主のみの就任に決着、[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]には白石城に入り列藩会議に出席した。
 
 
また、輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされるが、よくわかっていない。
 
 
確かなのは輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされていたことと、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が知られているだけである。当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている<ref>[[ニューヨーク・タイムズ]] 1868年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある。</ref>。
 
 
なお、輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、「動座布告文」と「輪王寺宮[[東北地方|令旨]]」を発令している。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。幼君を字義通りに解釈すれば明治天皇の帝位を認めていることになるが、必ずしも輪王寺宮の即位を否定する根拠とはならない<ref>自ら天皇([[新皇]])を称した上で京都の天皇の帝位(本皇)を認めた例として、[[平将門]]が挙げられる。</ref>。
 
 
したがって、輪王寺宮が奥羽越列藩同盟の事実上の元首であったことは間違いないが、東武皇帝として即位したかどうか、統一した見解は得られていない。
 
 
=== 組織構造 ===
 
奥羽越列藩同盟は、まず列藩会議があり、その下に白石に奥羽越公議府が置かれた。その後輪王寺宮が盟主に就任し、旧幕府の閣老である[[板倉勝静]]、[[小笠原長行]]にも協力を仰ぎ、次のような組織構造が成立した。
 
 
* 盟主 : 輪王寺宮
 
* 総督 : 仙台藩主・[[伊達慶邦]]、米沢藩主・[[上杉斉憲]]
 
* 参謀 : 小笠原長行、板倉勝静
 
* 政策機関 : 奥羽越公議府(白石)
 
* 大本営 :  軍事局(福島)
 
* 最高機関 : 奥羽越列藩会議
 
 
この結果、形式的には京都新政府に対抗する権力構造が整えられたとする評価もあるが、これらが実際に機能する前に同盟が崩壊してしまったとする説もあり、奥羽越政権としての評価は定まっていない。
 
 
== 戦闘 ==
 
{{main|戊辰戦争}}
 
戦闘は大まかに庄内・秋田戦線、北越戦線、白河戦線、平潟戦線に分けることができる。このうち、秋田戦線については久保田藩の新政府への恭順により加わったものである。なお、同様に新政府側となった弘前藩との間では野辺地で盛岡・八戸両藩と戦闘となっている(野辺地戦争)。
 
 
=== 庄内・秋田戦線 ===
 
江戸警護役として「薩摩藩邸焼き討ち」を断行した庄内藩(酒井氏)と、列藩同盟に軟禁されていた九条総督を迎え新政府側に転じた久保田藩(佐竹氏)を中心とする戦い。
 
 
==== 庄内戦線 ====
 
薩摩藩、長州藩を中心とする新政府は、薩摩藩士・[[大山綱良]]を下参謀に、公家・九条道孝を総督にそれぞれ任命して奥羽鎮撫総督府をつくると、薩摩藩兵を海路、仙台藩に送り込んだ。仙台藩に会津追討を命じた総督府は、庄内藩を討つため仙台から出陣した。 4月24日、いわれなき「朝敵」の汚名を着せられた庄内藩は、清川口から侵攻してきた大山綱良率いる新政府軍を迎え撃った。新政府軍の侵攻を予想して、豪商・本間家からの献金で最新鋭の小銃を購入し洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優秀であったため、新政府軍を圧倒した。薩長の新政府軍が旧幕府軍を圧倒したといわれる戊辰戦争の一連の戦闘の中で、旧幕府軍が新政府軍を圧倒した数少ない例と言われる。
 
 
==== 秋田戦線 ====
 
{{main|秋田戦争}}
 
5月18日に仙台を出た九条総督一行は「伊達の敵といえば」と6月3日に盛岡に入ったが、[[盛岡藩]]はいまだ藩論統一をみない、新政府側家老暗殺の動きすらある状態であったことからこれを諦め、盛岡藩は金銭を支払う形で領内退去を願い、総督は6月24日秋田へ出発した。[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]、九条一行は秋田にて沢副総督と再会し、東北地方の新政府軍が秋田に集結することになった。
 
