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'''北条 時宗'''(ほうじょう ときむね)は、[[鎌倉時代]]中期の[[武将]]・[[政治家]]。[[鎌倉幕府]]第8代[[執権]]。
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'''北条 時宗'''(ほうじょう ときむね)
  
鎌倉幕府執権職を世襲する[[北条氏]]の[[嫡流]][[得宗|得宗家]]に生まれ、世界帝国であった[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|大元朝]])の圧力が高まるなかで[[執権]]に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け([[元寇]])、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。[[官位]]は、[[正五位|正五位下]][[相模国|相模守]]。[[贈位|贈]][[従一位]]
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鎌倉幕府の8代執権 (在職 1268~84) 。時頼の3男。母は北条重時の娘。幼名は正寿。元服して相模太郎と称した。左馬権頭,但馬権守を経て相模守,正五位下,文永1 (64) 年連署,同5年執権。この年以降しばしば訪れた元の使者を退け,ついに来襲した元,高麗の連合軍を再度にわたって撃退,進んで出征を企てるなど強硬な態度で終始した。また評定制度を無視して[[得宗]]専制政治への道を開き,朝廷内の皇位争いに介入して両統迭立の端緒を開くなど,積極的な政治を行なった。第3回の元軍来襲に備えて国防に専念したが,病にかかり出家し法名を道杲と称した。早くから禅を信じ,宋から[[無学祖元]]を招き,弘安5 (82) [[円覚寺]]を創建して無学祖元を開山とした。
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== 生涯 ==
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==外部リンク==
=== 出生から執権就任まで ===
 
[[建長]]3年([[1251年]])[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]、[[相模国]][[鎌倉]]、[[安達氏]]の甘縄邸に生まれる。長兄に宝寿丸(のちの[[北条時輔]])がいたが彼は側室の子(庶子)であったため、正寿が後継者に指名された。
 
  
[[康元]]2年([[1257年]])<ref>佐藤・樋口、2000年、p.11。</ref>、まだ7歳という年齢でありながら、将軍御所にて[[征夷大将軍]]・[[宗尊親王]]の[[加冠]]により<ref>佐藤・樋口、2000年、p.272。</ref>[[元服]]、親王より[[偏諱]](「宗」の1字)を賜り<ref>佐藤・樋口、2000年、p.11。父・時頼と同じく将軍より賜った偏諱を名前の二文字目においている。</ref>、相模太郎'''時宗'''(ときむね)と名乗る。この時、後に義兄となる[[安達泰盛]]が[[烏帽子]]を運ぶ役目を務めたという<ref>佐藤・樋口、2000年、p.11~12。</ref><ref>その他、[[佐々木泰綱]]が乱筥、[[武藤景頼]]が柑坏、[[北条朝直]]が剣、調度品は[[北条時章]]、鎧は[[北条教時]]・[[北条公時]]、御野矢は[[宇都宮泰綱]]、御行騰は[[二階堂行方]]。『吾妻鏡』康元二年二月大廿六日壬午条</ref>。元服には北条氏一門や得宗被官、公家などが列席し、盛大な儀式が催された。庶兄である時輔とは元服の規模に大きな違いがあり、時宗が名実共に北条の次期棟梁であることが周知された。[[正嘉]]元年6月23日には、宗尊親王が納涼の為に時宗の住む山ノ内の泉亭に来訪している。
 
 
[[文応]]元年([[1260年]])、将軍の供奉などを務める[[小侍所]]の別当に就任する。当時すでに[[北条実時]]が別当の任にあり、また小侍所はそれまで別当を複数置く官職ではなかったが、時宗の就任以降は別当を複数任命することが慣行となる。これは、すでに実時が別当になっているところへ、さらに時宗が別当に就任したことを正当化するための慣例化だという<ref>川添『北条時宗』33項</ref>。この時宗の小侍所入りは、将来の彼が執権になるための経験を積ませるための時頼の配慮だった。ともに小侍所の別当であった実時は深慮に富んだ教養深い人物で、時宗は彼から指導を受けて人格を陶冶したと考えられる<ref>川添『北条時宗』34項</ref>。
 
