ディエゴ・コリャード

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ディエゴ・コリャード(Diego de Collado、ラテン語: Didacus Colladus、1589年? - 1641年8月)は、ドミニコ会に所属するスペイン宣教師

来歴

スペインのミアハーダスw:Miajadas)出身。1604年にドミニコ会に入会し、1611年フィリピンマニラに派遣される。1619年に既にキリシタン禁止令が出されていた日本に潜入し、長崎一帯で密かに布教活動を続けた。1622年平山常陳事件で捕らえられていたドミニコ会同僚のルイス・フロレス火刑となり、続いて元和の大殉教が行われた。折りしも26聖人の殉教に関する教会法上の調査を行っていた自身は難を逃れたが、この事件に危機感を強め、同年11月に報告のためマニラに戻り、更にローマ教皇国に赴いた。

自らは、日本での迫害の一因にイエズス会による長年の日本布教の独占を挙げたことからイエズス会とドミニコ会・フランシスコ会の論争に発展したが、その主張は認められなかった。1632年に、布教聖省の許可を得て、キリシタン版文献で『日本文典』・『羅西日辞書』(大塚光信・小島幸枝編、臨川書店)・『懺悔録』(日本の信者たちの告白・回想録、大塚光信校注、岩波文庫)を刊行した。1635年にマニラに戻り、アジアを拠点としたイエズス会に対抗する新しい教会組織作りを図るも失敗に終わり、スペイン本国へ追放されて帰国する途中に、乗船が遭難して死亡したと伝えられている。