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'''デリー連邦直轄地'''(デリーれんぽうちょっかつち、{{lang-hi|दिल्ली}} {{IPA-hi|d̪ɪlliː|}}、{{lang-en|'''Delhi'''}} {{IPA-en|ˈdɛli|}})は、[[インド]]の[[首都]]特別地域である。面積1,483km<sup>2</sup>、[[人口]]は1,679万人で、インド北部の[[都市圏|大都市圏]]を形成しており、同国の[[商業]]・[[工業]]・[[政治]]の中心地にして[[南アジア]]を代表する[[世界都市]]の一つ。
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'''デリー連邦直轄地'''(デリーれんぽうちょっかつち、{{lang-hi|दिल्ली}} {{IPA-hi|d̪ɪlliː|}}、{{lang-en|'''Delhi'''}} {{IPA-en|ˈdɛli|}})
 
 
== 都市の概説 ==
 
'''[[デリー首都圏]]'''を構成し、'''[[ニューデリー]]'''と'''オールドデリー'''に分けられる。ニューデリーの中にはニューデリー行政区があり、ここに連邦の[[首都]]機能がある。古くは現在のオールドデリーだけの町であったが、[[イギリス]][[統治]]下の新しい[[首府]]としてニューデリーが建設された。イギリスの設計と建設による新都市部分をニューデリーと呼び、古くからある町をオールドデリーと呼んでいる。[[2016年]]の近郊を含む[[都市圏人口]]は2,573万人であり、世界第3位の巨大な[[メガシティ|大都市圏]]を形成している<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新)] Demographia 2016年10月29日閲覧。</ref>。プライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、デリーの2008年の[[域内総生産順リスト|都市GDP]]は1670億ドルであり、世界第37位である。
 
 
 
デリー首都圏の行政機構改革により[[2002年]]以降に発行された『[[世界の国一覧表]]』(編集発行・世界の動き社、編集協力・[[外務省]])においてはインドの首都が「ニューデリー」から「'''デリー'''」に修正され、この変更が[[文部科学省]]の[[学習指導要領]]にも反映されているため[[日本]]の教育現場ではインドの首都は「デリー」と指導されるようになった<ref>[http://www.ninomiyashoten.co.jp/chiri_q_and_a/q013.html インドの首都は「ニューデリー」か「デリー」か?]([[二宮書店]], 2016-07-03閲覧。</ref><ref>[http://www.hcpc.co.jp/faq/faq004.html インドの首都はニューデリー? デリー?]([[平凡社地図出版]]), 2016-07-03閲覧。</ref>。ただし日本の外務省のサイト<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/data.html インド(India) 基礎データ](外務省), 2016-06-12閲覧。</ref>、インド政府の公式サイト<ref>[http://www.archive.india.gov.in/overseas/travel_advisories.php Travel Advisory](india.gov.in)2012-08-24更新, 2016-07-03閲覧。</ref>、[[国際連合|国連]]の地名標準記法一覧表では<ref>[http://www.un.org/Depts/Cartographic/english/geoinfo/geoname.pdf Geographic Names](国際連合), 2016-07-03閲覧</ref>、[http://www.inpancardstatus.com 首都は「ニューデリー」と表記されている]。
 
 
 
デリー連邦直轄地とニューデリーの関係は、日本で言えば[[東京都]]とその1区域である[[千代田区]]のような関係に当たるが、ニューデリーの行政は[[#行政|後述]]のように都市圏の大部分を管轄するデリー市行政自治体(MCD)でなくインド政府の直轄組織として置かれているニューデリー市行政委員会(NDMC)の管轄下にあり、大都市の内部で独立した行政組織を持つ点は[[グレーター・ロンドン]]と[[シティ・オブ・ロンドン]]に近い構造とも言える。[http://www.aadharcardstatusin.com aadhar card status] [http://www.checkccnumber.in airtel customer care number] [http://www.checkccnumber.in/mtnl-customer-care-number.html mtnl customer care number] [http://www.checkccnumber.in/bsnl-customer-care-number.html bsnl customer care number]  [http://www.checkccnumber.in/reliance-jio-customer-care-number.html Reliance Jio Customer Care Number] [http://www.checkccnumber.in/airtel-digital-tv-customer-care-number.html airtel dth customer care number]  [https://customerservicenumber.online/mobikwik-customer-care-number/ Mobikwik Customer Care Number]
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 建設からデリー・スルターン朝 ===
 
[[ファイル:Qminar.jpg|thumb|left|150px|[[クトゥブ・ミナール]]]]
 
デリーは12世紀以降各王朝の首都がおかれてきたが、その位置は王朝によって異なる。おおまかに東をヤムナー川、西を岩石の丘陵地、南を点在する丘陵に囲まれた三角形の地域(デリー三角地)に、各王朝がそれぞれ新王都を建設したからである。現在のオールド・デリーはムガル帝国中期に建設された市街地である。
 
 
 
[[チャウハーン朝]]のプリトヴィーラージ3世によってこの地に最初に都市がつくられたのは[[12世紀]]である。当時のデリーはデリー三角地の南西端にあたるラール・コートであった。デリーはプリトヴィーラージ3世の時代に繁栄を迎えるも、[[1192年]]には[[ゴール朝]]の将軍であった[[クトゥブッディーン・アイバク]]の率いる[[イスラム教徒]]に征服され、プリトヴィーラージは死亡して、以後デリーは800年以上にわたるイスラーム支配のもとにおかれることとなった。アイバクは征服したデリーを北インドにおける拠点と位置づけ、ラール・コートの跡に[[クトゥブ・ミナール]]の建設をおこなうなど市内の整備を行った。
 