 
[[弘長]]元年([[1261年]])4月に[[安達義景]]の娘(安達泰盛の異母妹)の[[覚山尼|堀内殿]]と結婚。極楽寺での武芸大会で宗尊親王から褒め称えられた逸話もある。
 
 
[[文永]]元年([[1264年]])7月、6代執権の[[北条長時]]が出家、[[北条政村]]が7代執権となり、8月には時宗は14歳で執権の補佐を務める[[連署]]に就任する。執権政村や一族の重鎮北条実時と協力して、文永3年([[1266年]])に幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位と[[京都]]送還、[[惟康親王]]の擁立などを行った。
 
 
[[クビライ・ハーン]]がモンゴル皇帝に即位した8年後の文永5年([[1268年]])正月、[[高麗]]の使節が[[元 (王朝)|元]]の国書を持って[[大宰府]]を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。[[3月5日]]には政村から執権職を継承し、時宗は18歳で第8代執権となる。
 
 
=== 元寇への対応から晩年 ===
 
時宗は前執権の政村や義兄の安達泰盛、北条実時・[[平頼綱]]らに補佐され、モンゴルの国書に対する返牒など対外問題を協議し、[[大田文]]の作成、御家人の所領譲渡制限、異国警固体制の強化や、異国調伏の祈祷などを行わせる。モンゴルからの度々の国書には一切返事を与えず、また朝廷が作成した返牒案も採用しなかった。一方でモンゴルに滅ぼされた[[高麗]]の残党にあたる[[三別抄]]からの援助要請も黙殺した。文永8年([[1271年]])、モンゴルの使節が再来日して武力侵攻を警告すると、[[少弐氏]]をはじめとする西国御家人に戦争の準備を整えさせ、[[異国警固番役]]を設置している。
 
 
また、得宗家の権力を磐石なものとするため、[[文永]]9年([[1272年]])には[[六波羅探題]]の南方の別当(長官)で、弟の時宗が執権になった事に不満を持ち[[朝廷]]に接近するようになっていた異母兄の時輔や、一族の[[評定衆]][[北条時章]]・[[北条教時|教時]]兄弟を誅殺し、[[世良田頼氏]]を[[佐渡島|佐渡]]へ配流している([[二月騒動]])。また、文永11年([[1274年]])、『立正安国論』を幕府に上呈した[[日蓮]]を佐渡に配流するなど、モンゴルや朝鮮に対してだけでなく、国内の世論や一門に対しても苛烈に臨んだ。
 
 
文永11年([[1274年]])、元軍が日本に襲来した([[元寇#文永の役|文永の役]])。いわゆる[[元寇]]である。激戦の末に元軍の内陸部への進撃を阻止した。翌年、降伏を勧める使節[[杜世忠]]らが来日すると、鎌倉で引見し、[[連署]]の[[北条義政]]の反対を押し切って処刑する。[[建治]]3年(1277年)に義政は程なく連署を辞して出家するが、[[弘安]]6年(1283年)に[[北条業時]]が連署に就任するまで連署は空席となった。[[弘安]]2年([[1279年]])に来日した[[周福]]ら使節団も、大宰府で処刑させた。これらの処刑には元への示威行動の意図もあった。時宗はじめ幕府の首脳陣は自ら高麗出兵を一時は命じたが、軍事費などを勘案した末に結局は中止となった。代わりに異国警固番役を拡充し、[[長門探題]]及び[[長門警固番役]]を新たに設置し、文永の役を教訓として[[博多]]湾岸に現代も残る[[石塁]]を構築するなどして国防強化に専念した。特に石塁や警固番役には、御家人のみならず[[寺社本所領]]などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大した。[[六波羅探題]]に対しても、御家人の処罰権を与えるなど機能を強化させた。また、北条一族を九州などの守護に相次いで任命し現地にも下向させ、時宗も[[小山氏]]の[[播磨国|播磨]]守護を免じて、自身が就任した。また[[寄合衆]]には平頼綱ら[[御内人]]の参加を広げ、将軍権力であった[[御恩]]沙汰などを行うなど[[得宗専制]]が強化された。その方針は、時宗の没後に具体化された[[弘安徳政]]にも反映されることになる。
 
