フランツ・シューベルト

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フランツ・ペーター・シューベルト
Franz Peter Schubert
基本情報
別名 歌曲の王
生誕 1797年1月31日
出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ウィーン
死没 (1828-11-19) 1828年11月19日(31歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国、ウィーン
ジャンル ロマン派音楽
活動期間 1810 - 1828

フランツ・ペーター・シューベルトドイツ語: Franz Peter Schubert[1], 1797年1月31日 - 1828年11月19日)は、オーストリア作曲家。各分野に名曲を残したが、とりわけドイツ歌曲において功績が大きく、歌曲の王と呼ばれることもある。

後述の理由により、本稿ではシューベルトの作品番号として「D.○○」を用いず「D○○」という表記を採用する。

生涯

誕生

シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールDeutsch版で生まれた。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドールは教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツは結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年生まれ)、次男フェルディナント(1794年生まれ)、三男カール(1796年生まれ)、次いで第12子のフランツ、娘のテレジア(1801年生まれ)だった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。

フランツは5歳の時、父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。この頃、父は末の息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳頃になると父親の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。聖歌隊の仲間たちはフランツの音楽的才能に一目を置いた。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会は無いという時代だったので、しばしば聖歌隊建物に隣接するピアノ倉庫にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図ってくれた。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良い楽器で練習、勉強をすることができた。

コンヴィクト

1808年10月、シューベルトはコンヴィクトDeutsch版(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育と殆ど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。シューベルトを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun, 1788-1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多くの友人たちが貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙など、誠実な支持と励ましを与えた。また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。一方、才能は作曲の分野で既に示しつつあった。1810年4月8日-5月1日の日付がある32ページにわたりびっしりと書かれた『4手ピアノのためのファンタジア (D1)』、続いて1811年にはツムシュテーク (1760 - 1802) が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『五重奏序曲 (D8)』『弦楽四重奏曲 (D18)』『4手ピアノのためのファンタジア第2番 (D9)』がある。室内楽曲が目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でカルテット演奏会が行われていたからである。これは後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものだった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残した。また野心的に力を注いだのは、1812年の母の葬儀用と言われる『キリエ (D31)』と『サルヴェ・レジーナ (D106)』(それぞれ合唱聖歌)、『木管楽器のための八重奏曲 (D72)』である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる『カンタータ (D80)』を残した。学校生活の最後には最初の交響曲 (D82) が生まれた。

1813年-1815年

ファイル:Therese Grob.JPG
テレーゼ・グローブEnglish版シューベルトの最初の恋人といわれる

1813年の終りにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。この頃、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。彼は2年以上この仕事に就いたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。サリエリから個人な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。またシューベルトはグローブ一家と親密に交際しており、そこの娘テレーゼEnglish版は歌が上手く良い友人だった。彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城 (D84)』と、最初の『ミサ曲ヘ長調 (D105)』は共に1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3曲(D46.D74.D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調 (D82)』の第1楽章、『潜水者 (D77)』や『糸を紡ぐグレートヒェン (D118)』といった傑作を含む7つの歌曲が書かれた。

1815年には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番変ロ長調 (D125)』が完成し、『交響曲第3番ニ長調 (D200)』もそれに続いた。また、『ト長調 (D167)』と『変ロ長調 (D.324)』の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ヘ長調のミサ曲』のための新しい『ドナ・ノビス (D185)』『悲しみの聖母 (D383)』『サルヴ・レジナ (D379)』、オペラは『4年間の歩哨兵勤務 (Der Vierjahrige Posten, D190)』『フェルナンド (D220)』『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ (D239)』[2]『アドラスト (D137)』(研究により1819年の作曲と推定)『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ(サラマンカの友人たち)(D326)』(会話の部分が失われている)の5曲が作曲された。他に『弦楽四重奏ト短調(D173)』『ピアノのための4つのソナタ(D157.D279.D459』、数曲のピアノ小品がある。これらの最盛期をなすのは、146の歌曲で、中にはかなり長い曲もあり、また8曲は10月15日、7曲は10月19日の日付がある。

1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファーEnglish版(1787-1836)と知り合った。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱の時もあったが、突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。2人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。

1816年

シューベルトの運命に最初の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた、法律学生フランツ・ショーバー(1796-1882)がシューベルトを訪問して、教師を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛り付けられているという思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、春が去る頃にはシューベルトはショーバーの客人になった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成させるとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたという。