 
 
[[1206年]]にゴール朝の君主である[[シハーブッディーン・ムハンマド]]が死去し、後継者争いによってゴール朝が解体に向かうとアイバクは[[奴隷王朝]]を建国して独立し、以後[[1290年]]までの奴隷王朝、[[ハルジー朝]](1290年 - [[1320年]])、[[トゥグルク朝]](1320年-[[1414年]])、[[サイイド朝]](1414年 - [[1451年]])、[[ローディー朝]] (1451年 - [[1526年]])と、1526年までの間デリーに首都を置いた5つの王朝が相次いで興亡を繰り返した。この5王朝は、総称して[[デリー・スルターン朝]]と呼ばれる。この時代、[[1398年]]には[[ティムール帝国]]の[[ティムール]]によって征服、破壊されるなどしたものの、デリーには常に首都がおかれ、北インドの要衝として発展した。また、これらの王朝はすべてイスラーム王朝であり、のちのムガル帝国期も含めて、デリーはインドにおけるムスリム文化の中心地として重きをなした。
 
 
 
奴隷王朝期には首都はラール・コートにおかれていたものの、ハルジー朝の[[アラー・ウッディーン・ハルジー]]は1303年にラール・コートの北東にあたる[[シーリー]]に新たに城塞都市を建設し、ここを根拠地とした。しかしハルジー朝は間もなく滅亡し、これを継いだトゥグルク朝の[[ギヤースッディーン・トゥグルク]]は[[1321年]]、ラール・コートの東、シーリーの南東にトゥグルカーバードという新城塞都市を建設してここを根拠地とした。その息子の[[ムハンマド・ビン・トゥグルク]]は[[1327年]]にラール・コートとシーリーをつなぐ大城塞都市の建設を企図し、ここをジャハーン・パナーと名づけたものの、経済の混乱によって計画は未完に終わった。ムハンマドの跡を継いだ[[フィールーズ・シャー・トゥグルク]]は、それまで城塞都市がデリー三角地の南端に集中していたのに対し、三角地の北端に近い現在のオールドデリーからニューデリー付近に[[1354年]]に新城塞都市を築き、これをフィールーザーバードと称した。このように各地に点々と建設された各城塞都市が存在し、その間に農村や荒野、その他さまざまな建造物が点在するというのがデリー・スルターン朝時代のデリーの様相であった<ref>「多重都市デリー」pp162-163 荒松雄著 中公新書 1993年11月25日発行</ref>。
 
 
 
=== ムガル帝国期 ===
 
[[1526年]]、[[ムガル帝国]]を創設した[[バーブル]]はデリー南方にある[[アーグラ]]を首都とさだめたが、その息子[[フマーユーン]]はデリーに新しく都市を建設し、首都とした。[[1540年]]にフマーユーンを追って一時[[スール朝]]を開いた[[シェール・シャー]]もデリーに首都を置き、シェール・シャーの息子を倒してふたたびデリーを奪回したフマーユーンもまたデリーを都とし、[[プラーナー・キラー]]に本拠を置いた。しかし、フマーユーンの息子[[アクバル]]は、再び首都を[[アーグラ]]へと移し、デリーは荒廃の一途をたどった。
 
 
 
[[1648年]]にデリーは再度[[ムガル帝国]]の首都となると、アクバルの孫[[シャー・ジャハーン]]によって再建され、現在のデリーの基礎がきずかれた。現在オールド・デリーと呼ばれているデリー旧市街は、シャー・ジャハーンが築いたものであり、建設当時は「シャージャハーナーバード」(シャー・ジャハーンの町)と呼ばれていた。これ以後もムガルの首都はアーグラとデリーの間を行き来するが、[[1707年]]の6代皇帝[[アウラングゼーブ]]の死後、ムガル帝国の首都はデリーに固定された。これはムガル帝国の勢力が急速に縮小し、デリー近郊以外の支配を維持できなくなったことによる。
 
 
 
衰退したムガル帝国にデリーを守る力はなくなっており、以後デリーは幾度となく戦禍に見舞われることとなった。[[1737年]]には[[マラーター王国]]に攻撃され、[[1739年]]には[[ペルシャ]]の[[ナーディル・シャー]]が有名な[[孔雀の玉座]]などの財宝を略奪し、破壊されてしまった。[[1771年]]、マラーター王国の諸侯[[シンディア家]]の勢力下に入り、[[1803年]]には[[第二次マラーター戦争]]の結果[[イギリス]]が支配権を獲得する。
 
 
 
[[1857年]]、[[インド大反乱]]によって一時的に占拠され、名目的な存在ではあるがこの町にて在位していた皇帝[[バハードゥル・シャー2世]]も反乱側に加担したが、同年に奪回された。バハードゥル・シャー2世がデリーから[[ミャンマー]]に配流されることでムガル帝国は完全に滅亡し、その首都としての歴史を終えた。
 
 
 
=== インドの首都へ ===
 
ムガル帝国滅亡によってデリーは一地方都市となり、[[パンジャーブ州]]に所属することとなった。さらにインドにおけるムスリム文化の中心としての役割もなくなって一時衰退が進んだ。
 
 
 
