「元禄文化」の版間の差分

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(年中行事や娯楽)
 
 
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[[ファイル:Irises screen 2.jpg|right|450px|thumb|[[尾形光琳]]筆 「燕子花図屏風」]]
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<html><div class="infobox"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B00OKC22VY/ref=as_li_ss_il?_encoding=UTF8&btkr=1&linkCode=li3&tag=mkjoa54a-22&linkId=a15bdbca304005083d4292110a012821" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B00OKC22VY&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=mkjoa54a-22" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=mkjoa54a-22&l=li3&o=9&a=B00OKC22VY" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></html>
{{Double image aside|right| KORIN-Irises-L.jpg |210| KORIN-Irises-R.jpg  |210|尾形光琳筆 「燕子花図屏風」(全図)}}<!--読者の理解を促すため、左右両隻を表示した全図があった方がよいように思いますが、不要なら除去してください。-->
 
'''元禄文化'''(げんろくぶんか)とは、[[江戸時代]]前期、[[元禄]]年間([[1688年]] - [[1704年]])前後の[[17世紀]]後半から[[18世紀]]初頭にかけての文化。
 
  
17世紀中ごろ以降の[[日本列島]]は、[[農村]]における[[商品作物]]生産の発展と、それを基盤とした[[都市]][[町人]]の台頭による[[産業]]の発展および経済活動の活発化を受けて、[[文芸]]・[[学問]]・[[芸術]]の著しい発展をみた<ref name=fukai12>[[#深井|深井(2012)pp.12-15]]</ref><ref name=taka85>[[#高埜2003|高埜「元禄の社会と文化」(2003)pp.85-90]]</ref>。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、[[大阪|大坂]]・[[京都|京]]など[[上方]]の[[都市]]を中心にすぐれた作品を数多くうみだした<ref name=fukaya80>[[#深谷|深谷(2000)pp.80-89]]</ref>。そこでは庶民の[[生活]]・心情・[[思想]]などが出版物や[[劇場]]を通じて表現された<ref name=fukai12/>。ただし、その担い手は[[武士]]階級出身の者も多かった<ref name=bito16>[[#尾藤|尾藤『元禄時代』(1975)pp.16-25]]</ref>。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、[[江戸]]・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった<ref name=fukaya80/><ref name=harada247>[[#原田|原田 他(1981)p.247]]</ref>。
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'''元禄文化'''(げんろくぶんか)
  
元禄文化は、しばしば「憂き世から浮世へ」と称せられるように、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神がその特徴とされる<ref name=bito26>[[#尾藤|尾藤『元禄時代』(1975)pp.26-51]]</ref><ref name=ozawa60>[[#小澤|小澤(1993)pp.60-69]]</ref>。もとより貴族的な雅を追求する芸術の成果も一方には存在したが、「民勢さし潮のごとく」と評された民衆の情緒を作品化したものが多く、世間(社会)の現実をみすえた文芸作品もうみ出された<ref name=fukaya80/>。とりわけ、[[小説]]の[[井原西鶴]]、[[俳諧]]の[[松尾芭蕉]]、[[浄瑠璃]]の[[近松門左衛門]]は日本文学史上に燦然と輝く存在である<ref name=bito16/>。また、実証的な[[古典]]研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる[[尾形光琳]]や[[浮世絵]]の始祖といわれる[[菱川師宣]]があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた<ref name=bito16/>。音楽では生田流[[箏曲]]や新浄瑠璃、[[長唄]]などの新展開がみられた。さらに、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける[[人形浄瑠璃]]や[[歌舞伎|歌舞伎狂言]]も、この時代に姿がととのえられた<ref name=fukaya80/>。元禄時代は、めざましい創造の時代だったのである<ref name=bito16/>。
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江戸時代,5代将軍[[徳川綱吉]]の治世に,特に上方 (京都,大坂) を中心として展開した[[町人]]文化。
  
なお、日本における1960年代の[[高度経済成長]]期の文化隆盛を指すものとして、「'''昭和元禄'''」(しょうわげんろく)という言葉が生まれている<ref group="注釈">1964年に政治家[[福田赳夫]]が言いだした、経済成長下での天下泰平・奢侈安逸の風潮を評した言葉。</ref>。
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当時の貨幣経済の発達は町人の経済力を高め,華美な生活と遊興娯楽の余裕を町人に与えた。文芸面としては,演劇では,浄瑠璃節に三味線の伴奏と人形の演出を加えた人形浄瑠璃が[[竹本義太夫]][[義太夫節]]として完成し,市川団十郎,坂田藤十郎らによる歌舞伎が盛行した ([[元禄歌舞伎]] )
  
== 新しい世界観 ==
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[[近松門左衛門]]は,浄瑠璃では[[世話物]]を,歌舞伎では時代物を主として扱った。特に世話物ではありのままの町人生活を描き,義理と人情の葛藤を美化しようとした。俳諧では,松永貞徳によって形式が整えられ,西山宗因を経て,[[松尾芭蕉]]の出現となり,蕉風の俳諧が完成された。小説では,[[井原西鶴]]が,[[浮世草子]]を著わし,町人や武士の生活を人間味あふれる筆致で描いた。絵画では狩野探幽らの狩野派に対して土佐派が復興しており,また尾形光琳を中心とした光琳派は,花鳥風月や人物を色調豊かに表わし,菱川師宣らの[[浮世絵]]は大いに民衆に愛好された。工芸面では,横谷宗珉,尾形乾山らが出てすぐれた作品を生み出した。学問の面においては,儒学では,朱子学派に山崎闇斎,木下順庵,貝原益軒,室鳩巣,新井白石らが,古学派に山鹿素行,伊藤仁斎,荻生徂徠,太宰春台らが,陽明学派に熊沢蕃山,淵岡山らが現れ,古典に対する批判や新しい解釈を行い,独自な学説も発表された。国学では,僧契沖,荷田春満,下河辺長流,北村季吟,賀茂真淵らが出て国学発展の基礎をつくった。([[上方文化]] , [[上方文学]] )  
[[ファイル:Kunyu Wanguo Quantu (坤輿萬國全圖).jpg|right|thumb|380px|マテオ・リッチ製作『坤輿万国全図』(1602年)
 
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日本国内で1604年頃に複製されたもの。カタカナで振り仮名がなされている。[[東北大学]]附属図書館所蔵([[狩野文庫]]]]
 
[[ファイル:Terrestrial Globe by Shibukawa Shunkai.jpg|160px|right|thumb|日本人製作による現存最古の地球儀([[1695年]]
 
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[[渋川春海]]作。[[国立科学博物館]]の展示(レプリカ)。原品は[[重要文化財]]]]
 
  
[[16世紀]]中葉以降、[[ヨーロッパ人]]が渡来して当時の日本に世界全体におよぶ[[地理]]認識が伝えられると、それまで[[日本人]]が依拠してきた[[本朝]](日本)・[[震旦]]([[中国]])・[[天竺]]([[インド]])から成る「[[三国世界観]]」は大きく揺さぶられることとなった<ref name=asao60>[[#朝尾|朝尾(1991)pp.30-31]]</ref>。[[中世]]の日本人が思い描いていた[[仏教]]色の強い[[世界観]]は変更をせまられ、従来の「三国」が[[アジア]]の一画を占めるにすぎないことが広く理解されたのである<ref name=asao60/>。
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*[[徳川綱吉]]
 
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*[[日本史]]
日本国内にあっても、世界と日本の[[地図]]を裏表に描いた各種の「世界図屏風」が作成され、男女を描いて世界の[[民族]]を示した「万国人物図」も刊行された<ref name=ichimura87>[[#市村|市村・大石(1995)pp.87-91]]</ref>。なかでも、[[イタリア]]の[[マチェラータ県|マチェラータ]]出身で[[明国]]での布教に尽力した[[イエズス会]][[宣教師]][[マテオ・リッチ]](利瑪竇)が[[1602年]]に作成した「[[坤輿万国全図]]」は、[[ヨーロッパ]]の[[世界地理]]認識と[[東アジア]]の地理認識を組み合わせた当時世界最高水準の世界地図であり、説明が[[漢字]]で日本人にも親しみやすいところから、日本にも伝えられて数多く模写され、当時の日本人の世界地理認識に大きな影響をあたえた<ref name=ichimura87/>。やがて、[[江戸幕府]]によって[[長崎貿易]]を許可された[[オランダ]]の人々によって、より正確な世界地図や[[地球儀]]がもたらされた<ref name=ichimura87/>。
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*[[経世論]]
 
 
このように多種多様な世界地図が伝来し、それをもとに多くの日本人も世界地図や地球儀製作にたずさわったこと、また、これらがさまざまな形で一般に流布したことは、近世日本文化を特徴づける要素のひとつとなっている<ref name=ichimura87/><ref group="注釈">[[水戸]]の漢学者で地理学者の[[長久保赤水]]が「坤輿万国全図」をほぼ忠実に踏まえて[[1785年]]に刊行した「地球万国山海輿地全図説」は、[[木版]]で印刷されて民間にひろく流布した。</ref>。[[鎖国]]体制にあっても日本人の海外への関心は失われることはなかったのである。
 
 
 
情報空間がひろがり、[[島原の乱]]以降の平和によって日本列島全体が経済成長を遂げたことが、文芸・芸術の発展や諸学問の興隆のもととなった。
 
 
 
== 新しい文芸の発達 ==
 
=== 連歌と俳諧 ===
 
上流社会において維持されてきた伝統的な[[和歌]]や[[連歌]]に対し、連歌から派生した[[俳諧]]では庶民生活に根ざした「おかしみ」を主とし、江戸初期に[[松永貞徳]]があらわれて洒落や滑稽によって句をつくる[[貞門派]]を形成した<ref name=harada234>[[#原田|原田 他(1981)pp.234-237]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Basho by Morikawa Kyoriku (1656-1715).jpg|thumb|140px|旅姿の[[松尾芭蕉]]と[[河合曾良]]([[1693年]])
 
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[[森川許六]]筆]]
 
17世紀後期には大坂に[[西山宗因]]があらわれ、自由・奇抜で軽妙な趣向を得意とする[[談林派]]を形成し、近世の庶民詩ともいうべき独自の地位をきずいた<ref name=harada234/>。談林派は江戸にも広がり、[[延宝]]から[[貞享]]にかけて新興町人層に支えられて全盛期をむかえた<ref name=harada234/>。[[浮世草子]]で知られる[[井原西鶴]]もまた本来は談林派の俳人であり、[[明暦]]2年([[1656年]])、15歳の頃から俳諧を初め、[[寛文]]2年([[1662年]])頃には俳諧の[[点者]]となっていた<ref name=kodama489>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.489-501]]</ref>。矢数俳諧もこなし、貞享元年([[1684年]])には[[住吉大社]]で一昼夜に2万3500句の俳諧を詠むという記録を打ち立てている<ref name=kodama489/><ref group="注釈">西鶴の句は、その奇矯な作風から「阿蘭陀西鶴」といわれた。[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.491-492]]</ref>。
 
 
 
「俳聖」と称される[[松尾芭蕉]]は、もと[[伊賀国]]上野の[[藤堂家]]に仕えた武士であり、好学の君主[[藤堂良忠]]の近習に取り立てられ、その影響もあって当初は京都の国学者北村季吟から貞門派の俳諧を学んだ<ref name=kodama471>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.471-488]]</ref>。良忠没後の寛文12年([[1672年]])、江戸に出た芭蕉は談林派の強い影響を受け、[[深川]]六間堀に芭蕉庵を営み、そこに住んだ<ref name=kodama471/>。芭蕉はやがて、奇抜な着想と卑俗な奔放さに走った談林俳諧にあきたらず、連歌の第一句([[発句]])を文学作品として独立させ、民衆のことばを用いながらも和歌・連歌の長い伝統をいかす[[蕉風]](正風)俳諧を確立した<ref name=harada234/>。[[西行]]や[[宗祇]]ら中世詩の伝統のうえに立った芭蕉は、新味を求めて変わり続ける流行性こそが不易であると唱え、[[わび・さび]]・しおり・かるみ・細みなどで示される幽玄閑寂の境地をめざし、これによって俳諧は和歌・連歌にならぶ芸術性の高いものとなった<ref name=fukaya80/><ref name=harada234/>。彼の句の多くは『[[曠野]]』『[[猿蓑]]』『[[炭俵]]』『[[冬の日]]』など「[[俳諧七部集]]」に収められている。
 
 
 
芭蕉の句は多くは俳諧連歌の発句であったが、連句も得意であった<ref name=kodama471/>。連句には独吟もあったが、多くは連吟であり、何人かの力を集めて全体を構成しなければならなかった<ref name=kodama471/>。芭蕉はその点、多くの門人に恵まれていたので秀逸な連句をのこすことができたのである<ref name=kodama471/>。
 
 
 
芭蕉はまた、武士の身分を捨てて各地を旅し、門人らと交流しながら、自然と人間を鋭く見つめて『[[奥の細道]]』『[[野ざらし紀行]]』『[[笈の小文]]』『[[更科紀行]]』などのすぐれた[[紀行|紀行文]]もあらわした。ことに「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」ではじまる『奥の細道』は名文として知られている<ref name=kodama471/>。かれの門人の多くは新興の商人や裕福な農民、武士、[[僧侶]]・[[神官]]などであり、こうした地方文化人の支持を集めて蕉風俳諧は全国的なひろがりをみた<ref name=taka85/><ref name=fukaya80/><ref name=harada234/>。とくに[[加賀国|加賀]]は蕉風王国とよばれるほど蕉風俳諧のさかんな土地柄であった<ref name=harada234/>。[[尾張国|尾張]]もまた俳諧のさかんな土地で、西鶴を師とあおぐ談林派の俳人が100名もおり、芭蕉が[[名古屋]]を訪れると蕉風もさかんとなった<ref name=harada234/>。
 
 
 
上方の元禄俳人として芭蕉と並び称せられる存在が[[摂津国]][[伊丹]]出身の[[上島鬼貫]]である<ref name=harada234/>。鬼貫は宗因・芭蕉の影響を受けながらも「まことの外に俳諧なし」と唱え、作為を加えず自然のままを詠むのが根本であるとして独自の俳風をひらいた<ref name=harada234/>。この影響もあって摂津・[[河内国|河内]]・[[和泉国|和泉]]のあたりでは俳諧の愛好者が多く、元禄年間の[[南河内郡]]では郡中のこらず流行し、[[在郷商人]]であった三田浄久の『河内鑑名所記』には「女童(おんなわらわ)」「山賤(やまがつ)」まで俳諧をもてあそぶようになったと記録している<ref name=harada234/><ref name=taihei328>[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.328-335]]</ref>。なお、浄久は家業のかたわら、俳諧の[[師匠]]が前句の題を出し、それに弟子が付句する「[[前句付]]」を、師匠とは面識のない不特定多数の弟子との間でもおこなえるよう「清書所」を営んでいた<ref name=taihei328/>。これは、こんにちでいう[[通信教育]]がすでにおこなわれていたことを意味している<ref name=taihei328/>。
 
 
 
=== 小説 ===
 
[[ファイル:Statue of Ihara Saikaku.jpg|thumb|140px|井原西鶴像([[生國魂神社]])]]
 
寛永から寛文にかけて、近世小説の先駆をなしたのが[[仮名草子]]である<ref name=harada234/>。仮名草子は、中世の[[御伽草子]]の流れをくみ、平易で教訓的ないし娯楽的な傾向を有し、その種類は多岐にわたったが、芸術的には必ずしも洗練されたものではなく、従来の仏教色を払拭し、現世の問題を文学の中心に据えたところに特徴があった<ref name=bito26/><ref name=harada234/><ref group="注釈">仮名草子には、恋愛物、翻訳物、模擬物、懺悔物、教訓物、戦記物、遍歴物、笑話物などの種類があった。[[#原田|原田 他(1981)p.235]]</ref>。また、その文学的内容にもまして、刊本すなわち印刷本としてはば広い読者層をもったところに意義がみとめられる<ref name=akai145>[[#赤井|赤井「浮世絵の成立」(1970)pp.145-156]]</ref>。ただ、社会の矛盾をとらえる視点をもつものもあり、そのような作品としては、[[万治]]2年([[1659年]])から寛文6年([[1666年]])にかけての作と推定される[[浅井了意]]の『[[浮世物語]]』が代表的である<ref name=bito26/><ref name=harada234/>。了意には他に『[[東海道名所記]]』『[[伽婢子]]』があり、また、[[奥羽]]の武家出身の[[如儡子]](斎藤親盛)による随筆風の『[[可笑記]]』、伊勢の医師[[富山道冶]]の『[[竹斎]]』、作者未詳の『[[仁勢物語]]』などが知られている。『[[二人比丘尼]]』『[[因果物語]]』『[[念仏草子]]』の作者[[鈴木正三]]は、仮名草子によって、特定の宗派にこだわらないかたちでの仏教教化を試み、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた。仮名草子の作者には、[[公家]]や[[僧侶]]、[[牢人]]、学者が多かった。
 
 
 
人間中心の文学をさらにおしすすめたのが元禄期にあらわれた[[井原西鶴]]である。西鶴の経歴は不詳であるが、大坂の富裕な町人平山藤五とする説があり、それによれば経営を[[手代]]にまかせて気ままな生活を選んだとされる<ref name=fukaya80/>。俳諧における師であった西山宗因が他界した[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])、西鶴は自由な散文形式による『[[好色一代男]]』を書き上げた<ref name=harada234/><ref name=takano134>[[#高埜|高埜(1992)pp.134-135]]</ref>。もともと余技として始めた小説執筆であったが、本作品は[[町人]]の手による、町人を対象とした、町人を主人公とする、町人の生活相を描いたという点で画期的意義をもち、また、質・量ともに近世小説の最高峰をかたちづくるものであった<ref name=harada234/><ref name=kodama489/>。小説に転じてからの西鶴は、現実の世相や風俗を背景に、人びとが愛欲や金銭に執着しながら、みずからの才覚で生き抜く姿を描いており、これは[[浮世草子]]とよばれ、日本文学に新しい世界をひらいた<ref name=takano134/>。
 
 
 
西鶴文学の新しさは、「人間は欲に手足のついたもの」「世に銭ほど、面白きものはなし」の言葉が示すとおり、人間の欲望を肯定し、町人の営利の才能や消費生活を楽しむ姿を写実的に描いたことであった<ref name=fukai12/>。『[[日本永代蔵]]』では「三井九郎右衛門」という人物が江戸[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の駿河町に[[呉服]]店を出店し、「現金掛値なし」の商法で人びとに利便をあたえた一方で巨利を得たことを肯定的に紹介し、金持ちになるためのノウハウが具体的に記されている<ref name=fukai12/><ref group="注釈">「三井九郎右衛門」のモデルは三井八郎右衛門。三井の当主は代々八郎右衛門を名のった。</ref>。そこでは、堅固・才覚・始末・分別・堪忍・正直などの徳目が勤労における実践的な倫理として示されている<ref name=fukai12/>。また、『[[好色一代男]]』では、莫大な遺産を引き継いだ世之介が少年時代から女御の島へ船出する還暦までの恋愛生活を、『[[世間胸算用]]』では年末に借金取りに追われる下層町人の悲喜劇を描いた<ref name=fukai12/>。その文学の特徴は、偶然の積み重ねで人の世が思いがけない転回を遂げることをリアリスティックに描いていることであり、その文章はまた、余分な語や無駄な文のない緩急自在の性格をもっている<ref name=kodama489/>。
 
 
 
代表的な作品には、『好色一代男』『諸艶大鑑(好色二代男)』『[[好色一代女]]』『[[好色五人女]]』『好色盛衰記』『西鶴置土産』などの好色物、『[[武家義理物語]]』『[[武道伝来記]]』などの武家物、『日本永代蔵』『世間胸算用』『西鶴織留』などの町人物、『[[西鶴諸国ばなし]]』『西鶴俗つれづれ』『本朝二十不孝』『本朝桜陰比事』などの雑話物がある<ref name=fukai12/><ref name=harada234/>。西鶴はまた、俳諧や浮世草子ばかりではなく、[[浄瑠璃]]の[[脚本]]や[[役者評判記]]を書き、他人の本に[[挿絵]]まで提供するなど、当時における[[マルチタレント]]ぶりをいかんなく発揮している<ref name=nakajima100>[[#中嶋|中嶋(2011)pp.100-102]]</ref>。
 
 
 
西鶴につづく浮世草子には、[[八文字屋自笑]]による『[[けいせい色三味線]]』『役者口三味線』などの「三味線物」があり、[[八文字屋]]の代作者として活動したこともある[[江島其磧]]は『[[世間子息気質]]』『[[世間娘容気]]』など「気質物」を著した。これらは京都の[[八文字屋]]から出版されたことから八文字屋本といわれた。浮世草子は、京・大坂の都市町人のみならず、商品生産の先進地であった[[畿内]]農村でも富農・富商らによって愛読された<ref name=fukai12/>。
 
 
 
=== 戯曲 ===
 
[[ファイル:ChikamatsuM.jpg|thumb|right|210px|近松門左衛門(自画像)]]
 
[[ファイル:Sonezaki.jpg|thumb|340px|right|『曾根崎心中』上演の様子(瀬川如皐『牟芸古雅志』)]]
 
 
 
[[越前藩|越前藩士]]の子として京都に生まれた杉森信盛が[[近松門左衛門]]と名乗り、[[歌舞伎]]・[[人形浄瑠璃]]の専門的な[[戯曲]]作家として活躍したのは、西鶴の活躍とほぼ同時期であった<ref name=takano134/>。
 
 
 
近松は、天和3年([[1683年]])に曾我物の『[[世継曽我]]』を京の[[宇治加賀掾]]のために著したが、これが彼の浄瑠璃作品の第一作であった<ref name=kodama501>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.501-513]]</ref><ref name=harada239>[[#原田|原田 他(1981)pp.239-240]]</ref>。[[古浄瑠璃]]の最後の名人で、完成者でもあった宇治加賀掾のもとで修行したことによって近松の才能は磨きがかけられたのである<ref name=kodama501/>。
 
 
 
貞享2年([[1685年]])には大坂の[[竹本義太夫]]と京の加賀掾が[[道頓堀]]で競演したが、井原西鶴が加賀掾のために『暦』『凱陣八嶋』の2作品を書いたのに対し、義太夫は『[[賢女の手習幷新暦]]』と近松の新作『[[出世景清]]』で対抗した<ref name=harada239/>。景清は『[[平家物語]]』や[[能楽]]、[[幸若舞]]でも取り上げられた題材であったが、近松はそこから悲劇的な[[葛藤]]をとりだして、人間性豊かな[[ドラマ]]に仕立てたのである<ref name=kodama501/>。こうして近松の脚本は竹本義太夫と出会い、義太夫自身によって語られて民衆の人気を博した<ref name=kodama501/>。近松・義太夫が現れてからの浄瑠璃はそれ以前とはほとんど内容を一新させてしまうほどでだったので、それ以前を古浄瑠璃、それ以降を[[新浄瑠璃]](当流)と呼んで区別している<ref name=kodama501/>。近松はまた、上方歌舞伎の名優[[坂田藤十郎 (初代)|坂田藤十郎]]のために『[[傾城阿波の鳴門]]』などの名編を作劇しており<ref name=harada239/>、真に浄瑠璃脚本に専心したのは元禄16年([[1703年]])の『[[曾根崎心中]]』が最初であった。
 
 
 
近松は、[[歴史]]のなかの[[英雄]]の姿を描くいっぽう、現実の社会にも題材を求め、義理と人情の板挟みのなかで人間らしく生きようとする庶民の極限状況を描いた<ref name=fukaya80/>。代表的な作品として『曽根崎心中』『[[心中天網島]]』『[[冥土の飛脚]]』『[[心中宵庚申]]』『[[女殺油地獄]]』『夕霧阿波鳴渡』『丹波与作待夜の小室節』など当時の世相に題材をとった[[世話物]]、『[[国性爺合戦]]』『[[用明天皇職人鑑]]』『[[けいせい反魂香]]』など歴史上の事件に題材をとった[[時代物]]などがある<ref name=kodama501/>。
 
 
 
『曾根崎心中』は実際の心中に取材した世話物の第一作であり、ことにお初徳兵衛道行の場面は名文として知られ、[[荻生徂徠]]をして嘆息せしめたといわれている<ref name=kodama501/>。『心中天網島』もまた親子、夫婦、恋人の間の愛が[[封建社会]]の通念や[[金銭]]がからんで身動きできず、[[心中]]へと追い込まれる葛藤を描いた名作である。『曾根崎心中』の興行が成功したことにより義太夫はそれまでの多額の債務を完全に返済し、自らは身を引いて竹田出雲に[[竹本座]]の経営を任せ、近松はその座付作者として脚本執筆に専念することができるようになったといわれる<ref name=yamamoto38>[[#山本博文|山本博文(2007)pp.38-41]]</ref>。
 
 
 
西鶴の[[リアリズム]]に対し、近松を特徴づけるのはその[[ヒューマニズム]]であり、ともに近代主義の見地からみても評価が高い<ref name=nakano18>[[#中野|中野(2012)pp.18-21]]</ref>。若い男女が死ななければならないほど愛し合う姿は近代的な観念としての[[恋愛]]を日本で初めて描いたものといえるのである<ref name=yamamoto38/>。
 
 
 