 
同藩出身である[[平田篤胤]]の影響で[[尊皇攘夷|尊王論]]の強かった久保田藩においては、列藩同盟か朝廷かで藩論が二分されたが、平田学の影響を受けた若い武士により、仙台藩からの使者を斬殺するに至って(このとき盛岡藩士も巻き込まれているが泣き寝入りとなった)、新政府軍への参加と庄内藩への進攻を決定した。仙台藩はこれに怒って久保田領内に侵攻し、庄内藩と共同作戦をとりつつ[[横手城]]を陥落させ、[[久保田城]]へ迫った。
 
 
庄内藩は新政府軍側についた[[新庄藩]]、[[本荘藩]]、久保田藩へと侵攻する。藩論統一が成されていなかった盛岡藩は仙台藩に恫喝される形で軍を発し、久保田藩領内北部から進入、かねてより仙台藩と親しかった家老・[[楢山佐渡]]の指揮のもと、町村を焼き払いながら侵攻し、[[大館城]]を陥落させ、さらに久保田城の方向に攻め入った。
 
 
秋田南部での戦いでは、薩長兵や新庄兵が守る新庄城を数で劣る庄内藩が激戦の末に撃破し、秋田に入った後も、列藩同盟側は極めて優勢に戦いを進めていた。特に、庄内藩の鬼玄蕃と呼ばれた家老[[酒井了恒|酒井吉之丞]]は二番大隊を率い奮戦した。彼は、最初から最後まで負け戦らしい戦闘を経験せず、同盟側の多くが降伏し、庄内領内にも敵が出没するという情勢を受けて、現在の[[秋田空港]]の近くから庄内藩領まで無事撤退を完了させて、その手腕を評価された。
 
 
秋田北部の戦いでは盛岡藩は大館城を攻略した後、[[きみまち阪|きみまち坂]]付近まで接近するものの、新政府軍側の最新兵器を持った兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った[[楢山佐渡]]以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。
 
 
結果として、久保田領内はほぼ全土が戦火にさらされることになった。
 
 
=== 北越戦線 ===
 
{{main|北越戦争}}
 
長岡・米沢藩を中心とした列藩同盟軍と新政府軍との[[越後国|越後]][[越後長岡藩|長岡藩]]周辺及び新潟攻防戦を中心とした一連の戦闘。
 
 
北越においては、[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]([[6月21日]])の小千谷談判の決裂後、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式に参加し、[[新発田藩]]など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。
 
 
家老[[河井継之助]]率いる長岡藩兵は強力な火力戦により善戦するが、5月19日には[[長岡城]]が陥落した。しかし、その後も長岡藩は奮闘し、7月末には長岡城を一時的に奪還したが、この際の負傷が原因で河井継之助は死亡した。結局長岡城は新政府軍に奪われ、会津へ敗走した。
 
 
新潟は列藩同盟側の武器調達拠点であるとともに、[[阿賀野川]]を制することにより庄内・会津方面の防衛線としても重要な拠点であった。
 
 
新潟は米沢藩を中心に守りを固めていたが、[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]、新政府軍に寝返った新発田藩の手引きによって新政府軍が上陸。同月29日には新潟は制圧され、米沢藩は敗走した。
 
 
=== 白河戦線、平潟戦線 ===
 
{{main|会津戦争|磐城の戦い}}
 
[[会津藩]]及び奥羽越列藩同盟軍と北上してきた明治新政府軍との白河口、二本松、日光口、母成峠から若松城下の戦いに至る一連の戦闘。同様に、太平洋岸の藩である[[磐城平藩]]と[[相馬中村藩|中村藩]]と[[仙台藩]]による列藩同盟軍と、明治新政府軍との一連の戦闘。
 
 
同盟結成後直ちに[[白河城]]を制圧した列藩同盟軍であったが、5月1日、薩摩藩士、[[伊地知正治]]率いる新政府軍は列藩同盟軍から白河城を奪還する。以後、白河城をめぐり3か月余りも攻防戦([[白河口の戦い]])が行われた。5月1日仙台藩・会津藩等の連合軍は2500以上の大兵を擁しながら白河口の戦いで新政府軍700に大敗し、白河城も陥落する。6月12日には仙台藩・会津藩・[[二本松藩]]連合軍が、白河城を攻撃したものの、失敗に終わった。6月26日には列藩同盟軍が白河から撤退し[[須賀川市|須賀川]]へ逃れることとなる。
 