しかし、[[1867年]]にはじめてデリーに鉄道が開通したのを皮切りに、19世紀末には当時イギリスがインド全土に張り巡らせていた鉄道網の北インドにおける結節点となり、徐々に繁栄を取り戻していった。やがて当時の英領インドの首都だった[[コルカタ]]が東に寄りすぎているうえに、[[ベンガル分割令]]から政治的に急進化する傾向が生まれたために首都の移転が計画され、ムガル帝国の旧都であったデリーに白羽の矢が立てられ、[[1911年]]には正式に首都が移されることが決定された。同年パンジャーブ州からデリーは切り離されて独立州となり、[[1915年]]と[[1925年]]、[[1926年]]に近隣諸県から数か村を編入して領域を拡大した<ref>「多重都市デリー」pp230-231 荒松雄著 中公新書 1993年11月25日発行</ref>。[[1912年]]から[[1931年]]には[[イギリス領インド帝国]]の暫定的な首都だったが、[[1931年]]に[[ニューデリー]]が正式に首都に制定された。
 
 
 
[[1947年]]の[[インド・パキスタン分離独立|インド独立]]時にも引き続いてデリーが首都とされたが、分離独立時の大混乱によって[[パキスタン]]領となった[[パンジャーブ州]]西部からヒンドゥー教徒や[[シク教]]徒の難民が大量に流入し、また独立の約半年後、[[1948年]][[1月30日]]にニューデリー南部の[[ビルラー財閥]]のデリー邸において滞在中だった[[マハトマ・ガンディー]]がヒンドゥー極右青年によって暗殺されるなどの混乱もあった。
 
 
 
しかし独立以来、産業が急速に発達するとともに人口も急増し、[[2000年代]]に入るとデリーの人口はコルカタを抜いて、[[ムンバイ]]に次ぐインド第2の人口を持つ大都市となった。
 
 
 
== 地理 ==
 
[[ファイル:Delhi metropolitan region, satellite image, Landsat-5, 2011-03-12.jpg|thumb|right|200px|デリーの衛星写真]]
 
[[ガンジス川]]の支流、[[ジャムナー川]]の右岸にある都市。東をジャムナ川、西を岩石の丘陵、南を点在する丘陵に囲まれ、東の[[ヒンドスタン平原]]と西の[[パンジャーブ]]平原の2大穀倉地帯の中間に位置し、さらにガンジス川流域ながら[[インダス川]]との分水界にほど近い場所にあって、古くから交通の要衝となっていた。
 
 
 
=== ニューデリー ===
 
オールドデリーの南にあり、[[議事堂]]、[[官庁]]などが集まっている。インドの[[政治]]・[[経済]]・[[文化]]の中心。人口30万人。
 
 
 
[[1911年]]にイギリスの手で建設が始まった地域。これにより、首都機能はここに移った。設計は[[エドウィン・ラッチェンス]]によって行われ、円形の[[コンノートプレイス]]を旧市街も含めた町の中心に、新市街の業務中心の北端に位置するように置き、そこから南に二本の道を正三角形を描くように道を伸ばし、三角の東端である[[インド門]]と西端である政府合同庁舎および大統領官邸、およびそれをつなぐ広い道であるラージパト通りの描く三角形が街の主要部分となっている。ラージパト通り沿いには[[国立博物館 (ニューデリー)|国立博物館]]がある。コンノートプレイスの北には[[ニューデリー駅]]があり、長距離列車が発着しデリーのターミナル駅となっている。ニューデリー駅前には[[パハールガンジ]]という安宿街が広がり、多くのバックパッカーが訪れる。ニューデリー東部には[[ラクシュミーナーラーヤン寺院]]がある。また、ニューデリー南西のチャーナキャプリー地区は[[大使館]]街となっており、日本大使館をはじめ[[アメリカ]]、[[イギリス]]、[[ドイツ]]、[[中国]]、[[フランス]]、[[パキスタン]]など各国の大使館が軒を連ねる。
 
 
 
なお、ニューデリーはかつても何もない荒野だったわけではなく、ムガル帝国初期には帝国の中枢がおかれていたこともある。インド門から東に少しいったところにあるプラーナ・キラー(オールド・フォート)は、第2代皇帝である[[フマーユーン]]が改修し自らの居城としたところである。プラーナ・キラーから南にいくと[[フマーユーン廟]]があり、その向かいにはイスラームの聖者である[[ニザームッディーン・アウリヤー]]を祀ったインド有数の聖者廟である[[ニザームッディーン廟]]がある。また、コンノートプレイスの少し南にある[[ジャンタル・マンタル]]は、[[アンベール王国]]の君主である[[ジャイ・シング2世]]が[[天文台]]として[[1724年]]に建設したものである。
 
 
 
=== オールドデリー ===
 
[[ファイル:Jama Masjid.jpg|thumb|right|200px|[[ジャーマー・マスジド]]]]
 
ニューデリー建設時における本来のデリーであり、ムガル帝国の後期の首都だった地域である。オールドデリー中央部にあるインド最大の[[モスク]]である[[ジャーマー・マスジド]]など、歴史的建造物が多い。現在のデリー市中心域の北端にあたる。現在の行政域ではセントラル区の東部に当たる。東にジャムナー川が流れる。
 
 
 
北東端にあるデリー城は[[レッド・フォート]]とも呼ばれ、第5代皇帝[[シャー・ジャハーン]]が建設し自らの居城とした城である。レッド・フォートからまっすぐ西へと延びる大通りは[[チャーンドニー・チョウク]]と呼ばれ、オールド・デリーの目抜き通りとなっている。オールドデリーの北側には[[デリー駅]]があり、[[ラージャスターン州]]方面への列車が発着している。オールドデリー南東端、ジャムナー川の近くにはガンディーの記念碑であるラージ・ガートがあり、参拝客が多い。その斜め向かいにはガンディー記念博物館がある。
 
