アンドルー・ボナー・ロー
アンドルー・ボナー・ロー閣下(英: Rt. Hon. Andrew Bonar Law, PC、1858年9月16日 – 1923年10月30日)は、イギリスの政治家。
1911年にアーサー・バルフォアが保守党党首を退任した後、代わって党首となった。第一次世界大戦中に成立した挙国一致内閣で閣僚職を歴任。戦後の1922年に保守党と自由党の大連立が解消されるとロイド・ジョージに代わって首相に就任したが、健康状態が芳しくなく、その翌年には辞職。スタンリー・ボールドウィンが代わって首相・保守党党首となった。
Contents
経歴
前半生
カナダのニューブランズウィック州レクストンにレヴァランド・ジェームズ・ローとその妻イライザの長男として生まれる[1]。父レヴァランドは北アイルランド・アルスターの長老派教会の牧師だった[2][3]。
グラスゴー高校を卒業後、グラスゴーの鉄鋼市場の仲買業者となる。保守党の社交界に出席するようになったが、社交界にあって社交活動に無頓着で禁酒主義者であったことが人々の注目を集め、保守党指導者としての道を開いたという[2]。
政界へ
1900年にグラスゴー・ブラックフライアーズ・アンド・ハッチンソンタウン選挙区から選出されて保守党の庶民院議員となる(1906年からダルウィック選挙区、1911年からブートル選挙区、1918年からはグラスゴー・セントラル選挙区から選出された)[1]。
1902年から1905年にかけてアーサー・バルフォア内閣の商務庁政務次官を務めた[1]。ボナー・ローはジョセフ・チェンバレンの提唱する関税改革論(保護貿易論)の熱心な支持者だった[2][4]。
1905年に自由党が政権を獲得し、保守党は野党となった。1909年に自由党政権の財務大臣ロイド・ジョージが人民予算案を提出した際にはボナー・ローはこれを「社会主義予算」として厳しく糾弾し、その反対運動を主導した[5]。
また1911年4月に提出されたアイルランド自治法案にもアルスターがアイルランド自治に含まれることに強く反対した[2][3]。同年7月のブレナム宮殿での演説では「アルスターはどこまでも抵抗するだろうが、私はそれにいかなる援助も惜しまない」と述べ、アルスター義勇軍の武力抵抗運動を支持することを公然と表明している[6][7]。
保守党庶民院院内総務に就任
1911年11月、保守党党首・保守党庶民院院内総務バルフォアが議会法可決などで高まっていた党内の不満を抑えるため役職を辞した。後任の党首は決まっておらず、ウォルター・ロングとオースティン・チェンバレンがその座をめぐって争い、党所属庶民院議員による投票が行われることになったが、結局この二人は党の分裂を恐れて共に投票から降りたため、二人に比べて影響力の劣るボナー・ローが満場一致で党庶民院院内総務に選出される事態となった[8][9][10]。ただこの時点では党全体の党首ではなく、貴族院保守党はランズダウン侯爵によって指導されていた[11]。
ボナー・ロー率いる保守党はアルスター抵抗運動を支持し続け、内乱の危機を煽ることで自由党政府を屈服させようとした。1912年と1913年に提出されたアイルランド自治法をいずれも貴族院から否決させた。自由党政権の首相アスキスは強硬な対抗手段を取らず、ボナー・ローとの交渉を試みたが、妥協にはいたらなかった。しかし1914年7月の第一次世界大戦の開戦でアイルランド自治法案を棚上げすることが自由党政府とボナー・ローの間で取り決められたことで、事態は沈静化した[12]。
挙国一致内閣の閣僚
大戦の勃発のため、アスキス首相の求めに応じて戦時中は政党間論争を挑まないことを決定した。ただしこの段階ではまだ政府と保守党の連合が成ったわけではなく、あくまで休戦という消極的な関係に留まった。保守党平議員は自党の現状を「政治的軟禁状態」と考え、ボナー・ローの誓約に反発した。自由党政府の様々な失策の影響で1915年5月にその不満は爆発した。限界を感じたボナー・ローはアスキス首相と交渉して自由党と保守党の大連立の挙国一致内閣を成立させた[13]。
挙国一致内閣の主導権は自由党が握っており、保守党はそれほど良い閣僚ポストの配分を受けられなかった。党首ボナー・ローも植民地大臣として入閣したに留まった[14]。
