エリザヴェータ (ロシア皇帝)
エリザヴェータ・ペトロヴナ(ロシア語: Елизавета Петровна, 1709年12月18日 - 1762年1月5日、在位:1741年 - 1762年)は、ロマノフ朝第6代ロシア皇帝。ピョートル1世の娘、母はエカチェリーナ1世。
Contents
生涯
即位以前
両親の正式な結婚は1712年だったため、1709年の誕生時点では、姉アンナ・ペトロヴナともども非嫡出子であった。ホルシュタイン=ゴットルプ家の公子カール・アウグストと婚約するが死別[1]。母エカチェリーナ1世、甥ピョートル2世の崩御の際には有力な後継候補と目されたが、いずれも非嫡出を理由に阻まれた。しかし大帝の娘として軍隊での人気は極めて高く、アンナ女帝の政府は彼女を危険視していた。1741年11月25日、当局により修道院に幽閉される危険が高まると、自らを支持する近衛軍に命じて摂政アンナ・レオポルドヴナら政府要人を逮捕させ、幼帝イヴァン6世から帝位を奪取した。彼女は自らを父であるピョートル大帝の真の継承者だと演出することで即位の正統性を主張し、クーデターを成功させ、イヴァン6世支持派による陰謀(いわゆるロプーヒナ陰謀事件)を潰して自らの地位を安定させた。エリザヴェータはシュリッセリブルクに幽閉したイヴァン6世の救出の目論みがあれば即刻彼を殺すよう命じ、この命令はエリザヴェータの後の皇帝達も継続させた。後に救出の試みがなされると(エカチェリーナ2世の時代)、イヴァン6世は看守に殺害され、要塞内に秘密のうちに埋葬された[2]。
内政
エリザヴェータは早くに統治への熱意を失い、1740年代にはベストゥージェフ=リューミンが、50年代にはシュヴァロフ兄弟やヴォロンツォフ伯爵が中心となって政治を動かした。国内では大胆な節税対策・税制改革が取られ、危機的状況にあった国家財政は立て直された。また政府は国内産業の発展に力を注ぎ、国内関税を撤廃し、貴族に領地開発のための資金を貸し付ける銀行も設立された。貴族たちは領地内で農奴を労働力とした工場を経営し、繊維業や冶金業で成功を収めた。この政策は貴族を中心とした産業発展を志向しており、ウォッカ醸造権も貴族の独占となった。こうして18世紀後半には貴族を主な受益者とする経済成長が実現することとなる。
外交
エリザヴェータの治世中には対外戦争が頻繁に行われた。1741年にスウェーデンが係争地帯のフィンランドに侵攻したが、この戦いに勝利し、1743年のオーボ条約でフィンランド南部のキュミ川の東をスウェーデンから獲得した。またヴィルマンストランドとフレデリクスハムンの要塞も獲得した[3]。さらに親ロシア派のホルシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フレドリク(カール・アウグストの弟)をスウェーデン王位継承者に推した。オーストリア継承戦争ではベストゥージェフの主導によりオーストリア、イギリスの側にたって1748年に参戦したが、フランスに講和を急がせる役目しか果たせなかったため、何の見返りも得られなかった。
1756年1月16日のウェストミンスター条約によりイギリスとプロイセンの間で防御同盟が成立したが、エリザヴェータはこれを以前の英露間の条約を破るものとみなした。さらに彼女自身がプロイセン王フリードリヒ2世を嫌ったため、ロシアは反プロイセン側に加わることとなった[4]。彼女はプロイセンがもはやロシアの脅威にならないよう弱体化させようとした。そして、ヴェルサイユ条約によりロシアはオーストリア、フランスと連合し、1757年5月17日にはロシア軍8万5千がケーニヒスベルクへ進軍した[5]。
エリザヴェータの病状が悪化して1757年9月19日にツァールスコエ・セローで一時倒れたことも、ベストゥージェフが1758年2月21日に失脚しても、サンクトペテルブルクで渦巻く諸国の陰謀も戦争遂行を妨げることができず、ロシア軍は1759年8月12日のクネルスドルフの戦いでプロイセン軍に大勝した。その日はロシア軍とオーストリア軍の間の嫉妬で侵攻が一時止まったが、フリードリヒ2世はそれ以降ほぼ絶望して、勝利を得る望みがもはや絶えていたと感じた[3]。
その一方、1759年末から1761年末まで、反プロイセン同盟諸国の思惑がだんだんと違いはじめたが、エリザヴェータが「フリードリヒ2世は隣国にとって無害化されなければならず、その唯一の方法は彼を選帝侯の地位まで落とすことである」という考えを堅持しただけが同盟の結束を維持した理由であった[3]。
後継者の指名
1742年11月7日、甥であるホルシュタイン=ゴットルプ家のカール・ペーター・ウルリヒ(後のピョートル3世)を後継者に指名し[6]、カールは改宗してピョートルと名乗った。ピョートルの妻エカテリーナ・アレクセーエヴナが1754年に長男パーヴェルを出産する[7]と、女帝はこの新生児を引き取って養育し溺愛した。