 
 
=== 南部 ===
 
ニューデリーのさらに南の地区は12世紀に建設された最も古いデリーであり、ラール・コート、シーリー、トゥグルカーバードといった古代の城塞都市の遺跡が点在する。ラール・コート内には、[[クトゥブ・ミナール]]や[[デリーの鉄柱]]といった文化遺産が残っている。また、特徴的な外観からロータース寺院と呼ばれる[[バハーイー教]]の寺院もこの地域にある。
 
 
 
また、近年では大規模なショッピングセンターの建設が相次ぎ、コンノートプレイスに代わって商業集積ができつつある。フィーローズ・シャー・トゥグルクによって建設された人工貯水池であるハウズ・カース遺跡があり、その隣にあるハウズ・カース・ヴィレッジは1980年代以降開発が進み、画廊やブティックなどが並ぶスポットとなっている<ref>「週刊朝日百科 世界100都市 ここに行きたい 第46号 デリーとアーグラー」p9 2002年10月27日発行</ref>。
 
 
 
=== 北部 ===
 
オールド・デリーの北にあたるシヴィル・ラインズ地区は、デリー遷都後ニューデリー完成までの間に過渡的に首都機能を持った。現在ではデリー大学の事務局や北キャンパスなどがある。
 
 
 
=== ジャムナー川東岸 ===
 
かつてデリーの東境はジャムナー川であったが、デリーの拡大とともに東岸にも市街地が拡大し、現在ではデリー北東区とデリー東区の二つの区が設置されてデリー市域の一部となっている。2005年にはここに世界最大のヒンドゥー寺院である[[アークシャルダーム寺院 (デリー)|アークシャルダーム寺院]]が建設された。
 
 
 
== 気候 ==
 
[[ケッペンの気候区分]]によると、[[温帯夏雨気候]] (Cwa) に属する。3月上旬には、風の方向が北西から南西に変わる。3月から5月までは非常に暑い<ref name=climate>{{cite web|title=Climate of Delhi|url=http://delhitrip.in/about-delhi/climate-of-delhi|publisher=http://delhitrip.in|accessdate=2012-05-17}}</ref>が、この時期は降雨はほとんどなく、暑季と呼ばれてのちの[[雨季]]とは区別される。6月下旬になると[[モンスーン]]が到着し、湿度が非常に高くなる<ref name=climate />。これから10月初頭までは雨季となり、デリーの年間降雨のかなりの部分がこの時期に集中する。11月初旬から2月にかけては[[乾季]]であり、穏やかな[[冬]]となる。冬といっても日中の平均最高気温は20度を超えており、他国からの観光客にとっては最もすごしやすいベストシーズンとされる。'''この時期、特に1月をピークに濃霧が発生しデリーを覆う'''<ref name="Fog">{{cite news |publisher=The Hindu|url=http://www.hindu.com/2005/01/07/stories/2005010719480300.htm |title=Fog continues to disrupt flights, trains|date=2005-01-07|location=Chennai, India}}</ref>。
 
 
 
デリーの年平均気温は25 ℃である。毎月の平均気温範囲は13℃から32℃の間である。デリーの最高気温記録は1931年7月に観測された45℃である<ref>{{cite news| url= http://www.indianexpress.com/news/mercury-touches-new-high-for-july-met-predicts-rain-relief/969708/| title=Mercury touches new high for July, Met predicts rain relief | date=2012-07-03}}</ref><ref name=weatherbase>
 
{{cite web|publisher=Canty and Associates LLC | url=http://www.weatherbase.com/weather/weather.php3?s=28124&refer=&units=metric|title=Weatherbase entry for Delhi|accessdate=2007-01-16
 
}}</ref>。デリーの年間平均降雨量は約714mmであり、ほとんどが7月と8月のモンスーン時期に降る<ref>http://delhiplanning.nic.in/Economic%20Survey/ES%202005-06/Chpt/1.pdf Chapter 1: Introduction" (PDF). Economic Survey of Delhi, 2005–2006. Planning Department, Government of National Capital Territory of Delhi. pp. 1–7. Retrieved 21 December 2011</ref>。デリーにモンスーンがやってくるのは平均では6月29日である<ref name=hindumonsoon>{{cite news |first= Vinson |last= Kurian |title= Monsoon reaches Delhi two days ahead of schedule |url=http://www.thehindubusinessline.com/2005/06/28/stories/2005062800830200.htm|publisher=The Hindu Business Line |date=2005-06-28 |accessdate=2007-01-09 }}</ref>。
 
 
 
{{Delhi weatherbox}}
 
 
 
== 行政 ==
 
[[File:Delhi districts.svg|thumb|デリー9区の地図]]
 
