南画
南画(なんが)は、中国の南宗画に由来する 日本的解釈の江戸時代中期以降の画派・画様の用語である。文人画ともいう。
南宗画
南宗画は17世紀に明の莫是龍を受け継いだ董其昌(1555年 - 1630年)の画論『画禅室随筆』で流布した。即ち、禅に南北二宗があるのと同様、絵画にも南北二宗がある。李思訓から馬遠、夏珪に連なる北宗派の「鉤斫之法」(鉄線描、刻画)に対し、王維の画法渲淡(暈し表現)から始まり、董源、巨然、米芾、米友仁、元末四大家に連なる水墨、在野の文人・士大夫の表現主義的画法を称揚した流派である[1]。
日本南画
日本南画は日本初期文人画の祇園南海(1676年 - 1751年)(紀州藩儒官)や柳沢淇園(1676年 - 1751年)(甲府藩家老の子)から始まる。祇園南海は『八種画譜』を独学し長崎派の河村若芝に添削指導を受け、柳沢淇園も長崎派の英元章に学び、中国の在野文人の画法を瞳憬し、日本的風景に近い暈し表現を主とした南宗画を範として狩野派と対抗した。その後、池大雅(1723年 - 1776年)、与謝蕪村(1716年 - 1784年)により大成され、浦上玉堂(1745年 - 1820年)、谷文晁(1763年 - 1841年)、田能村竹田(1777年 - 1835年)、山本梅逸(1783年 - 1856年)、渡辺崋山(1793年 - 1841年)等江戸時代後期の一大画派となった。明治20年にフェノロサ、岡倉覚三(天心)主導の東京美術学校開設で「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は旧派として排除された。しかし、富岡鉄斎(1837年 - 1924年)が傑出し、その後、小川芋銭(1868年 - 1938年)、冨田溪仙(1868年 - 1938年)、小杉放庵(1888年 - 1964年)等も近代的南画表現を行っている。 池大雅の弟子桑山玉州は『絵事鄙言』で松花堂昭乗、俵屋宗達、尾形光琳も南宗に加え[2]中国の南宗派、文人精神への憧れとたらしこみ渲淡画様式を南画としてとらえている。南画に限らず日本水墨画は「気韻生動(運気の響き、風格・気品がいきいきと満ち溢れている)」と「写意」を第一とするが、南画には加えて、逸品、逸格、「去俗」を重要視した。
流派・画家
主な流派と画家は次の通り。
- 日本最初期文人画 - 祇園南海・彭城百川・柳沢淇園ほか
- 池大雅派 - 池大雅・青木夙夜・野呂介石・桑山玉州・池玉瀾ほか
- 浦上玉堂派 - 浦上玉堂・浦上春琴・浦上秋琴・僧霞山ほか
- 貫名海屋派 - 貫名海屋・日根対山・野口小蘋ほか
- 中林竹洞派 - 中林竹洞・中林竹渓ほか
- 与謝蕪村派 - 与謝蕪村・呉春・紀梅亭ほか
- 田能村竹田派 - 田能村竹田・高橋草坪・帆足杏雨ほか
- 渡辺崋山派 - 渡辺崋山・椿椿山・野口幽谷・奥原晴湖・松林桂月ほか
- 谷文晁派 - 谷文晁・鈴木芙蓉・春木南湖・田崎草雲・小室翠雲・荒木寛畝ほか
- 日本最後期文人画 - 田能村直入ほか
- 他の諸派 - 高島北海・山岡米華・鈴木百年・羽様西崕など
注
- ↑ 『画禅室随筆』巻二「禪家有南北二宗,唐時始分畫之。南北二宗,亦唐時分也,但其人非南北耳。北宗則李司訓父子。著色山水,流傳而為宋之趙幹、趙伯駒、趙伯粛,以至馬夏(馬遠と夏珪)輩。南宗則王摩詰(王維)始用渲淡,一變鉤斫之法,其傳為張躁、荊關(荊浩と関同)、郭忠恕、董巨(董源、巨然)、米家父子(米芾と米友仁。以至元之四大家(黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙),亦如六祖之后,有馬駒(以下略) http://zh.wikisource.org/wiki/%E7%95%AB%E7%A6%AA%E5%AE%A4%E9%9A%A8%E7%AD%86/%E5%8D%B7%E4%BA%8C 」
- ↑ 『絵事鄙言』二十四丁表「近衛公ノ戯墨惺々翁宗達光琳ナトハ本朝ノ南宗トモ言ハンカ」
参考文献
- 長尾雨山、『中国書画話』 筑摩叢書、1965年
- 飯島勇 編、『文人画』日本の美術、第4号、至文堂、1966年
- 『世界美術小辞典 日本編 「絵画 近世」』 新潮社
- 武田光一『日本の南画』 世界美術双書 東信堂 2000年
関連項目
外部リンク
- 兵庫県立美術館展覧会「南画って、何だ?!」-南画の歴史に関するQ&Aあり。