その後徴兵制導入賛成でボナー・ローら保守党と自由党のロイド・ジョージの距離が縮まった。1916年12月にアスキスとロイド・ジョージが決裂するとロイド・ジョージを支持し、そのためにアスキスは総辞職することになった[15]。1916年12月5日に国王ジョージ5世より組閣の大命を受けたが、アスキスとロイド・ジョージの支持が必要である旨奉答した。しかしアスキスはボナー・ローへの協力もロイド・ジョージへの協力も拒否していたため、結局大命を拝辞することになり、12月7日にロイド・ジョージが組閣の大命を受けることになった[16]。
ロイド・ジョージ内閣は保守党との大連立を維持しつつ、自由党アスキス派が離反した内閣となった。そのため保守党が優位な内閣となった。ボナー・ローは財務大臣・庶民院院内総務として入閣し、また戦時内閣を構成する5人の閣僚の一人となった[17][18]。
戦後の1918年12月14日に行われた解散総選挙は二大政党の枠組みではなく政府(ロイド・ジョージとボナー・ロー)が出した推薦状の有無で争うという異例の選挙となった(クーポン選挙)[19]。
1919年には財務大臣から国璽尚書に転じる(庶民院院内総務には在職)[1]。1921年3月には病気のため、政府役職・党役職を共に辞した[20]。
短期間の首相就任
ボナー・ローの後任の保守党党首にはオースティン・チェンバレンが就任した。彼は保守党内で大連立解消論が高まる中で挙国一致内閣の維持を主張し続けた。しかし解消機運を抑えきれず、1922年10月19日にはカールトン・クラブでスタンリー・ボールドウィンが提案した議案について保守党議員の採決で大連立解消が決議されるに至った。この決議はボナー・ローの大連立反対演説に影響を受けていた。これによりロイド・ジョージとチェンバレンはそろって辞職に追いやられた[21][22]。
代わってボナー・ローが保守党党首に選出された。1922年10月23日午後5時30分には国王ジョージ5世より組閣の大命を受けた[23]。内閣成立直後に解散総選挙を行って安定多数を確保した[24]。しかし有力保守党議員の多くがチェンバレンに従っていたため、あまり強力な内閣は作れなかった[25]。
首相在任中、ボナー・ローの体調は悪化を続け、1923年4月末には医師の勧めで航海の旅に出た(この間はカーゾン卿を首相代理、スタンリー・ボールドウィンを庶民院院内総務とした)。しかし帰国後も体調は回復しなかった[26]。1923年5月に咽頭癌との診断を受けたため[25]、5月20日に首相職を辞することになった[27]。在職わずか7ヶ月の首相であった[25]。
退任から間もない1923年10月30日に死去した[1]。
栄典
家族
1891年にアニー・ピトケアン・ロブレイと結婚し、彼女との間に以下の6子を儲けた[1]。
- 第1子(長女)イザベル・ハリングトン・ロー(?-1969):フレデリック・サイクス少将と結婚。
- 第2子(次女)キャサリン・エディス・メアリー・ロー(?-1992)ケント・コルウェル、ついで初代アーチボルド男爵と結婚。
- 第3子(長男)ジェームズ・キッドストン・ロー大尉(1893-1917):第一次世界大戦で戦死
- 第4子(次男)チャールズ・ロー(1897-1917):第一次世界大戦で戦死
- 第5子(三男)ハリングトン・ロー少佐(1899-1958):海軍軍人
- 第6子(四男)初代コールレーン男爵リチャード・ロー(1901-1980):政治家
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 Lundy, Darryl. “Rt. Hon. Andrew Bonar Law” (英語). thepeerage.com. . 2014-3-27閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 ブレイク(1979) p.231
- ↑ 3.0 3.1 坂井(1967) p.497
- ↑ 中村(1978) p.65
- ↑ 坂井(1967) p.419,424-425
- ↑ 坂井(1967) p.498
- ↑ 中村(1978) p.76
- ↑ ブレイク(1979) p.229-231
- ↑ タックマン(1990) p.465-467
- ↑ マッケンジー(1965) p.35-39
- ↑ マッケンジー(1965) p.39-40
- ↑ 坂井(1967) p.497-501/505/513
- ↑ バトラー(1980) p.57-60
- ↑ バトラー(1980) p.60
- ↑ バトラー(1980) p.60-63
- ↑ 中村(1978) p.187-196
- ↑ バトラー(1980) p.63
- ↑ 村岡、木畑(1991) p.279
- ↑ 村岡、木畑(1991) p.281