2007年の再編以来、[[インドの地方行政区画|連邦直轄領]]である[[デリー首都圏]] (National Capital Territory of Delhi) は9つの区 (district)、27の地区 (tehsil)、59の町 (census town)、300の村 (villages) から成る<ref>{{cite book|url=http://books.google.com/?id=tPMEAAAAMAAJ&dq=aheer+villages&q=jat |title=Urbanization and social change: a ...&nbsp;– Google Books |publisher=Books.google.com |date=2006-08-14 |accessdate=2011-03-11}}</ref>。これらは3つの法令指定行政自治体 (statutory towns) に属する。その3つとはデリー市行政自治体 (Municipal Corporation of Delhi, MCD)、ニューデリー市行政委員会 (New Delhi Municipal Committee, NDMC)、デリー宿営地委員会 (Delhi Cantonment Board, DCB) である<ref name="ecosurv0102chap3">{{cite web |url=http://delhiplanning.nic.in/Economic%20Survey/Ecosur2001-02/PDF/chap3(table).PDF |title=Table 3.1: Delhi Last 10 Years (1991–2001)&nbsp;— Administrative Set Up |accessdate=2007-07-03 |format=PDF |work=Economic Survey of India}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.ndmc.gov.in/AboutNDMC/NNDMCAct.aspx |title=Introduction |accessdate=2007-07-03 |work=THE NEW DELHI MUNICIPAL COUNCIL ACT, 1994 |publisher=New Delhi Municipal Council |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080302220220/http://www.ndmc.gov.in/AboutNDMC/NNDMCAct.aspx |archivedate=2008年3月2日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>[[2012年]][[7月16日]]、デリー政府は区の数を9から11へと増加させることを決定した<ref>{{cite news| url=  http://www.indianexpress.com/news/from-9-to-11-districts-for-better-governance-in-city/975456/| title= From 9 to 11 districts for better governance in city| date= 2012-07-17}}</ref>
 
 
 
 
デリー首都圏の中で最大の面積を管轄するのがデリー市行政自治体 (MCD)。インドの首都機能はニューデリー市行政委員会 (NDMC) の管轄区に入り、NDMCの長 (chairperson) はデリー知事 (Chief Minister of Delhi) との相談の上インド政府により任命される。
 
 
 
デリーの郊外には主に4つの[[衛星都市]]があり、それらはデリー首都圏の外側に広がる。[[ハリヤーナー州]]の[[グルガーオン]] (Gurgaon)、[[ファリーダーバード]] (Faridabad)、[[ウッタル・プラデーシュ州]]の[[ノイーダ]] (Noida)、[[ガーズィヤーバード]] (Ghaziabad)、の4都市である。
 
 
 
== 経済 ==
 
 
 
== 住民 ==
 
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|title=デリーの宗教<ref name="census2001">{{cite web
 
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| title = Census of India&nbsp;– Socio-cultural aspects
 
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{{bar percent|[[ヒンドゥー教]]|#FF6600|82}}
 
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{{bar percent|[[シク教]]|#FFFF00|4}}
 
{{bar percent|[[ジャイナ教]]|#9955BB|1.1}}
 
{{bar percent|その他|#808080|1.2}}
 
<small>その他には[[キリスト教]](0.9%)や[[バハーイー教]](0.1%)を含む</small>}}
 
 
 
[[2011年]]のインドのセンサスによれば、デリーの人口は16,753,235人である。人口密度は1km{{sup|2}}あたり11,297人で、男女比は男性1000人に対し女性866人、識字率は86.34%である。2004年には、出生率は20.03、死亡率は5.59、乳児死亡率は13.08であった<ref name=ecosurv3>{{cite web|url=http://delhiplanning.nic.in/Economic%20Survey/ES%202005-06/Chpt/3.pdf|title=Chapter 3: Demographic Profile|accessdate=2006-12-21|format=PDF|work=Economic Survey of Delhi, 2005–2006|publisher=Planning Department, Government of National Capital Territory of Delhi|pages=17-31}}</ref>。デリーは世界で最も急速に人口の増加している都市の一つであり、[[2015年]]までに[[東京]]と[[ムンバイ]]に次いで世界で3番目に大きな大都市圏となる見込みである<ref name=unpopulation>{{cite web |publisher=United Nations| url=http://www.un.org/esa/population/publications/wup2003/2003WUPHighlights.pdf | title=World Urbanization Prospects The 2003 Revision | pages= p7 | format= [PDF|accessdate=2006-04-29}}</ref>。
 
 
 
デリーで最も信者の多い宗教は[[ヒンドゥー教]]であり、デリー人口の82%を占める。次いで多いのが[[イスラーム教]]の11.7%であり、次いで[[シク教]](4%)、[[ジャイナ教]](1.1%)、[[キリスト教]](0.94%)、[[バハーイー教]](0.1%)と続く<ref>[http://censusindia.gov.in/Census_Data_2001/Census_data_finder/C_Series/Population_by_religious_communities.htm Census 2001]</ref><ref>{{cite web|url=http://www.censusindia.gov.in/ |title=Indian Census |publisher=Censusindia.gov.in |accessdate=2009-09-07}}</ref>。このほか、[[仏教]]や[[ユダヤ教]]、[[ゾロアスター教]]の小規模なコミュニティも存在する<ref name=Lonelyplanet>{{cite web|publisher= Census of India 2001|url= http://www.censusindia.net/religiondata/|archiveurl= https://web.archive.org/web/20070812011525/http://www.censusindia.net/religiondata/index.html|archivedate= 2007年8月12日|title= Data on Religion|page= 1|accessdate= 2006-05-16|deadurldate= 2017年9月}}</ref>。デリーで最も主な言語は[[ヒンドゥスターニー語]]であり<ref>{{cite web|title=Hindi|url=http://www.omniglot.com/writing/hindi.htm|publisher=Omniglot|accessdate=2012-06-14}}</ref>、なかでも[[ヒンディー語]]のデヴァーナガリ文字が最も多く筆記に使用される<ref name=nnnnnfgh>{{cite web|title=North East Delhi|url=http://pages.rediff.com/north-east-delhi/1269812|publisher=Rediff|accessdate=2012-06-14}}</ref>。このほか、[[ウルドゥー語]]や[[パンジャービー語]]の話者も多く、この2言語はデリーで2番目に話者の多い言語となっている<ref>{{cite news| url=http://www.hindu.com/2003/06/26/stories/2003062607100400.htm | work=The Hindu | title=Punjabi, Urdu get second language status | date=2003-06-26}}</ref>。かつてはデリーはインドのムスリム支配の中心地であり、上層のムスリムが使用していたウルドゥー語が強い力を持っていたが、インドとパキスタンの分離独立時に上層ムスリムのかなりが流出し、さらにシクおよびヒンドゥーとイスラムの間で州が分裂してしまったパンジャーブで、イスラーム側となった州西部から逃れてきたヒンドゥーおよびシク教徒の[[パンジャーブ人]]が大量に流入したため、パンジャービー語やシク教徒の割合が増加する一方でウルドゥー語の影響力は弱まった。[[1931年]]にはデリー住民のうちヒンドゥー教徒が63%、ムスリムが33%、シク教徒が1%を占めるのみだったのが、[[1981年]]にはヒンドゥーが84%、ムスリムが8%、シク教徒が6%となっていた<ref>「多重都市デリー」pp242-243 荒松雄著 中公新書 1993年11月25日発行</ref>。
 
