三菱製紙
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三菱製紙株式会社(みつびしせいし)は、三菱グループの製紙会社。日本の製紙業界では6位。塗工紙(高級光沢紙)などの印刷用紙を中心に、情報用紙、ティッシュペーパー、製紙用パルプ、写真、フィルター、感光剤などを製造し、近年は、不織布・ガラス繊維ペーパー、リチウムイオン電池セパレーターなどに注力している。三菱金曜会[1]・三菱広報委員会[2]の会員企業である[3][4]。
2005年(平成17年)1月31日に中越パルプ工業との合併を発表したが、その後同年5月16日に合併は白紙撤回された。
事業所所在地
沿革
- 1898年(明治31年)4月1日 - 神戸市三宮においてウォルシュ兄弟が経営していた製紙会社・神戸製紙所を岩崎久彌が買収し、合資会社神戸製作所として設立。
- 1901年(明治34年)6月 - 兵庫県高砂市に工場を移転、後に高砂工場となる工場が操業開始。
- 1904年(明治37年)6月 - 合資会社三菱製紙所に改称。
- 1917年(大正6年)2月 - 中川工場操業開始。
- 1917年(大正6年)11月 - 三菱製紙株式会社に改組。
- 1925年(大正14年)12月 - 本社を兵庫県高砂市から東京都千代田区丸の内に移転。
- 1944年(昭和19年)4月 - 京都写真工業株式会社を吸収合併、京都試製工場(2016年現在の京都工場)が発足。
- 1944年(昭和19年)8月 - 浪速製紙株式会社を吸収合併し、浪速工場が発足。
- 1949年(昭和24年)5月14日 - 大阪証券取引所に上場。
- 1949年(昭和24年)5月16日 - 東京証券取引所に上場。
- 1966年(昭和41年)4月1日 - 白河パルプ工業株式会社と合併し、パルプから紙に至る一貫メーカーとなる。白河工場、北上工場を継承。
- 1966年(昭和41年)9月 - 八戸工場操業開始。
- 1966年(昭和41年)12月 - 浪速工場(大阪市福島区)を閉鎖。
- 2000年(平成12年)7月11日 - 北越製紙株式会社と業務、資本提携。
- 2003年(平成15年)3月 - 中川工場(東京都葛飾区)閉鎖。
- 2005年(平成17年)4月1日 - 北上工場事業を会社分割し、北上ハイテクペーパー株式会社を設立。
- 2005年(平成17年)7月1日 - 北越製紙株式会社との業務・資本提携を終了。
- 2007年(平成19年)8月28日、富士フイルムと三菱製紙は、写真事業に関して業務/資本提携。
- 2007年(平成19年)11月20日 - 情報用紙事業において、王子製紙株式会社との戦略的資本・業務提携を発表。
- 2012年(平成24年)7月17日 - 本社を東京都千代田区丸の内から東京都墨田区両国に移転。
白河パルプ工業
- 1950年(昭和25年)3月 - 白河製紙株式会社設立。
- 1951年(昭和26年)4月 - 白河パルプ工業株式会社に社名変更。
- 1951年(昭和26年)秋 - 白河工場操業開始。
- 1965年(昭和40年)7月 - 北上工場操業開始。
- 1966年(昭和41年)4月1日 - 三菱製紙に合併。
関係会社
三菱製紙グループは2012年(平成24年)3月31日現在、子会社36社、関連会社12社で構成されている。
- 北上ハイテクペーパー
- 白菱興業
- 八戸林産
- 北菱林産
- 兵庫クレー
- 八戸紙業
- 高砂紙業
- 八菱興業
- 北菱興業
- 三菱製紙販売
- 旭感光紙
- オストリッチダイヤ
- 東邦特殊パルプ
- ダイヤミック
- 京菱ケミカル
- 三菱製紙エンジニアリング
- 浪速通運
- 菱紙
- エム・ピー・エム・シェアードサービス
- ピクトリコ
- KJ特殊紙
- 菱工
脚注・出典
関連項目
- 三菱製紙魚町倶楽部 - 高砂工場の近く、神戸製紙所時代に建設された明治時代築の西洋館。
- 永田耕衣(元高砂工場製造部長) - 俳人、『部長の大晩年』(城山三郎著)の主人公。
- 三菱製紙八戸クラブ(社会人野球、旧・三菱製紙八戸硬式野球部)
外部リンク
- テンプレート:三菱グループ