近松につづき、上方からは『[[八百屋お七歌祭文]]』の[[紀海音]]、『[[菅原伝授手習鑑]]』『[[義経千本桜]]』『[[仮名手本忠臣蔵]]』の[[竹田出雲]]があらわれ、[[近松半二]]、[[錦文流]]、[[並木川柳]]などの劇作家を輩出した<ref name=harada239/>。なお、竹本座再発足のために著された『用明天皇職人鑑』では、この時期の上方都市民による「和朝」「[[神国]]」の日本意識が示され、『[[持統天皇歌軍法]]』では農民によって構成された義勇軍が[[持統天皇|持統女帝]]のために戦う場面がある<ref name=fukaya80/>。また別の作品では「[[関東]]」が批判されるなど、当時の上方町人が人民を武威で抑える[[領主]]支配に対して批判的意識をもっていることなどがうかがわれ、それと同時に[[朝廷]]に対する親近感が示されているのである<ref name=fukaya80/>。
 
 
 
== 芸能と音楽 ==
 
=== 劇場の盛行 ===
 
[[ファイル:Saruwaka-za, the Birthplace of Edo Kabuki 02.JPG|right|thumb|340px|江戸歌舞伎発祥之地碑 (猿若中村座跡、東京都中央区)]]
 
後述する[[遊里]]とならんで町人たちの歓楽の場となったのが[[劇場]]である<ref name=harada237>[[#原田|原田 他(1981)pp.237-239]]</ref>。劇場の発展が最初にみられたのは[[出雲阿国|阿国歌舞伎]]以来の伝統を有する[[上方]]であった<ref name=harada237/>。
 
 
 
京では、延宝のころ[[四条大橋]]の東側に歌舞伎・浄瑠璃の芝居小屋が7箇所、四条通りの南北に面して立ち並んだ<ref name=harada237/>。大坂では道頓堀を中心に、歌舞伎物真似・からくり物真似・狂言物真似など6箇所に営業権の免許が下りた<ref name=harada237/>。江戸では寛永から[[万治]]にかけて、都座、村山座、山村座、森田座などの劇場が現れるが、のちに堺町の[[中村座]]、葺屋町の[[市村座]]、木挽町の[[森田座]]の、いわゆる[[江戸三座]]の基礎がすえられた<ref name=harada237/>。
 
 
 
歌舞伎などの興行は、当初は公許を必要としなかったが、寛文期にはいって幕府の芸能統制が整えられ、[[町奉行]]が公認する「名代」と称する興行権を取得しなければならなくなった<ref name=fukai12/>。このような興行制度は東西で相違があり、江戸では名代・座元・芝居ともに1人の持主に相続され、たとえば中村座は[[中村勘三郎|勘三郎]]、市村座は[[市村羽左衛門|羽左衛門]]が役者として興行権を持って世襲的に興行を運営したが、上方では直接興行をおこなう座元が、寛文から元禄にかけて芸団を編成して名代を借り、劇場と契約をむすぶかたちをとった<ref name=fukai12/>。上方における名代が利潤を生むものとして売買の対象になると、歌舞伎そのものの商品化もいっそうすすみ、役者評判記が刊行されるようになった<ref name=fukai12/>。
 
 
 
公許によって常設の小屋が整備されると劇場施設の改良や拡充も進み、[[桟敷]]・[[引幕]]が使用され、寛文以降は板塀・筵屋根が設けられるようになり、元禄期には劇場の全蓋形式がほぼ完了した<ref name=harada237/>。[[享保]]に入ると劇場全体が[[屋根]]に覆われるようになって雨天興行が可能となったが、これにともなって興行時間ものび、[[延宝]]以降は12時間におよぶこともめずらしくなくなった<ref name=harada237/>。演目も増え、役者の数も増加し、劇団の確立をみるようになったため、従来、「河原乞食」などと称されて準賤民の扱いを受けていた歌舞伎役者・浄瑠璃太夫・説経太夫・舞太夫などの社会的地位も向上した<ref name=harada237/>。観客数も増加し、元禄以降は婦女子の観客数が男子をしのぐに至っている<ref name=harada237/>。
 
 
 
近世の歌舞伎・[[説経節]]・浄瑠璃は、武家・貴族・寺社をパトロンとせず、広汎な庶民層の支持によって成り立ち、主として観客の入場料で成り立っていた点で、真に庶民による庶民のための芸能であった<ref name=harada237/>。
 
 
 
=== 歌舞伎狂言 ===
 
[[ファイル:Hishikawa Moronobu - Scenes from the Nakamura Kabuki Theater - Google Art Project.jpg|480px|right|thumb|[[菱川師宣]]『歌舞伎図屏風』]]
 
 
 
[[歌舞伎]]は、歌と踊りを中心とする舞台芸能から、物語性を重んじる演劇へと変化した<ref name=kodama513>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.513-520]]</ref>。
 
 
 
[[遊郭|郭制度]]の公許にともなって、初期の[[歌舞伎#歴史|女歌舞伎]](遊女歌舞伎)は風紀を乱すとして他の女性芸能ともども寛永6年([[1629年]])に禁止された。少年(稚児・若衆)による[[歌舞伎#歴史|若衆歌舞伎]]も初期の時代にはさかんであったが、この段階で先行する[[能]]や[[狂言]]の舞が導入され、[[物真似]]などの個人芸が成立するとともに[[放下]]・[[蜘蛛舞]]など[[軽業]]の要素が加わったとされている<ref name=hattori157>[[#服部|服部「元禄歌舞伎と浄瑠璃」(1970)pp.157-166]]</ref>。
 
 
 
ところが[[承応]]元年([[1652年]])、若衆歌舞伎もまた風紀をみだすとの理由で全面的に禁止された。それに対し、歌舞伎再開をのぞむ庶民の声にはきわめて根強いものがあったので、俳優が若衆の象徴である前髪を切り払い、扇情的な舞・踊りを排して「物真似狂言づくし」のみを演ずるということを条件に再開がゆるされたといわれている<ref name=kodama513/><ref name=hattori157/>。これ以降、成年男子のみが演ずる[[歌舞伎#歴史|野郎歌舞伎]]として現代に引き継がれている<ref name=harada237/>。ただし、この条件は一方では、歌舞伎を容色本位の芸能から技芸本位の芸能に深化させる契機になったとも評される<ref name=hattori157/>。また、寛文以降は、演目に2番つづき、3番つづきの狂言が仕組まれるようになって多幕物が発生し、このことは、演劇内容が筋立てを中心とする複雑なものへ進化していったことを物語る<ref name=harada237/>。さらにこの多幕物が、引幕や[[花道]]の出現を促したように、舞台構造・装置にも創意工夫がほどこされるようになった<ref name=harada237/>。
 
 
 
[[ファイル:YoshizawaAyameI.jpg|right|thumb|230px|初代芳沢あやめ([[木笛庵痩牛]]「雨夜三盃機嫌」)]]
 
 
 
演劇批評の分野は、延宝2年([[1674年]])の『野郎評判蚰蚰(げじげじ)』以降いっそうさかんになり、元禄末頃までに43点もの[[役者評判記]]が刊行された<ref name=fukai12/>。これは、歌舞伎そのものの流行とともに、その質的な発展を物語るものであり、さらに演技力向上を促した<ref name=fukai12/>。延宝年間以降は、立役、敵役、若女房、若衆方、花車方、道化方、子役など役柄の分化が進展し、貞享・元禄期には立役や[[女形]]役者のなかから多くの名優があらわれた<ref name=harada237/><ref name=hattori157/>。
 
 
 
上方では、貞享年間の大坂で[[嵐三右衛門]]があらわれ、その一座からは初代[[竹島幸左衛門]]、[[藤田小平次]]、[[荒木与次兵衛]]などの名人が現れた<ref name=kodama513/>。元禄には京の[[竹島幸兵衛]]、[[山下京右衛門]]、[[坂田藤十郎]]の3名が台頭し、とりわけ[[坂田藤十郎 (初代)|初代藤十郎]]は廓物をふくみ恋愛などを優美に演じる傾城事([[和事]])の達人として、その写実的な演技には定評があった<ref name=harada237/>。役者の子として生まれた藤十郎は延宝6年([[1678年]])、大坂での『[[夕霧名残の正月]]』によって名をあげたが、これは彼の生涯にわたる中心的な演目となった<ref name=fukai12/>。また、いわゆる女形の演技は上方の[[水木辰之助]]と[[芳沢あやめ]]、[[荻野沢之丞]]らが名優として名高かった<ref name=harada237/><ref name=kodama513/>。
 
 
 
なお、元禄時代の上方歌舞伎に特徴的なのは、「仕組み」の多くが「[[お家騒動]]」の構造をもつことであった<ref name=hattori157/>。お家騒動は、そこに危機的状況、義理人情の[[倫理]]、[[恋]]、[[因果]]、愁嘆など人生のさまざまな局面を盛るのに適しており、上述した各種の役柄にそれぞれの持ち場・見せ場をあたえ、これが、いわゆる「和事」の演技様式確立に大きく寄与したのである<ref name=hattori157/>。
 
 
 
[[ファイル:Danjūrō Ichikawa I as Zōhiki.jpg|right|thumb|130px|初代市川團十郎による『象引』の山上源内左衛門([[歌川国貞|3代目歌川豊国]]画)]]
 
華やかで妖艶な上方歌舞伎に対し、江戸ではそれ以前に流行した[[金平浄瑠璃]]を歌舞伎化した、勇壮活発な演技が人気を博し、元禄ころには、歌舞伎の盛行は上方に劣らぬものとなった<ref name=harada237/>。金平浄瑠璃とは[[坂田金時]]の子の[[坂田金平|金平]]が少年[[四天王]]の一人として縦横無尽に活躍し、超人的な力を発揮するものであった<ref name=harada237/><ref name=kodama513/>。[[市川團十郎 (初代)|初代市川團十郎]]は、侠客として知られた唐犬十右衛門と親しかった[[菰重蔵]]の子であり、延宝元年([[1673年]])に14歳で『四天王稚立』の坂田金時役で初舞台をふんだ<ref name=fukai12/><ref name=harada237/>。團十郎は金平浄瑠璃を積極的に取り入れ、多くの脚本を自作自演して、独特の[[隈取り]]、誇張された衣装、荒々しい六方の足拍子、[[見得]]を切る所作など「[[傾き者]]」の風俗と独特の演技術で大評判となった<ref name=harada237/><ref name=kodama513/>。こうして「荒事」の演技術が團十郎によって大成され、とくに『[[勝鬨誉曽我]]』『[[助六]]』『[[暫]]』は江戸市民のあいだに絶大な人気を博し、元禄7年([[1694年]])には上洛して京都でも大当たりしている<ref name=fukai12/><ref name=harada237/><ref name=kodama513/>。彼は[[曾我時致|曽我五郎]]や[[鎌倉景正|鎌倉権五郎景政]]を演じることを好んだが、自作の『[[兵根元曽我]]』で五郎が[[不動明王]]になって登場したとき、[[下総国]][[成田市|成田]]周辺からの見物者が多かったため、のちに[[成田不動]]に詣でたことが機縁で「成田屋」を称したといわれている<ref name=fukai12/>。[[市川團十郎 (2代目)|2代目市川團十郎]]は父である初代團十郎の芸を継承し、勇壮な[[荒事]]芸を大成した<ref name=harada237/>。
 
 
 
團十郎とならんで江戸で人気があったのは[[中村七三郎]]である<ref name=kodama513/>。團十郎の荒事に対し、和事を得意とし、[[曾我物]]では十郎を演じた。元禄10年から11年にかけては上洛し、京都の観客を魅了している<ref name=kodama513/>。
 
 
 
歌舞伎狂言は、単に小屋での観劇にとどまらず、市井に声色が流行したり、役者絵が刊行されるなどの社会現象となり、町人の生活に多方面に根をおろし、人形浄瑠璃とならぶ庶民の娯楽として文化全般に影響をあたえたのである<ref name=fukai12/><ref name=kodama513/>。
 
 
 
=== 人形浄瑠璃 ===
 
[[ファイル:Bunraku doll in national theatre Osaka 2.JPG|thumb|200px|文楽人形([[国立文楽劇場]])]]
 
[[浄瑠璃]]は、中世の[[平曲]]や『[[太平記]]』をはじめとする[[辻講釈]]などの伝統を受け、それらとは異質な[[語りもの]]芸能として成立した<ref name=hattori157/>。当初の代表作が『浄瑠璃姫物語』であったことから、その名がつけられた<ref name=hattori157/>。近世初頭にあって、[[琵琶]]に代わって[[三味線]]が伴奏楽器となり、[[西宮市|西宮]]の[[傀儡子]]の人形と提携したことから、語り・三味線・人形の三者による共同芸能に進化した<ref name=hattori157/>。また、[[杉山丹後掾]]と[[薩摩浄雲]]によって京から江戸へともたらされた。なお、語りだけの浄瑠璃ものこっており、「仙台浄瑠璃」「奥州浄瑠璃」と呼称されている。
 
 
 
浄瑠璃は、はじめは江戸の金平浄瑠璃に代表されるような、豪快勇壮な語りものであったが、それが筋立てによる芝居として本格的な総合芸能として進展するのが寛文・延宝年間であり、上方では井上播磨掾と宇治加賀掾の2人の名手があらわれた<ref name=harada239/>。
 
 
 
この上方浄瑠璃を大成させたのが、貞享元年([[1684年]])に大坂の道頓堀に櫓をあげ、竹本座を創設した[[竹本義太夫]]である。義太夫は、浄瑠璃の諸流を総合し、[[小唄]]や俗謡・[[民謡]]などの長所を取り入れて、それまでの古浄瑠璃の曲調とは異なる[[義太夫節]]という独特の語りを完成させた<ref name=takano134/><ref name=harada239/>。義太夫節は人形浄瑠璃の最盛期を形成したのみならず、その後の浄瑠璃の曲節の主流をなした<ref name=harada239/>。
 
 
 
劇としての人形操り芝居を、歌舞伎と並ぶ近世芸能の地位に上昇させるために力あったのが、上述の近松の戯曲である<ref name=harada239/>。生来の美声に恵まれた竹本義太夫であるが、作者に近松、興行師に[[竹田出雲]]、人形遣いに[[辰松八郎兵衛]]・吉田三郎兵衛、三味線に竹沢権右衛門という人材にも恵まれていたのである<ref name=harada239/>。
 
 
 
竹本義太夫の弟子であった竹本采女([[豊竹若太夫]])は元禄16年([[1703年]])に[[豊竹座]]をおこし、座付作者の紀海音をおいて竹本座とともに人形浄瑠璃の最盛期を築いた。
 
 
 
義太夫節とならんで語りもので京で名を上げたのが[[都一中]]で、かれのつくった[[一中節]]は[[宝永]]年間以降江戸でも流行した<ref name=harada239/>。江戸ではまた、[[正徳 (日本)|正徳]]のころ[[江戸半太夫]]が[[半太夫節]]をひらき、ついで、その門下の[[天満屋藤十郎]]が[[河東節]]の一流を語った<ref name=harada239/>。
 
 
 
=== 説経節 ===
 
[[ファイル:Kadosekkyou.jpg|right|thumb|250px|『[[人倫訓蒙図彙]]』(元禄3年([[1690年]]))にみえる門説経
 
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[[ささら]]、[[胡弓]]、[[三味線]]の3人組による門付芸として描かれている。
 
]]
 
[[中世]]に興起した[[語りもの]][[芸能]]である[[説経節]]は、「[[石童丸|苅萱]]」「[[俊徳丸]](しんとく丸)」「[[小栗判官]]」「[[山椒大夫]]」「[[ぼん天国|梵天国]]」「[[愛護若]]」「[[葛の葉|信田妻]](葛の葉)」「梅若」「[[法蔵比丘]](阿弥陀之本地)」「五翠殿(熊野之御本地)」「[[松浦長者]]」など中世に起源をもつ物語を主な演目とし、主人公の苛烈な運命と復讐、転生などをモチーフに下層民衆の情念あふれる世界を描いた民衆芸能である<ref name=daihyakka>[[#岩崎|岩崎・山本(1988)pp.576-577]]</ref><ref name=gunji>[[#郡司|郡司(1953)pp.388-389]]</ref>。
 
 
 
説経節は長らく乞食芸として大道芸・門付芸としておこなわれてきたが、近世に入って、[[三味線]]の伴奏を得て洗練される一方、[[操り人形]]と提携して[[小屋]]掛けで演じられて庶民の人気を博し、[[万治]]から[[寛文]]にかけて、江戸ではさらに元禄5年([[1692年]])頃までがその最盛期であった<ref name=daihyakka/><ref name=gunji/><ref name=muroki393>[[#室木|室木「解説」(1977)pp.393-399]]</ref>。
 
 
 
義太夫節に押されて早々と廃れてしまった上方に対し、江戸は[[三都]]のなかで最も説経節がさかんで、元禄年間には天満重太夫、武蔵権太夫、吾妻新四郎、江戸孫四郎、結城孫三郎らが[[櫓]]をかかげて説経座を営んだほか、語り手としては村山金太夫や大坂七郎太夫ら著名な説経太夫がいた<ref name=daihyakka/><ref name=syuzui>[[#守随|守随(1979)p.157]]</ref>。しかし、[[18世紀]]初頭をすぎると江戸においても説経節による人形操りは衰退し、[[享保]]年間にあらわれた2世石見掾藤原守重あたりを最後に江戸市中の説経座は姿を消し、再び、大道芸・門付芸となっていった<ref name=daihyakka/><ref name=gunji/>。この過程で古い説経節のスタイルは消え、構成も詞章も浄瑠璃の影響を強く受けた説経浄瑠璃のかたちになった。
 
 
 
=== 祭文 ===
 
[[ファイル:Saimon-01.jpg|right|thumb|140px|『人倫訓蒙図彙』(1690)より「祭文」]]
 
[[ファイル:Songbook Of Utazaimon.JPG|right|thumb|140px|歌祭文の唄本「油屋お染久松」]]
 
祭文は、[[神道]]に主たる起源を有し、本来は[[祭り]]のときなどに神祇に対して[[祈願]]や[[祝詞]]として用いられる願文であったが、[[神仏習合]]の進行著しい中世にあっては[[山伏]][[修験者]]に受け継がれ、[[錫杖]]や[[法螺貝]]を伴奏として[[歌謡]]化する一方、修験の旅にともない[[日本列島]]各地に広がり、下級宗教者や門付芸人の手にもわたって普及した<ref name=gunji203>[[#郡司2|郡司(1953)pp.208-209]]</ref><ref name=yamaji>[[#山路|山路「祭文」(1988)pp.139-140]]</ref>。
 
 
 
江戸時代に入ると、祭文は説経節同様に三味線などと結びついて歌謡化し、これを「[[歌祭文]]」もしくは「祭文節」と称した<ref name=gunji203/><ref name=kikkawa42>[[#吉川|吉川(1990)pp.42-44]]</ref>。歌祭文(祭文節)は、元禄以降、「八百屋お七恋路の歌祭文」「お染久松藪入心中祭文」などの演目があらわれ、世俗の[[恋愛]]や[[心中]]事件、あるいは下世話な[[ニュース]]なども取り入れ、一種の[[クドキ]]調に詠みこむようになった<ref name=gunji203/><ref name=yamaji/>。歌舞伎・浄瑠璃の演目として知られる『[[桜鍔恨鮫鞘]]』のもととなった古手屋八郎兵衛のお妻殺しの事件も、当初は歌祭文で歌われた作品である。
 
 
 
歌祭文に対し、錫杖と法螺貝のみを用いた「[[デロレン祭文]]」(貝祭文)は、同様に[[世俗]]的な演目を扱いながらも語りもの的要素の強い芸能として残った<ref name=kikkawa42/>。
 
 
 
やがて、祭文と説経節は結びついて「[[説経祭文]]」と称されるジャンルを生んでいる。
 
 
 
=== 放下 ===
 
放下は[[田楽法師]]の伝統を受け継ぐ[[雑芸]]である<ref name=gunji592>[[#郡司3|郡司(1953)pp.592-593]]</ref>。[[室町時代]]から近世にかけてみられた大道芸のひとつで、もともと[[禅宗]]の「放下(一切を放り投げて[[無我]]の境地に入るの意)」に由来するが、「投げおろす」の原義から派生して[[鞠]](まり)や[[刀]]などを放り投げたり、受けとめたりする芸能全般をあらわすようになったと考えられる<ref name=yamajidaihyakka>[[#山路2|山路「放下」(1988)p.45]]</ref><ref name=sato>[[#佐藤|佐藤(2004)pp.114-115]]</ref>。放下は、従来の散楽や田楽から学び習った曲芸や[[奇術]]を専業化し、人びとが行き交う大道や[[市]]の立つ殷賑の地などで演じて人気を博し、演者には田楽法師と同様に[[僧]]体をしている者も多く、その場合は「放下僧」と呼ばれた<ref name=sato/><ref group="注釈">作者不詳の[[能楽]]『[[放下僧 (能)|放下僧]]』では、かたきをねらう兄弟が放下師(放下)と放下僧に扮装し、[[曲舞]]、[[鞨鼓]]、[[小唄]]などの芸づくしをおこなう場面がある。[[#山路|山路(1988)p.45]]</ref>。また、[[烏帽子]]をかぶり、[[竹|笹竹]]に恋歌の書かれた[[短冊]]を吊り下げ、それを背負って歩く放下師もいた<ref name=yamajidaihyakka/>。
 
 
 
[[ファイル:Houka SumiyoshiOdori.jpg|thumb|left|440px|『[[人倫訓蒙図彙]]』(1690)より「放下」(右)「[[住吉踊り]]」(左)
 
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放下師は路上で[[皿回し]]をしている。]]
 
放下は、[[近世]]にいたって俗人の手にうつったが、従来の[[品玉]](しなだま)、[[八ツ玉]]、[[手鞠]]、[[弄丸]](ろうがん)といった曲芸だけではなく、[[鞠の曲]]、[[玉子の曲]]、[[おごけの曲]]、[[うなぎの曲]]、枕の曲([[枕返し]])、[[籠抜け]]、[[皿回し]]なども演じた<ref name=yamajidaihyakka/>。また、放下芸と[[獅子舞]]を生業とする[[太神楽|伊勢太神楽]]の集団が成立したのも近世初頭である<ref group="注釈">伊勢太神楽は、[[織田信長]]に敗れた武士たちのうち[[伊勢国]][[桑名]]に落ちのびた一派といわれ、全国を旅する芸能集団となって獅子舞・曲芸を演じた。[[#佐藤|佐藤(2004)p.116]]</ref>。いっぽうで[[小屋]]掛けがなされるようになり、[[寄席演芸]]のひとつとして、大がかりな曲芸や[[手品]]もおこなうようになった<ref name=yamajidaihyakka/>。手品は、[[山芋]]を[[うなぎ]]にする、[[籠]]より[[小鳥]]を出す、絵を[[鶴]]にするなどといったもので、[[元禄]]年間に活躍した有名な[[手品師]]、[[塩の長次郎]]も放下師の出身であった<ref name=gunji592/>。また、『京都御役所向大概覚書』という[[史料]]によれば、[[寛文]]9年([[1669年]])、豊後屋団右衛門という人物が[[歌舞伎]]などの興行に対抗して「放下物真似」の[[名代]]が許されている。
 
 
 
[[江戸時代]]前期にあってはまた、当時流行の歌舞伎や人形浄瑠璃([[文楽]])との提携も進み、その幕間におおいに演じられた<ref name=daihyakka/>。[[江戸]]歌舞伎の座元([[太夫]]元)となった[[都伝内]]も放下師の出身であったという<ref name=daihyakka/>。元禄以降、しだいに劇場からはすがたを消し、大道芸に回帰していった<ref name=gunji592/>。
 
 
 
=== 落とし噺の始まり ===
 
[[ファイル:Shika-no-Makifude 17th.jpg|right|250px|thumb|酒宴で噺をする鹿野武左衛門(『鹿の巻筆』より)]]
 
現代「落語」と呼ばれる「落とし噺」が始まったのも元禄時代であった<ref name=nyumon14>[[#入門|渡邊監修『落語入門』(2008)p.14]]</ref>。上方では[[辻]]で、江戸では[[座敷]]で人びとを集めて噺を聴かせたのが落語家(噺家)の始まりとされている<ref name=nyumon14/>。
 
 
 
[[京都]]では天和・貞享のころ、もと日蓮宗の談義僧であった[[露の五郎兵衛]]が[[四条河原]]や[[北野]]などの大道で活躍した。これを「辻噺」といい、五郎兵衛が[[机]]のような台([[見台]])に座って滑稽な話をし、[[ござ]]に座った聴衆から[[銭貨]]を得るというものであった<ref name=yamamoto10>[[#山本|山本(2006)pp.10-12]]</ref><ref name=his2>[http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/rekishi/rakugo/index2.html 日本芸術文化振興会「落語の歴史:落語家のはじまり」]</ref>。五郎兵衛は、[[後水尾天皇]]の皇女の御前で演じたこともあった。少し遅れて大坂に[[米沢彦八]]が現れて人気を博した<ref name=yamamoto10/><ref name=his2/>。彦八は[[生玉神社]]の[[境内]]で小屋掛けの辻噺をおこない、[[名古屋]]でも公演した<ref name=his2/>。『[[寿限無]]』の元になる話を作ったのが、この初代彦八であるといわれている<ref group="注釈">彦八の出身地の[[大阪市]]では毎年9月に「[[彦八まつり]]」がおこなわれている。</ref>。
 
 
 
同じころ、[[江戸]]の町では塗師職人であった大坂出身の[[鹿野武左衛門]]が[[芝居小屋]]や[[風呂屋]]に呼ばれ、あるいは酒宴など、さまざまな屋敷に招かれて演じる「座敷噺」(「座敷仕方咄」)を始めて評判となった<ref name=yamamoto10/><ref name=his2/>。
 