 
また、その頃の朝廷では、[[後嵯峨天皇|後嵯峨法皇]]の遺言により、[[亀山天皇]]と[[後深草天皇|後深草上皇]]のどちらが[[治天の君]]になるかで時宗が執権を務める幕府が裁定し、亀山天皇の[[親政]]が決定した。亀山天皇は皇子の[[後宇多天皇]]に譲位して[[院政]]を開始するが、時宗は後深草上皇の皇子である熙仁親王(後の[[伏見天皇]])の立太子を実現させた([[両統迭立]])。
 
 
弘安4年([[1281年]])の[[元寇#弘安の役|弘安の役]]では、作戦指示が時宗の名義で出され、御内人が戦場へ派遣されて部隊の指揮にあたった。元軍は、2ヶ月近くの戦闘で日本軍の抵抗に苦戦した末に台風を受けて混乱し、さらに日本軍の総攻撃により壊滅した。こうして時宗は二度の元軍の襲来を撃退したが、戦後に今度は[[御家人]]などに対する恩賞問題などが発生し、財政難のなかで3度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化しなければならないなど、難題がいくつも積み重なっていた。
 
 
弘安7年([[1284年]])には、すでに病床にあったとされる。自身の死期を悟ったのか4月4日には出家し、同日に34歳(満32歳)で逝去。自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山[[円覚寺]]に葬られた。死因は結核とも心臓病とも云われる。
 
 
== 人物 ==
 
時宗は[[禅宗]]に帰依するなど信心深く、特に禅宗は父の時頼と交友のあった[[蘭渓道隆]]、[[南宋]]から来日した[[兀庵普寧]]・[[大休正念]]などから教えを受けていた。蘭渓道隆が死去すると名師を招くために中国に使者を派遣し、[[無学祖元]]を招聘する。祖元が開山した鎌倉の円覚寺([[鎌倉市]]山之内)の開祖となり、円覚寺を関東祈祷所とし、尾張国富田庄を寄進する。
 
また、[[忍性]]の慈善活動を支援し、[[土佐国]]大忍荘を寄進したとも言われる。
 
[[熊本県]][[小国町 (熊本県)|南小国町]]の満願寺に時宗を描いたとされる頂相が所蔵されているが、描かれているのは別人であるという説もある。また、『一遍上人絵伝』には[[一遍]]と出会った時宗の姿が描かれている。
 
 
== 評価 ==
 
[[ファイル:Hōjō Tokimune,Maekenkozitu.jpg|thumb|200px|[[江戸時代]]『[[前賢故実]]』より。画:[[菊池容斎]]]]
 
時宗は、父の時頼ほど[[伝説]]や[[逸話]]が豊富ではなく、本格的に論評が風発するのは[[近世]]に入ってからであった。その事績を礼賛するか、非難するかの差異は評する者の史実の解釈に依拠するところが大きい。
 
 
肯定的評価の多くは、権勢を振るった[[夷狄]]蒙古を撃退したという事績に集約され、蒙古からの通達に侵略の意図があり、使者を斬殺したことを是認する前提に立脚する。『[[増鏡]]』で名君であると称賛されている他、国学者の観点から、承久の乱で三上皇を島流しにした北条氏を逆賊として排撃した[[本居宣長]]も、時宗については肯定的に評している。水戸藩発行の『[[大日本史賛藪]]』では、全面的に時宗は礼賛されている。他、[[頼山陽]]も時宗を礼賛している。
 
 
時宗が帰依した[[無学祖元]]は、時宗は40年未満の生涯ながらその功績は70歳を越えて生きた人にも勝る、感情的になることなく、驕ることもない立派な人物だ、と、時宗の三回忌の際に賛辞の言葉を連ねた<ref name="上横手・241頁">上横手・241頁</ref>。
 
 
中世から近世においては、否定的な評価はあまり下されることがなかったが、[[橘守部]]は、蒙古襲来は朝廷潰しを意図する北条氏と蒙古が結託して行った自作自演であると仮定して時宗を弾劾している。しかし、守部のこの評価は荒唐無稽に過ぎるとしてあまり顧みられることはない。守部がかような荒唐無稽な珍説を提唱した背景には、守部の本居宣長に対する反感が沈潜していたと指摘される<ref>川添『北条時宗』263-264頁</ref>。
 