1816年の作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ (D407)』、もう1つの『プロメテウス・カンタータ (D451)』はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒たちのためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。彼は雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ (D472)』。最も重要な作品は『交響曲第4番ハ短調 (D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがある。次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『第5番変ロ長調 (D485)』、その他多少の教会音楽。これらはゲーテシラーからシューベルト自身が選んだ詩だった。

この時期友人の輪が次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768-1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていたが、それは間も無く「シューベルティアーデ」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。

シューベルトは貧しかった。それと言うのも教師を辞めたうえ、公演で稼ぐことも出来なかったからである。しかも、音楽作品をただでも貰うという出版社は無かった。しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい人が紹介された時の、「彼が出来ることは何か?」という質問がこの会の特徴をよく表している。

1818年

1818年は前年と同様、創作上は比較的実りが無かったものの、2つの点で特筆すべき年だった。1つ目は作品の公演が初めて行われたことである。演目はイタリア風に書かれた『序曲 (D590)』で、これはロッシーニをパロディー化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は初めて公式の招聘があったことである。これは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。

この年の作品には『ミサ曲 (D452)』『交響曲第6番(D589)』(共にハ長調)、ツェレスでの生徒たちのための一連の『四手のためのピアノ曲』、『孤独に (D620)』『聖母マリア像 (D623)』『繰り言 (Litaney)』などを含む歌曲がある。秋のウィーンへの帰りに、ショーバーの所には滞在する部屋が無いことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食の後、田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、或いはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌 (D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取って、フォーグルと共に北部オーストリアを旅行した。シュタイアーで「鱒(ます)」として有名な『ピアノ五重奏曲イ長調 (D667)』のパート譜をスコア無しで書き、友人を驚かせた。秋に、自作の3曲をゲーテに送ったが、返事は無かった。

1820年・1821年

1820年の作品には進歩と形式の成熟が見られる。小作品の数々に混じって『詩篇23番 (D706)』『聖霊の歌 (D705)』『弦楽四重奏断章ハ短調 (D703)』、ピアノ曲『さすらい人幻想曲 (D760)』などが誕生している。

6月14日に『双子の兄弟 (D647)』が、『魔法の竪琴 (D644)』が8月19日に公演された。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭でのカルテット演奏会から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接することが求められ始めた。相変わらず出版社は冷淡だったが、友人のフォーグルが1821年2月8日にケルントナートーア劇場で『魔王』を歌ってようやくアントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781-1858)がシューベルトの作品の取次販売に同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後この契約が終了し、大手出版社が彼に応じて僅かな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについては、多くの記事が見られる。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより舞台に向けられた。

1821年の年の瀬にかけて、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アルフォンソとエストレラ (D732)』は受け入れられず、『フィエラブラス (D796)』も同じだった。『陰謀者 (D787)』は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠だった)。劇付随音楽『ロザムンデ (D797)』は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アルフォンソとエストレラ』と『フィエラブラス』は、規模の点で公演が困難だった(例えば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜)。しかし『陰謀者』は明るく魅力的な喜劇であり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。

1822年-1825年

1822年カール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてベートーヴェンと知りあう。両者ともに親しい関係にはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による変奏曲(D624)』作品10を同年に出版するに当たり献呈している。しかしウェーバーはウィーンを離れ、新しい友人も現れなかった。この2年は全体として、彼の人生で最も暗い年月だった。

1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲 (D803)』『大交響曲のためのスケッチ』を書き、再びツェレスに戻った。またハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風喜遊曲 (D818)』と『弦楽四重奏曲イ短調 (D804)』を作曲した。

舞台作品や公的な義務で忙しかったが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。『ミサ曲変イ長調 (D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『未完成交響曲 (D759)』も生まれている。ミュラー(1794-1827)の詩による『美しき水車小屋の娘 (D795)』と素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。

1824年までに、前記の作品を除き『《しぼめる花》の主題による変奏曲 (D802)』、2つの弦楽四重奏曲『イ短調 <ロザムンデ>(D804)』『ニ短調<死と乙女> (D810)』が作られている。また『ピアノとアルペジョーネのためのソナタ (D821)』は、扱いにくいため廃れてしまった楽器を奨励する試みだった。

過去数年の苦難は1825年の幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放された。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中に、ウォルター・スコット(1771-1832)原詩の歌曲『ノルマンの歌 (D846)』『囚われし狩人の歌 (D843)』や『ピアノソナタ イ短調 (Op.42, D845)』を作曲、スコットの歌ではこれまでの作曲で最高額の収入を得た。