 
 
時期をほぼ同じくして[[三都]]で活躍した上記3名は、いずれも不特定多数の観客から収入を得ていることから噺家の祖とされる。ただし、江戸の武左衛門が些細なことから[[流罪]]に処せられたことから、江戸の「座敷噺」人気はいったん下火となった<ref name=his2/><ref group="注釈">[[上方落語]]では、今日でも、「[[見台]]」という小型の[[机]]に[[小拍子]]を撃ち叩いて音を鳴らす演出があるが、これは「辻噺」より発展した名残りといわれている。つまり、上方ではまず大道芸として発達したため、客足を止めるために大きな音を出す必要があったものと考えられている。[http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/rekishi/rakugo/index2.html 日本芸術文化振興会「落語の歴史:落語家のはじまり」]</ref>。落語が[[寄席]]で不特定多数の聴衆から木戸銭を得て興行をおこなうのは、こののちのことである。
 
 
 
=== 能と謡曲 ===
 
江戸期に入り、幕府が[[能楽]]を武家の式楽としたことから発展し、とくに将軍[[徳川綱吉]]は能狂言に心酔すること論語を愛することにひけを取らないほどであり、[[江戸城]]にしばしば[[観世座]]・[[金春座]]・[[宝生座]]・[[喜多流]]の太夫を召して能楽を催し、自ら演じて諸大名に観覧させた<ref name=kodama323>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.323-326]]</ref><ref name=harada241>[[#原田|原田 他(1981)pp.241-242]]</ref>。やがて聖堂でも[[護国寺]]でも演じられ、各座の能楽師たちは御家人の列に加えられるようになった<ref name=kodama323/>。
 
 
 
幕府の高官・[[旗本]]・諸大名などでも社交上ないし教養として能を舞い、謡をたしなむ者が多くなった<ref name=kodama323/><ref name=harada241/>。4代[[徳川家綱]]は琵琶や幸若舞を愛好したが、綱吉は能楽を偏愛したため、琵琶や幸若はこれを機に衰退したほどである<ref name=kodama323/>。貞享年間に[[彦根藩]]では猿楽師55人を擁したという記録があるように、諸藩でも能楽師を士分としてかかえることが多かった<ref name=harada241/>。[[加賀藩|加賀藩主]][[前田綱紀]]もしばしば江戸城内で演能したひとりで、家中の武士や細工所の職人にまで奨励し、宝生流にかぎっため、加賀宝生の伝統が形成された<ref name=kodama323/>。
 
 
 
農村や遊里でも能楽の流行がみられたことは、『好色一代男』などのような文学作品や諸国の記録によっても知られている <ref name=harada241/>。
 
 
 
=== 音楽 ===
 
この時代、[[永禄]]年間に[[和泉国]][[堺]]に伝来した[[三味線]]が[[歌舞伎]]や[[人形浄瑠璃]]とむすびついて庶民音楽の中心的楽器となり、古来[[雅楽]]の楽器であった[[箏]]は歌の伴奏楽器として用いられるようになった<ref name=oshio35>[[#小塩|小塩(2010)pp.35-43]]</ref>。[[琵琶]]では雅楽や[[平家琵琶]]とは異なる[[琵琶楽]]が生まれ、[[尺八]]では、17世紀中葉以降、従来の[[一節切]]に加え[[普化尺八]]と呼ばれる太い尺八も用いられるようになった<ref name=oshio35/>。[[能楽]]で用いられてきた[[能管]]・[[小鼓]]・[[大鼓]]・[[太鼓]]などは歌舞伎の伴奏でも用いられたが、そこでは能楽では用いられなかった独特な[[リズム]]や[[奏法]]が付け加えられた<ref name=oshio35/>。
 
 
 
雅楽は公家の音楽、能楽は武家の式学、近世に生まれた歌舞伎や人形浄瑠璃は庶民に愛好された芸能として身分に対応して理解されることが多く、事実その通りであるが、一方では身分を超えた交流も多かった<ref name=oshio35/>。上方と江戸の文化交流も活発で、こうした交流が相互に影響をあたえあって多様な音楽ジャンルの生成を促した事実は否めない<ref name=oshio35/>。同時に、素人による音楽活動、[[稽古事]]としての音楽が伸張したのも、元禄時代であった<ref name=oshio35/>。
 
 
 
==== 武家・公家の音楽 ====
 
武家が能役者に[[扶持]]や[[所領]]をあたえて生活保障をおこなうようになったのは[[豊臣秀吉]]にさかのぼるが、江戸幕府もそれを引き継ぎ、能は幕府の式楽としての役割をになうようになった<ref name=oshio35/>。具体的には将軍宣下の祝賀能や新年の[[謡初]]、また公家への[[饗応]]の際にもしばしば能が演じられ、上述のとおり、能を愛好した将軍・大名も少なくなかった<ref name=oshio35/>。
 
 
 
平家琵琶([[平曲]])は、[[鎌倉時代]]に[[琵琶法師]]によって始められた[[語りもの]]音楽であったが、江戸幕府はこれを将軍家の[[儀式]][[音楽]]の一つとして採用し、歴代将軍の葬儀や[[年忌供養]]にあっては[[写経]]を勤めるあいだ平家琵琶を演奏するという[[頓写法要]]がこなわれた<ref name=oshio35/>。諸大名もこれに倣うものが少なくなかった。将軍綱吉自身が平家琵琶の演奏を聴いた記録も残っている<ref name=oshio35/>。
 
 
 
幕府は盲人音楽家たちの組織である[[当道座]]に、一種の[[福祉]]政策として[[特権]]的な地位をあたえた<ref name=oshio35/>。当道座の音楽家にとって表芸はあくまでも平家であったが、三味線や箏も弾いた<ref name=oshio35/>。三味線も箏も庶民に愛好された楽器であったが、幕府が正式にお墨付きをあたえたのは当道座所属の盲人男性のみであった<ref name=oshio35/>。
 
 
 
元禄時代の京都では[[生田検校]]によって[[生田流]]箏曲が生まれた<ref name=ikutaryu>[[#生田流|吉川「生田流」(1953)p.45]]</ref>。生田検校は、俗箏の開祖である[[八橋検校]]の孫弟子に相当し、[[正徳 (日本)|正徳]]5年([[1715年]])に没したと伝わるが、その生涯はよくわかっていない<ref name=ikutaryu/>。
 
 
 
雅楽は公家を中心に伝えられてきた音楽であるが、江戸時代にあっては武家の経済的援助で活動が支えられるようになった<ref name=oshio35/>。戦国時代末期に[[京都]]・[[奈良市|奈良]]・[[四天王寺]](大坂)に[[三方楽所]]が成立しているが、江戸幕府は三方のそれぞれ17名、計51名に知行をあたえて保護しており、[[禁裏]]が扶持をあたえた楽人23名よりも多かった(ただし、重複を含んでいる)<ref name=oshio35/>。また、幕府は寛永19年に三方楽人の一部を江戸に下向させ、城内[[紅葉山]]の[[祭祀]]や[[日光東照宮]]の[[祭礼]]、外国の使臣の饗応などのために演奏をおこなわせており、雅楽は以降[[紅葉山楽人]]によって伝承されることとなった<ref name=oshio35/>。また、三方楽所の総代は年頭挨拶のため下向することが恒例となった<ref name=oshio35/>。
 
 
 
なお、[[佐賀藩]]の[[筑紫箏曲]]や[[薩摩藩]]の[[薩摩琵琶]]など、特定の藩と結びついて地域に根ざした音楽もあった<ref name=oshio35/>。
 
 
 
==== 庶民の音楽 ====
 
庶民の音楽活動の中心は三味線音楽であった。[[楽器]]の細部を改造した三味線は、浄瑠璃などの語りもの音楽や当時の[[流行歌]]である[[小歌]]の伴奏に用いられた<ref name=oshio35/>。さらに、三味線伴奏の小歌で踊る芸能が歌舞伎へと変化していったことで、三味線は劇場音楽に欠かせない楽器となった<ref name=oshio35/>。
 
 
 
上述した[[義太夫節]]は大坂で、[[都一中]](都太夫一中)のはじめた[[一中節]]は京都で、江戸では[[半太夫節]]や[[河東節]]などが新浄瑠璃の三味線音楽として隆盛した<ref name=edoongaku>[[#江戸音楽|吉川「江戸音楽」(1953)pp.77-79]]</ref>。三都三様を呈する浄瑠璃の曲節が成立したが、河東節などの[[江戸節]]は優雅で淡泊、一中節は優艶、義太夫節は深刻さなど、それぞれ異なる特徴を有した<ref name=edoongaku/>。また、一中門下の [[宮古路豊後掾]]が[[名古屋]]や江戸で評判となったのが[[豊後節]]で、そこから[[常磐津節]]、[[富本節]]、[[清元節]]が派生している<ref name=bungobushi>[[#豊後節|佐藤「豊後節」(1953)pp.585-586]]</ref>
 
 
 
[[地歌]](地唄)では[[野川検校]]による[[野川流]]や[[佐山検校]]による[[佐山流]]、[[市川流]]、[[早崎流]]などが生じて隆盛し、お座敷音楽として[[長唄]]が隆盛したのも元禄のころからである<ref name=jiuta>[[#地唄|加藤「地唄」(1953)pp.321-322]]</ref>。
 
 
 
この時期の上方の流行歌に、[[のんやほ節]]がある。「のんやほ」という囃子詞が入り、これに合わせて踊る「のんやほほ踊り」があった。
 
 
 
=== その他の芸能 ===
 
元禄期の絵入りの職業百科事典『人倫訓蒙図彙』によれば、当時、大道芸・門付芸としては、上述した説経節、祭文、放下のほか、[[念仏]]や経を独特の節をつけて唱える[[門経読]]や歌念仏、鐘を打ちながら[[念仏踊り]]をおこなう[[念仏申]]・[[鉢敲]]・[[八丁鐘]]、[[いたか]]([[卒塔婆]]書)に曲芸的要素を付加した[[高履]]、悪魔を退散させる[[獅子舞]]、獅子舞と曲芸を結びつけて伊勢神札を配る伊勢太神楽(代神楽)、人形遣いをともなう[[夷舞]]、新年を言祝ぐ[[萬歳]]、『太平記』を朗読し、講釈する[[太平記読み]]、盲人男性([[座頭]])・盲人女性([[瞽女]])による音曲などがあり、これは[[勧進]]の範疇(「勧進もらい部」)にあった<ref name=yokota1>[[#横田|横田(2000)pp.1-18]]</ref>。
 
 
 
同書では、芝居(歌舞伎、浄瑠璃)については遊郭、職人・商人とならび「職之部」に含めており、「能芸部」には歌や俳諧などの文芸、儒・算・医・[[按摩]]などの学芸、馬・槍・太刀などの武芸、[[茶道]]や庭、[[立花]]、[[将棋]]などの遊芸のほか、歌舞音曲があった。歌舞音曲には、[[舞楽]]、[[笙]]、[[琴]]、能、地謡、[[鼓]]、[[太鼓]]、狂言、舞、[[尺八]]、[[一節切]]などがあり、「能芸部」に属する諸芸の演者は技能者であると同時に、芸能を一般の人に教える[[師匠]]の資格を有した<ref name=yokota1/>。
 
 
 
== 美術と工芸 ==
 
美術では、上方の有力町人を中心に、寛永期の文化を受け継いで、いちだんと洗練された作品が生み出された。
 
 
 
=== 絵画 ===
 
[[ファイル:Kashiwagi, Genji monogatari, Tosa Mitsuoki.jpg|right|thumb|450px|土佐光起『源氏物語柏木図屏風』]]
 
[[ファイル:Épisode du Genji-monogatari (détail 4) par Gukei.jpg|right|thumb|300px|住吉具慶『源氏物語図』(部分)]]
 
[[ファイル:Ogata Korin - RED AND WHITE PLUM BLOSSOMS (National Treasure) - Google Art Project.jpg|450px|right|thumb|『紅梅白梅図屏風』(尾形光琳)]]
 
[[ファイル:Beauty looking back.jpg|140px|right|thumb|菱川師宣『見返り美人図』]]
 
 
 
絵画では[[狩野探幽]]が[[江戸城]]や[[名古屋城]]の[[障壁画]]を描き、その一門は[[狩野派]]として幕府御用絵師の地位を得た<ref name=tsuji359>[[#辻|辻(1977)pp.359-382]]</ref>。探幽(守信)・[[狩野尚信|尚信]]・[[狩野安信|安信]]の兄弟とその係累を[[江戸狩野]]と称するのに対し、[[豊臣氏]]の御用絵師であった[[狩野山楽]]・[[狩野山雪|山雪]]の家系は許されて京に住したため[[京狩野]]と称している<ref name=tsuji359/>。江戸狩野はまた、その住所によって鍛冶橋狩野・木挽町狩野・中橋狩野などと呼んでいる<ref name=kodama460>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.460-461]]</ref>。狩野派は殿中の障壁画を描き、将軍に絵の指導をしたり、また諸大名や旗本も狩野派の絵で[[城郭]]や[[屋敷]]を飾ったので、かたちのうえでは全盛期ではあったが作品は新鮮味に欠けるようになった<ref name=kodama460/>。
 
 
 
一方、[[大和絵]]の系統では[[堺市|堺]]にあった[[土佐光則]]と[[土佐光起|光起]]が京都に戻り、[[土佐派]]の復興がなされた<ref name=kodama460/>。伝統の手法を復活させた土佐光起は朝廷に召し抱えられて宮廷絵所預となり、大和絵に[[漢画]]の手法も取り入れ、題材にも工夫を凝らした<ref name=harada244>[[#原田|原田 他(1981)pp.244-245]]</ref>。
 
 
 
この土佐派からは土佐広通があらわれ、寛文年間に[[鎌倉時代]]の名手だった[[住吉慶忍]]にあやかって[[住吉如慶]]を名乗り、[[住吉派]]をおこした<ref name=tsuji359/>。如慶は江戸で大和絵の伝播に努め、如慶の子の[[住吉具慶]]は幕府御用絵師に取り立てられて、その流れから[[久隅守景]]・多賀潮湖(のちの[[英一蝶]])らを出している<ref name=tsuji359/><ref name=harada244/>。
 
 
 
久隅守景・英一蝶はそれぞれ狩野探幽、狩野安信にも学んだが、2人とも狩野派の伝統を破ろうとして破門されている<ref name=kodama460/>。守景はその庶民的な画風が高く評価されており、一蝶は市井の風俗・行事を軽妙洒脱に描いたことで知られる<ref name=tsuji359/>。しかし、元禄期にはいると、これら保守系の画系は全体的にはふるわなくなってしまった<ref name=tsuji359/>。
 
 
 
風俗画の分野では、寛永期の[[岩佐又兵衛]]を[[浮世絵]]の始祖にあげることがある。彼は生前から「浮世又兵衛」と称されていたようであるが、その全面的な展開は[[菱川師宣]]を待たなければならない<ref name=tsuji359/>。また、この時代にあっては木版挿絵本がとくに上方でさかんに刊行された<ref name=tsuji359/>。御伽草子、舞曲、古浄瑠璃正本、古典文学、[[軍記物]]などに仮名草子が加わり、当初は稚拙で単一色だったものがやがて技巧的なものや彩色の施されたものが出てきた<ref name=tsuji359/>。これらは浮世絵版画の登場に影響をあたえることとなった<ref name=tsuji359/>。
 
 
 
元禄時代には、京と江戸を中心に、都市町人による新しい絵画が生まれた。
 
 
 
京都では、高貴な人々を上得意とした呉服商「雁金屋」の次男として生まれた[[尾形光琳]]が、大和絵の[[俵屋宗達]]のはじめた装飾画を大成した<ref name=harada244/><ref name=mitsuoka137>[[#満岡|満岡「光琳・乾山」(1970)pp.137-144]]</ref>。なお、光琳の弟が[[陶芸]]の分野で活躍した[[尾形乾山]]であり、2人は[[本阿弥光悦]]とは遠い親戚にあたる<ref name=kodama461>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.461-465]]</ref>。
 
 
 
光琳の画風を構成する要素としては、第一に、京狩野系の[[山本素軒]]から学び、晩年江戸に下った際に江戸狩野からもおおいに摂取しているように狩野派の影響があり、『紅白つつじ図』『維摩図』などにそれが見てとれる<ref name=tsuji359/>。第二に、家業から学んだ構成法があり、抽象的な水紋の表現などにみられる<ref name=tsuji359/>。第三には写生に意を用いていたこと、第四に俵屋宗達の影響であり、『[[風神雷神図屏風]]』の模写などに典型的にみられる<ref name=tsuji359/>。
 
 
 
そうした諸要素が組み立てられて彼自身の造形感覚で秩序づけられた傑作が『[[燕子花図屏風]]』と『[[紅梅白梅図屏風]]』である。前者は、総金地の六曲一双の屏風に、濃淡の群青で花を、緑青によって葉を描き、その二色以外は用いずに[[カキツバタ]]を描いて鮮烈な印象をあたえ、左右のバランスも考慮してリズミカルに配置した逸品である<ref name=kodama461/>。後者は、うずまき流れる水流を銀で描き、しっかり根を張った[[ウメ]]の木の静と動の対比を抽象化して装飾的にまとめた傑作であり、ともに光琳の代表作として名高い<ref name=tsuji359/><ref name=kodama461/>。光琳の絵は、宗達など王朝風の古典主義的な諸作品から影響を受けながらも、斬新なアイディアと感覚的な意匠にすぐれ、[[蒔絵]]の手法なども用いて、あでやかな色調と図案的な抽象性を両立させるところに特徴があり、その華麗な画法は「[[琳派]]」とよばれる芸術家群を生んだ<ref name=harada244/><ref name=kodama461/>。琳派を形成した画家に、[[渡辺始興]]、[[深江芦舟]]、[[立林何帠]]がいる<ref name=tsuji359/>。弟の乾山もまた、作品数は少ないながらも絵を描いている<ref name=tsuji359/>。なお、光琳は漆工や染織など工芸分野でもすぐれた作品をのこした<ref name=harada244/>。
 
 
 
江戸では、17世紀後半、[[安房国]]出身の[[菱川師宣]]があらわれた。それに先だって上方でも江戸でも[[寛文美人図]]という一連の諸作品が流行したが、やがて表現のマンネリ化が進行した<ref name=tsuji359/>。菱川師宣は、土佐派・狩野派などの伝統的な諸様式を吸収し、職人画の様式も消化して、中国の[[版画]]の技法も取り入れて庶民画として独自の画風を確立して江戸絵画に画期をもたらした<ref name=harada244/>。師宣は当初『[[伽羅枕]]』『武家百人一首』『絵本このごろぐさ』『好色一代男』など印刷された挿絵本で名をあらわした<ref name=akai145/><ref name=tsuji359/>。やがて、民衆の需要増に応じて、個人の独占する[[肉筆画]]に加え、大量の木版画を手がけるようになった<ref name=ozawa60/><ref name=harada244/>。当時の人びとは版画よりも肉筆画を貴重なものと見なしたが、浮世絵が様式としての生命を長く維持できたのは木版画に新しい技法や表現の可能性を追求でき、また美術品に商品としての価値もつけられ、多くの人の鑑賞にさらされたからでもあった<ref name=tsuji359/><ref name=kodama461/>。
 
 
 
版画は当初墨一色であったものがのちに色刷もなされるようになり<ref name=ozawa60/><ref name=harada244/>、師宣によって初期浮世絵派の様式的確立がなされたのである<ref name=tsuji359/>。やがて冊子という形式からも脱し、浮世絵は一枚物の版画として発展していった<ref name=akai145/>。その代表作『[[見返り美人図]]』は立ち姿の女性がなにげなく振り返った一瞬をよくとらえた肉筆画である<ref name=nakano47>[[#中野|中野(2012)pp.47-81]]</ref>。こののち、江戸では美人・役者など都市の風俗を題材とする浮世絵が愛好されるようになった<ref name=harada244/>。
 
 
 
浮世絵木版画は安価に入手できることもあって、大きな人気を得た。師宣以降は[[鳥居清信]]があらわれ、役者絵と美人画に大きな影響をのこした<ref name=harada244/>。清信は市村座の看板を描いて以来他の各座の看板絵を手がけ、のちに役者絵の一枚刷りを描いた<ref name=tsuji359/>。鳥居派の画法は、のちに江戸歌舞伎絵の主流を占め、上方にも流布するようになって[[大森善清]]や[[西川祐信]]などが数多くの名品をのこしている<ref name=harada244/>。いっぽう清信の美人画は、[[鳥居清倍]]、[[奥村政信]]および懐月堂派に影響をあたえた<ref name=tsuji359/>。清倍は役者絵・美人画の分野で清信に劣らぬ才能を発揮し、[[懐月堂安度]]は美人の立姿を主として肉筆画で量産した<ref name=tsuji359/>。安度自身は[[江島生島事件]]に連座するが、彼の工房には20名以上の弟子や画工がおり、安度追放後も量産をつづけた<ref name=tsuji359/>。また、西川祐信の影響を受けた奥村政信は、丹絵・紅摺絵・漆絵の技法を開発し、次代の[[錦絵]]全盛時代を準備した<ref name=tsuji359/>。
 
 
 
なお、17世紀後半から18世紀初頭にかけて[[長崎市|長崎]]でおこなわれた特殊な洋風表現として、[[長崎派|黄檗画像]](長崎派)とよばれる一連の[[肖像画]]がある<ref name=tsuji359/>。これは、[[黄檗宗]]の僧侶を洋風の陰影法を用い、写実的な要素をもった作品群であり、この作者としては[[喜多元規]]、[[喜多元喬]]、[[河村若芝]]らが知られている<ref name=tsuji359/>。
 
 
 
=== 彫刻 ===
 
[[ファイル:Enku Buddha Tokyo.JPG|150px|right|thumb|如来像(円空仏)(東京国立博物館)]]
 
[[仏師]]としては大仏師[[康猶]]が[[日光東照宮]]や[[上野寛永寺]]などの造像にたずさわり、明からおとずれた[[氾道生]]は[[宇治]][[萬福寺]]の諸像の制作に従事して明末の技法を日本に伝えたものの、その影響は限定的であった<ref name=tsuji357>[[#辻|辻(1977)pp.357-359]]</ref>。
 
 
 
この時代に光彩を放ったのは上方や江戸の専門仏師よりもむしろ、地方の僧や遍歴の僧であった<ref name=tsuji357/>。そのひとりが松雲禅師[[元慶]]であり、[[宝山湛海]]であった。京都の仏師出身の元慶は諸国行脚ののち[[五百羅漢]]制作を発願し、元禄8年([[1695年]])に五百数体を江戸で完成させた<ref name=tsuji357/>。宝山湛海はきびしい苦行経験を体現させた[[唐招提寺]][[不動明王]]像などで知られる<ref name=tsuji357/>。
 
 
 
こうしたなかで近年とくに注目されるのが、ほぼ全国を行脚した遊歴の[[臨済宗|臨済僧]][[円空]]である<ref name=tsuji357/>。かれは[[蝦夷地]]、奥羽、関東、中部など東日本各地を布教するかたわら、[[鉈|ナタ]]や[[鑿|ノミ]]の荒々しい感触をのこす[[鉈彫]]の技法によって、素朴で力強い神像・仏像を十万体とも十二万体ともいわれる彫像を制作しつづけた<ref name=tsuji357/><ref name=hase39>[[#長谷|長谷(2007)pp.39-47]]</ref>。この彫像は当時の伝統的仏教彫刻にはみられない造形であり、その分布は奥深い山あいの地に濃密に分布している<ref name=hase39/>。当時にあってそれは、各宗派の教線が未だ十分に及ばない地域であることから、円空は各宗派の勢力圏の空白を埋めるかたちで巡錫し、近世寺院が失った民衆救済としての信仰の場を提供する[[修験者]]として造仏活動を展開したのであり、半面では職人である仏師と聖職者である僧侶に区分される以前の仏師僧(造物聖)の姿でもあった<ref name=hase39/>。
 
 
 
[[陸奥国]][[八戸]]はこのような造仏のさかんな地域であり、[[正徳 (日本)|正徳]]年間を中心に2,000体もの造仏をおこなった[[大慈寺 (八戸市)|大慈寺]]の[[奇峰学秀]]や同地出身の[[津要玄梁]]の活動が知られている<ref name=hase39/>。
 
 
 
=== 書道・篆刻 ===
 
[[ファイル:一行書 北山雪山.jpg|90px|thumb|北島雪山「一行書」( [[東京国立博物館]])]]
 
[[書道]]では、[[和様]]が[[桃山時代]]から江戸時代初期にかけて古典復興の気運にのって発展し、ことに[[近衛信尹]]、[[本阿弥光悦]]、[[松花堂昭乗]]の3人は「[[寛永の三筆]]」と呼ばれるほどであったが、元禄期には博覧強記で知られた[[近衛家熙]]が[[藤原行成]]の書風を深く研究して稀代の能書家といわれた<ref name=tsuji427>[[#辻|辻(1977)pp.427-431]]</ref>。ただし、彼をのぞくと全体的には停滞傾向にあった<ref name=tsuji427/>。
 
 
 
この時期で特筆されるのは、[[尊円流]](青蓮院流)の系統をつぐ[[御家流]]が幕府の公用文書の書体として採用されたこともあって、印刷物などを通してひろく民衆に普及したことである<ref name=tsuji427/>。ただし、これはもっぱら実用に徹した書風であって芸術性を指向したものではなかった<ref name=tsuji427/>。
 
