安曇郡
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安曇郡(現代仮名遣い:あずみぐん、歴史的仮名遣い:あづみぐん)は、長野県(信濃国)にあった郡。
郡域
現在の下記の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。
歴史
もとは「あづみごおり/あづみのこおり」と読まれ、表記も阿曇郡(阿曇評)であり、好字制により安曇郡と書くようになった。
5世紀ごろに安曇族が定住し、律令制のもとで信濃国安曇郡が成立した。郡衙の位置は未詳である。
二十巻本の和名類聚抄(巻5・17)には、安曇に対して万葉仮名で「阿都之(あつし)」と訓が記載されており、高家(たきべ)郷、八原(やはら)郷、前科郷[1]、村上(むらかみ)郷の四郷からなる(同・巻7・7)と書かれている。一方、延喜式(巻10)では安曇に対し、「あつみ」と訓が付されている。
院政時代の荘園として、住吉荘(長講堂領)、大穴荘(歓喜光院領)、仁科荘(室町院領)、千国荘(六条院領)、野原(矢原)荘(蓮華王院領)、前見荘(知行主不明)、矢原御厨・仁科御厨(伊勢神宮領)、多々利牧・猪鹿牧(左馬寮領)が見える。
近世以降の沿革
- 所属町村の変遷は南安曇郡#郡発足までの沿革、北安曇郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
- 17世紀後半
- 筑摩郡犬飼村・小宮村・上平瀬村・下平瀬村・稲核(いねこき)村・大野川村が本郡に編入。
- 犬飼村が分割して青島村・町村・北中村・南中村・北方村・東方村・高松村・犬飼新田村となる。
- 「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点で全域が信濃松本藩領であった。寺社領も存在した。(179村)
- 明治4年
- 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により長野県の管轄となる。
- 明治12年(1879年)1月4日 - 郡区町村編制法の長野県での施行により、安曇郡のうち、豊科村ほか16村の区域に南安曇郡が、大町村ほか18村の区域に北安曇郡がそれぞれ行政区画として発足。同日安曇郡消滅。
脚注
参考文献
- 角川日本地名大辞典 20 長野県
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
先代: ----- |
行政区の変遷 - 1879年 |
次代: 南安曇郡・北安曇郡 |