ウィーンでの晩年

1827年グラーツへ短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。

晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。一つ目は1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。二つ目はオペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけ、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したが拒否され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして三つ目は1828年の春、人生で初めてで生前唯一の、彼自身の作品の演奏会である。

1827年に、シューベルトは『冬の旅 (D911)』『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲 (D934)』2つのピアノ三重奏曲(Op.99 / D898、Op.100 / D929)を書いた。

1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトは葬儀に参列した。その後友人たちと酒場に行き、「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。この時友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという[3][4]。そして、彼の寿命はその翌年で尽きた。

最晩年の1828年、『ミサ曲変ホ長調 (D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ (D962)』、『弦楽五重奏曲 (D956)』、『ミサ曲ハ長調 (D452)』のための2度目の『ベネディクトス (D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958, 959, 960)』、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D957/D965A)を完成させた。この中の6曲はハイネの詩に付けられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集「歌の本」は1827年秋に出版されている。シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(後にブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。しかし何度かのレッスンの後、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトの最後の手紙となった。

その後シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。

遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も二人の当時の墓石が残っている。

死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社はシューベルトを「シューベルティアーデDeutsch版のための作曲家」とみなして、大規模作品を出版することはなかった。

シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が彼の体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めて彼の人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。

死後

19世紀

没後は歌曲の王という位置づけがなされ、歌曲以外の作品は『未完成交響曲』や弦楽四重奏曲『死と乙女』のような重要作を除いて放置に等しい状況だった。

1838年シューマンがウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった時のままの状態で保存していて、シューマンはその机上で『(大)ハ長調の交響曲』が埃に埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持ち帰った。その後メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、ノイエ・ツァイトシュリフト紙で絶賛された。ちなみにこの交響曲の番号は、母国語がドイツ語の学者は第7番、再版のドイツのカタログでは第8番、英語を母国語とする学者は第9番として掲載するなど、未だに統一されていない。

この他の埋もれていた作品の復活に、1867年にウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820-1900)とアーサー・サリヴァン(1842-1900)の2人が大きな功績を挙げた。この2人は7曲の交響曲、ロザムンデの音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。こうして聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出された。

グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものでは無いが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調 (D963A)」のスケッチを指していることは、音楽学者によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、ブライアン・ニューボールドEnglish版によって交響曲第10番として理解されている。シューベルトはリストの言葉でよく要約されている。曰く、「シューベルトはもっとも詩情豊かな音楽家である」

シューベルトの多くの作品に即興性が見られるが、これは彼が筆にインクのしみを付けたことが無いほどの速筆だったことも関係している。

20世紀

ファイル:Schubert-Klimt.jpg
グスタフ・クリムトによって描かれたシューベルト

シューベルトは歌曲以外にも、未公開作品や未出版作品を大量に遺したため、研究は難航した。

ピアノソナタなど、その他の作品が脚光を浴びるようになるのはシューベルト没後百年国際作曲コンクール(優勝者はクット・アッテルベリ)が1927年に開催されるころからであり、同時期にエルンスト・クルシェネクがシューベルトのピアノソナタの補筆完成版を出版した。

シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンより格下に見られていたために録音しようというピアニストは少数だったが、その黎明期に録音を果たした人物にヴァルター・ギーゼキングがいる。没後150年を迎えた1977年ごろになると、シューベルトのピアノソナタは演奏会でかかるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になった(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期までの作品が演奏会に現れる。補筆して演奏するパウル・バドゥラ=スコダ(ピアノソナタ第11番)のようなピアニストも珍しくない。

シューベルト新全集は現在ベーレンライター出版社が全責任を取る形で出版に務めているが、オペラなどの部分は完結していない。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されているが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版している。

現在の浄書技術を以ってしてもデクレッシェンドなのかアクセントなのかの謎(これについては後述)は、完全には解明されていない。そのため、『未完成交響曲』の管楽器についた音は、未だに奏者や指揮者によって解釈が異なり定着していない。

歴史的位置

ロマン派の幕開け

シューベルトは一般的にロマン派の枠に入れられるが、その音楽、人生はウィーン古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあるが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンより時に古典的である。