 
 
天下泰平の世にあって女性も書きものをする機会が増え、「女筆」と呼ばれる手習いが御家流とともに生まれた<ref name=taihei360>[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.360-365]]</ref>。女筆の手本としては[[大橋流]]と[[玉置流]]が知られていたが、ともに男性によるものであり、女性の手になるものとしては[[慶安]]5年([[1652年]])刊行の2代目[[小野お通]]([[真田信政]]夫人)筆の『女筆小野おづう手本』が最初である<ref name=taihei360/><ref group="注釈">大橋流、玉置流ともに書の流派で、天の川を渡ることに橋が、恋仲・夫婦仲を磨くことに玉が掛けられている。初代小野お通は[[北政所]]の[[侍女]]だったという伝説の能書家であり、2代目お通はその娘にあたる。[[#横田|横田(2002)pp.361]]</ref>。元禄13年([[1700年]])に女訓書『[[女今川]]』を筆書した[[沢田お吉]]もまた能書家として知られる女性であった<ref name=taihei360/>。
 
 
 
一方、中国的な書風では、武家出身の[[石川丈山]]の隷書が注目される。また、[[隠元]]、[[木庵]]らの黄檗僧や儒者[[朱舜水]]らによって明の書風が伝えられ、新しい書風として「[[日本の書流#唐様|唐様]]」が知識人のあいだに流行した<ref name=tsuji427/>。[[肥後国]][[熊本藩]]の儒医の家に生まれた[[北島雪山]]は唐様の名手として知られている。
 
 
 
隠元・木庵は[[篆刻]]をよくし、また、[[承応]]2年([[1653年]])に来日した[[独立性易]]は学識深く、本国にいたときから篆刻で有名であった。彼は隠元にともなわれて江戸を訪れ、正しい書法を啓蒙し、明代の篆刻を広く伝えている。
 
 
 
=== 工芸 ===
 
[[ファイル:NINSEI Wisteria TeaJar MOA.JPG|200px|right|thumb|野々村仁清「色絵藤花文茶壺」(MOA美術館)]]
 
[[ファイル:Guimet Kenzan 04.JPG|right|thumb|200px|尾形乾山「色絵紫陽花文角皿」(ギメ美術館)]]
 
[[ファイル:Periodo edo, kosode, XVIII sec. 2.JPG|thumb|200px|right|白綸子地藤鼓模様小袖 江戸時代(17世紀)[[東京国立博物館]]蔵]]
 
[[ファイル:WritingBox EightBridges OgataKorin.JPG|thumb|200px|八橋蒔絵螺鈿手箱(尾形光琳、国宝)[[東京国立博物館]]蔵]]
 
工芸分野では桃山時代に端を発した清新大胆なデザインが町人の創意を加えていっそう洗練され、とくに[[蒔絵]]・[[陶磁]]・[[染織]]では高いレベルに達した<ref name=tsuji415>[[#辻|辻(1977)pp.415-416]]</ref>。また、各藩の産業振興策とあいまって地方工芸が発達し、大衆生活のなかへ普及していった<ref name=tsuji415/>。
 
 
 
==== 陶芸 ====
 
[[茶器]]の需要が高まり、陶芸の発展も著しかった。[[伊万里焼|有田]]・[[唐津焼|唐津]]を擁する[[肥前国]]の[[窯業]]では、[[古伊万里]]・[[鍋島焼|色鍋島]]のいわゆる[[色絵]][[磁器]]が元禄から享保にかけて大発展を遂げ、技術面でも量産の点でも最盛期となった<ref name=harada245>[[#原田|原田 他(1981)pp.245-247]]</ref>。有田の[[酒井田柿右衛門]]が成功した[[赤絵付]]は、濁手と称される乳白色の素地を生かし、赤など鮮明で美麗な色彩と細い描線で人気を呼び、有田一帯で焼かれるようになり、積み出し港である[[伊万里港]]の名によって「伊万里」と称された<ref name=tsuji419>[[#辻|辻(1977)pp.419-425]]</ref>。元禄期には市井・村落の[[風俗]]やオランダ船なども描かれるようになり、[[オランダ]]を経由して未だ磁器を有しないヨーロッパ諸国にも輸出された<ref name=tsuji419/>。また、有田・伊万里を領する[[佐賀藩]]では藩直営の窯を有して厳しい監督のもと高級品をつくらせたが、これが色鍋島である<ref name=tsuji419/>。<!--柿右衛門が創始した赤絵磁器の技法は[[加賀国]]にも伝わり、明暦から元禄にかけて[[古九谷]]と称される色絵磁器を生んだが、その特色は絵付の豪放さにあった<ref name=harada245/><ref name=tsuji419/>。--><!--いわゆる「古九谷」は、加賀の産ではなく、肥前有田で焼かれたものであることは近年定説化していますので、ここは非表示化します。-->
 
 
 
朝鮮から伝来した[[九州]]や防長の諸窯に対し、この時代には、国内窯業の伝統を濃厚に保持した京都の陶芸の勃興も著しかった<ref name=harada245/>。京都の[[野々村仁清]]が上絵付法をもとに色絵を完成して[[京焼]]を大成し、[[清水焼]]をはじめ洛中洛外の諸窯に影響をおよぼした<ref name=mitsuoka137/><ref name=harada245/>。仁清は、[[丹波国]]出身の陶工で名を清右衛門といい、当初洛東の[[粟田口焼]]で修行し、さらに腕に磨きをかけるために[[尾張国]]まで出向いて[[瀬戸焼]]を学び、茶人[[金森宗和]]の推挙で京都[[仁和寺]]の門前に[[御室窯]]をひらいた<ref name=mitsuoka137/><ref name=tsuji419/>。「仁清」の号は窯の所在地である仁和寺と本名の清右衛門より一字ずつとったものである<ref name=mitsuoka137/>。
 
 
 
仁清の作品は、[[ロクロ]]や彫塑による、神業に似た成形の妙に特色を有した多様な茶器・[[懐石]]道具であり、ほとんどが貴族趣味を漂わせる富裕層むきの高級奢侈品であり、日本情緒のただよう名品が多い<ref name=mitsuoka137/>。とくに、[[藤]]、山寺、[[吉野山]]、若松、[[けし]]、月梅などを図様にした大ぶりの[[茶壺]]は彼の[[意匠]]の独創性や卓越性を示しており、[[法螺貝]]や[[雉]]をモチーフとした[[香炉]]などは洒脱な彫塑作品である<ref name=tsuji419/>。
 
 
 
「雁金屋」の三男であった[[尾形乾山]]は、仁清から作陶を学び、元禄12年([[1699年]])に陶法修得の証として秘伝の陶法書を伝授されている<ref name=mitsuoka137/>。乾山は、独特の絵付けをおこない、兄の光琳の画風もいかして装飾的で変化に富む高雅な意匠をうみだした<ref name=harada245/>。かれの[[鳴滝窯]]の作品は、絵と書と陶を融合させた斬新な意匠で知られ、色絵[[楽焼]]にも学んで茶陶の世界に新境地をひらいた<ref name=harada245/>。光琳が派手好みの芸能を好む道楽者であったのに対し、乾山は隠逸を好む読書人で脱俗的であり、その作品もまた、前者の明快な造形美に対し、後者は滋味豊かな情趣美に持ち味があって、それぞれ好対照をなしている<ref name=mitsuoka137/>。この作風の違いはしばしば「光琳の金」に対して「乾山の銀」と形容されることがある<ref name=kodama461/>。乾山はのちに江戸に住し、一時[[下野国]][[佐野市|佐野]]におもむいて作陶したこともあり、その作品はそれぞれ「入谷乾山」「佐野乾山」と呼ばれている<ref name=mitsuoka137/>。野々村仁清の子の伊八が乾山の養子となって2代目乾山を名乗っている<ref name=kodama461/>
 
 
 
なお、[[備後国]]の[[姫谷焼]]の色絵は、寛文年間のごく短い間のみ焼かれたものであるが、その清純な美しさは高く評価されている<ref name=tsuji419/>。
 
 
 
==== 染織 ====
 
[[桃山文化]]期にめざましい発展をとげた[[絞り染]]や[[縫箔]]による[[小袖]]・[[能衣装]]のデザインは、均等な文様の繰り返しから非対称で流動的なものへと変化したが、その傾向は江戸時代に入っても受け継がれ、寛文年間には[[寛文小袖]]と称される、小袖全体を大きな一つの画面と見立てる意匠がうまれた<ref name=tsuji425>[[#辻|辻(1977)pp.425-427]]</ref>。寛文小袖のデザインは多様で、あらゆるものが大胆に取り上げられ、ここにおいて、中世的・外来的なデザインではなく、独自の日本的意匠の確立がみられる<ref name=tsuji425/>。
 
 
 
高級織物や[[生糸]]は長きにわたって中国からの重要輸入品であったが、この時代には国内[[養蚕業]]の発達により上質な[[生糸]]がつくられ、[[西陣]]で高級織物がつくられるなど国産化が進んで求めやすくなったことと経済成長によって[[需要]]も増えたことで染織の技術も進展したのである<ref name=kodama461/>。
 
 
 
小袖はその形態上、染織による自由な絵模様の発達をうながした<ref name=tsuji425/>。桃山時代の[[辻が花]]は必ずしも量産に適さなかったが、17世紀末ころから、[[扇]]の意匠を小袖に応用するなかで開発された「[[友禅染]]」とよばれる染色技法が流行するようになった<ref name=tsuji425/>。友禅染の名は京都の画家[[宮崎友禅斎]]にちなむと伝えられるが、必ずしも明確な根拠にもとづくものではなく、従来一部でおこなわれていた[[茶屋染]]など[[糊防染]]の手法が開花・進歩したものとみられる<ref name=tsuji425/>。いずれにせよ、これによって、布地に花鳥山水を自由に染色した小袖が量産できるようになり、[[綸子]]や[[縮緬]]の生地には華やかな模様があしらわれるようになった。光琳風の精巧優美な模様も描かれるようになり、「[[元禄模様]]」として人気を博し、この技法は加賀にも伝えられて[[加賀友禅]]と称された<ref name=tsuji425/>。
 
 
 
友禅染や刺繍によるぜいたくな染色がなされる一方で、[[かすり]]や[[木綿絞り]]、[[縞物]]や[[小紋]]、[[中形]]など庶民の日常生活に密着した染物もあらわれ、諸藩の産業振興と相まって幾何文を主とする素朴で機能美にあふれた衣服も各地でみられるようになった<ref name=tsuji425/>。
 
 
 
==== 蒔絵・漆工 ====
 
工芸分野でとくに技術の発展が著しかったのは[[蒔絵]]である。寛永期の[[本阿弥光悦]]は蒔絵に新局面をひらき、その影響を強く受けた[[尾形光琳]]もまた装飾的画風をいかしたすぐれた意匠の作品を残した<ref name=tsuji416>[[#辻|辻(1977)pp.416-419]]</ref>。ことに、「八橋蒔絵螺鈿硯箱」は古典の『[[伊勢物語]]』における[[八橋]]と[[カキツバタ]]の意匠を用いた優品で、上段が硯箱、下段は料紙箱となっている。他に、「住の江蒔絵硯箱」、「紅葵硯箱」、「松に山茶花蒔絵硯箱」など、江戸時代のみならず日本工芸史をかざる逸品である<ref name=mitsuoka137/>。光琳はまた、扇面や[[団扇]]などにもすぐれた遺品をのこしている<ref name=mitsuoka137/>。
 
 
 
室町時代以来の蒔絵師[[五十嵐派]]では、[[五十嵐道甫]]が加賀前田家に招かれて御用蒔絵所の職を任され、[[加賀蒔絵]]を創始した<ref name=tsuji416/>。特異な作家としては[[小川破笠]]がおり、陶磁と彫漆などの手法を組み合わせた中国趣味の強い図様の蒔絵をつくった
 
<ref name=tsuji416/>。
 
 
 
なお、[[輪島塗]]、[[会津塗]]、[[津軽塗]]、[[能代市|出羽能代]]や[[高山市|飛騨高山]]の[[春慶塗]]、[[若狭塗]]、[[城端塗]]など地方の漆芸も、この時期以降、生活に根ざした庶民的な工芸品として各地で多彩な発達をみせた<ref name=tsuji416/>。
 
 
 
==== 金工 ====
 
桃山から江戸時代初期にかけては建物の大規模な造営がつづいたため、建物金具の技術は長足の進歩を遂げたが、やがて他の工芸分野や刀剣装飾などにも精密な技巧がほどこされるようになった<ref name=tsuji415/>。[[印籠]]や煙草入れを腰に留める[[根付]]などには細密な意匠が凝らされ、一方で[[刀剣]]装飾では[[後藤家]]が名門として絵画における狩野派のような地位を得、後藤家から分かれた[[奈良家]]からも名工があらわれた<ref name=tsuji415/>。
 
 
 
装剣金工師の[[横谷宗珉]]は、当初幕府の彫物御用の後藤家の下地師であったが、元禄初年の1690年頃に独立し、狩野探幽や狩野安信、英一蝶などの作品を下絵に応用して絵風彫刻を創始して、「[[町彫]] (まちぼり)」と称された<ref name=tsuji415/>。これに対し、後藤家の金工は「[[家彫]]」とよばれた<ref name=tsuji415/>。
 
 
 
=== 建築 ===
 
[[ファイル:Tōdai-ji Kon-dō.jpg|right|thumb|200px|東大寺金堂(大仏殿)]]
 
[[File:Shinreisan Gokokuji 01.JPG|thumb|200px|護国寺本堂]]
 
[[File:Kaneiji Jokenin Mausoleum Gate 01.JPG|thumb|200px|常憲院(徳川綱吉)霊廟勅額門(東京都台東区)]]
 
==== 寺社・霊廟 ====
 
近世にあっては、[[木割り]]や[[規矩]]の技術が発達し、職人の諸技術が解析されて技術書が刊行されて広く普及し、[[台鉋]]や[[大鋸]]などの[[大工道具]]も発達したため、寺社建築では全国規模の技術革新がみられ、その技術は均一化して地域的格差が縮小した一方、その高度な技術が駆使されて各地の風土や嗜好にあわせた地方色豊かな建築が各地でみられた <ref name=kenchikushi94>[[#建築史|『日本建築史』藤田・古賀編(1999)pp.94-95]]</ref>。[[長谷寺]]本堂、[[東大寺]]金堂、[[善光寺]]本堂、[[萬福寺]]大雄宝殿などはこの時代の建造物である。
 
 
 
奈良の[[東大寺金堂]](大仏殿)は、鎌倉時代に[[重源]]によって再建されたものの戦国時代に[[松永久秀]]の手によって再び焼失し、大仏は長らく露座のままであったが、宝永6年([[1709年]])に再建された<ref group="注釈">宝永に再建された金堂は[[天平]]時代のものよりも規模は小さいが、現存する世界最大級の木造建築である。</ref>。宝永4年([[1707年]])に再建された[[信濃国]][[善光寺]]([[長野市]])の本堂は江戸時代を代表する総[[檜皮葺]]の仏殿建築である。また、江戸では元禄10年([[1697年]])に[[護国寺]]が造営され、翌元禄11年には[[寛永寺]]の大改造がおこなわれている<ref name=youshikishi92>[[#様式史|『日本建築様式史』太田編(1999)pp.92-100]]</ref>。
 
 
 
17世紀には復古的・保守的な作品ばかりではなく、新様式として[[黄檗建築]]と霊廟建築が誕生した<ref name=youshikishi92/>。
 
 
 
寛文8年([[1668年]])建立の[[宇治市|宇治]]の萬福寺大雄宝殿は当時の明の建築様式を踏襲した黄檗建築の初期の事例である<ref name=youshikishi92/>。黄檗建築は、間取りや細部にいたるまで多様な新要素をもたらしたが、弧を描く[[垂木]]の上に湾曲する黄檗天井と大屋根の見せ方はとくに寺院建築を離れても建築の表現手法として定着した<ref name=youshikishi92/>。
 
 
 
霊廟建築では、3代将軍家光を祀る[[霊廟]]として知られる[[輪王寺]]大猷院霊廟が[[日光市|下野国日光]]につくられた。造営には承応元年([[1652年]])から2年の月日を費やしているが<ref name=kenchikushi46>[[#建築史|『日本建築史』藤田・古賀編(1999)pp.46-47]]</ref>、寛永期の[[日光東照宮]]の系譜を引き継ぐもので、[[権現造]]である<ref name=youshikishi92/>。
 
 
 
日光の建築群は、豊かな彫刻と鮮やかな彩色を特徴とする華麗な装飾建築の代表であり、幕府の強大な権力と財力を背景に幕府作事方の[[棟梁|大棟梁]]が建造を差配し、当時の技術の精華が注ぎ込まれたものである<ref name=tomiyasu31>[[#太田富|太田富康(2006)pp.31-41]]</ref>。[[寛永]]4年([[1627年]])に[[藤堂高虎]]が江戸屋敷内に創建した[[上野東照宮]]もまた権現造の建築で、現在の社殿は慶安4年([[1651年]])[[徳川家光]]最晩年の改築によるものである<ref name=youshikishi92/>。江戸時代前期の将軍の霊廟は上野寛永寺のほか[[芝公園|芝]]の[[増上寺]]や江戸城内の[[紅葉山]]に建立されたものの近代以降に取り壊されたり、戦災を受けたりして遺存例は少ない。そうしたなかで、台德院勅額門など3棟は[[埼玉県]][[所沢市]]に移築のうえ公開されている<ref name=tomiyasu31/>。
 
 
 
==== 住居建築 ====
 
支配者の住居としては、従来の[[書院造]]に[[茶室]]建築を加味した[[数寄屋造]]がつくられた<ref name=youshikishi116>[[#様式史|『日本建築様式史』太田編(1999)pp.116]]</ref>。別荘建築として京都の[[桂離宮]]がすでに元和年間につくられているが、[[修学院離宮]]は承応2年([[1653年]])から承応4年([[1655年]])に[[後水尾天皇|後水尾上皇]]の指示で造営された[[別荘]]建築であり、ここでも数寄屋造が採用されている。また、[[西本願寺]]の[[門主]]の生活の場としてつくられた[[黒書院]]は、明暦3年([[1657年]])の建造で屋根は[[寄棟]]、[[こけら葺]]の数寄屋風の造りである。大名邸宅も桃山・寛永風の豪華な書院造が多数つくられたが、火災等により現存する例は少ない。
 
 
 
[[民家]]では、17世紀中葉から後葉にかけて近世民家が本格的に出現する<ref name=kenchikushi178>[[#建築史|『日本建築史』藤田・古賀編(1999)pp.178-180]]</ref>。[[近畿]]以外の地域では、平面形が[[土間]]の横に梁行の長さを極限まで広げた空間をとり、その奥に2つの部屋を配置する「広間型三間取り」と称される形式が一般化する<ref name=kenchikushi178/>。[[東京都]][[町田市]]の[[永井家住宅]]はその数少ない保存例といえる<ref name=kenchikushi178/>。いち早く広間型三間取りの成立をみていた近畿では、17世紀初頭から四間取り型住居があらわれ、普及していく<ref name=kenchikushi178/>。
 
 
 
=== 庭園 ===
 
[[ファイル:Korakuen Gartenplan.jpg|right|thumb|280px|小石川後楽園平面図]]
 
[[ファイル:Okayama Korakuen Garden01.jpg|280px|right|thumb|岡山後楽園から岡山城を望む]]
 
江戸期に入ると、伝統的な池庭の様式に[[桃山文化]]期に確立された[[露地]]のはたらきや意匠が付加され、さらに[[東山文化]]期成立の[[枯山水]]の要素も複合されて総合的庭園様式とも称すべき「[[回遊式庭園]]」が成立する<ref name=ono35>[[#小野|小野(2009)pp.35-41]]</ref>。これは、一定の共通認識や教養を有する上層の武家や公家、僧侶などの階層相互において、茶事や宴を催す社交の場であった<ref name=ono35/>。
 
 
 
回遊式庭園は、池を中心に築山や平場が設けられ、御殿や茶亭、[[四阿]](あづまや)などの建物が配置された<ref name=ono35/>。
 
 
 
京都では、桂離宮や[[仙洞御所]]につづき明暦から万治にかけて修学院離宮が造営され、その御殿や庭園は宮廷文化のサロン的社交の場となった<ref name=ono35/>。
 
 
 
江戸にあっては、将軍が[[大名屋敷]]を訪れる御成の回数が増え、大名の側も屋敷に趣向をこらした回遊式庭園を設けるようになり、これを[[大名庭園]]と呼んでいる<ref name=ono35/>。[[明暦の大火]]後、幕府がリスクの分散のために各大名に複数の屋敷をもつよう奨励されてのちは、いっそう庭園がつくられるようになった<ref name=ono35/>。
 
 
 
[[小石川]]の[[水戸藩]]邸にある[[小石川後楽園]]は、初代水戸藩主[[徳川頼房]]が将軍家光から拝領した広大な屋敷地に造営され、その名も設計思想も、明より亡命した[[朱舜水]]の儒教思想の影響がみられる<ref name=ono35/>。綱吉の側用人として重視された[[柳沢吉保]]の屋敷にある[[六義園]]も現存する名園であり、その名称は、[[紀貫之]]が『[[古今和歌集]]』の序文に書いた「六義」(和歌の六つの基調を表す語)に由来している。楽壽園([[旧芝離宮恩賜庭園]])、および浜御殿の庭([[浜離宮恩賜庭園]])は、それぞれ臨海都市である江戸の立地を活かした「汐入の庭」である<ref name=ono35/>。
 
 
 
大名庭園は江戸のみならず、地方の城下町でもつくられた<ref name=ono35/>。[[岡山市]]に所在する[[後楽園]]は、藩主[[池田綱政]]が家臣[[津田永忠]]に命じて造らせたものであり、金沢の[[兼六園]]、水戸の[[偕楽園]]とともに[[日本三名園]]といわれる。他に、[[熊本市]]の[[水前寺成趣園]]、[[彦根市]]の[[玄宮園]]、[[広島市]]の[[縮景園]]、[[宇和島市]]の[[天赦園]]、[[高松市]]の栗林荘([[栗林公園]])などは、現在も良好な状態で保たれている。
 
 
 
寺院庭園では、[[清水寺]]本坊(京都市[[東山区]])の成就院庭園や[[観音院]]庭園([[鳥取市]])などがこの時代のものとして著名である<ref name=ono35/>。これら庭園文化はさらに旗本はじめ各地の上級武家に広がり、江戸時代も中期以降になると、豪商・豪農の屋敷にも拡がっていった<ref name=ono35/>。
 
 
 
=== ギャラリー ===
 
<gallery>
 
ファイル:Tsunyaoshi.jpg|土佐光起『徳川綱吉像』
 
ファイル:Ch42 nioumiya.jpg|土佐光起『源氏物語絵巻』四十二帖『匂宮』(バーク・コレクション)
 
ファイル:Periodo edo, sumiyoshi jokei, rotolo con il racconto di ise, XVII sec. 01.JPG|住吉如慶『伊勢物語』
 
ファイル:Staying cool under an arbour of evening glory detail.jpg|久隅守景『夕顔棚納涼図屏風』(部分)
 
ファイル:Agriculture in the four seasons.jpg|久隅守景『四季耕作図』
 
ファイル:Itcho Hanabusa, The Falling Thunder God.jpg|英一蝶『雷神図』
 
ファイル:Otafuku LACMA M.79.82.jpg|英一蝶『お多福』
 
ファイル:Azalea Korin.JPG|尾形光琳『躑躅図』
 
ファイル:Korin Fujin Raijin.jpg|尾形光琳『風神雷神図』
 
ファイル:Azalea Korin.JPG|尾形光琳『躑躅図』
 
ファイル:Yatsuhashi-zu Byōbu by Kōrin Ogata (171-14).jpg|尾形光琳『八橋図屏風』
 
ファイル:Rough waves (Ogata Kōrin).jpg|尾形光琳『波濤図』
 
ファイル:'Plum Blossoms', ink and color on gold paper by Ogata Kôrin, Japanese fan, 1702, Honolulu Academy of Arts.jpg|尾形光琳作の扇(「梅花」)
 
ファイル:Hishikawa Moronobu - Scenes from the Nakamura Kabuki Theater - Google Art Project.jpg|菱川師宣『歌舞伎図屏風』
 
ファイル:Hishikawa Sumidagawa.jpg|菱川師宣『隅田川上野風俗図屏風』(部分)
 
ファイル:Hishikawa-Moronobu-woodblock-print-1680.jpg|菱川師宣『吉原の躰』
 
ファイル:Hishikawa Moronobu (1680) Two lovers embracing in front of a painted screen - hand-coloured.jpg|菱川師宣「衝立の陰」(『拾弐図』所収)
 
File:Kyushu Ceramic Museum S-VII-76 Iroe-Umerankanmadoemon-Sara.JPG|色絵梅欄干窓絵文皿(伊万里焼、18世紀初)([[佐賀県立九州陶磁文化館]])
 
ファイル:Tea Leaf Jar by Studio of Ninsei, Edo period, 17th century, moon and plum design in overglaze enamel - Tokyo National Museum - DSC05248.JPG|野々村仁清「色絵月梅図茶壺」
 
ファイル:NINSEI PINE TEA CONTAINER.JPG|野々村仁清「色絵若松図茶壺」
 
ファイル:Water Jar, studio of Nonomura Ninsei, Kyoto ware, Edo period, 17th century, peony design in overglaze enamel - Tokyo National Museum - DSC06043.JPG|野々村仁清「色絵牡丹文水指」
 