 
 
== 交通 ==
 
[[ファイル:DelhiMetro.jpg|thumb|220px|オールドデリーのメトロ]]
 
デリーの交通網は[[バス (交通機関)|バス]]や[[デリー・メトロ]]、[[三輪タクシー]]を中心に形成されている。とくにバスはデリーの交通手段として最も主要な乗り物であり、全体の約60%の需要を占める。
 
 
 
地下鉄のデリーメトロも大量輸送網として広く利用され、[[2002年]]に第1次路線として[[レッドライン (デリー・メトロ)|レッドライン]]の一部区間が開業後、順調に路線を伸ばし、[[2011年]]に、レッド、イエロー、ブルー、グリーン、バイオレット、エアポートエクスプレス線の6路線190kmが全通した<ref>http://www.jica.go.jp/india/office/information/event/2011/110907.html デリー地下鉄が全線開通 ―インドにさらなる発展を― 独立行政法人国際協力機構 2011年9月7日 2014年11月6日閲覧</ref>。三輪タクシーはタクシーよりも低運賃として人気がある。もちろんタクシーも簡単に乗ることはできるが、デリー交通網において比較的重要な位置は占めていない。
 
 
 
また、市南西部に位置する[[インディラ・ガンディー国際空港]]は国内外からの便を問わず、主要な市への玄関口となっており、南アジアでも最も乗降客数の多い空港の一つとなっている。これから空港の拡張によって、よりハブ空港としての重要性を増すことになるであろう。なお、[[日本]]からは[[日本航空]]と[[全日空]]が毎日、[[エア・インディア]]が週3便、[[成田国際空港]]から定期便を運航している。[[関西国際空港]]からも定期便が運航されている。
 
 
 
しかし、近年の経済成長によるデリーの急激な人口増加は、交通機関の著しい飽和状態を生み出す原因の一つであり、これから取り組むべき課題は山積している。
 
 
 
== 教育 ==
 
{{main|{{仮リンク|デリーの教育|en|Education in Delhi}}}}
 
 
 
== 観光 ==
 
=== [[世界遺産]] ===
 
[[ファイル:New Delhi India Humayun.jpg|thumb|right|200px|[[フマーユーン廟]]はムガル建築の代表的な建築物]]
 
デリーには[[フマーユーン廟]]、[[クトゥブ・ミナール]]、[[赤い城]](レッド・フォート)といった世界遺産が点在しているほか、[[ジャーマー・マスジド]]、[[インド門]]、[[ラクシュミーナーラーヤン寺院]]、[[アークシャルダーム寺院 (デリー)|アークシャルダーム寺院]]、[[デリーの鉄柱]]([[クトゥブ・ミナール]]内)、[[:en:Secretariat Building|政府庁舎]]といった観光名所が数多く存在しており、多くの観光客が訪れる。
 
 
 
デリーには高級から格安まで数多くのホテルが存在しており、ニューデリー駅のすぐ西側にある[[パハールガンジ]]は安宿街として、世界中から[[バックパッカー]]が集まってくる。
 
 
 
==スポーツ==
 
[[File:Jawaharlal Nehru Stadium.jpg|thumb|right|200px|[[ジャワハルラール・ネルー・スタジアム]]はインド第三の規模のスタジアム]]
 
[[クリケット]]と[[サッカー]]がデリーでは最も人気のあるスポーツ<ref name=popular>{{cite web|url=http://www.aipsmedia.com/index.php?page=interview&cod=4|title=Cricket may be included in the 2010 Games|accessdate=2007-01-07|last=Camenzuli|first=Charles|work=Interview|publisher=International Sports Press Association|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070929074954/http://www.aipsmedia.com/index.php?page=interview&cod=4|archivedate=2007年9月29日|deadurldate=2017年9月}}</ref>である。市内にクリケット場もいくつかある。またデリーはクリケットの[[インディアン・プレミアリーグ]] (IPL) の[[デリー・デアデビルズ]]と、[[インディアン・クリケット・リーグ]] (ICL) の[[デリー・ジャイアンツ]]の本拠地である。
 
 
 
[[サッカー]]では、2011/12年シーズンより[[Iリーグ]]に参加予定のU-19クラブはデリーを本拠地としている。デリーのサッカースタジアムは[[アンベードカル・スタジアム]]だが、もともと2万人収容の競技場に近年5万人の動員するほど人気を博している。
 
 
 