同様に時期的にも様式的にも古典派にかかる部分が大きいにもかかわらず、初期ロマン派として挙げられることの多い作曲家としてカール・マリア・フォン・ウェーバーがいるが、シューベルトにも自国語詞へのこだわりがあった。ドイツ語オペラの確立者としての功績を評価されるウェーバーと比べると大きな成果は挙げられなかったものの、オペラ分野ではイタリア・オペラの大家サリエリの門下でありながら、未完も含めてドイツ語ジングシュピールに取り組みつづけた。当時のウィーンではドイツ語オペラの需要は低く、ただでさえ知名度の低いシューベルトは上演機会すら得られないことが多かったにもかかわらず、この姿勢は変わらなかった[5]教会音楽は特性上ラテン語詞の曲が多いものの、それでも数曲のドイツ語曲を残し、歌曲に至っては9曲のイタリア語曲に対しドイツ語曲576という比率となっている。

「ドイツの国民的、民族的な詩」に対し「最もふさわしい曲をつけて、本当にロマン的な歌曲を歌いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語を介した民族主義をロマン派幕開けの一要素とする見解もある[6]

他の作曲家との関係

シューベルトは幼い頃からフランツ・ヨーゼフ・ハイドンミヒャエル・ハイドンモーツァルトベートーヴェンの弦楽四重奏を家族で演奏し、コンヴィクトでもそれらの作曲家の交響曲をオーケストラで演奏、指揮していた。

シューベルトは当時ウィーンで最も偉大な音楽家だったベートーヴェンを尊敬していたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していた。シューベルトは主題労作といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風ではなかった。

むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトである。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上無いほど賞賛している。またザルツブルクへの旅行時、聖ペーター教会のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動と共に涙を流したという日記も残されている。

コンヴィクトからの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書き残した回想文は、シューベルトが11歳の時、「ベートーヴェンのあとで、何が出来るだろう」と言ったと伝えている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲を演奏した時にはハイドンの交響曲のアダージョ楽章に深く心が動かされ、モーツァルトの(恐らくk550)ト短調交響曲については、なぜか全身が震えると言い、さらにメヌエットのトリオでは天使が歌っているようだと言った。ベートーヴェンについてはニ長調(第2番)、変ロ長調(第4番)、イ長調(第7番)に対して夢中になっていたが、のちにはハ短調(第5番)の方が一層優れていると言ったと伝えている。

ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『魔弾の射手』上演の際に知り合い、シューベルトの歌劇『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演する協力を約束したが、後の『オイリアンテ』についてシューベルトが、「『魔弾の射手』の方がメロディーがずっと好きだ」と言ったために、その約束は果たされなかった。

シューベルトは後の作曲家に大きな影響を与えた。『大ハ長調交響曲』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲においてメンデルスゾーンブラームスブルックナーヨーゼフ・シュトラウスヴォルフリヒャルト・シュトラウスドヴォルザークなど、シューベルトの音楽を愛し、影響を受けた作曲家は多い。

シューベルティアーデ

彼が私的に行った夜会は、彼の名前にちなんで「シューベルティアーデDeutsch版」と呼ばれた。現在もキャッチフレーズとして使われることがある。彼は協奏曲を作曲することはほとんどなく、その慎ましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格を助長させた。

1828年に出版された最後の作品は、『連弾のための大ロンドイ長調op.107(D951)』だったことから伺えるように、生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。同じ時代に、これと同数の作品を作曲できたライバルはカール・ツェルニーのみである(31歳前後のツェルニーにはオペラ交響曲などの大規模出版作品は見当たらない)。それらに大規模作品は含まれず、極端な場合は委嘱作すら生前の出版はなく(cf.アルペジョーネソナタ)、没後も長期間にわたり出版が継続されている。最後の作品番号はop.173(1867)であり、すでにシューベルト死去から30年以上が経過していた。

31歳でこの膨大な量は無名の作曲家では不可能であり、作曲家としてすでに成功と考えてよい、という理由からシューベルトが本当に貧しかったのか疑問視する声もある[7]。また、シューベルトを描いた肖像画は何点も作成されており、それらは対象を美化している。名士であれば肖像画を実物より綺麗に描くことが当時の画家の責務だったため、こうした待遇は、シューベルトが名士であった証拠と考えることが出来る。シューベルトはグラーツ楽友協会から名誉ディプロマを授与された(cf.未完成交響曲)とき、25歳に過ぎず、この時点で彼は無名ではなかったと考えられる。