ファイル:KENZAN SQUARE Dishes.JPG|尾形乾山「銹絵十体和歌短冊皿」(左2点は底)
 
ファイル:Kosode (garment with small wrist openings), Edo period, 17th century, noshi (gift ornament) and chrysanthemum tie-dyed design on indigo figure satin ground - Tokyo National Museum - DSC06196.JPG|納戸綸子地熨斗菊花模様小袖(東京国立博物館)
 
ファイル:Hasedera Sakurai Nara pref32n4272.jpg|長谷寺本堂
 
ファイル:Zenkoji.JPG|善光寺本堂
 
ファイル:Manpukuji 01.jpg|萬福寺大雄宝殿
 
ファイル:Ueno Tōshō-gū DSC02777.JPG|上野東照宮
 
ファイル:Shugaku-in Imperial Villa - Upper Garden pond.JPG|修学院離宮(隣雲亭から浴竜池を臨む)
 
ファイル:Koishikawa korakuen - Osensui and Horaijima.jpg|小石川後楽園の大泉水と蓬莱島
 
ファイル:Bunkyo Rikugien Panoramic View In Late Autumn 1.JPG|六義園全景
 
ファイル:Hamarikyu Garden as seen from Shiodome.jpg|浜御殿(浜離宮恩賜庭園)
 
ファイル:Kyu-Shibarikyu Onshi Garden.jpg|楽壽園(旧芝離宮恩賜庭園)
 
ファイル:Genkyuen09s3200.jpg|玄宮園
 
ファイル:Kumamoto Suizenji-jojuen01n4272.jpg|水前寺成趣園
 
ファイル:Kannonin Tottori22s4110.jpg|観音院庭園
 
</gallery>
 
 
 
== 芸道の世界 ==
 
=== 茶道・華道・香道 ===
 
[[茶道]]界では、[[千宗旦]]の子の[[千宗守 (4代)|宗守]]、[[千宗左 (4代)|宗左]]、[[千宗室 (4代)|宗室]]がそれぞれ[[武者小路千家]]、[[表千家]]、[[裏千家]]の祖となり、[[高松藩]]、[[紀伊藩]]、[[加賀藩]]の茶頭となった<ref name=harada245/>。宗旦の弟子では、[[山田宗偏]]が[[小笠原氏]]に、[[藤村庸軒]]が[[藤堂氏]]の茶の師範になるなど、有力な茶人と大名家との接触が深まり、武家の茶湯に影響をおよぼした<ref name=harada245/>。これにともない、千家の流れをくむ[[久保流]]・[[松尾流]]、[[河上不白]]の[[不白流]]、あるいは[[藪内流]]、[[宗和流]]など、[[家元制度]]が確立し、茶匠の職業化の基礎がすえられた<ref name=harada245/>。
 
 
 
他方、これら[[茶の湯]]の諸流派は町人社会にも浸透し、元禄以降は茶の湯の主導的な地位は富裕な町人の手に移るようになった <ref name=harada245/>。財貨の先行投資と保全をかねて名物道具を収集する[[豪商]]もあらわれた<ref name=harada245/>。第4代[[鴻池善右衛門]](宗貞)とその一族[[山中道徳]]などはその一例である<ref name=harada245/>。
 
 
 
また、[[華道]]・[[香道]]ともに東山文化期に端を発しているが、この時代は公家や上級武家のみならず、庶民のたしなみとしておおいに広がった。
 
 
 
=== 囲碁・将棋 ===
 
[[ファイル:Brooklyn Museum - Two Boys Playing Shogi with a Third Observer.jpg|180px|right|thumb|将棋をする子どもたち(18世紀)]]
 
 
 
将軍家に[[囲碁]]をもって伝える家には、[[本因坊]]、井上、安井、林の四家があった<ref name=kodama364>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.364-370]]</ref>。本因坊家は[[豊臣秀吉]]・[[徳川家康]]に仕えた[[本因坊算砂]]、[[井上家]]は元和から寛永にかけて活躍した[[中村道碩]]、[[安井家]]は[[貞享暦]]で知られる渋川春海の父初代[[安井算哲]]、[[林家 (囲碁)|林家]]は[[林門入斎]]を始祖としている<ref name=kodama364/>。
 
 
 
囲碁の四家に対して[[将棋]]は、桃山時代に活躍した[[大橋宗桂]]直系の[[大橋家]](大橋本家)・大橋分家・[[伊藤家]]の三家が家元となっていた<ref name=kodama364/>。本因坊算砂は将棋も強かったが友誼によって宗桂に将棋家元の地位を譲ったともいわれている<ref name=kodama364/>。宗桂の子の[[大橋宗古]]は、[[二歩]]や[[千日手]]、[[打歩詰]]の禁止など現代につながる規則の制定に尽力した<ref name=kodama364/>。
 
 
 
宗古の弟の[[大橋宗与]]が大橋分家の祖となり、宗古の娘をめとった[[伊藤宗看 (初代)|伊藤宗看]]が伊藤家をなした<ref name=kodama364/>。なお、伊藤宗看の名は関白[[近衛信尋]]によるが、宗看は棋力抜群で3世[[名人 (将棋)|名人]]となり、その子宗銀は大橋本家を継いで[[大橋宗桂 (5代)|五代宗桂]]を名乗り、4世名人となった<ref name=kodama364/>。
 
 
 
五代宗桂の時代が元禄時代に相当し、京都の[[西沢太兵衛]]らがさかんに将棋関係の書籍を発行するなど江戸期における将棋全盛の時代であった<ref name=kodama364/>。盲目の強い将棋愛好者があらわれたのも元禄期で、[[石田検校]]のはじめた[[三間飛車]]を特徴とする[[石田流]]は現在でも戦法として使われることがある<ref name=kodama364/>。なお、[[荻生徂徠]]も将棋が好きでみずから「[[広将棋]]」という新しい将棋を考案している<ref name=kodama364/>。
 
 
 
碁所や将棋所は[[寺社奉行]]の管轄下にあって、俸給は安く身分も低かったが社会的な尊敬を集めた<ref name=kodama364/>。囲碁・将棋が一般庶民の娯楽となったのも元禄時代を画期としている<ref name=kodama364/>。
 
 
 
== 儒学の興隆と神道・仏教 ==
 
中国の[[孔子]]が創始した[[儒教]]は、日常の人間関係を実践的に考える教えである。そして、その政治思想的な側面は、日本では古くから[[儒学]]として研究対象となってきた。[[江戸幕府]]は家康以来、[[幕藩体制]]支配の思想的裏づけとして儒学を重んじ、幕藩体制はまた儒学のもつ意義を増大させた。ここでは、[[社会]]における人びとの役割([[職分]])が説かれ、上下の[[身分制|身分秩序]]を重ずるべきこととし、「[[忠]][[孝]]・[[礼儀]]」が尊ばれていたからである。
 
 
 
幕府は[[林家 (儒学者)|林家]]を中心に[[朱子学]]を教学として保護したが、諸藩でも幕府にならって藩士らの教育のために[[藩学]](藩校)や[[郷学]](郷校)を設立するところがあらわれた。[[岡山藩]]の[[池田光政]]による[[花畠教場]]、[[会津藩|会津藩主]][[保科正之]]が[[横田俊益]]につくらせた[[稽古堂]]などは、その古い事例といえる。
 
 
 
=== 朱子学 ===
 
朱子学は[[南宋]]の[[朱熹]]によって体系化された儒学で、宋学とも呼ばれる。日本では[[京都五山]]で[[仏教]]とともに学ばれていた。
 
 
 
儒学のなかにあっても特に朱子学は、[[大義名分論]]を基礎とし、主従・父子の別や上下の秩序、礼節を重んじ、身分制度や[[家族制度]]など封建的秩序を自然秩序と同様に定まったものとみたので、[[文治政治]]をすすめるうえで好適な教学であるとして江戸幕府や諸大名に歓迎された。幕藩体制は、基本的には農村を基礎とする封建的割拠体制であり、[[鎖国令]]にいたるまでは比較的自由にふるまえた商業資本もまた、「貴穀賤金」の理念にしたがって農民の下に位置づけられ、[[農業]]を本とし、[[商業]]を末とする本末論のかたちを有し、この体制を維持すべきものとして朱子学が根本にすえられたのである<ref name=sakoku110>[[#奈良本1970|奈良本「鎖国下の創造」(1970)pp.110-113]]</ref>。
 
 
 
家康は、[[相国寺]]の学僧であった[[藤原惺窩]]をまねいて『[[貞観政要]]』『[[吾妻鏡]]』などを講じさせ、惺窩の推挙によって、その門人である[[林羅山]](道春)をみずからの[[侍講]]として登用した。羅山は家康、[[徳川秀忠|秀忠]]、家光の3代にわたって儒学を講義し、家光の時代には上野忍ヶ岡に学塾[[弘文館]]をひらいた。羅山は仏教の彼岸性、超越性を非難して、しきりに排仏論を唱え、最高の道徳として[[五倫]][[五常]]を説いた<ref name=sakoku110/><ref group="注釈">戦国時代にあっては、「生と死」の問題は仏教に委ねられていたが、幕藩体制下では超越者との関係を断ち切り、現世的な関係を第一義とする思想が求められたのであり、従来の擬制的な主従関係や身分的・階層的秩序観念を従来に比していっそう本質的なものとして説明する哲学が要請されたのである。[[#奈良本1970|奈良本「鎖国下の創造」(1970)pp.110-111]]</ref>。
 
 
 
羅山・[[林鵞峰|鵞峰]]・[[林鳳岡|鳳岡]]と続いた林家は、代々幕府の文教政策にたずさわったが、[[儀礼]]や[[外交]]文書・[[武家諸法度]]の起草、[[刑罰]]の典礼などもおこなっている<ref name=naramoto54>[[#奈良本|奈良本(1974)pp.54-56]]</ref>。これは[[室町幕府]]の将軍[[足利氏]]のもとで[[京都五山]]などの禅僧がおこなっていた業務を継承したものであった<ref group="注釈">羅山も、正式に幕府に仕えるときには、家康の命により剃髪して道春と名のっている。以後、羅山の三男の鵞峯までは僧侶待遇であった</ref>。5代将軍綱吉は元禄3年([[1690年]])江戸[[湯島]]に[[孔子廟]]大成殿を建て、儀式の主宰者である[[祭酒]]に林鳳岡(信篤)を任じ、ここを[[湯島聖堂]]として林家の学塾を移させた<ref group="注釈">湯島の学塾は、[[寛政の改革]]のとき幕府直轄の学問所([[昌平坂学問所]])に改められ、以後、直臣のみならず藩士・[[郷士]]・牢人の聴講入門も許可された。</ref>。翌年以降、信篤は[[大学頭]]を名のり、以後代々、林家の当主は大学頭を称した。
 
 
 
[[ファイル:木下順庵.jpg|right|thumb|150px|木下順庵]]
 
惺窩を祖とする[[京学]]からは、羅山のほか町儒者として京都の私塾で門人を養成した[[松永尺五]]があらわれた<ref name=harada242>[[#原田|原田 他(1981)pp.242-243]]</ref>。この門からは加賀藩主[[前田綱紀]]に用いられ、のちに将軍綱吉の侍講となった[[木下順庵]]が出ている<ref name=harada242/>。順庵はすぐれた教育者としても知られ、「[[木門]]」と称される彼の門下からは[[新井白石]]や[[室鳩巣]]、[[三宅観瀾]]、[[祇園南海]]、[[雨森芳洲]]などの人材が輩出した<ref name=naramoto54/><ref name=harada242/><ref group="注釈">順庵門下の白石、鳩巣、観瀾、芳洲、[[祇園南海]]、[[榊原篁洲]]、[[南部南山]]、[[松浦霞沼]]、[[服部寛斎]]、[[向井滄洲]]を合わせて「木門十哲」と称することがある。</ref>。白石は6代[[徳川家宣]]・7代[[徳川家継|家継]]の、鳩巣は8代将軍[[徳川吉宗|吉宗]]のそれぞれ侍講として幕政にも関与し、観瀾は水戸藩主[[徳川光圀]]に仕えた<ref group="注釈">新井白石は順庵の塾に束脩を払って入門したのではなく、いわば特待生の待遇であったが、あくまでも順庵門下という意識をもち続け、他からの誘いも断っている。[[#奈良本|奈良本(1974)pp.55-56]]</ref>。また、[[近江国]]出身の雨森芳洲は[[対馬藩]]に仕え、日朝関係の改善に尽くした。
 
 
 
[[ファイル:Yamazaki Ansai.jpg|right|thumb|150px|山崎闇斎]]
 
戦国時代に[[南村梅軒]]が[[土佐国]]でおこしたとされる[[南学]](海南学派)も朱子学の一派で、梅軒の弟子で江戸時代初期にあらわれた土佐の[[谷時中]]によって大成された。この系統からは、土佐藩の藩政改革に実権をふるった家老[[野中兼山]]や、儒学による神道解釈を提唱した[[山崎闇斎]]らが出た。
 
 
 
闇斎は当初土佐[[吸江寺]]の禅僧であったが、兼山や[[小倉三省]]らの影響で仏教を離れ朱子学の徒となった<ref name=bito158>[[#尾藤|尾藤『元禄時代』(1975)pp.158-185]]</ref>。闇斎は会津藩主保科正之に招かれ、正式な藩士とはならなかったものの保科家の家訓の制定にたずさわったといわれている<ref name=bito158/>。江戸や京にも多数の門人がおり、その教育法は厳格で、[[佐藤直方]]・[[浅見絅斎]]・[[三宅尚斎]]・[[遊佐木斎]]・[[正親町公通]]・[[出雲路信直]]・[[土御門泰福]]・[[谷秦山]]・[[植田艮背]]などの名が知られている<ref name=bito158/>。なかでも、直方、絅斎、尚斎の3名は「崎門三傑」と称された<ref group="注釈">浅見絅斎の著書『[[靖献遺言]]』は中国史における殉国者的な8人([[屈原]]・[[諸葛亮|諸葛孔明]]・[[陶淵明]]・[[顔真卿]]・[[文天祥]]・[[謝枋得]]・[[劉因]]・[[方孝孺]])らについての歴史的論評であったが、[[幕末の志士]]にさかんに読まれた。</ref>。
 
 
 
謹直な人物として知られる保科正之は儒学を尊信しながらも、そこにふくまれる[[易姓革命|革命思想]]を嫌悪したが、闇斎もまた明確に革命否定の立場に立った<ref name=bito158/>。闇斎はまた、朱子学の道徳的側面を強調する一方で日本古来の伝統を重視して神儒融合の[[垂加神道]]を説いた<ref name=bito158/>。闇斎はしだいに朱子学に対し批判的態度を示すようになり<ref name=harada242/>、佐藤直方や浅見絅斎ら「純儒派」の弟子たちは師の説く朱子学解釈に反対し、晩年の師に忠実な「神道派」と対立、闇斎より破門されるなど師弟相互の確執を生んでいる<ref name=bito158/>。
 
 
 
京学派・南学派に対し、水戸藩主徳川光圀が明朝帝室から亡命した日本乞師、[[朱舜水]]をまねいてその基礎が築かれたのが[[水戸学|水戸学派]]である。ここでは[[歴史]]が重視され、大義名分論は水戸学の重要な特徴となった。また、いずれの学派にも属さなかった人物に[[福岡藩]]の[[貝原益軒]]がおり、『[[養生訓]]』などの啓蒙書がある。なお、女子の封建道徳を説いた「[[女大学]]」は益軒門下の人々によってまとめられたと考えられている。
 
 
 
=== 陽明学 ===
 
[[ファイル:Nakae Toju portrait.jpg|right|thumb|140px|中江藤樹]]
 
[[ファイル:Kumazawa Banzan portrait.jpg|right|thumb|140px|熊沢蕃山]]
 
[[陽明学]]は、[[明]]の[[王陽明]](守仁)が朱子学の観念性を批判して提唱した実践を重んじる学問で、行為よりも知識を重んじる朱子学に対し、知識と行為の一致すなわち[[知行合一]]の立場で現実を批判してその矛盾を改めようとするなど革新性をもっていた。
 
 
 
「近江聖人」といわれた[[中江藤樹]]は、当初朱子学を学んだが、それにあきたらず、家父長的な家族倫理である「孝」を中心とした実践倫理を唱え、晩年には陽明学の[[致良知]]・知行合一の思想に近づいた<ref name=harada242/><ref name=kinugasa>[[#衣笠|衣笠「封建倫理と儒学思想」(1970)pp.119-127]]</ref>。『陽明全書』に接した藤樹は日本で最初に陽明学を信奉した人物であり、近江小川村に建てた私塾[[藤樹書院]]では「藤樹規」の徳目が掲げられ、また、修養方法としては、同志が集会してたがいに切磋琢磨する「[[会座]]」が重視された<ref name=bito120>[[#尾藤|尾藤『元禄時代』(1975)pp.120-157]]</ref>。武士・農民問わず教育にあたった藤樹には『[[翁問答]]』『[[翁草]]』などの著作がある。彼は、禄仕を捨てて郷里にもどったその生き方にふさわしく、近世村落の新しい倫理を打ち立てようとしたのである<ref name=kinugasa/>。
 
 
 
藤樹書院に学んだ[[熊沢蕃山]]は、藤樹の学問を尊信した岡山藩主池田光政につかえ、藩政に参画して実績をあげた<ref name=kinugasa/>。32歳で3,000石取りの番頭(ばんがしら)という高い役職に取り立てられた蕃山は、[[新田開発]]に成果をあげ、藩校のもととなる[[花畠教場]]の設立にかかわり、その[[校則]]にあたる「[[花園会約]]」をつくったといわれている<ref name=bito120/>。蕃山は自著『[[大学惑問]]』で武士の土着や参勤交代の緩和などを唱えたため、岡山藩退仕後、幕府による圧迫をうけ、諸国を転々としたのち[[下総国]][[古河市|古河]]に幽閉され、そこで病死した<ref name=harada242/><ref name=bito120/><ref group="注釈">[[慶安の変]]([[由比正雪]]の乱)と[[承応の変]]([[別木庄左衛門]]事件)についてそれぞれ漢文で叙述した『草賊前記』『草賊後記』には、両事件と蕃山が何か関係があったかのように書かれているが、もとより何の証拠のない話である。しかし、この記述は公儀権力から蕃山がきわめて危険視された存在であったことを傍証している。[[#尾藤|尾藤『元禄時代』(1975)p.120]]</ref>。蕃山は、幕藩体制の矛盾が[[自給自足]]経済と[[貨幣経済]]の二本立ての社会のしくみそのものに由来し、貨幣経済の浸透が自給自足をきりくずして農民層分解を進展させていることを見抜いてはいたが、その解決策は保守的ないし農本主義的な政策しか打ち出せなかったといえる<ref name=kinugasa/>。ただし、自然環境の保全や世襲制の弊害を説く点では、反体制的な要素をたぶんにふくみ、現代につながるような革新的な性格をもつ[[経世論]]の持ち主でもあった<ref name=bito120/>。
 
 
 
朱子学が「性」と「情」を切り離して「性」は肯定するものの「情」を否定するのに対し、陽明学では「性」と「情」を切り離すこと自体を批判し、「[[心即理]]」を打ち出し、人欲を最終的に肯定している。この思想が江戸時代の諸文化にあたえた影響は予想外に大きいものといえる<ref name=nakano125>[[#中野|中野(2012)pp.125-166]]</ref>。
 
 
 
=== 古学 ===
 
[[ファイル:Itoh Jinsai (伊藤 仁斎) was a Japanese philosopher and scholar in early edo period.jpg|right|thumb|140px|伊藤仁斎]]
 
[[ファイル:Ogyuh Sorai.jpg|right|thumb|140px|荻生徂徠]]
 
朱子学や陽明学のように後世の学者の解釈を通じてではなく、[[孔子]]・[[孟子]]の古典に直接たちかえって儒学を研究すべきであるという[[古学]]派もおこった<ref name=harada242/>。その嚆矢となったのが兵学者としても知られる[[山鹿素行]]である<ref name=harada242/>。
 
 
 
素行ははじめ林羅山に学んだが、『[[聖教要録]]』を刊行して朱子学を批判、具体的な生活規範を教える学問の必要性を説き、古代の聖賢に立ち戻るべきことを主張した。また、『[[武家事紀]]』では、忠信仁義の道徳を修養することによって天下の人倫を正すのが、労働に追われる庶民に代わる武士固有の職分であるという士道論を唱えた<ref name=kinugasa/>。このような素行の主張は幕府政治にそぐわない面があり、家綱を補佐した保科正之によって、朱子学批判の罪により[[播磨国]][[赤穂市|赤穂]]に流され、旧主[[浅野家]]に[[禁錮]]の身となった<ref name=kinugasa/>。素行はまた、明清交替により、[[清]]王朝下の中国をもはや「[[中華]]」と見なすことはもはやできないとして、日本を「中朝」「中華」と見なすべきであるとの立場に立った。自叙伝に『[[配所残筆]]』がある。
 
 
 
ついで京都では町人出身の[[伊藤仁斎]]・[[伊藤東涯]]の父子があらわれ、京都[[堀川]]に私塾[[古義堂]]をひらいた。門下生は元禄頃には、町人を中心に3,000名におよぶといわれる。仁斎・東涯の古学を[[堀川学派]]という。堀川学派は、『[[論語]]』『[[大学 (書物)|大学]]』『[[中庸]]』『[[孟子 (書物)|孟子]]』などを原文にそくしてわかりやすく解釈し、人間の生き方の規範を実社会の人間愛([[仁]])に求めた点で[[古義学]]とも称せられる<ref name=harada242/>。仁斎は、孟子の[[四端説]]によりながら、四端の心が人間には本来具有され、それを拡充して仁義礼智の四徳に至るのが学問であると説き、四徳を人間の自発性のもとにとらえなおそうとしたところにその学問の特色があった<ref name=kinugasa/>。そして、社会の構成員はそれぞれの分に応じて生きながら、「仁を以て本となす」王道政治がおこなわれれば、和気愛合の社会がつくられるという仁政思想を説いた<ref name=kinugasa/>。
 
 
 
江戸では、[[荻生徂徠]]が[[古文辞学]]を創始した<ref name=harada242/>。村居時代に独学して江戸で私塾をひらいた徂徠はときの権勢家[[柳沢吉保]]に召し抱えられ、吉保失脚ののちは[[日本橋茅場町]]に書斎[[蘐園]]を建て、門人たちは[[蘐園学派|蘐園社中]]と呼ばれた<ref name=fukaya80/><ref group="注釈">「蘐」とは「カヤ(萱、茅)」のことであり、所在地の茅場町にちなむ。</ref>。古文辞学の提唱は、中国古代の聖人の教えは当時の言語によって解釈すべきという考えにもとづいており、後世の主観的判断や解釈を排除し、可能なかぎり正確な語意を復原することによって古代中国に実在した聖人の道を再現するというものであるが、この手法はのちの[[国学]]の研究にも影響をあたえた<ref name=fukaya80/>。徂徠はまた明の学者の文学理論を吸収し、彼自身[[中国語]]が堪能で、[[漢文]]を訓点によってではなく中国語でよむことをすすめている<ref name=fukaya80/>。こうして文献学的研究は東西で隆盛した。
 
 
 
徂徠もまた朱子学を「憶測に基づく虚妄の説である」と批判し、学問・生活での個性尊重を説いた<ref name=fukaya80/>。著書『[[弁道]]』『[[弁名]]』によれば、政治のねらいたる「道」とは、道徳的規範としての道のことではなく「先王の道」のことであり、帝王が天下を治めるために作為した「礼楽政刑」すなわち具体的な政治制度と技術であるとした<ref name=fukaya80/>。こうして道徳主義の政治観を否定し、統治の具体策を説く政治・経済の学([[経世論]])に道をひらいたのである<ref name=fukaya80/><ref name=kinugasa/>。徂徠は8代将軍[[徳川吉宗]]にも用いられ、[[享保の改革]]では政治顧問の役割を果たした。徂徠が吉宗の諮問に応じて著した『[[政談]]』には、幕政の立て直し策として、都市の膨張をおさえ、参勤交代の弊害を打破し、武士の土着をすすめることが必要だと説いている<ref name=kinugasa/>。また、「先王の道」をきわめるためには、その時代の実情を知ることが必要であり、そのために詩文・[[歴史]]・[[小説]]をたしなみ、風雅と文才を身につけることをすすめている。
 
 
 
徂徠の弟子の[[太宰春台]]は、経世論をさらに発展させ、『[[経済録]]』『産語』を著している。かれは、政治の基礎には経済があると説き、[[農本主義]]の立場に立ちながらも、年貢過重の実態を批判し、また、武士も商業活動をおこなうことや藩が専売制度によって利益を上げるべきことを提案した。春台とならび蘐園社中の双璧といわれた[[服部南郭]]は経政論に興味をもたず、ひたすら詩文を楽しみ、そこに人間性の解放を求めた<ref name=fukaya80/>。徂徠が未だ名を成さない頃からの愛弟子であった[[山県周南]]も詩文の才にすぐれた。
 
 
 
=== 神道 ===
 
[[ファイル:Hanitsu Jinja.jpg|thumb|right|210px|[[土津神社]]([[福島県]][[耶麻郡]][[猪苗代町]])。吉川神道の奥義を極めたとして、吉川惟足から「土津」の霊神号を贈られた会津藩主・保科正之を祀る。]]
 
