「三菱財閥」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2016年11月}}
 
  
 
{|class="infobox bordered" style="width:100px; font-size: 100%;" cellpadding="3"
 
{|class="infobox bordered" style="width:100px; font-size: 100%;" cellpadding="3"
13行目: 12行目:
 
|}
 
|}
  
'''三菱財閥'''(みつびしざいばつ)は、[[日本三大一覧#明治〜昭和時代|日本三大財閥]]の1つ。
+
'''三菱財閥'''(みつびしざいばつ)
  
[[土佐藩]]出身の[[岩崎弥太郎]]が創立した三菱商会を基盤に、[[明治政府]]の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱[[合資会社]]を設立。これを持株会社として[[造船業]]・[[鉱業]]・[[鉄道]]・[[貿易]]などあらゆる分野に進出。[[第二次世界大戦]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ/SCAP) の指令により解体された([[財閥解体]])
+
[[三井財閥]]に次ぐ日本第2の総合財閥。明治維新以降わずか 20年の間に[[岩崎弥太郎]]によって基礎が築かれた。 1873年にそれまで土佐藩の庇護下にあった回漕業を三菱商会 (1875年郵便汽船三菱会社と改称) と改称,以後明治政府の保護を受けて台湾征討 (74) ,西南戦争 (77) に協力,海運業で独占的地位を築く。 86年三菱社を設立し,[[日本郵船]]をはじめ貿易,銀行,保険,鉱業など岩崎一族の各種事業を経営,87年官営の長崎造船所の払下げを受けて重工業に進出。 93年三菱社を三菱合資会社に改組。第1次世界大戦~大正末期に三菱合資の銀行部,鉱山部,造船部,炭坑部,営業部,地所部など各事業部門を次々に分離独立させ,新規事業にも積極的に進出,ほかに[[東京海上火災保険]],明治生命 ([[明治生命保険]] ) ,[[三菱倉庫]],三菱製紙所 ([[三菱製紙]] ) ,[[旭硝子]][[麒麟麦酒]]など有力企業を傘下におさめてコンツェルン組織を確立,1930年代には[[三菱重工業]]を設立するなど軍需工業で圧倒的な地位を占めた。第2次世界大戦後の財閥解体指定時には,三菱合資の後身である三菱本社のもとに系列会社数 189,その払込資本金総額 47億円に達していた。財閥解体により三菱本社,三菱商事は完全に解散,三菱重工業,三菱鉱業は分割されるなど財閥は崩壊したが,50年代中期から相互合併などによって徐々に旧各社の体制を整え,現在では[[三菱グループ]]を形成して日本最大級の企業集団となっている。
 
 
== 経歴 ==
 
=== 財閥の起源 ===
 
三菱財閥は、俗に[[三井財閥|三井]]、[[住友財閥|住友]]とともに'''三大財閥'''であるが、三井、住友が三百年以上の史を持つ旧家なのに対して、三菱は明治期の動乱に'''[[政商]]'''として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがある。
 
 
 
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた[[後藤象二郎]]であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。
 
 
 
土佐藩は[[坂本龍馬]]が[[近江屋]][[井口新助]]邸で暗殺されたことで解散した[[海援隊]]の後身として、[[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]][[堀江_(大阪市)|堀江]]の土佐藩蔵屋敷(現在の[[土佐稲荷神社]]付近)で始めた[[九十九商会]]の監督を弥太郎に[[1870年]]に任じた。さらに翌年の[[廃藩置県]]後、九十九商会は個人事業となった。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、[[1873年]]に'''三菱商会'''と改称し、海運と商事を中心に事業を展開した。これを機に西南戦争([[1877年]])のときには、さらなる巨万の富を掌中にする。
 
 
 