また、彼の死に際して、新聞は訃報を出している。

校訂

シューベルト作品の校訂は21世紀に入った現在でも簡単ではない。とくに「ヘアピン」ともよばれる特大のアクセントのような記号をどう解釈するかが問題になっている。小節間をまたぐようにヘアピン[8]がわたっているものもある。

これをデクレッシェンドと解釈すると、「シューベルティアーデ」の慎ましい性格を強調したかのような可憐な音楽が得られ、アクセントと解釈すると、ベートーヴェンにも勝るとも劣らない表出力を与える。

また、シューベルトは鋭いスタッカティシモのような縦線を使う(「未完成」の第二楽章)こともあり、19世紀の出版譜では通常のスタッカートに直されている。これも元に戻す動きが見られるが、この縦線が何を意味するのか結論は得られていない。

前述のとおりシューベルトの交響曲やオペラなどの大規模作品の出版には当時の出版社が難色を示したため、シューベルト本人の意向が文献の形では残っていない。

ピアノ作品には、現代ピアノでは非常に難しいオクターブの連続が『さすらい人幻想曲』ほかで頻繁に現れるが、これは当時の軽いシングルアクションではオクターブグリッサンドが可能だったためである(cf.ベートーヴェン『ワルトシュタインソナタ』)。

彼は古い記譜法を用いていたため、『しぼめる花変奏曲』などでは大量の64分音符がフルートパートに連続して現れる。現在ではメトロノームを使って真っ黒な記譜法を回避することが出来るが、シューベルトにその発想はなかった。

古い記譜法では「一拍単位のAndante」というテンポ表示だけではなく、「一小節単位でAndante」というテンポ表示(cf.『ベートーヴェンの交響曲第9番』の第2楽章Trioの指示)も19世紀初頭まではたびたび行われた。これは、現代のテンポ表記に直すとだいたいModeratoからAllegretto程度である。シューベルトが20世紀に再発見された当時、そのような風習は絶えていたため、「一拍単位のAndante」に多くの作品が曲解された(特にピアノ作品で顕著だった)。現在はピリオド楽器の演奏法も浸透し、演奏全体のレヴェルも上がったため、これらの誤解は直されつつある。

ラテン語のミサ曲では6曲全てで典礼文の一部が欠落しているため、教会で歌うことが出来なかった(少なくともD105とD167は教会で初演記録あり)が、これも理由がわかっていない。典礼文の写しを所持しておりそれに誤脱があったという見解が一般的だが、聖歌隊で数多くのミサ曲を歌ってきたシューベルトが、Credoでのカトリック教会の信仰の本質的な部分の欠如に気づかなかったという説には無理があると思われる。おそらくカトリック教会に対して一線を引くという意味であえて削除したという説を唱える学者もいる[9]

主な作品

D番号

シューベルトの1000近いスケッチ、未完を含む作品群は、オーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュ(Otto Erich Deutsch)により1951年に作られた英語の作品目録"Franz Schubert – Thematic Catalogue of all his works in chronological order"のドイチュ番号によって整理されている。シューベルトの場合、出版に際しての作品番号(op.)を持つものは170程度なので、通常はD番号が使用されている。1978年にヴァルター・デュルDeutsch版アルノルト・ファイルDeutsch版などによってドイツ語の改訂版"Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge"も作られた。

日本語の完全な作品目録はまだ存在せず、かつての日本では作品番号を優先しD番号を後回しにしていたたが、現在はNHK-FMのアナウンサーも、ドイチュ番号をアナウンスするようになっている。

ドイチュ自身は目録の序文において、「D」を自分の名前の略記ではなくシューベルトの作品を示す記号と捉えてほしいと述べている。これに応え、このページでは「D.○○」とピリオドを打たず、「D○○」という表記を用いる。ただしドイツ語圏などではDと数字の間に半角スペースを入れ「D ○○」とするのが一般的である。通常「ドイチュ番号○○」又は「ドイチュ - 番」などと読まれる。オーストリアなどではDeutsch-Verzeichnisという読み方のとおり、「DV ○○」と表記されることもある(オーストリア国営放送 ORFなどで見られる[10])。

交響曲

シューベルトは現在楽譜が残っているものだけで14曲の交響曲の作曲を試みている。そのうち有名な「未完成」も含め6曲が未完成に終わっている。よく演奏されるのは、ロ短調交響曲 D 759、通称「未完成」と、最後の完成された交響曲である大ハ長調交響曲 D 944、通称「ザ・グレート」(「ザ・グレイト」)である。それ以外では第5番 D 485も親しまれている。