[[吉川神道]]を提唱した[[吉川惟足]]は会津藩主[[保科正之]]に招かれ、同藩に仕えた。吉川神道は、神儒一致、[[皇室]]を中心とする君臣関係の重視、神人合一を特徴としている。惟足は天和2年([[1682年]])に江戸幕府[[神道方]]に任じられ、彼によって[[石清水八幡宮]]と[[賀茂神社]]の放生会、および[[葵祭]]の再興がなされている<ref name=takano182>[[#高埜|高埜(1992)pp.182-190]]</ref>。将軍綱吉が貞享元年([[1684年]])に[[林鳳岡]]を中心に定めさせた「[[服忌令]]」もまた、神道の強い影響下から出されたものであった<ref name=takano182/>。
 
 
 
上述した朱子学者[[山崎闇斎]]は、儒教と神道の合一を唱え、[[垂加神道]]を創始した<ref name=bito158/>。「垂加」とは闇斎の別号である。闇斎が保科正之にまねかれて会津におもむいたとき、同様に会津藩に招かれていた吉川惟足と出会い、その影響を受けた<ref name=bito158/>。垂加神道は、吉川神道のみならず従来の[[伊勢神道]]や[[唯一神道]]などからも強い影響を受けた。その特徴はきわめて高い道徳性を有することであり、また、神の道と[[天皇]]の徳が一体であることを説いたところから、闇斎一門の崎門学はのちの[[尊王論]]に大きな影響をあたえた<ref name=bito158/>。保科正之死去の際には惟足と闇斎は協力して神道式の葬儀をおこない、[[磐梯山]]の山麓に正之を祀る[[土津神社]]を創建している<ref name=bito158/>。
 
 
 
なお、[[伊勢神宮]]の神官であった[[度会延佳]]は、[[伊勢神道]]を儒教思想中心のものへと大成させた。
 
 
 
=== 仏教 ===
 
仏教は、[[キリスト教]]禁圧のため、幕府から特別の保護を受けたものの、教理の面では新たな展開はほとんどみられなかった。一方、明末には多数の唐僧が[[長崎]]に渡来した<ref name=komada>[[#駒田|駒田(1986)pp.106-111]]</ref><ref group="注釈">元和元年([[1615年]])には[[江西省]]の僧[[劉覚]]、寛永5年([[1628年]])には福建省[[泉州市|泉州]]の僧[[覚海]]、寛永6年([[1629年]])には福建省[[福州市|福州]]の僧[[超然]]がそれぞれ来日し、それぞれ東明山興福寺、分紫山[[福済寺]]、聖寿山[[崇福寺]]をひらいている。その後の渡来僧はこの3寺にまずは逗留することが多かった。[[#駒田|駒田(1986)pp.110-111]]</ref>。明が滅亡した正保元年([[1644年]])には僧[[逸然]]が長崎[[興福寺 (長崎市)|興福寺]]に入り、将軍徳川家綱の依嘱により[[福建省]]黄檗山萬福寺の禅僧[[隠元隆琦]]を招いた<ref name=komada/>。
 
 
 
隠元は、承応3年([[1654年]])に20名の僧をひきつれて渡来し、将軍家綱と謁見して[[山城国]][[宇治市|宇治]]に田地・山林をあたえられ、寛文元年([[1661年]])、同地に[[萬福寺]]をひらき、日本に[[黄檗宗]]を伝えた<ref name=komada/>。宇治の寺領地は関白[[鷹司家]]の[[寄進]]によるもので、[[後水尾天皇|後水尾上皇]]が帰依するなど、当時の上流社会にあたえた影響は大きく、ここで多くの「檗癖大名」「檗癖貴族」を生んでいる<ref name=nakano125/>。黄檗僧は日本の書画に大きな影響をあたえたほか、唐話(中国語)学者を通じて『[[水滸伝]]』『[[三国志演義]]』など中国の[[白話小説]]の翻刻・翻訳が隆盛し、これは、のちの江戸文学に[[読本]]というジャンルを発生させる契機のひとつとなった<ref name=komada/>。
 
 
 
また、将軍綱吉は仏教とくに[[新義真言宗]]の[[護持院]][[隆光]]に帰依した<ref name=takano182/>。これは、新義真言宗に対するものというよりもむしろ隆光個人とのつながりに重点を置いたもので、綱吉政権下では護国寺・護持院の建立、東大寺大仏殿再建、[[法隆寺]]諸堂の修復、寛永寺本坊再建など広く仏教を保護した。
 
 
 
== 歴史学と古典研究の発達 ==
 
=== 歴史学の発達 ===
 
[[ファイル:MitsukuniTOKUGAWA.jpg|thumb|170px|徳川光圀
 
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[[狩野常信]]画(部分)]]
 
[[ファイル:Arai Hakuseki - Japanischer Gelehrter.jpg|right|thumb|170px|新井白石]]
 
[[儒学]]は[[歴史]]を重視する傾向を有し、また、政権が安定するにつれ、その正当性を主張する目的もあって、歴史への関心が深まり、[[歴史書]]の編集事業がはじまった。
 
 
 
3代家光は、諸[[大名]]・[[旗本]]などから系譜を提出させ、『[[寛永諸家系図伝]]』を編纂し、また、正保元年([[1644年]])林羅山に国史の編修を命じた。羅山はこれを『[[本朝編年録]]』40巻にまとめたが、これは[[神武天皇]]から[[平安時代]]前半の[[宇多天皇]]までを[[漢文]][[編年体]]で叙述したもので、[[六国史]]をベースとしたものにすぎなかった<ref name=bito186>[[#尾藤|尾藤『元禄時代』(1975)pp.186-213]]</ref>。寛文2年([[1662年]])、羅山の子の[[林鵞峯]]が将軍の命として[[老中]][[酒井忠清]]から国史編纂が伝令された<ref name=bito186/>。学力では羅山にまさるといわれた鵞峯は寛文10年([[1670年]])に辛苦の末にこれを完成させ、羅山編修の『編年録』40巻を本編、[[醍醐天皇]]の代から[[慶長]]16年(1611年)までを対象とした鵞峯編修の230巻を続編、さらに神代史3巻を前編として、これを『[[本朝通鑑]]』全273巻として刊行した<ref name=bito186/><ref name=bitoh126>[[#尾藤4|尾藤「生き方の指針を求めて」(1989)pp.126-127]]</ref>。その名は、中国通史の名著として知られていた[[北宋]]の[[司馬光]]による『[[資治通鑑]]』にならって付けられた<ref name=bito186/><ref name=bitoh126/>。
 
 
 
水戸の[[徳川光圀]]も修史作業をこころざしたが、これはたぶんに幕府による史書編修に対して対抗意識を燃やした結果であった<ref name=bito186/>。[[明暦大火]]直後の明暦3年([[1657年]])2月、光圀は江戸[[駒込]]の中屋敷に史局をもうけ、全国から多数の学者を集めて『[[大日本史]]』編修を開始した<ref name=bito186/>。[[安積澹泊]]を編集責任者として、[[栗山潜鋒]]や[[三宅観瀾]]らの学者を集めたが、澹泊は明の遺臣[[朱舜水]]の直接の弟子で、[[新井白石]]や[[室鳩巣]]とも親しく、潜鋒は[[山崎闇斎]]の孫弟子、観瀾は[[浅見絅斎]]と[[木下順庵]]に学んだ人物であった。その後、寛文12年([[1672年]])に史局を小石川藩邸に移して[[彰考館]]と称して編纂を継続した<ref group="注釈">彰考館はのちに水戸に移された。</ref>。
 
 
 
『大日本史』は神武天皇から[[後小松天皇]]にいたる漢文[[紀伝体]]の史書であり、本紀73巻、列伝170巻、志126巻、表28巻の大著で、享保5年([[1720年]])に主要部が完成して幕府に献上されたが、最終的な完成は[[1906年]]([[明治]]39年)になってからであった<ref name=bitoh126/>。この編纂事業のなかで大義名分論にもつづく水戸学が発達している。水戸学は18世紀末を境に、朱子学的名分論を基調とする前期水戸学と、[[尊王攘夷論]]を基調とする後期水戸学とにわけられる。なお、『大日本史』の特徴として、[[神功皇后]]を本紀には含めず、大友皇子の即位を[[弘文天皇]]として認め、[[吉野]]の[[南朝 (日本)|南朝]]を正統な[[朝廷]]であるとした点が、三大特筆といわれており、これは後世にも大きな影響をあたえた<ref name=bitoh126/>。
 
 
 
[[新井白石]]は道徳的・教訓的な歴史解釈を排除して実証主義・合理主義にもとづく解釈を示した。[[甲府城|甲府城主]]徳川綱豊(6代将軍[[徳川家宣]])の命により、大名337家の家譜・[[系図]]・事績をまとめた『[[藩翰譜]]』を著し、16世紀前後の武士たちの行動を記録した<ref name=bitoh127>[[#尾藤4|尾藤「生き方の指針を求めて」(1989)pp.127-128]]</ref>。本著作は、人生の真実にせまる、すぐれた叙述との評価がある<ref name=bitoh127/>。将軍となった家宣に進講した『[[読史余論]]』では、[[摂関政治]]から家康による江戸幕府創建までを「天下の大勢九変して武家の代となり武家の代五変して当代におよぶ」として[[公家]]政権から[[武家]]政権への変化の正当性を論じ、段階的な時代区分をおこなったうえで各政権の盛衰とその必然性などについて論評を加えるなど、独自の歴史観を展開している<ref name=bitoh127/>。また、『[[古史通]]』では「神は人なり」の観点から古代史研究の方法を提唱し、『[[日本書紀]]』神代巻の合理的な解釈を試みた<ref name=bitoh127/>。
 
 
 
[[山鹿素行]]は、[[古文書]]を用いた新しい研究法による『[[武家事紀]]』や『[[中朝事実]]』を著した。後者書名中の「中朝」とは日本のことであり、素行は、明清交替により、従来の中華であった明が滅んだことから、日本を爾今の文明発信国とみなして「中朝」「中華」と称すべきとしたのである。
 
 
 
=== 古典研究の進展 ===
 
[[ファイル:TodaMosui.png|alt=戸田茂睡(1629-1707)|right|thumb|140px|戸田茂睡]]
 
[[ファイル:Keichu02.jpg|right|thumb|140px|契沖]]
 
本格的な日本古典の研究もこの時代からはじまった。
 
 
 
近江の医家に生まれた[[北村季吟]]は『[[源氏物語]]』『[[枕草子]]』『[[伊勢物語]]』など古典の註釈を集大成し、平安女流文学の質の高さを強調し、平易な註釈を加えた『[[源氏物語湖月抄]]』『[[枕草子春曙抄]]』等をつぎつぎに著して、従来の学風の偏見をうちやぶって作者本来の意図を探究した<ref name=kodama468>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.468-471]]</ref>。晩年の元禄2年([[1689年]])には徳川綱吉が設置した幕府[[歌学方]]に初めて任ぜられている<ref name=kodama468/>。
 
 
 
江戸の[[戸田茂睡]]は『[[梨本集]]』などで歌学の革新を唱え、中世歌学で重んじられてきた[[制の詞]](和歌に使えない言葉)による制約の不合理性を説き、[[俗語]]を用いることの正当さと歌学の発展のために歌語の自由を主張した<ref name=kodama468/>。これは、[[古今伝授]]によって伝承されてきた[[二条家]]([[藤原定家]]の子孫)らの方法とは異なる、因習にとらわれない自由な研究を提唱したものであった<ref name=kodama468/>。
 
 
 
大坂の[[下河辺長流]]と僧[[契沖]]とは『古今和歌集』『[[新古今和歌集]]』に比較して従来軽んじられてきた『[[万葉集]]』の研究をすすめた<ref name=kodama468/>。長流は、独創的な見解をうちだして徳川光圀の援助を受けたが、まもなく亡くなった。そこで、長流の友人で[[真言宗]]の僧であった契沖は長流が果たせなかった研究を引き継いで『万葉集』の精密な考証研究をおこない、多くの実例を通して戸田茂睡の考えの正しさを実証した<ref name=kodama468/>。その結実が『[[万葉代匠記]]』であり、[[和歌]]を道徳的に解釈しようとしてきた従来の姿勢を批判して、後世「国学の祖」と称された<ref name=kodama468/>。なお、『[[和字正濫鈔]]』は国語学における契沖の大きな業績である。
 
 
 
今日、私たちが日本古典文学と称しているものの大部分が、実際には、この時代に広く読まれるようになったのである<ref name=taihei335>[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.335-340]]</ref>。また、[[中世ヨーロッパ]]において[[聖書]]が僧侶に独占されていたことで保たれていた[[ローマ教会]]の[[権威]]が[[印刷術]]の発展によって破壊されて[[ルネサンス]]や[[宗教改革]]の運動が興起したように、日本で中世以来保たれてきた秘伝や制の詞は、印刷された書籍の流通によって消滅したのである<ref name=kodama468/>。これらの古典・国語研究は古代精神の探究へと進み、のちの国学の成立に大きな影響を与えた。
 
 
 
== 実学・自然科学の発達 ==
 
[[自然科学]]では、[[本草学]]や[[農学]]・[[医学]]など実用的な学問が発達した。「本草」とは「[[薬]]のもとになる[[草]]」という意味であり、本草学は元来、自然物([[植物]]・[[動物]]・[[鉱物]])を人間に役立てるための学問で、とくに薬用効果を研究する中心とする[[薬学]]であったが、しだいに[[博物学]]的性格を強めた<ref name=yamada130>[[#山田|山田(1989)pp.130-131]]</ref>。元禄前後の時期にあって[[実学]]がおこり、ものごとを合理的に考える態度が養われたのは、当時の産業の発達や経済発展に刺激されたことを背景にしており、ここでは実証的研究が尊ばれたのである<ref name=harada242/>。
 
 
 
そこには朱子学的な[[自然法]]の影響も考えられるが、当時にあってそれは必ずしも絶対のものではなく、むしろ相対視され、全体としては分裂していたと見なすことができる<ref name=sakoku110/>。換言すれば、朱子学的な文脈での[[合理主義]]は、そのまま近代的な合理主義へは結びつかなかった<ref name=sakoku110/>。朱子学における[[天円地方説]]は、ヨーロッパからもたらされた[[地球球体説]]や[[地動説]]とは相容れなかったし、思弁的な[[李朱医学]]の立場は近代における[[解剖学]]的な説明とは次元の異なるものであった<ref name=sakoku110/>。
 
 
 
共通するのはただ、自然の観察において神秘的な存在、超越的な存在を認めないという、ただ一点であった<ref name=sakoku110/>。言い換えれば、日本においては自然科学的思考は、同時代のヨーロッパのように[[キリスト教]][[神学]]との格闘を通じて確立していくという手続きを経ないで得られたということができる<ref name=sakoku110/>。この時代、急速な進展をみたのは、日常生活の上で効用の大きい[[数学]]・[[暦法]]・農学・本草学(博物学)・医学だったのである。
 
 
 
=== 医学 ===
 
[[ファイル:GotoKonzan.jpg|right|thumb|160px|後藤艮山]]
 
[[医学]]の分野では、[[陰陽五行説]]や[[天人一体説]]で説明する思弁的な朱子学流の医学に対し、中国[[漢]]代の医方をもとに薬石と実践を主とする[[古医方]]がさかんとなった<ref name=sakoku110/>。
 
 
 
桃山時代の[[曲直瀬道三]]は朱子学系統の医術であり、その著書に[[永禄]]5年([[1562年]])の『本草異名記製済記』、永禄9年の『[[能毒]]』があったが、江戸期に入ると、古学復興の気運に応じて、従来の宋・元・明の[[性理説]]にもとづく観念的な医術を退け、経験と事実にもとづく漢代医術に立ち返るべしとする実証的医学の主張がおこった<ref name=sakoku110/><ref name=yamada130/>。まず京都に[[名古屋玄医]]が現れて古医方を唱導し、元禄ころに[[後藤艮山]]が活躍して古医方を確立した<ref name=sakoku110/>。
 
 
 
艮山に学んだ[[吉益東洞]]はのちに、医学においては何よりも「[[親試実験]]」が重要であると説き、近代科学としての道をふみだし、同じく[[山脇東洋]]は『[[蔵志]]』を著して人体の解剖学的観察に道をひらいた<ref name=sakoku110/>。かれら古医方の医師は、ヨーロッパの医学からは独立して日本医学の新時代を切り拓いた<ref name=sakoku110/>。
 
 
 
いっぽう、西洋医学は外科の分野でおこなわれ、元禄のころ、長崎[[通詞]]であった[[西玄甫]]は江戸幕府の医官として迎えられた。また、同じく通詞であった[[本木良意]]は[[ドイツ]]の医学者[[ヨハン・レメリン]](Johannes Rümelin)の解剖図を[[オランダ語]]から翻訳した。
 
 
 
なお、この時代、中国の医学書とその注釈書、日本の医学書が数多く刊行されているが、そうしたなかにあって江戸時代版の『[[家庭の医学]]』ともいうべき一般向けの簡便な医書も刊行されている<ref name=taihei356>[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.356-360]]</ref>。[[香月牛山]]の『小児必要養草』『婦人寿草』『老人必要養草』などがそれであり、近松門左衛門の実弟[[岡本抱一]]も50部以上の簡便な医書を著している<ref name=taihei356/><ref group="注釈">このことについて、抱一は兄より、人間の生命を預かる医師がかかる簡便な書籍で医術を学べば必ずや過ちを犯すだろうと諫められ、医書の著述をやめたといわれている。[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.357]]</ref>。
 
 
 
=== 本草学 ===
 
[[ファイル:Yamato Honzo.jpg|280px|right|thumb|貝原益軒『大和本草』([[国立科学博物館]]の展示)]]
 
 
 
慶長12年([[1607年]])、林羅山が長崎から明の『[[本草綱目]]』をたずさえて幕府に献上し、慶長17年にその抜萃から『[[多識編]]』を編集して以来、有用薬用の動植鉱物を分類・研究する本草学も進歩した<ref name=yamada130/>。寛永15年([[1638年]])には幕府によって江戸の北と南に薬園がひらかれている<ref name=yamada130/>。
 
 
 
儒者[[貝原益軒]]は日本固有種358種をふくむ日本の物産1,300余種を分類し、宝永5年([[1708年]])『[[大和本草]]』を著して、本格的な実証的博物学へと近づいた<ref name=yabe132>[[#矢部|矢部(1989)pp.132-136]]</ref>。[[加賀藩]]の侍医であった[[稲生若水]]は、藩主前田綱紀の命を受けて『[[庶物類纂]]』を編修し、享保4年(1719年)に綱紀が幕府に献上して、若水の死後は将軍徳川吉宗の命で弟子の[[丹羽正伯]]が増補して1000巻の大著となった<ref name=yabe132/>。両書は物産学・博物学のテキストとして幅広く読まれた。
 
 
 
山鹿素行や山崎闇斎などにみられる[[日本主義]]は、従来中国が発信してきた国づくりの思想の日本化だけではなく、中国発信の産業や物産の日本化へとつながった。これが享保期の[[国産物調]]へとつながり、中国の本草学のデータに頼らない国内生産のしくみの特徴検出やその増進の組み立てに向かうこととなったのである<ref name=sakoku110/><ref name=asahi146>[[#塚本|塚本「近世の動物図譜の発展」(1989)pp.146-151]]</ref>。
 
 
 
=== 農学 ===
 
[[館林藩|館林藩主]]徳川綱吉が[[征夷大将軍]]に任じられた延宝8年([[1680年]])頃から約30年のあいだは、日本史上「[[農書]]の時代」と呼びうるほどに農書(農業手引書)が相次いで刊行された時代であった<ref name=oishi166>[[#大石|大石(1977)pp.166-172]]</ref>。[[遠江国]][[横須賀藩]]の[[村役人]]による『[[百姓伝記]]』を嚆矢として元禄10年([[1697年]])の[[宮崎安貞]]『[[農業全書]]』に至るまで、より効率的な農業の普及が目標とされ、地方役人や[[豪農]]、村役人(村方三役)、農学者がこれにたずさわった<ref name=oishi166/>。それに先立って「[[農人帳]]」という日記を付けることが提唱され、その記録をもとにした覚書が各地で成立している<ref name=taihei351>[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.351-356]]</ref>。農書はこうした覚書が発展して形成されていったものと考えられる<ref name=taihei351/>。
 
 
 
[[知識]]や[[教養]]・[[娯楽]]のためではなく、農民の[[生業]]のための書物が出版された点で出版史における一大画期であったが、従来は父祖から子や孫へと実体験をもとに口頭で伝えられてきた農業知識や農業技術を[[書物]]という[[メディア]]を通じて習得することができるようになった点は農業史のなかにおいても画期的なことといえる<ref name=taihei351/>。
 
 
 
『農業全書』は[[宮崎安貞]]が40年かけて習得した農業技術や農事総論からはじまり、[[五穀]]、菜、山野菜、[[三草]]、[[四木]]、草木、諸木、生類養法([[家畜]])、薬種などに分けて体系化したものであった<ref name=taihei351/>。
 
 
 
各地の農書としては、[[伊予国|伊予]]の『[[清良記]]』、[[会津藩|会津]]の『[[会津農書]]』、[[加賀藩|加賀]]の『[[耕稼春秋]]』、[[出雲国|出雲]]の『[[田法記]]』、[[紀伊国|紀伊]]の『[[才蔵記]]』、[[東海地方]]の『[[地方竹馬集]]』などが知られている<ref name=oishi166/><ref group="注釈">他に、基盤とする地方は不明であるが[[葛間勘一]]による農書『[[地方一様記]]』が元禄8年に刊行されている。</ref>。こうしたなかにあって、[[佐瀬与次右衛門]]『会津農書』は地域限定の農書であることをみずから断っているが、別編として、農業技術の要点をおぼえやすい和歌1,700首で表現した『歌農書』をともない、領内の人々への[[啓蒙]]を図っていることが注目される<ref name=taihei351/>。
 
 
 
=== 数学 ===
 
[[ファイル:Seki Kowa Katsuyo Sampo Bernoulli numbers.png|220px|right|thumb|関孝和『括要算法』(1712年)
 
----
 
[[ベルヌーイ数]]や[[二項係数]]について記されている]]
 
[[数学]]では、[[検地]]や[[築城]]・[[灌漑]][[治水]]・[[新田開発]]などの[[土木]]工事、商工業をはじめとする経済活動がさかんになるなかで、[[測量]]や商売取引などの必要から[[和算]]が発達した<ref name=sasaki248>[[#佐々木|佐々木(1974)pp.248-250]]</ref>。日常の計算機として中国から[[算盤]](そろばん)が輸入され、国内で改良が加えられてひろく普及した。
 
 
 
[[毛利重能]]は元和8年([[1622年]])に『[[割算書]]』を著し、[[角倉了以]]の一族に生まれた[[吉田光由]]は中国の数学書を入手し、これを参考にして[[珠算]]をもとにした和算書『[[塵劫記]]』を寛永4年([[1627年]])に刊行した<ref name=sasaki248/><ref name=takano232>[[#高埜|高埜(1992)pp.232-233]]</ref>。『塵劫記』は多くの人に読まれ、寺子屋の教材ともなり、300種にのぼる異本がつくられたといわれている<ref name=sasaki248/>。
 
 
 
元禄ころには幕府[[勘定吟味役]]の[[関孝和]]があらわれ、のちに「算聖」と称された。孝和は筆算式[[代数学]]をあみ出し、[[円理法]]を案出した。延宝2年([[1674年]])の『[[発微算法]]』では、[[円周率]]・円の面積から[[微分法]]・[[積分法]]を考案するにいたり、今日の高等数学の域に達した。その他、世界で最も早く[[行列式]]・[[終結式]]の概念を提案するなど、独自の方法で当時のヨーロッパの数学に劣らないすぐれた成果をあげた<ref name=harada242/>。関流は、孝和の死後、門弟の[[建部賢弘]]に引き継がれて和算の主流を形成した。
 
 
 
数学、とくに[[幾何学]]の問題を額や[[絵馬]]に描き、これを[[神社]][[寺院|仏閣]]に奉納、鑑賞して楽しむ「[[算額]]」の風習も生まれている<ref name=takano232/>。
 
 
 
=== 天文学・暦学 ===
 
[[ファイル:Jokyo-reki.jpg|right|thumb|220px|貞享暦
 
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享保14年(1729年)版。国立科学博物館
 
]]
 
 
 
[[天文]]・[[暦学]]の発達は、たんに日月を数えるよりも農事の計画・運営に有用なものが求められた。
 
 
 
この分野では、幕府碁師だった[[安井算哲]]の子が幼くして天文に興味をもち、毎夜竹筒をもって[[北極星]]を観測し、やがてわずかに北極星が移動することを突き止めた<ref name=kodama356>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.356-364]]</ref>。父の死後、14歳で家業を継ぎ、二代目安井算哲を名乗った<ref name=kodama356/>。安井家は京都に在住し、秋・冬には江戸へ下るならわしであったが、京都にあっては経書を読んで数学や暦学を研究し、[[山崎闇斎]]からは神道、[[岡野井玄貞]]からは天文を学び、さらに朝廷の陰陽頭だった[[土御門家]](安倍家)に入門して暦学を学んだ<ref name=kodama356/>。算哲の天文暦学に関する知識の深さは[[徳川光圀]]や[[保科正之]]の知るところとなり、会津に数か月逗留することもあった<ref name=kodama356/>。
 
 
 