商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになった。政府が[[西南戦争]]で支払った戦費は4,150万円といわれるが、そのうち1,500万円が三菱の儲けだった。しかし、その裏には[[後藤象二郎]]を通じてときの最大の権力者[[大久保利通]]、[[大隈重信]]といった政府要人の後ろ盾があったことは言うまでもない。大隈重信と岩崎弥太郎の癒着を糾弾した「大熊退治と海坊主退治」の風刺画は有名である<ref>[https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro21.html 「大熊退治と海坊主退治」風刺画]</ref>。(ちなみに[[三井財閥]]は、[[長州閥]]の[[伊藤博文]]、[[井上馨]]、[[品川弥二郎]]らに肩入れして対抗していた)。
 
 
 
 
 
 
 
だが、'''政商'''として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がった。そんなさなか弥太郎の後援者だった大久保利通が[[1878年]]に暗殺され([[紀尾井坂の変]])、[[1881年]]には大隈重信が失脚する([[明治十四年の政変]])。勢いをえた長州閥と三井はここぞとばかりに三菱バッシングに打って出た。その最大のものが、海運業を独占していた三菱に対して、政府が音頭を取って財界人の[[渋沢栄一]]、[[三井八郎右衛門]]・[[大倉喜八郎]]ら[[政商]]を結集して設立した半官半民の[[共同運輸会社]]だった。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは、[[1883年]]4月から2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。
 
 
 
こうしたさなか、幕末、維新の激動のなかを風雲児として駆け抜けた弥太郎が病死する。死後、三菱、共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、両社は合併して[[日本郵船]]を発足([[1885年]]9月、資本金1,100万円、うち[[岩崎家]]出資金500万円)させて、この死闘に終止符をうった。明治18年に弥太郎が亡くなったあとは、三菱の重鎮として、岩崎一族には、弥太郎の従弟・[[豊川良平]]や[[近藤廉平]](妻が豊川良平の妹)、弥太郎の姪姉妹を妻とした[[荘田平五郎]]・[[各務鎌吉]]などがいた。この豊川良平、近藤廉平、荘田平五郎のほかに、[[末延道成]]を加えた4人が、弥太郎亡きあとの三菱発展に大いに貢献し、“'''三菱四天王'''”といわれた。
 
 
 
弥太郎のあとを受けて三菱総帥となったのが[[岩崎弥之助|弥之助]]である。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として「三菱社」を創設する。いわばこれが後の財閥形成の基になった。この後、三菱総帥の地位は、明治26年に三菱合資会社を設立した時点で、兄弥太郎の長男・久弥が継ぎ、さらに大正5年弥之助の長男・小弥太に引き継がれ終戦を迎えることになる。
 
 
 
このように三菱財閥は弥太郎、弥之助の兄弟家系で世襲し、同族で発展したことから、「'''独裁政治'''」と言われる。ちなみに三井は「'''番頭政治'''」、住友は「'''法治主義'''」と言われている。
 
 
 
=== 三菱商会 ===
 
[[1874年]]、三菱商会は本社を[[大阪]]から[[東京]]に移し、'''郵便汽船三菱会社'''と改名を重ね、主力事業である海運業においては外国勢力や中小の船会社を徹底的に駆逐して独占的な地位を得た。しかし三菱の独占と専横を快く思わない[[渋沢栄一]]や井上馨や品川弥二郎らが三菱に対抗できる海運会社の設立を画策、政府の出資も得、三井などの反三菱勢力も結集して[[1882年]]7月に[[共同運輸会社]]が設立、翌[[1883年]]営業を開始した。三菱はいつも通りの値下げ攻勢で共同運輸も潰そうとしたが、政府の後援のある共同運輸は更なる値下げで対抗。
 
 
 
続く2年間はダンピング競争で海上運賃は大幅に安くなったが両社は完全に消耗し、守勢に回った三菱は路線や人員の削減で倒産寸前となった。さすがに過当競争を見かねた政府が間に入り、[[1885年]]に共同運輸との対等合併で'''日本郵船'''会社が設立された。三菱は中心事業である海運業を一時的に失ったが数年後には人的にも経営の実権を握ることとなった。
 
 
 
1885年の弥太郎死去後、その弟・[[岩崎弥之助|弥之助]]が後を継いだ。岩崎弥之助は'''三菱社'''と改名し[[1881年]]に買収した高島炭鉱と[[1884年]]に借り受けた官営[[長崎造船所]](後の[[三菱重工業]])を中核として、事業の再興を図った。
 