[[ラグビー]]も近年若年層を中心に人気が出ており、デリー・ライオンズとデリー・ハリケーンのクラブチームがある。[[アジア5カ国対抗|Asian5Nations]](アジア5カ国対抗ラグビー)の[[2010年アジア5カ国対抗|2010年大会]]の開催地となった。競技場は[[デリー大学]]北キャンパスのものが唯一。
 
 
 
[[ボクシング]]は郊外の[[グルガーオン]]で最も人気のスポーツとなっている。他には[[フィールドホッケー]]、[[バスケットボール]]、[[テニス]]、[[ゴルフ]]、[[バドミントン]]、[[水泳]]などが人気である。バドミントンでは、毎年4月に世界大会である[[BWFスーパーシリーズ]]のひとつとして[[インド・オープン (バドミントン)|インド・オープン]]がニューデリーで開かれている。
 
 
 
他にデリーにはスポーツ競技場として、[[ジャワハルラール・ネルー・スタジアム]]と[[インディラ・ガンディー・アリーナ]]がある。デリーは国際的なスポーツ競技会も多く開催しており、[[1951年]]の[[1951年アジア競技大会|第1回アジア競技大会]]と[[1982年]]の[[1982年アジア競技大会|第9回アジア競技大会]]、[[2010年]]の[[2010年コモンウェルスゲームズ|コモンウェルスゲームズ]]を開催した。
 
 
 
デリー郊外グレーター・ノイダ地区に建設中の[[ブッダ・インターナショナル・サーキット]]で、2011年に[[フォーミュラ1|F1]]の[[インドグランプリ]]が開催予定である。
 
 
 
== ギャラリー ==
 
<div style="text-align:center">
 
<gallery>
 
ファイル:Delhi New.jpg|コンノート・プレイスは経済・文化の中心地
 
ファイル:Red Fort, Delhi by alexfurr.jpg|[[赤い城]]は[[ムガル帝国]]時代の城塞
 
ファイル:India gate.jpg|インド門は[[第一次世界大戦]]で戦死したインド兵の記念碑である。
 
ファイル:NorthBlock.jpg|[[:en:Secretariat Building|ノースブロック(政府庁舎)]]
 
</gallery>
 
</div>
 
 
 
== 姉妹都市 ==
 
デリーは以下の都市と[[姉妹都市]]となっている<ref>{{cite news|url=http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/15278423.cms|publisher=India Times|title=Delhi to London, it’s a sister act|accessdate=2009-02-18|date=2002-07-07}}</ref>。
 
* {{Flagicon|USA}} [[シカゴ]]、[[アメリカ合衆国]](2001年-)<ref name="chicago ">{{cite web | url=http://www.chicagosistercities.com/cities/delhi.php | title=Sister cities of Chicago | accessdate=2011-02-12}}</ref>
 
* {{Flagicon|JPN}} [[福岡県]]、[[日本]](2007年3月5日-)<ref>{{cite web | url=http://www.pref.fukuoka.lg.jp/e03/delhi.html | title=福岡県庁ホームページ インド・デリー州 | accessdate=2012-08-21}}</ref>
 
* {{Flagicon|GBR}}[[ロンドン]]、[[イギリス]](2002年-)<ref name="london ">{{cite web | url=http://legacy.london.gov.uk/view_press_release.jsp?releaseid=1329 | title=Friendship agreement to be signed between London and Delhi | accessdate=2011-02-12}}</ref>
 
* {{Flagicon|USA}} [[ロサンゼルス]]、[[アメリカ合衆国]]
 
* {{Flagicon|AUS}} [[シドニー]]、[[オーストラリア]]
 
* {{Flagicon|MAL}} [[クアラルンプール]]、[[マレーシア]]
 
* {{Flagicon|RUS}} [[モスクワ]]、[[ロシア連邦]](2002年-)<ref name="delhigov">{{cite web | url=http://www.delhi.gov.in/wps/wcm/connect/doit_udd/Urban+Development/Our+Services/International+Affairs+Cell+(IC)/Achievement | title=Sister-City Agreements | accessdate=2011-02-12}}</ref>
 
* {{Flagicon|JPN}} [[東京都]]、[[日本]]
 
* {{Flagicon|MON}} [[ウランバートル]]、[[モンゴル]](2002年-)<ref name="delhigov" />
 
* {{Flagicon|FRA}} [[パリ]]、[[フランス]](2006年-)<ref name="hindustan times">{{cite web | url=http://www.hindustantimes.com/Paris-wants-sister-city-relationship-with-Delhi/Article1-194656.aspx | title=Paris wants 'sister-city' relationship with Delhi | accessdate=2011-02-12}}</ref>
 
* {{Flagicon|RUS}} [[サンクトペテルブルク]](2002年-)、[[ロシア連邦]]<ref name="delhigov" />
 
* {{Flagicon|KOR}} [[ソウル特別市|ソウル]]、[[韓国]]
 
* {{Flagicon|ARM}} [[エレバン]]、[[アルメニア]](2008年-)
 
 
 
==注釈・出典==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
==注釈==
 
<references group="注" />
 
 
 
==出典==
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[パトパルガンジ]]
 
* [[日本航空ニューデリー墜落事故]]
 