シューベルト自身による標題は第4番「悲劇的」 D 417の1曲だけで、他は後世によるものである。第7(8)番ロ短調交響曲「未完成」はその名の通り、完成したのは第2楽章までで、第3楽章が20小節(ピアノ・スケッチも途中まで)で終わっていることからこう呼ばれるようになった。第8(9)番の通称である「ザ・グレート」という名前はイギリスの出版社によって付けられたタイトルだと考えられているが、ドイツ語では《Die große Sinfonie C-Dur》であり、「偉大な」という意味合いはない(同じハ長調である第6番と比較して「大きい方」程度の意味)。

交響曲の番号付け

古い番号付けでは、完成された7曲に順に7番まで番号が振られた。そして「未完成」D759は、4楽章構成の交響曲としては未完だが、2楽章は完成しており、非常に美しい旋律で多くの人に愛好されているため、8番の番号が振られた。

他の未完の交響曲のうち、ホ長調D729は4楽章のピアノスケッチで完成に近く(楽譜に「Fine」と書き添えてあることから、一応は完成したとみなす音楽学者もいる[11])、シューベルトの死後フェリックス・ヴァインガルトナーブライアン・ニューボールドEnglish版らの手によって補筆され、全曲の演奏が可能になっている。このため、1951年のドイチュの目録では作曲年代順に、ホ長調交響曲D729に第7番が割り当てられ、「未完成」D759が第8番、「大ハ長調」D944が第9番とされた。

しかし、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978年のドイチュ目録改訂で見直し、交響曲第7番「未完成」、第8番「大ハ長調」とされた。最近ではこれに従うことが多くなってきているが、1951年のドイチュ目録のまま交響曲第7番ホ長調D729、第8番「未完成」D759、第9番「大ハ長調」D944とされることもまだあり、さらには後述の『グムンデン・ガスタイン交響曲』を第9番、「大ハ長調」を第10番とすることもあるなど、番号付けは混乱している。日本では、NHKがドイチュ目録に合わせて「未完成=第7番」「大ハ長調=第8番」にしている一方で、音楽評論家の金子建志は「長く親しみ慣れた番号を繰り上げるのは、単に混乱を引き起こすだけ」と主張している[12]。そして、「ナンバー抜きで〈未完成〉〈グレイト〉というニックネームで呼べば、一番簡単で、問題が生じない」とこの問題に対する見解を述べている。

交響曲の同定のために調性も古くから使われてきた。すなわち、第5番D485を「変ロ長調交響曲」、「未完成」D759を「ロ短調交響曲」と呼ぶなどである。なお、ハ長調の交響曲は2曲あり、編成などから先に作曲された方(第6番D589)を「小ハ長調(交響曲)」(ドイツ語で「ディー・クライネ(Die kleine)」)、後に作曲された方(D944)を「大ハ長調(交響曲)」と呼ぶ。「ザ・グレート」(独語「ディー・グローセ(Die große)」の英訳)の呼称もここから来ている。

グムンデン・ガスタイン交響曲

シューベルトの手紙に言及があるものの楽譜が見つからず、幻の存在とされてきた『グムンデン・ガスタイン交響曲』(Gmunden-Gasteiner Sinfonie) D849(1825年)は研究により、20世紀中葉ではハ長調D944 「ザ・グレート」を指している可能性がきわめて高いとされていた。もともとD944は1828年の作曲と考えられていたためにこのD番号を持ち、D849とは別であると考えられてきたが、この根拠となっていた楽譜の年号の記述が後世の加筆によると判明し、加筆前は1825年だったものと考えられている。このことが、「ザ・グレート=グムンデン・ガスタイン」という証拠とされてきた。

一時はピアノ・デュオ曲『グラン・デュオD812』がD849の原曲ではないかと言われ、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがその説に基づいてオーケストレーションを施したこともある。

その後、シュトゥットガルトでD849にあたるホ長調の交響曲の筆写譜が発見された[13]とし、ギュンター・ノイホルト指揮のシュトゥットガルト放送交響楽団による演奏の録音が南ドイツ放送でFM放送されている。主題とその展開が「ザ・グレート」交響曲にそっくりで、シューベルトも「ロザムンデ」序曲の前によく似たD590の序曲を書いていることから、スケッチのような意味で作ったという学説がある。この曲は「ザ・グレート」と同じ素材と展開方法が使われ、下書き的役割を果たしたことが濃厚である。