 
一方、太平洋側では、6月16日、土佐藩士・[[板垣退助]]が率いる新政府軍が、海路で[[常陸国]](茨城県)平潟に上陸した。6月24日、[[仙台藩]]兵を主力とする列藩同盟軍は、新政府軍と棚倉で激突した。6月24日には[[棚倉城]]が陥落、さらに7月13日には、新政府軍と列藩同盟軍が磐城平で激突した。列藩同盟の準盟主格の米沢藩はこの戦闘に参加せず、列藩同盟軍は[[磐城平城]]の戦いに敗れた。[[相馬中村藩|中村藩]]兵と仙台藩兵が退却すると、新政府軍は中村藩兵と仙台藩兵を追撃。7月26日、列藩同盟軍と新政府軍は[[広野町|広野]]で再び戦い、新政府軍は列藩同盟軍を破った。その後[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]には中村藩の降伏により、太平洋岸は完全に新政府軍が制圧した。
 
 
7月26日には勤皇派が実権を得た[[三春藩]]が新政府軍に恭順し、二本松方面へ攻撃準備に加わり、7月29日に[[二本松城]]が陥落した。二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標を会津にするか仙台・米沢にするかで意見が分かれたが、会津を攻撃することとなった。会津戦争の始まりである。
 
 
会津藩は江戸占領を意図し、南方の日光口を中心に会津から遠く離れた各所に部隊を送っていたが、二本松まで北上していた新政府軍は若松の東の母成峠から攻め、敏速に前進し8月23日には[[若松城]]下に突入した。遠方に兵力があった会津藩は新政府軍の前進を阻止できず、各地の戦線は崩壊し、各地の部隊は新政府の前進を阻止するでもなく若松への帰還を志向し、城下では予備部隊である[[白虎隊]]まで投入するがあえなく敗れた。
 
 
=== 瓦解 ===
 
[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]まず[[三春藩]]が降伏、28日には[[松前藩]]で尊王派の正議隊による政変(正議隊事件)が起きて降伏した。続いて、29日に二本松藩の本拠・二本松城が落城した。次いで[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]相馬中村藩が降伏。一方、下手渡藩が列藩同盟参加の時点で既に藩主が京都に入って新政府軍に加わっていた事実<ref>下手渡藩は下手渡と旧領である筑後国三池に半分ずつ所領を持っており、戊辰戦争に際しては三池側の藩士の主張に藩主や下手渡にいる重臣たちも同意する形で新政府への恭順が決定され、3月には藩主が下手渡から京都に入って同藩は新政府軍に参加した。列藩同盟参加はその後のことであり、8月になって新政府から下手渡藩に対して奥羽鎮撫を命じられたことで同盟側の知るところとになった(水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P264-266)。</ref>が発覚、激怒した仙台藩は[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]に同藩に攻め入った。
 
 
日本海側の戦線では、新政府軍は新潟に上陸した後、8月いっぱいは下越を戦場に米沢藩と戦っていたが、遂に羽越の国境に迫られた米沢藩は9月4日に降伏、そして12日には仙台藩と、盟主格の二藩が相次いで降伏した。その後、15日[[福島藩]]、[[上山藩]]、17日[[山形藩]]、18日[[天童藩]]、19日会津藩、20日盛岡藩、23日庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊した。
 
 
=== 野辺地戦争 ===
 
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盛岡藩降伏後の9月23日未明、突如として弘前・黒石両藩が盛岡・八戸両藩が守備する野辺地へ侵攻したもの。一旦は盛岡・八戸藩が退却するも、反撃に転じ弘前・黒石軍を撃破する。
 
 
双方の戦死者は盛岡・八戸両藩が8名なのに対し、弘前・黒石両藩が29名(或いは43名とされる)であり津軽側の大敗であった。
 
 
この戦闘の原因は津軽側の実績作りといわれるが不明である。同様の小競り合いは鹿角郡濁川でも起こっている([[濁川焼討ち事件]])が、いずれも戦後処理においては私闘とされた。
 