 
幕末、諸外国との折衝で紛糾し、[[尊王攘夷]]の気風が高まるようになると、俄然、時宗に対する礼賛は傾向を強めるようになる。明治時代には元寇受難者への追贈で時宗にも[[従一位]]が追贈され、[[湯地丈雄]]によって元寇記念碑が設立された。[[太平洋戦争]]の頃になり、[[皇国史観]]が鼓吹されるようになると、時宗に関する論考は一層盛んになり、評伝などが数多く書かれた。太平洋戦争で日本本土が攻撃されると、強大な外敵からの侵略に断固として立ち向かった時宗の姿勢を肯定的にとらえ、礼賛する風潮が生まれた<ref>[[森本繁]]『北条時宗と蒙古襲来99の謎』(PHP文庫、2000年)3-4頁</ref>。
 
 
代わって戦後においてはその反対の評価が出されるようになった。時宗の強硬政策は得宗専制の強化と国際意識の欠落が招いたものという評価が生まれ<ref name="北条時宗と蒙古襲来99の謎・4頁">森本『北条時宗と蒙古襲来99の謎』4頁</ref>、防塁の築造をはじめとする蒙古への対策は、「日本帝国主義の原点である」という評価さえ生じるようになった<ref name="北条時宗と蒙古襲来99の謎・4頁"/>。[[上横手雅敬]]は「結果的に日本防衛には成功したが、多大な犠牲を払って徹底抗戦したその姿勢が、本当に適切だったかどうか疑わしい」と評し<ref name="上横手・240頁">上横手・240頁</ref>、無学祖元による賛辞も、「この手の禅僧の言葉は空疎」として、額面通りに信用することはできないと述べる<ref name="上横手・241頁"/>。また上横手は蒙古の使者を斬首に処したことについては、「国際慣行を無視した蛮行」と評した上で、使者を斬首しなければ[[弘安の役]]は避けられたかもしれないと時宗を非難している<ref>上横手・241-242頁</ref>。しかしながら、この上横手の指摘は誤りで、斬首の報せが元に届く前に、クビライは日本征服の野望を表明し、戦艦の造船を開始しており<ref>『元史』巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年二月甲申の条</ref>、また使者の斬首の報せが元に届くと、元では朝議の結果、この件に関しては迂闊に元から反応を示さないことに決しており<ref>『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月己丑の条</ref>、使者の斬首と弘安の役の発端には何の関係も見い出せない。
 
 
時宗の外交姿勢の原因は、[[蘭渓道隆]]や[[大休正念]]そして無学祖元ら、時宗や父時頼が帰依した禅僧達が強く影響していると指摘される<ref>上横手・247-248頁、森本『北条時宗と蒙古襲来99の謎』112-113頁</ref>。彼らは皆、宋から渡来した人物であり、祖国を蒙古に滅ぼされ、蒙古への憎悪は一入であったとしている<ref>上横手・247-248頁</ref>。また上横手は、そもそも時宗の政策そのものについても[[安達泰盛]]や[[平頼綱]]ら重臣の意見が反映された可能性もあり、若い時宗が全て自分の意思で数々の政策を行ったとは断定しがたいと述べている<ref name="上横手・240頁"/>。
 
 
このような時宗への否定的な評価に対して[[森本繁]]は、元が高麗で行った統治を考慮すれば、時宗の徹底抗戦の判断はむしろ妥当なものであったと反論している<ref>森本『北条時宗と蒙古襲来99の謎』115-118項</ref>。また、[[川添昭二]]は鎌倉幕府が武断的性格を持つ武士によって作られた政権であったことから、徹底抗戦の構えは必然でもあったとしている<ref>川添・140-144頁</ref>。
 
 
[[細川重男]]は、二月騒動における、肉親や一族に対する粛清や、誤殺とみるや自分が差し向けた追手達さえ処刑する、さらには蒙古に対する強硬姿勢など、苛烈な処置から、目的の為には逡巡せず武力を行使し、意向に反するものは容赦せず処断する人物と評している<ref>細川・134-135頁</ref>。そして、細川は時宗の政治の本質は「武力偏重」であり「暴力主義」であると評している<ref>細川・135頁</ref>。そして、時宗がこうした強硬、暴力的な政策を取った背景には、「武家政権」というものが、暴力による支配、力による強制を根源、基盤としているためであると指摘する<ref>細川・136頁</ref>。
 