算哲は、延宝元年(1673年)6月、将軍[[徳川家綱]]に改暦の上表をおこなったが、延宝3年5月1日の[[日食]]を予測することができなかったため、[[大老]][[酒井忠清]]は改暦作業の中断を決定した<ref name=hayashi44>[[#林|林(2007)pp.44-49]]</ref>。家綱没して綱吉が将軍になると改暦には前向きな姿勢を示したのであった<ref name=hayashi44/>。
 
 
 
算哲は、平安時代から継続して使われてきた中国[[唐]]代の[[宣明暦]]との誤差が大きくなったために、[[元 (王朝)|元]]代の[[授時暦]]をもとに14年にわたる自らの精密な観測結果も加えて修正し、天和3年([[1683年]])、日本の[[経度]]にあわせた日本独自の暦をつくった<ref name=harada242/><ref name=kodama356/>。算哲は現行の宣明暦が2日遅れていると述べてあらためて改暦を上表したが容れられず、その翌年、みずから作った暦の採用を訴えた。しかし、ここでも反対があって、いったんは明の[[大統暦]]を採用すると決せられたのである<ref name=kodama356/>。算哲は再び上表してその誤りを指摘し、さらに[[渾天儀]](アストロラーベ)で計測したところ算哲の主張どおりだったので、結局、彼の新暦が採用されるに至った<ref name=kodama356/>。これが[[貞享暦]]であり、貞享元年([[1684年]])に幕府に正式に採用され、朝廷でもこの暦を採用されて算哲編著・[[土御門泰福]]校正の暦本が刊行された<ref name=hayashi44/>。これは日本人が編成した最初の暦であったが、算哲と泰福、幕府と朝廷が友好的な関係を築いていたからこそ実現した事業でもあった<ref name=kodama356/><ref name=hayashi44/>。
 
 
 
これにより幕府は新たに[[天文方]]を設け、算哲の碁所の職を免じて天文・暦法をつかさどらせた<ref name=kodama356/>。算哲はその折、先祖の姓に復して[[渋川春海]]を名乗り、その子孫は天文方の任にあたった<ref name=kodama356/>。
 
 
 
=== 国際情報・世界地理 ===
 
[[ファイル:ZouhoKaitsusyoko0034.jpg|thumb|西川如見『増補華夷通商考』]]
 
徳川光圀は、[[蝦夷地]](現在の[[北海道]])の状況を確認するため、巨船「快風丸」を建造、北方探検隊を派遣している<ref name=ichimura3>[[#市村|市村・大石(1995)pp.3-19]]</ref>。ここでは具体的な成果はほとんどあげられなかったが、[[田沼時代]]以降の北方探検の先駆をなすものとして注目される<ref name=ichimura3/>。
 
 
 
いわゆる「鎖国」システムは、日本が自身に関する情報の発信を停止したものの、幕府が海外情報を独占的に受信する仕組みを整え、実際に丹念に受信している体制であった<ref name=ichimura26>[[#市村|市村・大石(1995)pp.26-28]]</ref>。しかも、それは従来、未知であった[[ヨーロッパ]]に関する情報受信に重きが置かれていたのである<ref name=ichimura26/>。民間レベルでもまた、世界地理に対する関心は薄まることがなかった。
 
 
 
長崎の[[通詞]](通訳)であった[[西川如見]]は元禄8年([[1695年]])に日本で初めての[[地誌学#世界地誌|世界地誌]]である『[[華夷通商考]]』を著した。これは[[林道栄]]の秘本『異国風土記』を基に記述されたもので、さらに、[[オランダ]]・[[中国]]関係者からの伝聞情報などを加えて宝永5年([[1708年]])には『増補華夷通商考』を著して海外事情を紹介した<ref name=ichimura70>[[#市村|市村・大石(1995)pp.70-76]]</ref>。如見自身は増補版の方を定本とし、ここで初めて南北[[アメリカ大陸]]について記事化がなされた。外国人、すなわち[[オランダ]]・[[ペルシャ]]・[[ロシア]]・[[スペイン]]・[[デンマーク]]・[[アラビア]]・[[フランス]]・[[エジプト]]・[[ブラジル]]などの住民についても「外夷」の項で紹介されている<ref name=ichimura98>[[#市村|市村・大石(1995)pp.98-103]]</ref>。外国の国名・地名等の[[カタカナ]]表記が生まれたのは、如見の作業のなかにおいてであった<ref name=ichimura70/>。如見の見解で注目されるのは、[[倫理]][[道徳]]については[[東洋]]がすぐれているのに対し、天文・測量など形而下の諸学についてはヨーロッパの方が進んでいるという意見である<ref name=sakoku110/>。
 
 
 
[[新井白石]]もまた、[[大隅国|大隅]]の[[屋久島]]に潜入して捕らえられた[[イタリア人]][[宣教師]][[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ]]を尋問して得た知識をもとに、諸外国の歴史・地理・風俗や[[キリスト教]]の大意などを記した『[[西洋紀聞]]』を著した<ref name=ichimura3/>。尋問に際して白石が参照したのは、[[マテオ・リッチ]]の「[[坤輿万国全図]]」と、[[1662年]]に[[アムステルダム]]で製作された[[ヨアン・ブラウ]]の大地図帳、さらに、西川如見『増補華夷通商考』や[[唐船風説書]]をまとめた林鵞峯・鳳岡父子の『[[華夷変態]]』、棄教して帰化したイタリア人宣教師岡本三右衛門([[ジュゼッペ・キアラ]])の言動・著作などであった<ref name=ichimura70/>。『西洋紀聞』にはキリスト教に対する白石の批判も掲載されている<ref name=ichimura70/>。白石はシドッティを介して日本の情報をヨーロッパに発信することを具申したが、結局幕府は日本に幽閉し、帰国を許さない策を採用した<ref name=ichimura70/><ref group="注釈">白石はシドッティに「日本は極東の小さな国である」と述べたところ、シドッティから「[[領土]]が大きいか小さいか、ヨーロッパから遠いか近いかといったことで国の評価をするのはおかしい」と指摘されている。これは『西洋紀聞』に紹介されている[[エピソード]]であるが、合理主義者である白石の自省が吐露されたものとして注目される。[[#市村|市村・大石(1995)pp.72]]</ref>。白石はまた、[[オランダ商館長]][[コルネリス・ラルダイン]]の江戸参府中にラルダインの宿をたずねて西洋事情を聞いている<ref name=ichimura3/>。
 
 
 
白石は、先行研究やシドッティ、ラルダインから得た知識をもとに、日本の世界地誌としては初めて体系立った著作である『[[采覧異言]]』を著した。これは、[[ヨーロッパ|エゥロハ]](巻之一)・[[アフリカ]](巻之二)・[[アジア]](巻之三, 上下)・[[南アメリカ|ソイデアメリカ]](巻之四)・[[北アメリカ|ノオルトアメリカ]](巻之五)の順に各国の地誌を漢文で記述したもので、鎖国下の日本でさかんに読まれた。[[享和]]2年([[1802年]])には[[大槻玄沢]]門下の[[山村才助]]によって誤りが訂正され、さらにオランダ語地理書から訳出して大幅な補足がなされている。
 
 
 
刊行された日本最初の世界地図といわれるのが、正保2年([[1645年]])作成の『[[万国総図]]』であり、これはマテオ・リッチの『坤輿万国全図』に依拠したもので、東を上、西を下した縦長の[[楕円]]図で地名表記は仮名でおこなわれ、40余の民族についての人物画をともなう<ref name=ichimura87/>。浮世絵師[[石川流宣]]が宝永5年([[1708年]])に描いた『[[万国総界図]]』も同系統の地図であるが、オランダや[[シャム]]など諸外国への日本からの[[里程表]]が記されていることが注目される<ref name=ichimura87/>。
 
 
 
大坂の医師[[寺島良安]]が正徳2年([[1712年]])に刊行した絵入り[[百科事典]]『[[和漢三才図会]]』には「異国」および「外夷」の人物約170が[[イラスト]]入りで紹介されている<ref name=ichimura98/>。情報の少なさから想像で補ったもの、荒唐無稽なものも混じるが、[[マカオ]]や[[ルソン島|ルソン]]の人物が[[ポルトガル]]風・スペイン風の衣装で描かれるなど、知りうる範囲での情報が反映されており、一般の人びとも外国に対し、決して無関心ではなかったことを示している<ref name=ichimura98/>。
 
 
 
=== その他 ===
 
[[ファイル:Zui0007p0020.jpg|right|thumb|300px|中村惕斎『訓蒙図彙』巻七 二〇頁]]
 
 
 
儒者であり、本草学者の範疇にも属する京都の[[中村惕斎]]は、17世紀日本の「[[百科全書派]]」とも呼ぶべき存在であり、その述作に寛文6年([[1666年]])刊行の『[[訓蒙図彙]]』がある<ref name=harada242/><ref name=asahi146/>。これは、日本初の絵入り[[百科事典]]であり、天文・地理・動植物・生活産業などにかかわる精確な図に[[和名]]と漢名、注記を付した啓蒙書として知られる<ref name=asahi146/>。 [[エンゲルベルト・ケンペル]]『[[日本誌]]』の動物図も本書に負うところが大きい<ref name=asahi146/>。少し遅れてあらわれた[[寺島良安]]の『[[和漢三才図会]]』もまた同じ役割をにない、図の多くを『訓蒙図彙』に負っている<ref name=harada242/><ref name=asahi146/>。[[貝原益軒]]『[[大和本草]]』もまた、図は少ないものの植物百科の役割をにない、これらの営為は[[享保]]年間の幕府による諸国物産調べの企画へとむすびついた<ref name=asahi146/>。
 
 
 
元禄3年([[1690年]])、[[平楽寺書店]]によって『[[人倫訓蒙図彙]]』という絵入りの職業百科事典が出版されたのも京都においてであった<ref name=yokota1/>。七巻七冊で七つの部に分けられ、支配階級から農・工・商の庶民階級、能芸者、[[遊郭]]関係、[[芝居]]関係、[[勧進]](芸能者でもある下級宗教者)まで当時のあらゆる身分・職業を網羅しており、当時の[[文献資料 (歴史学)|文献資料]]、また[[図像資料]]としても重要である<ref name=yokota1/>。なお、上述の『和漢三才図会』の編著者である寺島良安は大坂の医師で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されてのち百科事典の刊行をこころざし、30年余の長い歳月を執筆・編修に費やしてようやく正徳2年([[1712年]])に刊行されたものである。
 
 
 
辞書類も多く刊行された。天和2年([[1682年]])の『[[遁言便蒙抄]](じげんべんもうしょう)』や元禄元年([[1688年]])ころの[[貝原好古]](益軒の甥)『[[和爾雅]](わじが)』がある。[[新井白石]]も享保2年([[1717年]])に語源解釈書を施した辞書『[[東雅]]』を著している。なお、『和爾雅』も『東雅』も書名は漢代中国の類語・語釈辞典『[[爾雅]]』に由来している<ref name=asahi146/>。
 
 
 
「[[女書]]」というジャンルも成立していた<ref name=taihei360/>。当初それは女筆と女訓、『[[伊勢物語]]』『[[源氏物語]]』でしかなかったが、元禄5年の『[[女重宝記]]』には、[[衣装]]・[[化粧]]・[[料理]]・[[出産]]・[[育児]]・諸芸・[[婦人病]]など女性の生活にかかわる各分野の実用的知識が盛られ、享保元年([[1716年]])に柏原屋清右衛門によって刊行された『女大学宝箱』は「益軒先生述」の体裁をとっているが、漢字まじり並べ書きの手本でもある『[[女大学]]』の本文は全体の半分ほどにすぎず、あとは『源氏物語』『[[百人一首]]』、女性の職業など社会知識、病気・出産、育児などのさまざまな実用知識の[[オムニバス]]となっている<ref name=taihei360/>。これらは無論「[[家]]」のための知ではあるが、女性にとっては新たなる知の獲得であったことは疑いないことである<ref name=taihei360/>。
 
 
 
=== ギャラリー ===
 
<gallery>
 
ファイル:DainihonshiSansou.jpg|安積澹泊著/頼山陽鈔『大日本史賛藪』
 
ファイル:Hatsubi Sanpou.jpg|関孝和『発微算法』
 
ファイル:Nogyo Zensho rice harvest.jpg|宮崎安貞『農業全書』「農事図」
 
ファイル:ZuhoKaitsusyoko0004.jpg|西川如見『増補華夷通商考』
 
ファイル:Zoushi1759.jpg|山脇東洋『蔵志』
 
ファイル:Zui0004p0014.jpg|中村惕斎『訓蒙図彙』巻四 一四頁
 
ファイル:Zui0005p0013.jpg|中村惕斎『訓蒙図彙』巻五 一三頁
 
ファイル:Zui0006p0037.jpg|中村惕斎『訓蒙図彙』巻六 三七頁
 
ファイル:Zui0009p0005.jpg|中村惕斎『訓蒙図彙』巻九 五頁
 
ファイル:Wakan Sansai Zue Ashika & Ottosei.gif|寺島良安『和漢三才図会』38巻獣類72, アシカとオットセイ(明治17年翻刻の中近堂版)
 
ファイル:17th Joruri.jpg|『人倫訓蒙図彙』「浄瑠璃」
 
</gallery>
 
 
 
== 出版・集書・教育 ==
 
=== 出版文化のはじまり ===
 
[[ファイル:Ukiyo-e dsc04680.jpg|300px|right|thumb|浮世絵版画の版木(現代)]]
 
産業としての日本の[[出版業]]は[[1630年代]]([[寛永]]年間)の[[京都]]に始まり、初期の出版を主導したのも京都であった<ref name=fukai12/><ref name=takano280>[[#高埜|高埜(1992)pp.280-281]]</ref>。[[江戸]]では[[1650年代]]([[明暦]]年間)、[[大坂]]では[[1670年代]]([[寛文]]末)ころに出版が始まり、この[[三都]]を中心に出版業が展開された<ref name=takano280/>。出版の興隆は、幕府の出版統制と不可分の関係にあったにもかかわらず、[[元禄]]時代にあっては出版業者も出版物も飛躍的に増加した<ref name=fukai12/>。大坂や江戸では、京都の出版を重版するだけでなく、江戸の俳書や大坂の草子屋本などにみられるごとく、独自の出版活動が一定の蓄積をみていた<ref name=taihei341>[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.341-351]]</ref>。
 
 
 
出版業を支えたのが[[印刷]]である。印刷方法としては、日本では[[安土桃山時代]]に[[イエズス会]]からと[[朝鮮]]からの別系統で[[活字]]印刷が伝えられ、[[寛永]]の頃まではさかんであったが、それ以後は衰え、[[慶安]]年間にはほとんど[[木版印刷]]にもどってしまった<ref name=kodama351>[[#児玉|児玉(1974, 改2005)pp.351-355]]</ref>。これは、字数の少ない[[アルファベット]]と異なり、[[漢字]]の場合は通常の文でも数千種類と字数が多く、註に用いる細字まで加えると多種多様な活字を用意しておかなくてはならなかったことが考えられる<ref name=kodama351/>。また、当時は紙型をのこすことが困難なので新たに[[活字]]を組み直すか、[[組版]]のまま残すかしなければ、[[再版]]も難しかった<ref name=kodama351/>。上述の[[事典]]類・[[地図]]類はじめ挿絵入りの書籍が流行してきたことも木版印刷の方が簡便かつ経済的だったのである<ref name=kodama351/>。
 
 
 
書店数も増えた。江戸では明暦年間までに10軒であったものが、[[万治]]・寛文のころには26軒、[[延宝]]期には58軒、元禄期には80軒に増え、大坂の書店もまた寛文期10軒、延宝から[[天和 (日本)|天和]]にかけて26軒、元禄期62軒とそれぞれに増加した<ref name=fukai12/>。出版物もまた万治2年(1659年)の約1,600点から元禄9年(1696年)には約7,800点まで増えており、その種類も仏書・日本古典・[[漢籍]]に限られていたものが、元禄期には庶民の日常生活に必要な知識を集めた重宝記や[[井原西鶴]]などに代表される現世的な[[小説]]が現れた<ref name=fukai12/>。
 
 
 
三都の本屋で仕入れ、より広範囲に販売や取次・[[小売]]を専門におこなう業者もあって、[[正徳 (日本)|正徳]]年間には[[南部藩]]の[[城下町]][[盛岡市|盛岡]]にも本屋があったという記録がある<ref name=taihei341/>。書籍の[[行商]]もあり、[[目録]]での注文に応じたり、次回村を巡回する時まで[[貸本]]するなどのサービスもあった<ref name=taihei341/>。[[畿内]]の農村では1か月に5ないし6回という頻度で回村したと記録されている<ref name=taihei341/>。行商には、女筆の手本や『[[源氏物語]]』、和歌指南など、「女物」と称される女性専用の書物を商う女性行商人もあった<ref name=taihei360/>。
 
 
 
幕府は明暦3年([[1657年]])、京都で[[出版取締令]]を発し、元禄年間には三都で厳しい言論統制を推進した<ref name=takano280/>。また、同じ頃に結成された書物屋仲間を公認し、これに書物刊行の許可を下す権限を与えるかわりに幕府の出版取締令を厳守する義務を負わせた<ref name=takano280/>。
 
 
 
こうした出版統制政策にあっても、出版界が上述のような活況を呈したのは、木版印刷術の進歩によるものであったが、基本的には読書人口の急増にともなう[[需要]]増加にささえられたものであり、経済発展によって読書をたしなむ余裕のある階層が増えた証拠でもあった<ref name=fukai12/>。多様な文芸や諸科学の発展、[[浮世絵]]の成立などもまた、このような出版文化に負うところがきわめて大きかった。
 
 
 
=== 集書事業 ===
 
[[ファイル:Kangakuryo2.jpg|right|thumb|180px|上野寛永寺の勧学寮(『[[江戸名所図会]]』より)]]
 
[[江戸幕府]]・[[藩|諸藩]]・[[神社]]などの集書事業もさかんとなった。その一例に[[加賀国]][[金沢市|金沢]]の[[尊経閣文庫]]がある。藩主[[前田綱紀]]は数十万冊の蔵書をここに収めており、[[新井白石]]は「加州は天下の書府なり」とこれをうらやんでいる<ref name=harada243>[[#原田|原田 他(1981)pp.243-244]]</ref>
 
 
 
神社関係でも集書はさかんにおこなわれ、貞享3年([[1686年]])に[[伊勢神宮内宮]]の[[林崎文庫]]、慶安元年([[1648年]])に[[外宮]]の[[豊宮崎文庫]]、延宝3年([[1675年]])に[[常陸国]][[鹿島神宮]]の[[鹿島文庫]]、元禄15年([[1702年]])に京都の[[上賀茂神社|上賀茂三手文庫]]、同年に京都[[北野天満宮|北野天満宮文庫]]などが、あいついで創設されている<ref name=harada243/>。
 
 
 
また、寛文12年([[1672年]])、[[出羽国]][[雄勝郡]]出身の黄檗僧[[了翁道覚]]は[[上野寛永寺]]のなかに勧学寮を建立して教学の専任となっているが、並立の文庫6棟には和漢の書籍を収蔵し、仏僧のみならず、一般にも公開した。これは、日本初の一般公開[[図書館]]であったばかりでなく、閲覧者のなかで貧困の者や遠来の者には飯粥や[[宿]]を与える点で画期的な施設であった。
 
 
 
民間人もまた書籍を収集したが、蔵書目録が一般化したのは享保のころである<ref name=taihei320>[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.320-328]]</ref>。[[河内国]][[柏原]]の在郷商人三田家の蔵書目録「万覚書」には、儒学書・漢詩文書・医学書・仏教書、日本の古典、[[軍記物]]・歴史書、[[浮世草子]]など小説類、教訓書、手習書、[[辞書]]・[[事典]]、料理書はじめ実用書など多岐にわたる書物が収載されており、この傾向は他地域の調査でも同様である<ref name=taihei320/>。このことから、少なくとも村落上層の人びとが生活のうえで書物の知と深く結びついており、しかも浮世草子や教訓書など和書の充実ぶりの著しいことがうかがえる<ref name=taihei320/>。
 
 
 
=== 私塾と藩校 ===
 
[[ファイル:Shizutani school the hall and shosai.JPG|300px|right|thumb|旧閑谷学校講堂(国宝)]]
 
[[私塾]]としては[[寛文]]2年([[1662年]])の京都[[堀川]]にひらかれた[[伊藤仁斎]]の[[古義堂]]、[[寛永]]11年(1634年)に[[中江藤樹]]によってひらかれた[[近江国]]小川村([[滋賀県]][[高島市]])の[[藤樹書院]]、[[宝永]]6年([[1709年]])に[[荻生徂徠]]が江戸[[日本橋茅場町]]にひらいた[[蘐園塾]]が知られる<ref name=yamamotowide>[[#山本博文2|山本博文「私塾と藩校」(2002)pp.240-241]]</ref>。[[享保]]9年([[1724年]])には大坂町人らの出資により、[[三宅石庵]]・[[中井甃庵]]らが中心になって[[懐徳堂]]が創立され、享保11年に幕府の官許を得た<ref name=yamamotowide/>。懐徳堂は徂徠学を批判し、その門下からはのちに[[草間直方]]や[[富永仲基]]、[[山片蟠桃]]などのような個性的な学風の町人学者を多数輩出している<ref name=yamamotowide/>。
 
 
 
[[藩校]]では、寛永18年([[1641年]])の[[岡山藩]]の[[池田光政]]創設の[[花畠教場]]が早い例で、以下、会津の[[保科正之]]による[[稽古堂]]が寛文4年([[1664年]])、[[出羽国|出羽]][[米沢市|米沢]]の[[上杉綱憲]]による[[興譲館 (米沢藩)|興譲館]]が元禄10年([[1697年]])、[[鍋島綱茂]]による[[肥前国|肥前]][[佐賀市|佐賀]]の鬼丸聖堂(のちの[[弘道館 (佐賀藩)|弘道館]])が元禄10年、[[紀伊国|紀伊]][[和歌山市|和歌山]]の[[学習館]]が吉宗藩主時代の正徳3年([[1713年]])、[[長門国|長門]][[萩市|萩]]の[[毛利吉元]]による[[明倫館]]が享保3年([[1719年]])などとなっている<ref name=yamamotowide/>。
 
 
 
岡山藩主池田光政はまた、寛文8年([[1668年]])に庶民のための学校として領内各地に手習所をつくったが、とくに寛文10年には[[備前国]][[和気郡]]木谷村の閑谷([[岡山県]][[備前市]])の地を選んで、[[津田永忠]]に命じて手習所に仮学校をつくった<ref name=mizuno303>[[#水野|水野(1979)p.303]]</ref>。講堂の完成は延宝元年([[1673年]])、随時聖堂、文庫もつくられて、延宝3年には領内の手習所をここに統合して[[閑谷学校]]とした<ref name=mizuno303/>。光政はこの学校の財政を藩財政からきりはなし、学校領を設けて学田・学林の経営をさせるなど、独立採算による学校経営の永続性を考慮した。江戸時代の藩営の[[郷学]]としては最も古いものである<ref name=mizuno303/>。
 
 
 
=== 寺子屋の発達 ===
 
[[ファイル:TeachingReadingAndWritingIzumiyaIchibei1790.jpg|300px|right|thumb|女師匠と寺子たち(18世紀後葉)
 
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版元は和泉屋市兵衛]]
 
[[畿内]]近国にあってはすでに[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の終わりころには村に[[寺子屋]]をつくろうという気運が民衆の間に培われていたことが知られ、[[天和 (日本)|天和]]年間の[[三河国]]・[[遠江国]]にあっては[[村役人]]層の手になると考えられる[[農書]]『[[百姓伝記]]』に「我が住処に、書物をよみたる確かなる人をまねきよせ、寄合扶持し、幼少の子どもには先ず"いろは"を習わせ、智恵の付く小文(手習本・教訓本)等をよますべし」とあるところから、寺子屋の普及は従来考えられてきたよりも早い年代が考えられる<ref name=taihei230>[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.230-234]]</ref>。言い換えれば、村落における読み書きや算術能力の相当程度の広がりを前提にしてこそ[[文書主義]]による[[村請制]]が可能であったし、さらには[[兵農分離]]の体制はそれ抜きには不可能だったといえる<ref name=taihei230/>。そこでは単に[[年貢]]事務や[[触書]]等の理解にとどまらず、場合によっては村からの訴願や証拠書類をそろえたうえでの[[公事]]・[[裁判]]をになう法的能力さえも期待されたのである<ref name=taihei230/>。
 
 
 
こうして三都のみならず農村にあっても、[[18世紀]]には村役人・[[町役人]]の子弟を中心に読・書・[[算盤]]を教える寺子屋が庶民の教育機関として普及した<ref name=taihei230/>。各地で教え子たちが師匠を慕って記念碑([[筆子塚]])を建てている。このころから[[女性]]の[[師匠]]もあらわれ、西鶴の『[[好色一代女]]』には宮仕えをやめた主人公が「女子の手習所」を開くため、門柱に「女筆指南」の張り紙を出すシーンが描かれている<ref name=taihei360/>。[[教科書]]としては『[[実語教]]』『[[塵劫記]]』また『[[庭訓往来]]』などの[[往来物]](手紙文)が利用されることが多かった。
 
 
 
地方にあっては、子ども20人あまりで手習の師匠一家の生計が十分に成り立った事例が知られ、また、村としては寺子屋の師匠と医道の両方できる人、文字ばかりでなく[[謡曲]]を教えてくれる人を求めるようすも知られている<ref name=taihei340>[[#横田2|横田『天下泰平』(2002)pp.340-341]]</ref>。上述した大坂近在の[[俳諧]]の流行などにおいても、寺子屋の果たした役割はきわめて大きいものであった<ref name=taihei340/>。
 