 
== 奥羽越列藩同盟参加藩 ==
 
*白石列藩会議から参加した14藩
 
**[[仙台藩]]
 
**[[米沢藩]]
 
**[[二本松藩]]
 
**[[湯長谷藩]]
 
**[[棚倉藩]]
 
**[[亀田藩]]
 
**[[相馬中村藩]]
 
**[[山形藩]]
 
**[[福島藩]]
 
**[[上山藩]]
 
**[[一関藩]]
 
**[[矢島藩]]*(参加時は交代寄合旗本、明治維新後に石高を直し再立藩した)
 
 
**[[盛岡藩]]
 
**[[三春藩]]*
 
*新たに奥羽列藩同盟に参加した11藩
 
**[[久保田藩]](秋田藩)*
 
**[[弘前藩]]*
 
**[[守山藩]]*
 
**[[新庄藩]]*
 
**[[八戸藩]]
 
**[[平藩]]
 
**[[松前藩]]*
 
**[[本荘藩]]*
 
**[[泉藩]]
 
**[[三池藩#下手渡藩|下手渡藩]]*
 
**[[天童藩]]
 
*奥羽越列藩同盟に参加した北越6藩
 
**[[越後長岡藩|長岡藩]]
 
**[[新発田藩]]*
 
**[[村上藩]]
 
**[[村松藩]]
 
**[[三根山藩]]
 
**[[黒川藩]]
 
*その他
 
**[[請西藩]]
 
 
注)*は新政府軍に寝返った藩(進退窮まっての降伏は除く、なお下手渡藩は当初から新政府軍に通じた上での加入であった)
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
* [[原口清]]『戊辰戦争』(塙書房、(1963年) ASIN: B000JAIUTO
 
* 工藤威『奥羽列藩同盟の基礎的研究 (近代史研究叢書 (5)) 』(岩田書院、(2002年)ISBN-10: 4872942612
 
* [[星亮一]]『奥羽越列藩同盟 <small>東日本政府樹立の夢</small>』([[中公新書]]、1995年) ISBN 4-12-101235-6
 
* 中山吉弘 編著『明治維新と名参謀前山清一郎』(東京図書出版会、2002年) ISBN 4-434-01349-1
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[伊達慶邦]]
 
*[[玉虫左太夫]]
 
*[[薩長同盟]]
 
*[[官軍]]
 
*[[戊辰戦争]]
 
  
 
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奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)

戊辰戦争に際して奥羽,北越の諸藩が,官軍に抗戦するために結んだ攻守同盟。会津藩鶴岡藩は,幕末の動乱期に最も強硬な佐幕活動を行なってきたが,江戸開城後,藩主らはそれぞれ藩地に戻って謹慎していた。しかし官軍側は,九条道孝を鎮撫総督に任じて会津,庄内両藩の追討を目指し,仙台藩米沢藩に使者を送って討伐を命じた。仙台,米沢藩重臣らは,会津,庄内両藩主の謹慎を官軍側に報告して,追討取消しの嘆願を行なった。官軍側がこれを却下すると,恭順の意を表わすものを討つのは不当であるとして,仙台,米沢両藩は総督府参謀世良修蔵を斬って抗戦の決意を表明し,慶応4 (1868) 年5月3日,奥羽 26藩の間に攻守同盟が成立した (奥羽列藩同盟) 。さらに会津藩と盟約を結んでいた新発田藩ら北越6藩がこれに加わり,30藩をこえる大同盟となった。同盟の大義名分は,「君側の奸」として薩摩藩を討つことにおかれ,彰義隊戦争で敗れ北走した輪王寺宮公現法親王を推戴し,白石に公議府,福島に軍事府を設置した。ところが,官軍が白河口,越後口から進攻すると,秋田藩をはじめ,脱退して官軍側に協力する藩が相次いだ。洋式軍備の点でまさっていた官軍がまず北陸を鎮定し,白河,棚倉,二本松を攻略したため,米沢,仙台両藩も降伏,同盟は瓦解した。最後まで抗戦した会津藩も9月 22日ついに降伏し,5ヵ月にわたる戦争は官軍の勝利に帰した。なお,同盟諸藩は,いずれも敗戦後,減封,処罰されたが,官軍側は特に寛大な処置をもってのぞんだ。 (会津戦争 , 五稜郭の戦い )  





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