 
 
炭鉱、鉱山事業の拡充、[[1887年]]の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、1885年に[[第百十九国立銀行]]の買収による銀行業務への本格展開をし、1887年に東京倉庫(後の[[三菱倉庫]])を設立した。
 
 
 
[[1893年]]に[[商法]]が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・[[岩崎久弥|久弥]]が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、[[麒麟麦酒]]の設立など、事業がいっそう拡大された。
 
 
 
[[1916年]]([[大正]]5年)に弥之助の長男・[[岩崎小弥太|小弥太]]が四代目社長に就任。部長制を廃止し分野別に担当事務理事を置いた。
 
 
 
[[1917年]]に[[三菱重工業|三菱造船]]、[[三菱製紙]]、[[1918年]]に[[三菱商事]]、[[三菱マテリアル|三菱鉱業]]、[[1919年]]に[[三菱銀行]]、[[1920年]]に[[三菱内燃機製造]]、[[1921年]]に[[三菱電機]]と次々に分割化していった。そして、[[満州事変]]から[[第二次世界大戦]]にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大した。
 
 
 
スリーダイヤマークの「三菱」の呼び名だが、これは[[土佐藩]]主[[土佐山内氏|山内家]]の[[家紋]]の「三ツ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせたものであった。戦前の8大財閥(三菱財閥、[[三井財閥]]、[[住友財閥]]、[[安田財閥]]、[[浅野財閥]]、[[大倉財閥]]、[[古河財閥]]、[[神戸川崎財閥|川崎財閥]])の中では唯一創業者の姓を冠さないものとなったが、これは新政権の明治政府に奉公するという岩崎の気持ちを表したものだったといわれる。
 
 
 
=== 財閥解体後の三菱 ===
 
戦後、連合国の方針に基づく[[財閥解体]]政策によって三菱本社、三菱商事は解散。[[三菱重工業]]、[[三菱化学|三菱化成]]が三分割に追い込まれた。死の床にあった小弥太は「国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」と反駁したが、時代の流れに抗う事は出来なかった。当時の模様を三菱合資会社社長の久弥は「すっかり裸になった。土佐の郷里の土地と東京の墓地だけが残った。自分はこれまで長子以外は一族親戚の者も三菱本社に参加させなかったのに(11人もの指名を受けるとは)ヒドイものだ」(岩崎久弥伝)と憤懣やるかたない心情を吐露している。しかも下谷の茅町にあった[[旧岩崎邸庭園|本邸]]はアメリカ軍に接収され、ついで[[財産税法|財産税]]のために手放したため、久弥は一時その一室を間借りしていた。なお、解体前の三菱財閥の総資産は、現在価値に換算して推定120兆円と考えられている。
 
 
 
「天下の三菱」の基幹産業の一つに不動産がある。「丸の内の大家さん」の如く世界的な超一等地のビジネス街の土地を管理している。財閥解体により三菱地所は関東不動産、陽和不動産の二つに分割された。陽和不動産は丸ビルを中心に皇居と東京駅の間の土地のかなりの部分の所有者であった。1952年、藤網久二郎と田島将光という二人の男は陽和不動産の乗っ取りを仕掛け、ほぼ成功しかけたという衝撃的な事件が起きた。
 
 
 
この「陽和不動産乗っ取り事件」もあり三菱の再統合は促進された。1954年に三菱商事が再合同、また、同年には三大財閥中2番目に三菱主要企業の会長・社長の親睦と情報交換を目的とした三菱金曜会が始められ、10年後の1964年には三菱重工業も再合同するなど再びグループ化した。金曜会は、戦前の三菱本社を頂点とした三菱財閥の復活ではなく、グループ各社による対等なグループ形成である。ちなみに、住友グループは1949年(正式には、1951年4月)に[[白水会]]が設立され、三井グループは、1961年に二木会をそれぞれ設立している。
 
 
   
 
   