- ↑ マッケンジー(1965) p.40
- ↑ マッケンジー(1965) p.42
- ↑ ブレイク(1979) p.239-242
- ↑ マッケンジー(1965) p.43
- ↑ マッケンジー(1965) p.45
- ↑ 25.0 25.1 25.2 ブレイク(1979) p.247
- ↑ マッケンジー(1965) p.45-47
- ↑ マッケンジー(1965) p.47
参考文献
- 坂井秀夫 『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』 創文社、1967年(昭和42年)。
- バーバラ・タックマン 『世紀末のヨーロッパ 誇り高き塔・第一次大戦前夜』 大島かおり訳、筑摩書房、1990年(平成2年)。ISBN 978-4480855541。
- 中村祐吉 『イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇』 集英社、1978年(昭和53年)。
- 『イギリス連合政治への潮流』 デヴィッド・バトラー編、飯坂良明、岡沢憲芙、福岡政行、川野秀之訳、東京大学出版会〈UP選書205〉、1980年(昭和55年)。
- ブレイク男爵 『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』 早川崇訳、労働法令協会、1979年(昭和54年)。
- ロバート・マッケンジー 『英国の政党〈上巻〉 保守党・労働党内の権力配置』 早川崇、三沢潤生訳、有斐閣、1965年(昭和40年)。
- 『イギリス史〈3〉近現代』 村岡健次、木畑洋一編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300。
- 『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』 秦郁彦編、東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
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- More about Andrew Bonar Law on the Downing Street website.
- The Bonar Law Papers at the UK Parliamentary Archives
- 1903 illustrated article with photo of Bonar Law
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- “[^,*}} の関連資料一覧]”. イギリス国立公文書館. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
公職 | ||
---|---|---|
先代: 第2代ダドリー伯爵 |
商務庁政務次官 1902年 – 1905年 |
次代: ハドソン・ケアリー |
先代: ルイス・ハーコート |
植民地大臣 1915年 – 1916年 |
次代: ウォルター・ロング |
先代: レジナルド・マッケンナ |
財務大臣 1916年 – 1919年 |
次代: オースティン・チェンバレン |
先代: ハーバート・ヘンリー・アスキス |
庶民院院内総務 1916年 – 1921年 |
次代: オースティン・チェンバレン |
先代: 第27代クロフォード伯爵 |
王璽尚書 1919年 – 1921年 | |
先代: デビッド・ロイド・ジョージ |
首相 1922年10月23日 – 1923年5月22日 |
次代: スタンリー・ボールドウィン |
先代: オースティン・チェンバレン |
庶民院院内総務 1922年 – 1923年 | |
党職 | ||
先代: アーサー・バルフォア |
保守党党首 1911年 – 1921年 1916年まで党貴族院院内総務ランズダウン侯爵と共同で |
次代: オースティン・チェンバレン 初代カーゾン伯爵 |
保守党庶民院院内総務 1911年 – 1921年 |
次代: オースティン・チェンバレン | |
先代: オースティン・チェンバレン 初代カーゾン侯爵 |
保守党党首 1922年 – 1923年 |
次代: スタンリー・ボールドウィン |
学職 | ||
先代: レイモン・ポアンカレ |
グラスゴー大学学長 1919年 – 1922年 |
次代: 初代バーケンヘッド伯爵 |