 
事績を概観すれば非情であり、専制的な政治家、権力者としての側面を指摘される一方<ref>川添・273頁</ref>、禅に篤く帰依し、また家族に対しては温情を以って接した。
 
 
内政では、細分化する御家人の所領問題と蒙古襲来の事後処理に追われた。また蒙古襲来以降、内政・外交の両面で京都の朝廷に対する主導権を握ることとなった。これを契機として、鎌倉幕府は軍政組織としての「幕府」から全国的な国家組織としての色合いが濃くなっていったとする説がある([[網野善彦]]『蒙古襲来』)。
 
 
== 年表==
 
{|class=wikitable
 
|-
 
!|和暦
 
!|西暦
 
!|月日<br />([[旧暦]])
 
!|内容
 
|-
 
|[[建長]]3年
 
|[[1251年]]
 
|[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]
 
|生誕([[数え年]]1歳)
 
|-
 
|[[康元]]2年
 
|[[1257年]]
 
|[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]
 
|[[元服]](7歳)
 
|-
 
|[[弘長]]元年
 
|[[1261年]]
 
|[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]
 
|[[従五位|従五位下]]に叙し、[[左馬権頭]]に任官。(11歳)
 
|-
 
|[[文永]]元年
 
|[[1264年]]
 
|[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]
 
|[[連署]]就任。(14歳)
 
|-
 
|rowspan="3"|文永2年
 
|rowspan="3"|[[1265年]]
 
|[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]
 
|[[従五位|従五位上]]に昇叙。左馬権頭如元。(15歳)
 
|-
 
|[[1月30日 (旧暦)|1月30日]]
 
|[[但馬国|但馬権守]]兼任。
 
|-
 
|[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]
 
|[[相模国|相模守]]兼任。但馬権守去る。
 
|-
 
|rowspan="2"|文永5年
 
|rowspan="2"|[[1268年]]
 
|[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]
 
|左馬権頭辞任。(18歳)
 
|-
 
|[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]
 
|[[執権]]就任。
 
|-
 
|文永9
 
|[[1272年]]
 
|2月
 
|[[二月騒動]](22歳)
 
|-
 
|文永11年
 
|[[1274年]]
 
|10月
 
|[[元寇#文永の役|文永の役]](24歳)
 
|-
 
|rowspan="2"|[[弘安]]4年
 
|rowspan="2"|[[1281年]]
 
|5月
 
|[[元寇#弘安の役|弘安の役]](31歳)
 
|-
 
|[[7月7日 (旧暦)|閏7月7日]]
 
|[[正五位|正五位下]]に昇叙。相模守如元。 
 
|-
 
|弘安7年
 
|[[1284年]]
 
|[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]
 
|死没(享年34、満32歳没)
 
|-
 
|[[明治]]29年
 
|[[1896年]]
 
|[[10月23日]](新暦)
 
|贈[[従一位]]
 
|}
 
 
== 偏諱を与えた人物 ==
 
''(「[[北条氏#北条氏による一字付与について]]」も参照。)''
 
=== 北条氏一門 ===
 
* [[北条顕時|北条'''時'''方]](のち顕時、[[北条氏 (金沢流)|金沢流]]当主)<ref>山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』([[思文閣出版]]、2012年、p.167~168)、角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.19)。『[[吾妻鏡]]』正嘉元年(1257年)11月23日条に顕時の元服についての記事があり、加冠役は時宗となっている。しかし、この当時の時宗は元服したばかりの7歳の少年であってこの元服の儀式を主導したとは考えにくく、これはその父で、この元服が行われた邸宅の持ち主であった時頼の指名を受けたものと考えられている(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、p.167~168))。</ref>
 
* [[北条宗宣|北条'''宗'''宣]]([[北条氏 (大仏流)|大仏流]]当主、のち第11代執権)<ref name="yamano p.182">山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」脚注(27)(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、p.182)。</ref><ref name="kondo 1979">紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、P.15系図ほか)。</ref>
 