  
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[[インド]]北部にある中央政府の直轄地。ガンジス川平原西奥部,[[ジャムナ川]]西岸に位置。デリー区,ニューデリー区,デリーカントンメントの3行政区に分かれており,デリー区は旧市街が中心であるため通称オールドデリーと呼ばれる。ニューデリー区には連邦政府の役所が集中し,インドの首都となっている。デリー (オールドデリー) は,前 15世紀から名を知られ,アーリア人のインド侵入期,ヒンドゥー王朝時代を通じて重視された。 13~16世紀には[[デリー・サルタナット]]の首都となり,1648年ムガル帝国のシャー・ジャハーン帝が現存の市街中心部を建設してから最盛期を迎え,1911~31年イギリス領インドの首都。狭い市街地に稠密な人口を有し,商業が盛んで,細工物 (貴金属,宝石,象牙) を特産。[[イスラム美術]]の宝庫といわれ,[[レッド・フォート]] (デリー城) をはじめ,市内,郊外に多くの歴史的建造物,遺跡がある。ニューデリーは,1911年イギリス領インドがカルカッタからデリーに遷都したのに伴い,新都市の建設が計画され,1920年に着手,1931年に完成した新市街で,完成と同時にデリー(オールドデリー) から行政機関が移された。整然とした街路網,ゆったりした緑地帯,公園の中に立法,行政,司法機関などのビルが立ち並び,外国大使館,国際会議場,ホテルなども集中。政治中心地のみならず,国際外交の一中心となっている。デリー大学 (1922) ,ジャワハルラル・ネルー大学,各種研究機関がある。郊外には工業地区が建設され,綿紡績,綿織物,製粉,ゴム,皮革などの生産が盛ん。著名なイスラム建築,遺跡が多く残る。マハトマ・ガンジーの火葬場ラージガートがある。
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==脚注==
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<references/>
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Delhi - दिल्ली|Delhi}}
 
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; 日本政府
 
 
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* [http://www.in.emb-japan.go.jp/index-j.html 在インド日本国大使館] {{Ja icon}}
; 観光
 
 
* [http://www.indiatourism.jp/sights/north.html インド政府観光局 - デリー] {{Ja icon}}
 
* [http://www.indiatourism.jp/sights/north.html インド政府観光局 - デリー] {{Ja icon}}
* [[ウィキトラベル]]旅行ガイド - [http://wikitravel.org/ja/デリー デリー] {{ja icon}}
 
; 世界遺産
 
* [http://www.kamit.jp/02_unesco/11_qutub/qutub.htm ユネスコ世界遺産 「デリーの最初のモスクとクトゥブ・ミナール」]
 
* [http://www.kamit.jp/02_unesco/12_humayun/humayun.htm ユネスコ世界遺産 「デリーのフマユーン廟」]
 
; 建築
 
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/80_delhi/delhijami.htm 世界のイスラーム建築 「デリーの金曜モスク」]
 
; その他
 
* {{Dmoz|Regional/Asia/India/Delhi}}{{en icon}}
 
* {{Googlemap|Delhi}}
 
  
{{世界20大都市圏}}
 
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2018/9/1/ (土) 02:04時点における最新版

上左よりロータス寺院、インド門、フマーユーン廟、コンノート・プレイス、アークシャルダーム寺院
デリー連邦直轄地
Delhi
位置
デリーの位置の位置図
デリーの位置
座標 : 東経77度13分48秒北緯28.61度 東経77.23度28.61; 77.23
行政
インドの旗 インド
 市 デリー連邦直轄地
地理
面積  
  市域 1,483 km2 (573 mi2)
標高 239 m (784 ft)
人口
人口 (2011年[1]現在)
  市域 16,787,941人
    人口密度   12,591.71人/km2(32,612.39人/mi2
  都市圏 21,753,486[2]
公式ウェブサイト : delhigovt.nic.in

デリー連邦直轄地(デリーれんぽうちょっかつち、ヒンディー語: दिल्ली [d̪ɪlliː]英語: Delhi [ˈdɛli]

インド北部にある中央政府の直轄地。ガンジス川平原西奥部,ジャムナ川西岸に位置。デリー区,ニューデリー区,デリーカントンメントの3行政区に分かれており,デリー区は旧市街が中心であるため通称オールドデリーと呼ばれる。ニューデリー区には連邦政府の役所が集中し,インドの首都となっている。デリー (オールドデリー) は,前 15世紀から名を知られ,アーリア人のインド侵入期,ヒンドゥー王朝時代を通じて重視された。 13~16世紀にはデリー・サルタナットの首都となり,1648年ムガル帝国のシャー・ジャハーン帝が現存の市街中心部を建設してから最盛期を迎え,1911~31年イギリス領インドの首都。狭い市街地に稠密な人口を有し,商業が盛んで,細工物 (貴金属,宝石,象牙) を特産。イスラム美術の宝庫といわれ,レッド・フォート (デリー城) をはじめ,市内,郊外に多くの歴史的建造物,遺跡がある。ニューデリーは,1911年イギリス領インドがカルカッタからデリーに遷都したのに伴い,新都市の建設が計画され,1920年に着手,1931年に完成した新市街で,完成と同時にデリー(オールドデリー) から行政機関が移された。整然とした街路網,ゆったりした緑地帯,公園の中に立法,行政,司法機関などのビルが立ち並び,外国大使館,国際会議場,ホテルなども集中。政治中心地のみならず,国際外交の一中心となっている。デリー大学 (1922) ,ジャワハルラル・ネルー大学,各種研究機関がある。郊外には工業地区が建設され,綿紡績,綿織物,製粉,ゴム,皮革などの生産が盛ん。著名なイスラム建築,遺跡が多く残る。マハトマ・ガンジーの火葬場ラージガートがある。

脚注

外部リンク

座標: 東経77度13分48秒北緯28.61度 東経77.23度28.61; 77.23 (デリー)



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