楽器編成は D944 と全く同じであり(フルートオーボエクラリネットファゴットホルントランペット各2、トロンボーン3、ティンパニ1対、弦五部)、第1楽章:Andante molto-Allegro,8分の6拍子-2分の3拍子、ホ長調、446小節、第2楽章:Scherzo un poco agitato,4分の3拍子、嬰ハ短調、117小節、第3楽章:Andante con moto,4分の2拍子、ホ短調、146小節、第4楽章:Finale Presto,8分の6拍子、ホ長調、1066小節、演奏時間約50分で現在シュトゥットガルトのGoldoni出版社からWerner Maser校訂[14]による楽譜が入手できる。録音は上述のものに続いて、Gerhard Samuel指揮シンシナティ・フィルハーモニー管弦楽団による新録音 (Centaur: CRC2139)[15]も発売された。グムンデン・ガスタイン交響曲がシューベルトの真作と認められれば、未完成は7番、グムンデン・ガスタインは8番、ザ・グレートが9番ということになる。

最後の交響曲

『ニ長調D936A』にはペーター・ギュルケDeutsch版補筆作曲版、ブライアン・ニューボールド補筆作曲版などがある。異色なのはイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオの手による補筆作曲版の「レンダリング」である。「レンダリング」ではスケッチの部分はスケッチのままで、それ以外の判然としないスケッチとスケッチの間の部分は現代音楽の手法でつなぎ合わせている。

最後の交響曲は自筆譜のままでは完成しておらず、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)は番号を附していないが、10番などとされる場合もある。

交響曲の一覧

番号 調 D 作曲年代 付記
現〔国際シューベルト協会版〕 20



      ニ長調 2B 1811年頃 未完 (英語版記事
1 1 1 ニ長調 82 1813年  
2 2 2 変ロ長調 125 1814年-1815年
3 3 3 ニ長調 200 1815年  
4 4 4 ハ短調 417 1816年 「悲劇的」:唯一、シューベルト自身による副題
5 5 5 変ロ長調 485 1816年
6 6 6 ハ長調 589 1817年-1818年 「小ハ長調」
      ニ長調 615 1818年 未完 (英語版記事ペーター・ギュルケDeutsch版
      ニ長調 708A 1820年頃 未完 (英語版記事・ギュルケ版
    7 ホ長調 729 1821年 未完、スケッチのみ (英語版記事。ヴァインガルトナー補筆作曲版はウニヴェルザール出版社から出版、他にブライアン・ニューボールド補筆版がある。
7 8 8 ロ短調 759 1822年 「未完成」。第1・2楽章のみ完成、第3楽章は冒頭のみオーケストレーション、続くトリオの最初の反復までのスケッチが残存。
      ホ長調 849 1825年 「グムンデン・ガスタイン交響曲」(グムンデン・ガスタイン交響曲の記述を参照)
8 7 9 ハ長調 944 1825年-1826年 「ザ・グレート」、大ハ長調
    10 ニ長調 936A 1828年頃 未完 (英語版記事。補筆版にペーター・ギュルケ版、ブライアン・ニューボールド版、バルトロメー版。ベリオ補筆版「レンダリング」はシューベルトの様式で作られていない。

室内楽曲

ピアノ曲

歌曲

いくつかの歌曲には、後世の作曲家による管弦楽伴奏版やピアノ独奏への編曲版も存在する。ピアノ独奏用編曲についてはフランツ・リストレオポルド・ゴドフスキーによるものが知られている。

シューベルトの歌曲の主な管弦楽編曲版

  • ベルリオーズ:「魔王」
  • リスト:「糸をつむぐグレートヒェン」D118、「ミニョンの歌」、「魔王」、「若い尼僧」D828、「別れ」D957-7(紛失)、「ドッペルゲンガー」D957-13(紛失)
  • ブラームス:「馭者クロノスに」D369、「メムノン」D541、「ひめごと」D719、「エレンの歌第2」D838
  • レーガー:「糸をつむぐグレートヒェン」、「魔王」、「音楽に寄せて」D547、「タルタルスの群れ」D583、「プロメテウス」D674、「夕映えの中で」D799、「夜と夢」D827
  • ヴェーベルン:「君こそは憩い」D776、「涙の雨」D795-10、「道しるべ」D911-20、「彼女の肖像」D957-9、他1曲
  • オッフェンバック:「セレナード」
  • フェリックス・モットル:「セレナード」, 「死と乙女」
  • ブリテン:「ます」
  • ツェンダー:「冬の旅」