* [[北条宗泰|北条'''宗'''泰]](宗宣の弟)<ref name="kondo 1979" />
 
* [[北条宗長|北条'''宗'''長]]([[北条氏 (名越流)|名越流]])
 
 
=== その他([[御家人]]など) ===
 
* [[足利家時|足利家'''時''']]<ref name="kondo 1979" /><ref>小谷俊彦 「北条氏の専制政治と足利氏」([[田中大喜]] 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』([[戎光祥出版]]、2013年)、p.131)。家時の場合は例外だが、基本的に[[足利氏]]嫡流の歴代当主の[[諱]]は「北条氏得宗家当主の偏諱+「氏」」で構成されていた(田中大喜 「総論 中世前期下野足利氏論」(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』([[戎光祥出版]]、2013年)、p.25))。</ref>
 
* [[斯波宗家|足利'''宗'''家]](斯波宗家、家時の従兄弟)<ref>[[吉井功兒]] 「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』([[戎光祥出版]]、2013年)P.167)。</ref>
 
* [[安達宗景|安達'''宗'''景]](泰盛の子)
 
* [[安達盛宗|安達盛'''宗''']](宗景の弟)
 
* [[安達宗顕|安達'''宗'''顕]]([[安達顕盛]]の子で[[安達時顕|時顕]]の父。宗景の従兄弟にあたる)
 
* [[小田宗知|小田'''宗'''知]]<ref name="kondo 1979" />
 
* [[小山宗朝|小山'''宗'''朝]]<ref name="kondo 1979" />
 
* [[小山宗長|小山'''宗'''長]]([[小山貞朝|貞朝]]の父)<ref name="kondo 1979" />
 
* [[葛西宗清|葛西'''宗'''清]](清宗)<ref>紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年)</ref>
 
* [[河越宗重|河越'''宗'''重]]<ref name="kondo 1979" /><ref>[http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/kawagoe.htm 河越氏 ~武蔵国秩父党の惣領家~] より。</ref>
 
* [[六角宗信|佐々木'''宗'''信]](六角宗信、[[佐々木頼綱|頼綱]]の子)<ref name="kondo 1979 P.21">紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、P.21)。</ref>
 
* [[六角宗綱|佐々木'''宗'''綱]](六角宗綱、頼綱の子)<ref name="kondo 1979 P.21" />
 
* [[佐々木宗氏|佐々木'''宗'''氏]]([[佐々木氏]][[京極氏|京極流]])<ref name="kondo 1979" />
 
* [[佐々木宗綱|佐々木'''宗'''綱]](佐々木氏京極流)<ref name="kondo 1979" />
 
* [[佐々木宗清|佐々木'''宗'''清]]([[出雲源氏|佐々木氏義清流]])<ref name="kondo 1979" />
 
* [[諏訪宗経|諏訪'''宗'''経]]<ref>[[細川重男]] 「諏訪左衛門入道直性について」(所収:『[[白山史学会|白山史学]]』32号(1996年、P.12)、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』([[吉川弘文館]]、2000年、P.194))。</ref>
 
* [[平宗綱|平'''宗'''綱]](頼綱の子)
 
* [[飯沼資宗|飯沼資'''宗''']](助宗とも、宗綱の実弟)
 
* [[武田信宗|武田信'''宗''']]<ref>「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信宗項に「[[後宇多天皇|後宇多]][[朝廷]][[建治]]三年[[11月11日 (旧暦)|十一月十一]][[元服]]於[[鎌倉]]([[年齢|年]]九)、[[加冠]]相模守時宗、因例請名、故號名信宗」とある。</ref>
 
* [[千葉宗胤|千葉'''宗'''胤]]<ref name="kondo 1979" /><ref name="hattori 2011">[[服部英雄]] 「中世小城の景観・海から考える」(所収:『中世肥前千葉氏の足跡〜小京都小城の源流〜』([[佐賀県]][[小城市]][[教育委員会]]編、2011年))。</ref>
 