 
 
== 生活文化と世相 ==
 
[[オランダ商館]]付医官[[エンゲルベルト・ケンペル]]による元禄4年([[1691年]])の紀行文『[[江戸参府紀行]]』によれば、元禄前後の日本の世相が、異国人の目からみても多様な財貨生産がおこなわれ、[[市場]]や店頭がにぎわっていること、生活物資が豊かであること、[[工芸品]]や装飾品のすぐれた様子、また、華美な[[衣服]]、多彩な造型美術、諸[[芸能]]の盛況など、[[都市]]を中心に[[大衆社会]]の様相を呈していることがよく映し出されている<ref name=harada226>[[#原田|原田 他(1981)pp.226-228]]</ref>。
 
 
 
一方で将軍[[徳川綱吉]]が発布した[[生類憐れみの令]]や[[服忌令]]は、[[殺生]]や死を遠ざけ忌み嫌う風潮を作り出すもととなった<ref name=takano143>[[#高埜|高埜(1992)pp.143-150]]</ref>。前者は多くの人にとって迷惑なことも多い法令ではあったが、捨て子が野犬に襲われたり、[[かぶき者]]たちによる「犬喰い」がなされたりする[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]以来の殺伐とした光景はすがたを消した<ref name=takano143/>。後者については、それにより、従来、[[神道]]や貴族社会に特徴的であった「死や血を[[穢れ]]とする」観念が急速に[[武家]]や庶民階級にもひろがっていく契機となった<ref group="注釈">綱吉政権による2つの法令は、死んだ牛馬の片付けや町・堀の清掃など清めにかかわる仕事を社会にとって必要不可欠なものにした一方で、その仕事や仕事にたずさわる人を賤視したり、穢れを投影して忌み遠ざけたりするなどの誤った観念を産んだ。[[#高埜|高埜(1992)p.150]]</ref>。
 
 
 
=== 衣食住 ===
 
==== 衣生活 ====
 
[[ファイル:Furisode.jpg|180px|right|thumb|[[振袖]](現代のもの)
 
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[[明暦の大火]](1657年)は別名「振袖火事」といわれた。]]
 
元禄のころ、町人の生活が豊かになるにつれて、その風俗は「[[元禄風俗]]」と称される派手で華美なものとなった<ref name=harada228>[[#原田|原田 他(1981)pp.228-231]]</ref>。元禄風俗を示すものとして、[[元禄模様]]に代表される華やかな衣生活がある<ref name=harada228/>。
 
 
 
この時代の衣生活が日本服飾史のうえで占める重大な変化としては、本来は庶民的服装であった[[小袖]]形式が服飾の基本として位置づけられたことが掲げられる<ref name=harada228/>。小袖形式とは現今の「きもの」を指しており、上下一連の衣服で腰に[[帯]]を締めて着用するスタイルであり、こうした変化は、服装風俗の主導権が武家から[[町人]]に移ったことを意味している<ref name=harada228/>。男子のふだん着は、小袖の着流しが一般的になり、新たに[[羽織]]も着用されるようになった。女子は、帯の幅が広くなり、また、袂の長い[[振袖]]があらわれ、色や柄も「元禄模様」と称される華やかなものが好まれた。
 
 
 
布地は[[麻]]にかわって[[綿織物]]が普及した<ref name=fukaya80/>。[[朝鮮国王]]の回賜品や[[中国]]からの輸入品であった[[木綿]]は戦国時代に栽培がはじまり、17世紀に入ると急速に生産が拡大し、国内自給が可能となった<ref name=fukaya80/>。麻から木綿への転換は、[[生産]]・[[流通]]・[[消費]]、生活の美意識におよぶ衣料革命となり、麻は[[礼服]]や夏服として必需品ではあり続けたものの、木綿小袖は身分を超えて常用される和風の衣装となった<ref name=fukaya80/>。これに対し、[[絹]]の着用は、常用は武士や上級町人、名主クラスの富裕層に限られていたが、染色性に優れているうえに肌ざわりもよいため庶民の憧れの的となり、元禄期の経済成長によって[[可処分所得]]が増大するとブームとなって、都市庶民の[[ハレとケ|ハレ]]の日を飾る衣類となった<ref name=sobayou29>[[#大石1|大石(1995)pp.29-32]]</ref>。
 
 
 
==== 食と住 ====
 
[[ファイル:Edo-tokyo Museum.JPG|300px|right|thumb|三井越後屋江戸本店の模型([[江戸東京博物館]])]]
 
住生活では、都市・農村を問わず、柱を土中に埋め込む[[掘立柱建物]]から台石の上に柱を組み立てる[[礎石]]建物へと変わった<ref name=fukaya80/>。都市ではさらに、火災防止のため[[瓦屋根]]や[[塗屋造]]、[[土蔵造]]の商家もあらわれ、板敷きと[[畳]]の使用が一般的となり、厨子二階屋などの二階建も広がった<ref name=harada228/>。このように、家屋が一代を超えて長持ちするようになり、さらに、[[書院造]]の要素を取り込んでハレの行事に使う[[座敷]]を設け、先祖の[[位牌]]を安置して家の永続を祈念する[[仏間]]を設けたことから、[[家]]の観念が深く浸透した<ref name=fukaya80/>。
 
 
 
[[菜種油]]・[[綿実油]]が[[灯火]]として利用されるようになり、生[[蠟]]の増産や搾油機の改良によって元禄年間には灯油が一般に普及した<ref name=harada228/>。これにより、夜の生活時間が延長され、一家団欒の時間が生まれ、[[裁縫]]や[[紡績|糸紡ぎ]]などの手仕事を夜間におこなうという、当時としては画期的な生活習慣が生まれた<ref name=sobayou32>[[#大石1|大石(1995)pp.32-33]]</ref>。[[暖房]]用の[[木炭]]の大量商品化も進んだ<ref name=harada228/>
 
 
 
[[照明]]が明るくなった店舗経営の長期化なども作用して、1日3食の習慣も広がった<ref name=fukaya80/><ref name=sobayou32/>。身分や職種によっては朝晩の2食もつづいたが、農村においては小昼を何度もとらないと体力の消耗が防げないこともあった<ref name=fukaya80/>。
 
 
 
[[麦]]飯・[[ひえ]]飯あるいは[[芋]]や[[干葉]]、[[大根]]などを[[米]]にまぜる混飯(まぜめし)や[[雑炊]](粥、おじや)を主食とし、[[塩]]や[[醤油]]で味付けした一、二菜([[野菜]]・[[魚]]の煮物・焼物)、[[味噌汁]]、[[漬物]]等を各自の木椀か[[陶磁]]製の飯茶碗、[[皿]]に[[しゃもじ]]でよそって[[箸]]で食べ、食後に[[茶釜]]で煎じた[[茶]]を飲むというスタイルが社会の上下に広がった<ref name=fukaya80/>。都市では主食として[[白米]]が普及し、料理店や茶店も現れ、飽食化も進んで「[[初物食い]]」の競争も生まれた<ref name=harada228/><ref name=sobayou29/><ref group="注釈">綱吉が将軍となって間もない貞享3年([[1686年]])には「[[初物禁止令]]」が出されている。[[#大石1|大石(1995)p.31]]</ref>。『[[守貞漫稿]]』によれば、1杯16文の「[[二八そば]]」は寛文4年([[1664年]])に始まったとされている<ref name=nakai>[[#中井|中井(1975)]]</ref>。[[清酒]]醸造の技術が進んで、酒が米に次ぐ重要商品となり、京都を中心に多数の[[菓子]]類も商品として登場した<ref name=harada228/>。
 
 
 
==== 農村の変化 ====
 
農村においては、絹や[[紬]]などの着用は原則として禁止され、食生活も上述のように雑穀中心のものであった<ref name=sobayou29/>。住居も瓦屋根は禁止されたため、依然[[藁葺き]]、[[茅葺き]]、板屋根が一般的であったが、礎石建物が普及し、元禄前後には[[便所]]が屋内の同じ棟に設けられるようになる反面、多くの地域で[[厩]]が切り離されるなど住居構造の変化がみられた<ref name=sobayou29/>。この時代はまた、農村でも板敷き・畳敷きが普及した<ref name=harada228/>。
 
 
 
=== 年中行事や娯楽 ===
 
[[ファイル:Cherry Blossom Viewing Picnic, ca. 1624-1644, 39.87.jpg|400px|right|thumb|寛永期の花見]]
 
上述の[[貞享暦]]は中国暦をベースとした[[太陰太陽暦]]だったので、1年スパンで考えると[[太陽暦]]とのあいだでズレが生じた<ref name=kodama356/>。とくに[[閏月]]のある年とない年とでは[[気候]]に差異が生じたので、自然を相手とする[[農業]]などには不便な一面があった<ref name=kodama356/>。そこで、日月とはまた別に、[[立春]]を起点にして太陽暦の1年を24等分する二十四気([[二十四節気]])が重宝された<ref name=kodama356/>。これに[[土用]]や[[入梅]]、[[彼岸]]などの雑節も取り込んで[[農事暦]]がつくられたのである<ref name=kodama356/>。
 
 
 
この時代、幕府や朝廷の[[節句]]行事が民間にもとりいれられ、[[元旦]]や[[盆]]のほか、[[七草]]、[[節分]]、桃の節句([[雛祭り]])、[[端午]]の節句、[[七夕]]などの[[年中行事]]が都市を中心に農村でもおこなわれるようになった<ref name=kamada17>[[#鎌田|鎌田(2013)pp.17-20]]</ref>。今日の日常的な[[習慣]]や年中行事は、この時代に形をととのえたものが少なくない<ref name=kamada17/>。
 
 
 
そうしたなかで、季節に応じた娯楽もまた生じている。記録によれば、旧暦暦[[3月21日]]の京の[[東寺]]の[[御影供]]では、女性たちは着飾り、1日に7度も着替えるといわれるほどであり、大坂[[住吉]]の[[潮干狩]]には潮干小袖の新装が好まれたといわれる<ref name=harada231>[[#原田|原田 他(1981)pp.231-233]]</ref>。江戸名物といわれた大川([[隅田川]])の[[屋形船|船遊び]]も、寛文から延宝にかけてが全盛期であった<ref name=harada231/>。江戸ではまた、桜花の時節の遊覧がことのほか華やかであり、現在の[[花見]]につながっている<ref name=harada231/>。[[花火]]は当初、現在の玩具花火のようなもので『和漢三才図会』には鼠花火・狼煙花火などが紹介されており、将軍吉宗が享保18年([[1733年]])に隅田川でおこなった「[[川施餓鬼]]」が現在の打ち上げ花火の嚆矢といわれる。
 
 
 
農家も商家も、[[宗門改]]とむすびついて家の[[菩提寺]]をもち、[[追善供養]]を寺院でおこなって[[墓石]]を建てることも広まった<ref name=fukaya80/>。交通の発達につれて庶民の[[旅行]]も活発化し、[[伊勢参り]]や[[温泉]]への[[湯治]]などもさかんにおこなわれるようになった<ref name=kamada17/>。なお、元禄末年から宝永にかけては[[博奕]]が大流行している<ref name=naramoto2>[[#奈良本|奈良本(1974)pp.2-25]]</ref>。富くじも元禄から享保にかけてさかんとなった。
 
 
 
=== 抜け参り ===
 
伊勢参り([[お蔭参り]])のブームは江戸時代を通じて周期的にあらわれ、元和元年([[1615年]])、慶安3年([[1650年]])にも一大ブームとなったが、[[宝永]]2年([[1705年]])閏4月の抜け参りは京都地方から急に始まった<ref name=naramoto2/>。この行列は当初は1日3,000人程度であったが、10日目をすぎたあたりから1日に10万人を超える群衆の大行進となり、わずかの期間で[[近江国]]、[[丹波国]]、[[但馬国]]、[[因幡国]]へと広がり、京・大坂から[[伊勢神宮]]への街道沿いには無料で宿泊させ飲食させる[[報謝]]がなされた<ref name=naramoto2/>。周囲に無断で参詣するので「抜け参り」というが、伊勢への抜け参りを[[家出]]とはみなさない考え方も京の町では定着していたと考えられる<ref name=kamada17/>。宝永の抜け参りはわずか2ヶ月に満たない期間でその数362万人が移動し、出発地も畿内・西国一帯におよんだ<ref name=kamada17/><ref name=naramoto2/>。抜け参りは反面では、下層民の雇用実態への困苦に対する鬱積した感情を解放する役割もになっていた<ref name=kamada17/>。
 
 
 
=== 遊里のにぎわい ===
 
京では、[[寛永]]年間を嚆矢とする[[島原 (京都)|島原]]が[[遊里]]の中心で、元禄期には[[祇園]]花街や伏見の[[撞木町]]も著名であった<ref name=harada232>[[#原田|原田 他(1981)pp.232-233]]</ref>。大坂では公許の新町をはじめ[[曾根崎新地]]などがにぎわい、江戸では[[明暦の大火]]後に移転構築された[[新吉原]]がその中心であった<ref name=harada232/>。武士の多い江戸にあって遊里は、当初は[[大名]]・[[旗本]]・[[牢人]]・[[町奴]]などの遊び指南を中心としていたが、寛文年間以降は、[[紀文]]・[[奈良茂]]などの[[豪商]]の大尽遊びに示されるように、町人の遊興地へと変化していった<ref name=harada232/>。享保年間には江戸の遊女は総勢3,000人を数え、最盛期をむかえた<ref name=harada232/>。三都以外でも、各地の[[城下町]]・[[港町]]には遊里の展開がみられた<ref name=harada232/><ref group="注釈">当時の民間記録(主として西日本)では、奈良鳴川(木辻)、大津馬場町、駿府弥勒町、播州室小野町、備後鞆蟻鼠町、越前敦賀六軒町、泉州堺の北高須町、兵庫磯町、石見温泉津稲町、佐渡相川山崎町、安芸宮島新町、長門赤間関稲荷町、筑前博多柳町、長崎丸山町などが遊里として知られていたことがわかる。[[#原田|原田 他(1981)p.233]]</ref>。
 
 
 
「昼は[[極楽]]、夜は[[竜宮]]」と称された遊里も、封建体制のもとでは拘束された閉鎖的な社会であり、[[遊女]]のなかには[[年貢]]を払うために[[身売り]]された貧農の娘も多く、散娼から強制的に送り込まれた者もいた<ref name=harada232/>。傾城屋の営業者たちも町人としての権能をあたえられす[[賤民]]に準じる扱いを受け、[[遊郭]]全体も「制外」の地とされた<ref name=harada232/>。遊里はまた、社会の必要悪という意味で「悪所」にほかならなかった<ref name=harada232/>。
 
 
 
== 補説 ==
 
従来、江戸文化には元禄文化と[[化政文化]]の2つをピークとみなす考え方が有力であったが、実はそれ自体が近代主義的理解であるとし、むしろ[[18世紀]]に江戸文化のピークがあったとする見解がある<ref name=nakano47/>。
 
 
 
=== 文化の東漸運動 ===
 
それまで新開地とみられてきた[[江戸]]にあっても、学者や[[芸術家]]の活動はさかんであったが、その多くはなお[[京都|京]]・[[大阪|大坂]]や[[畿内]]・[[西日本|西国]]から下った人びとであった<ref name=harada247/>。[[狩野探幽]]、[[住吉具慶]]、[[英一蝶]]、[[北村季吟]]、[[薩摩浄雲]]、[[西山宗因]]、[[松尾芭蕉]]、[[木下順庵]]らがいずれもこれに属する<ref name=harada247/>。
 
 
 
これに対し、[[山鹿素行]]、[[関孝和]]、[[戸田茂睡]]らは[[東日本|東国]]・[[奥羽]]の出身で、[[新井白石]]、[[荻生徂徠]]らは江戸の出身である<ref name=harada247/>。[[歌舞伎]]では初代・2代の[[市川團十郎]]、[[助高屋高助 (初代)|初代澤村宗十郎]]が江戸で活躍する。團十郎は東国出身であるが、宗十郎は上方出身で、元禄期以降に現れる、女形の[[中村富十郎 (初代)|初代中村富十郎]]、[[瀬川菊之丞 (2代目)|2代目瀬川菊之丞]]、[[芳澤あやめ (2代目)|2代目芳沢あやめ]]らも上方出身ながら江戸で名声を獲得した俳優である<ref name=harada247/>。
 
 
 
江戸における文学や芝居が京・大坂をしのぐ勢いをみせるのは[[明和]]・[[安永]]のころまで待たなければならないが、江戸の地が上方とならぶ都市文化の中心となる端緒が、このころにつくられたのは疑いないところである<ref name=harada247/>。
 
 
 
=== 職業文化人の登場 ===
 
従来、元禄文化は「町人文化」であることが強調されすぎて、そこに武士の大きなはたらきがあることは比較的軽視されてきた感がある。そしてまた、芭蕉、近松、白石、契沖らは武家出身ではあったが、武士社会のあるべき規範からは脱落した存在であり、西鶴・仁齊も町人社会の生まれであるが、あるべき町人の人生からは逸脱者であった<ref name=asahi105>[[#尾藤3|尾藤「職業文化人の登場」(1989)pp.105-106]]</ref>。
 
 
 
逆言すれば、身分制社会ではありながら、身分の区別は絶対的なものではなく、その一方では「"役”に基づく平等」とも称すべき、[[職業]]を通じて社会に役立ち、一定の機能を果たしている点では諸人は対等であるという人間観が成立しており、それゆえ、[[文学者]]や[[芸能者]]、[[学者]]として生きることがどの階層にもひらかれていた<ref name=asahi105/>。ここに職業文化人とも見なしうる人々が成立したことは、その後の社会や文化にとって画期的な意味を有していた<ref name=asahi105/>。
 
 
 
=== 公家文化の意味と役割 ===
 
日本列島では[[元和偃武]]によって、東アジアでも明清交替期の戦乱が収束して平和と安定の時代がもたらされた<ref name=taka85/>。そのような時代にあっては、武威よりも[[儀礼]]や[[秩序]]が重んじられる。3代家光から6代家宣までの将軍の正室は[[親王家]]や[[摂関家]]から招かれ、7代家継には皇女との婚姻も予定されたように[[大奥]]には朝廷文化が持ちこまれた<ref name=taka85/>。
 
 
 
公家文化の象徴たる[[和歌]]においては、[[後水尾天皇]]、[[後西天皇]]、[[霊元天皇]]が歌道にすぐれた<ref name=matsuzawa154>[[#松澤|松澤(2003)pp.154-195]]</ref>。[[細川幽斎]]から[[古今伝授]]を受けた[[松永貞徳]]、その弟子で貞徳から「地下流」の[[古今伝授]]を受けた[[北村季吟]]などは地下の歌人として著名である<ref name=matsuzawa154/>。
 
 
 
町人文化・武家文化としての側面ばかりが強調されがちであるが、江戸時代は公家文化がいっそう庶民に向けて開放された時代でもあった。
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
+
{{Reflist}}
 
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
==関連項目==
 
*[[経世論]]
 
 
 
== 参考文献 ==
 
=== 書籍 ===
 
* {{Cite book|和書|author=[[朝尾直弘]]|editor=朝尾直弘(編)|chapter=東アジアにおける幕藩体制|year=1991|month=6|title=日本の近世第1巻 世界史のなかの近世|publisher=[[中央公論社]]|isbn=4-12-403021-5|ref=朝尾}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[小澤弘]]|editor=[[竹内誠]](編)|chapter=多色摺り文化の時代|year=1991|month=6|title=日本の近世第14巻 文化の大衆化|publisher=中央公論社|isbn=4-12-403034-7|ref=小澤}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[市村佑一]]・大石慎三郎|year=1995|month=9|title=新書・江戸時代4 鎖国=ゆるやかな情報革命|publisher=講談社|series=講談社現代新書|isbn=4-06-149260-8|ref=市村}}
 
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* {{Cite book|和書|author=大石慎三郎|year=1995|month=6|title=新書・江戸時代1 将軍と側用人の政治|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|isbn=4-06-149257-8|ref=大石1}}
 
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* {{Cite book|和書|author=[[郡司正勝]]|editor=[[早稲田大学坪内博士記念演劇博物館|坪内博士記念演劇博物館]](編)|year=1953|month=3|chapter=祭文|title=藝芸辞典|publisher=[[東京堂出版]]||series=|asin=B000JBAYH4|ref=郡司2}}
 
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* {{Cite book|和書|author=山路興造|chapter=放下|editor=平凡社(編)|year=1988|month=3|title=世界大百科事典26 ホ - マキ|series=|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=山路2}}
 
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* {{Cite book|和書|author=[[山本進]]|year=2006|month=5|chapter=|editor=|title=図説 落語の歴史|publisher=河出書房新社|series=|isbn=978-4-309-76079-7|ref=山本}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[山本博文]]|year=2007|month=2|chapter=|editor=|title=学校では習わない江戸時代|publisher=新潮社|series=[[新潮文庫]]|isbn=978-4-10-116442-7|ref=山本博文}}
 
* {{Cite book|和書|author=山本博文|year=2002|month=12|chapter=私塾と藩校|editor=|title=ビジュアルワイド江戸時代館|publisher=小学館|series=|isbn=4-09-623021-9|ref=山本博文2}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[横田冬彦]]|year=2000|month=7|chapter=芸能・文化の世界|editor=横田冬彦(編)|title=芸能・文化の世界|publisher=吉川弘文館|series=|isbn=4-642-06552-0|ref=横田}}
 
* {{Cite book|和書|author=横田冬彦|year=2002|month=3|chapter=|title=天下泰平|publisher=講談社|series=日本の歴史16|isbn=4-06-268926-2|ref=横田2}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[渡邉寧久]]監修|year=2008|month=11|title=落語入門|publisher=[[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-30493-9|ref=入門}}
 
 
 
=== 雑誌論文等 ===
 
*{{Cite journal|和書|author=小野健吉|authorlink=小野健吉|title=講座庭園史 近世の庭園(日本史の研究 No.227)|date=2009-12|publisher=山川出版社|journal=歴史と地理|volume=|number=630|naid=40016965280|pages=31-41|ref=小野}}
 
*{{Cite journal|和書|author=小塩さとみ|authorlink=小塩さとみ|title=音楽史 近世の音楽-多様な音楽ジャンルの共存-(日本史の研究 No.231)|date=2010-12|publisher=山川出版社|journal=歴史と地理|volume=|number=640|naid=40018278929|pages=35-43|ref=小塩}}
 
*{{Cite journal|和書|author=太田富康|authorlink=太田富康|title=講座仏教美術 近世の装飾建築と庶民層への広がり(日本史の研究 No.214)|date=2006-9|publisher=[[山川出版社]]|journal=歴史と地理|volume=|number=597|naid=40007478110|pages=37-47|ref=太田富}}
 
*{{Cite journal|和書|author=林淳|authorlink=林淳|title=貞享暦(日本史の研究 No.219)|date=2007-12|publisher=山川出版社|journal=歴史と地理|volume=|number=610|naid=40015803624|pages=44-49|ref=林}}
 
*{{Cite journal|和書|author=長谷洋一|authorlink=長谷洋一|title=近世の仏教美術-日本彫刻史のなかの円空-(日本史の研究 No.216)|date=2007-3|publisher=山川出版社|journal=歴史と地理|volume=|number=602|naid=40015450069|pages=39-47|ref=長谷}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Category:Genroku bunka}}
 
* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]
 
* [https://web.archive.org/web/20140125091536/http://bunka.nii.ac.jp/Index.do 文化遺産オンライン]
 
* [http://www.emuseum.jp/ e国寶]
 
 
 
{{日本の文化史区分}}
 
{{Portal bar|日本|江戸|歴史}}
 
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元禄文化(げんろくぶんか)

江戸時代,5代将軍徳川綱吉の治世に,特に上方 (京都,大坂) を中心として展開した町人文化。

当時の貨幣経済の発達は町人の経済力を高め,華美な生活と遊興娯楽の余裕を町人に与えた。文芸面としては,演劇では,浄瑠璃節に三味線の伴奏と人形の演出を加えた人形浄瑠璃が竹本義太夫義太夫節として完成し,市川団十郎,坂田藤十郎らによる歌舞伎が盛行した (元禄歌舞伎 )

近松門左衛門は,浄瑠璃では世話物を,歌舞伎では時代物を主として扱った。特に世話物ではありのままの町人生活を描き,義理と人情の葛藤を美化しようとした。俳諧では,松永貞徳によって形式が整えられ,西山宗因を経て,松尾芭蕉の出現となり,蕉風の俳諧が完成された。小説では,井原西鶴が,浮世草子を著わし,町人や武士の生活を人間味あふれる筆致で描いた。絵画では狩野探幽らの狩野派に対して土佐派が復興しており,また尾形光琳を中心とした光琳派は,花鳥風月や人物を色調豊かに表わし,菱川師宣らの浮世絵は大いに民衆に愛好された。工芸面では,横谷宗珉,尾形乾山らが出てすぐれた作品を生み出した。学問の面においては,儒学では,朱子学派に山崎闇斎,木下順庵,貝原益軒,室鳩巣,新井白石らが,古学派に山鹿素行,伊藤仁斎,荻生徂徠,太宰春台らが,陽明学派に熊沢蕃山,淵岡山らが現れ,古典に対する批判や新しい解釈を行い,独自な学説も発表された。国学では,僧契沖,荷田春満,下河辺長流,北村季吟,賀茂真淵らが出て国学発展の基礎をつくった。(上方文化 , 上方文学 )  

脚注