晩年と死
1750年代末より、エリザヴェータの健康が悪化し、立ちくらみが頻発するようになるが、彼女は処方された薬を飲むことを拒否した。また彼女がいる場で「死」という語を禁じた[8]。そして、エリザヴェータは1762年1月5日(グレゴリオ暦)に崩じた[9]。彼女は6週間後の2月3日にペトロパヴロフスキー大聖堂に埋葬された[8]。
甥である新帝ピョートル3世は親プロイセン派で、対プロイセン戦争を即座に単独講和へ持ち込み、ロシアが収めるはずだった七年戦争の確実な勝利をふいにしてしまった。そのピョートル3世は半年後、妻と近衛部隊によるクーデターで玉座を追われた後、近衛部隊兵の独断によって暗殺されるという悲惨な最期を遂げ、皇帝の座は妻が継いだ。この妻こそロシア大帝エカチェリーナ2世である。
評価
エリザヴェータの治世は、以前は宮廷を中心に奢侈に流れ、国際戦争に巻き込まれ、農奴制の強まった時代として評価が低かった。しかしそれらは間違いなく文化的発展や国際的地位の向上、経済成長として理解できるものであり、ロシアが強国化していく過程で重要な役割を果たしていたとみるのが妥当といえよう。
文化事業
国政に興味のないエリザヴェータは、文化事業にその熱意と才能を遺憾なく発揮した。ヴェルサイユ宮廷に倣ったロシア宮廷の西欧化を熱心に進め、ファッションにも強い関心を持った。さらに学芸保護にも積極的で、西欧の学識を摂取させるべくロシア科学アカデミーを支援し、科学者ロモノーソフの建言を容れて1755年にはモスクワ大学を創設した。芸術家の育成にも取り組んでいった。しかし最も重要な事業は建築分野である。宮廷首席建築家ラストレッリに命じて数多くの宮殿を建築ないし大幅に改築させ、壮麗なロシア・バロック様式に変貌させた。現在のサンクトペテルブルクを魅惑的にしている諸宮殿の多くは、エリザヴェータの治世に築かれたものである。
人物
容姿は色白で美しく、やや太り気味だったらしい。ダンスや美食、観劇、仮装舞踏会などを趣味としていた。愛人を多く持ったと言われるが、最も長く続いたのは宮廷聖歌隊員出身のアレクセイ・ラズモフスキー伯爵である。即位する以前からの関係で、一説には1742年に秘密結婚したとされる相手だが、政治的野心はなかった。最も政治的な影響力をふるった愛人はシュヴァロフ兄弟の従弟イヴァン・シュヴァロフで、「ロシアのポンパドゥール夫人」とヴォルテールに揶揄された。
登場する作品
脚注
- ↑ 中野京子 『名画で読み解くロマノフ家12の物語』 光文社、2014年。ISBN 978-4-334-03811-3。
- ↑ Russian Tsars, Boris Antonov, p.103.
- ↑ 3.0 3.1 3.2 Chisholm 1911.
- ↑ Russian Tsars by Boris Antonov, p.107.
- ↑ The Evolution of Russia by Otto Hoetzsch
- ↑ Russian Tsars by Boris Antonov, p.110.
- ↑ Russian Tsars by Boris Antonov, p.119.
- ↑ 8.0 8.1 Russian Tsars by Boris Antonov, p.109.
- ↑ Elizabeth and Catherine by Robert Coughlan, p.174.
参考文献
- Antonov, Boris (2006). Russian Tsars. Saint Petersburg: Ivan Fiorodov Art Publishers. ISBN 5-93893-109-6.
- Coughlan, Robert (1974). in Jay Gold: Elizabeth and Catherine: Empresses of All the Russias. London: Millington Ltd. ISBN 0-86000-002-8.
- Otto, Hoetzsch (1966). The Evolution of Russia, trans. Rhys Evans, London: Thames and Hudson.
- Rounding, Virginia (2006). Catherine the Great: Love, Sex and Power. London: Hutchinson. ISBN 0-09-179992-9.
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