* [[千葉胤宗|千葉胤'''宗''']](宗胤の弟)<ref name="kondo 1979" /><ref name="hattori 2011" />
 
* [[長井宗秀|長井'''宗'''秀]]<ref name="kondo 1979" />
 
* [[二階堂行宗|二階堂行'''宗''']]([[二階堂氏]])<ref name="kondo 1979" />
 
* [[戸次時親|戸次'''時'''親]]([[戸次氏]])<ref>『[[群書類従|群書系図部集 四]]』P.362 「大友系図」に「於[[鎌倉]][[元服]]。時宗一字。」、P.372 「立花系図」に「北條相模守平時宗爲[[烏帽子親]]。授"時"之一字。」、『入江文書』(『大分県史料10』所収)の「大友田原系図」に「時宗加元服」とある。</ref>
 
* [[町野宗康|町野'''宗'''康]]<ref>細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.418。町野宗康は[[三善康信]]の曾孫にあたる。</ref>
 
* [[結城時広|結城'''時'''広]]<ref>『結城市史』第四巻 古代中世通史編([[結城市]]、1980年)P.274、[[荒川善夫]] 「総論Ⅰ 下総結城氏の動向」(所収:荒川善夫編著 『シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻 下総結城氏』([[戎光祥出版]]、2012年)P.11)より。詳細は当該項目を参照のこと。</ref>
 
* [[結城宗広|結城'''宗'''広]]
 
 
== 北条時宗を主題とした作品 ==
 
;小説
 
* [[高橋克彦]]『時宗』
 
;テレビドラマ
 
* 『[[風雲児時宗]]』([[1961年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、演:[[松本錦四郎]])
 
* 『[[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]』([[2001年]]、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[和泉元彌]])
 
;コンピューターゲーム
 
* 『[[シヴィライゼーション#Sid Meier's Civilization VI(シドマイヤーズ シヴィライゼーションⅥ)|Civilization 6]]』日本文明の指導者として登場
 
 
== 脚注・出典 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
== 参考文献 ==
 
*[[上横手雅敬]]『鎌倉時代 その光と影』([[吉川弘文館]] 歴史文化セレクション、1994年)ISBN 4-642-06304-8
 
*[[奥富敬之]]『時頼と時宗』([[NHK出版]]、2000年)
 
*[[佐藤和彦]]・[[樋口州男]]『北条時宗のすべて』([[新人物往来社]]、2000年)
 
*[[川添昭二]]『北条時宗』(吉川弘文館 人物叢書、2001年)
 
*[[細川重男]]『北条氏と鎌倉幕府』([[講談社選書メチエ]]、2011年)ISBN 978-4-06-258494-4
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[元寇]]
 
*[[宗尊親王]]
 
 
==外部リンク==
 
{{Commonscat|Hōjō Tokimune}}
 
*{{アジア歴史資料センター|A10110569700|故正五位下相模守北条時宗以下三名贈位ノ件}}
 
*[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010480_00000 大河ドラマ 北条時宗 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]
 
*[http://www.butsunichian.com/ 圓覚寺山内佛日庵(北条時宗廟)]
 
 
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2018/9/29/ (土) 01:53時点における最新版

北条時宗
時代 鎌倉時代中期
生誕 建長3年5月15日1251年6月5日
死没 弘安7年4月4日1284年4月20日
幕府 鎌倉幕府 連署、8代執権
主君 宗尊親王惟康親王
氏族 北条氏得宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)

鎌倉幕府の8代執権 (在職 1268~84) 。時頼の3男。母は北条重時の娘。幼名は正寿。元服して相模太郎と称した。左馬権頭,但馬権守を経て相模守,正五位下,文永1 (64) 年連署,同5年執権。この年以降しばしば訪れた元の使者を退け,ついに来襲した元,高麗の連合軍を再度にわたって撃退,進んで出征を企てるなど強硬な態度で終始した。また評定制度を無視して得宗専制政治への道を開き,朝廷内の皇位争いに介入して両統迭立の端緒を開くなど,積極的な政治を行なった。第3回の元軍来襲に備えて国防に専念したが,病にかかり出家し法名を道杲と称した。早くから禅を信じ,宋から無学祖元を招き,弘安5 (82) 年円覚寺を創建して無学祖元を開山とした。


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