三菱グループは、特に戦後の日本の[[高度経済成長]]期に、高度成長を担った重化学工業分野に中核有力企業が多いという強みを大いに発揮し、戦後も引き続き、日本を代表する企業グループの一つとして発展した。
 
 
=== 現在(財閥解体後 - 2016年現在) ===
 
{{独自研究|section=1|date=2008年2月}}
 
1955年、[[鳩山一郎内閣]]は[[過度経済力集中排除法]](昭和22年法律第207号)の廃止法案(内閣提出第42号)を提出した。[[衆議院]]商工委員会委員長[[田中角栄]]のもとで審議が行われ、「過度経済力集中排除法等を廃止する法律(昭和30年法律第87号)」が成立した<ref>[http://hourei.ndl.go.jp/SearchSys/viewKaisei.do?i=I6b2jEu6qzedrMC2tFg%2BFQ%3D%3D 過度経済力集中排除法等を廃止する法律(昭和30年法律第87号)、被改正法令一覧] - [[国立国会図書館]]、日本法令索引。</ref>。
 
 
[[21世紀]]現在の[[三菱グループ]](金曜会)には[[三菱商事]]、[[三菱重工業]]、[[三菱UFJ銀行]]の「三菱グループ御三家」を筆頭に、多数の日本を代表する企業が連名している。その中には[[三菱自動車工業]]や[[明治安田生命保険]]のように社会問題を発生させた企業もあり、今後、ますます[[企業コンプライアンス|コンプライアンス]]遵守に向けての真摯な取り組みが求められている。
 
 
一部の企業における[[自衛隊]]への納入実績の大きさなどから、かつての国防国策会社としてのイメージが現在でも残っている。高度経済成長からバブル崩壊期までは、例えば、グループの製品を優先的に購入する、グループ内の問題の負担を各社で負担する、など、グループ同士での結束が他の財閥系グループと比べ大変強い面があった。「「三菱」と名の付く会社の宴会では、キリンビールを出すのが慣例である」との飲食店業界でのジンクスもあった程である。
 
 
しかし、バブル崩壊、経済のグローバル化以降は、金融自由化の波の中、グループ間の結束力は外部から思われているほど強くはなくなってきている。むしろ、あまり表に出てこない新財閥グループの方がグループ企業間の結束が強いと見るべきである。従来は川上製品に強く、川下製品に弱いとされてきたイメージがあったが、そのイメージを払拭すべく、各企業は製品開発および市場開拓に励んでいる。
 
 
また、グループ内企業の社員に毎月配布されている広報誌「マンスリーみつびし」は、2007年7月号において通算500号に達した。
 
 
== 三菱財閥歴代総帥 ==
 
{| border=1 cellspacing=0 cellpadding="3"
 
|-
 
!colspan=4 style="background:skyblue; text-align:left;"|三菱財閥歴代総帥
 
|-
 
!代数!!氏名!!在任期間!!主な職歴
 
|-
 
|1||[[岩崎弥太郎]]||明治6年(1873年) - 明治18年(1885年)||〔職〕[[九十九商会]]
 
|-
 
|2||[[岩崎弥之助]]||明治18年(1885年) - 明治26年(1893年)||〔職〕[[三菱合資会社]]総裁
 
|-
 
|3||[[岩崎久弥]]||明治26年(1893年) - 大正5年(1916年) ||〔職〕[[麒麟麦酒]]創業者
 
|-
 
|4||[[岩崎小弥太]]||大正5年(1916年) - 昭和20年(1945年)||〔職〕[[三菱重工業]]創業者
 
|}
 
 
==脚注==
 
{{Reflist}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[岩崎家]]
 
* [[三菱商業学校]]([[明治義塾]])
 
* [[三菱商船学校]](現[[東京海洋大学]])
 
* [[三菱グループ]]
 
* [[長崎製鉄所]]
 
* [[富士紡ホールディングス]](旧富士紡績)
 
* [[旭硝子]]
 
* [[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]
 
* [[三菱商事]]
 
* [[三菱自動車工業]]
 
** [[三菱ふそうトラック・バス]]
 
** [[明治ゴム化成]]
 
* [[三菱マテリアル]]
 