歌劇

多くの分野に代表作を残したシューベルトとしては最も評価が低い領域で、上演機会は少ない。

劇付随音楽

教会音楽

  • ミサ曲第1番 ヘ長調 D105
  • ミサ曲第2番 ト長調 D167
  • ミサ曲第3番 変ロ長調 D324
  • ミサ曲第4番 ハ長調 D452 Op.48
  • ミサ曲第5番 変イ長調 D678
  • ミサ曲第6番 変ホ長調 D950
  • ドイツ・ミサ曲 ヘ長調 D872
  • スターバート・マーテル D383 (1816)

シューベルトと詩人

シューベルトは詩の芸術性に無頓着で、時おり凡庸な詩に作曲してしまう事もあったと言われている。確かに彼の歌曲にはゲーテシラーといった大詩人以外に、現在その中にしか名を留めていない詩人の手によるものが多く存在している。ただしこれは「シューベルティアーデ」で友人たちの詩に作曲したものを演奏するという習慣があったことも影響している。

シューベルトが作曲した詩人は多い順にゲーテ、マイアホーファー、ミュラー、シラー、そして重要な詩人としてマティソン、ヘルティ、コーゼガルテン、クラウディウス、クロップシュトック、ザイドル、リュッケルト、ハイネなどがいる。自分より前の世代に評価が定着していた詩人から、新しい時代の感性を持った詩人まで幅広い。

脚注

  1. シューベルトドイツ語発音: [ʃúːbərt])」は舞台ドイツ語の発音を基にした読み方・表記だが、現代ドイツ語の発音では「シューバートドイツ語発音: [ʃúːbɐt])」または「シューベァトドイツ語発音: [ʃúːbəɐt])」がより近い。
  2. シューベルトの友人であるヒュッテンブレンナーのもとで自筆譜を保管中、ヒュッテンブレンナーが留守中に同居人が全3幕中、2・3幕の楽譜を、焚き付けにしたため失われた。
  3. 前田昭雄「シューベルト (新潮文庫―カラー版作曲家の生涯)」新潮社 (1993年) ISBN 4101272115
  4. 山本藤枝「カラー版・子どもの伝記 シューベルト」ポプラ社 (1973年)
  5. 井形ちずる『シューベルトのオペラ』水曜社2004年
  6. 門馬直美『西洋音楽史概説』春秋社、1976年。
  7. 音楽之友社 新訂標準音楽辞典 第二版のシューベルトの項
  8. 外部リンク
  9. 最新名曲解説全集-第22巻-声楽曲-2-のシューベルトの項
  10. Guten Morgen Österreich
  11. 金子建志『交響曲の名曲 1 こだわり派のための名曲徹底分析』音楽之友社、1997年、25ページ。
  12. 金子建志『交響曲の名曲 1 こだわり派のための名曲徹底分析』音楽之友社、1997年、133ページ。
  13. Schubert's Symphonies - A New Symphony & A Review - Dave Lampson
  14. full score SCHUBERT d.849 E major symphony GOLDONI ISBN 3 922044 05 0 GOLDONI , November 1982 . hardback in linenboards , 23x28cm; full score in facsimile of the purported d.849 GASTEIN symphony; Includes full critical analysis (in german) by Gunter Elsholz & Reimut Vogel 39 + 277pages
  15. prestoclassical.co

国際音楽コンクール

現在シューベルトの名が附されたコンクールは二つある。ひとつは長い伝統を持つドルトムントで行われる「シューベルト国際コンクールドルトムント」で、現在はリートデュオ部門とピアノソロ部門が交互に行われる。もうひとつはグラーツで行われる「フランツ・シューベルトと現代音楽のための国際室内楽コンクール」で、作曲部門と室内楽部門が併設されている。どちらもシューベルト作品のみでは競わないが、関連した楽曲や編成が焦点になっている。

関連項目

  • Category:シューベルトの楽曲
  • 映画『未完成交響楽』(1933年) - シューベルトを扱った伝記映画(内容はフィクション)。「わが恋の終わらざる如く、この曲もまた終わらざるべし」の台詞が有名。
  • ジャン・カスーfrançais版English版 - フランスの文学者(1897-1986)。シューベルトを主人公にした長編小説『ウィーンの調べ』Les Harmonies viennoises(1926年)を書いた。

外部リンク