大浦兼武

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大浦 兼武(おおうら かねたけ、嘉永3年5月6日1850年6月15日) - 大正7年(1918年9月30日)は、日本武士薩摩藩士)、内務官僚政治家

島根県知事(第10代)、山口県知事(第4代)、熊本県知事(第4代)、宮城県知事(第6代)、警視総監(第12・14代)、貴族院議員勅選)、逓信大臣第14代)、農商務大臣(第2226代)、内務大臣(第2831代)、大日本武徳会会長を歴任した。

経歴

薩摩藩主島津家分家である宮之城島津家の家臣として生まれる。戊辰戦争では薩摩藩軍に参加し、奥羽方面に出征。

明治維新後は警察官となり、邏卒から累進して明治8年(1875年)、警視庁警部補に昇任。明治10年(1877年)、西南戦争抜刀隊を率いて功績を挙げた。このとき陸軍中尉兼三等小警部となる。

明治14年(1882年)、大阪府警部長(現在の警察本部長)に就任。明治17年(1884年)に起きた松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)に際しては、軍服姿で双方の上官として現場を鎮定し、評価を高めた。明治21年(1888年)、警保局次長に就任。

明治26年(1893年)以降、島根県山口県熊本県宮城県知事を歴任。明治31年(1898年)、警視総監に就任。明治33年(1900年)3月19日、貴族院議員勅選される[1]

明治36年(1903年)、第1次桂内閣逓信大臣として初入閣。その後も第2次桂内閣農商務大臣第3次桂内閣内務大臣第2次大隈内閣の農商務大臣・内務大臣を歴任。立憲同志会の創立にも加わる。

しかし、大隈内閣の内相時代に選挙違反の嫌疑で取り調べを受けることになり、そこからかつて第2次桂内閣で農商相だったときに二個師団増設案を通過させるために議員を買収していたことが発覚。これで内相を辞任することになり、政治生命を絶たれることとなった(大浦事件)。

大正4年(1915年)8月3日に貴族院議員を辞職し[2]、翌日に隠居した[3]

大正7年(1918年)死去。享年68。

大日本武徳会会長、日英博覧会総裁も務めた。

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

脚注

  1. 『官報』第5012号、明治33年3月20日。
  2. 『官報』第902号、大正4年8月4日。
  3. 『官報』第911号、大正4年8月14日。
  4. 『官報』第908号「叙任及辞令」1886年7月12日。
  5. 『官報』第2536号「叙任及辞令」1891年12月11日。
  6. 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
  7. 『官報』第6101号「叙任及辞令」1903年10月31日。
  8. 『官報』第7788号「叙任及辞令」1909年6月12日。
  9. 『官報』第904号「賞勲叙任」1886年7月7日。
  10. 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
  11. 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
  12. 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
  13. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  14. 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
  15. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  16. 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  17. 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  18. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  19. 『官報』第6599号「叙任及辞令」1905年6月30日。
  20. 『平成新修旧華族家系大成』上巻、266頁。

参考文献

外部リンク


公職
先代:
原敬
大隈重信
日本の旗 内務大臣
第28代:1912年12月21日 - 1913年2月20日
第31代:1915年1月7日 - 1915年7月30日
次代:
原敬
大隈重信
先代:
松岡康毅
山本達雄
日本の旗 農商務大臣
第22代:1908年7月14日 - 1911年8月30日
第26代:1914年4月16日 - 1915年1月7日
次代:
牧野伸顕
河野広中
先代:
曾禰荒助
日本の旗 逓信大臣
第14代:1903年9月22日 - 1906年1月7日
次代:
山縣伊三郎
日本の爵位
先代:
陞爵
子爵
大浦(兼武)家初代
1911年 - 1915年
次代:
大浦兼一
先代:
叙爵
男爵
大浦(兼武)家初代
1907年 - 1911年
次代:
陞爵

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