* [[興人]]
 
* [[宇宙通信]]
 
* [[島津財閥]]
 
** [[島津製作所]]
 
** [[三菱ロジスネクスト]](旧・日本輸送機)- 現在は三菱重工子会社
 
** [[ジーエス・ユアサコーポレーション|GSユアサコーポレーション]](旧・日本電池)
 
** [[大日本塗料]]
 
* [[森村財閥]]
 
** [[ノリタケカンパニーリミテド]]
 
** [[日本碍子|日本ガイシ]]
 
** [[日本特殊陶業]]
 
** [[TOTO (企業)|TOTO]]
 
** [[LIXILグループ]]([[LIXIL]])- [[INAX]]
 
* [[東京川崎財閥|川崎財閥(東京)]]
 
** [[第百銀行]](のち[[三菱銀行]]へ吸収合併)
 
** [[常陽銀行]]
 
** [[足利銀行]]
 
** [[千葉銀行]]
 
** [[損保ジャパン日本興亜ホールディングス]] - 旧[[日本興亜損害保険|日本興亜損保]]
 
** [[マニュライフ生命保険]](旧第百生命保険の受け皿として新規参入)
 
** [[横浜銀行]](明和・鎌倉の旧東京川崎系両行が神奈川地銀の大合併に合流)
 
** [[山陽鉄道]] (現在の[[西日本旅客鉄道|JR]][[山陽本線]]の源流)
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Category:Mitsubishi}}
 
* [http://www.mitsubishi.com/ 三菱グループポータルサイト]
 
* [http://www.mitsubishi.com/kinyokai/ 三菱金曜会の公式サイト]
 
* [http://www.mitsubishi.com/mpac/j/index.html 三菱広報委員会の公式サイト]
 
  
 
{{三菱グループ}}
 
{{三菱グループ}}
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:みつひし}}
 
{{DEFAULTSORT:みつひし}}
 
[[Category:日本の財閥・コンツェルン]]
 
[[Category:日本の財閥・コンツェルン]]
 
[[Category:三菱グループ|*]]
 
[[Category:三菱グループ|*]]
 
[[Category:三菱グループの歴史|*]]
 
[[Category:三菱グループの歴史|*]]

2018/8/29/ (水) 19:56時点における版

三菱財閥
創業者とされる人物: 岩崎家
標章: スリーダイヤ

三菱財閥(みつびしざいばつ)

三井財閥に次ぐ日本第2の総合財閥。明治維新以降わずか 20年の間に岩崎弥太郎によって基礎が築かれた。 1873年にそれまで土佐藩の庇護下にあった回漕業を三菱商会 (1875年郵便汽船三菱会社と改称) と改称,以後明治政府の保護を受けて台湾征討 (74) ,西南戦争 (77) に協力,海運業で独占的地位を築く。 86年三菱社を設立し,日本郵船をはじめ貿易,銀行,保険,鉱業など岩崎一族の各種事業を経営,87年官営の長崎造船所の払下げを受けて重工業に進出。 93年三菱社を三菱合資会社に改組。第1次世界大戦~大正末期に三菱合資の銀行部,鉱山部,造船部,炭坑部,営業部,地所部など各事業部門を次々に分離独立させ,新規事業にも積極的に進出,ほかに東京海上火災保険,明治生命 (明治生命保険 ) ,三菱倉庫,三菱製紙所 (三菱製紙 ) ,旭硝子麒麟麦酒など有力企業を傘下におさめてコンツェルン組織を確立,1930年代には三菱重工業を設立するなど軍需工業で圧倒的な地位を占めた。第2次世界大戦後の財閥解体指定時には,三菱合資の後身である三菱本社のもとに系列会社数 189,その払込資本金総額 47億円に達していた。財閥解体により三菱本社,三菱商事は完全に解散,三菱重工業,三菱鉱業は分割されるなど財閥は崩壊したが,50年代中期から相互合併などによって徐々に旧各社の体制を整え,現在では三菱グループを形成して日本最大級の企業集団となっている。

  • テンプレート:三菱グループ


楽天市場検索: