交易
交易(こうえき/きょうやく)とは、古代日本においては交関(こうかん)とも呼ばれ、一般的な貨幣もしくは物品と物品の交換(売買)行為を指すが、狭義においては官司がその財政運営に必要な物品を調達する手段を指す。
概要
律令国家の財政は太政官以下の中央官司が運営する国家財政と国司が運営する地方財政は分離されていたが、実態においては国家財政の主たる収入であった庸調は地方からの進上物であり、その不足分は国司が補填するなど両者は密接な関係にあった。こうした仕組は大化の改新以前に地方の国造がヤマト王権(大和朝廷)に対して行った貢納に由来すると考えられている。
国家財政においても、地方財政においてもその大部分は米や布などの現物による徴収が収入となり、現物の支給もしくは消費が支出となっていたが、この方法が必ずしも官司・国司が希求する物資、あるいは国司が中央から貢納を命じられた物資が必要量を確保できる仕組ではなかった。
このため、都や国府所在地、各地の交通の要所において形成された市場において自己の余剰の財物をもって必要な物資を調達する交易が盛んに行われた。こうした古代財政上の仕組を交易制(こうえきせい)とも称する。
特に租税としての性格を持つ庸調・土毛(特に貢納を命じられた特産品)の未進や質の低下が目立ち始めた8世紀後期以後、地方の国司が中央の要求を満たすために正税などを用いて現地の豪族などの有力者や生産者から交易によって必要な物資を確保することが行われるようになる。またこれとは別に天皇が内蔵寮を介して内廷に必要な物品を調達させる「勅旨交易」が行われ、『延喜式』において制度化された(諸国年料供進)[1]。
9世紀に入ると、各国に割り当てられた物品・数量を正税による交易で確保・進上する交易雑物(年料交易進上物)や太政官符などによって臨時に交易・進上を命じる臨時交易進上などが制度化され、国家財政の中で大きな地位を占めることになった(「庸調制から交易制へ」[2])。
脚注
参考文献
- 早川庄八「交易制」(『国史大辞典 5』(吉川弘文館、1985年) ISBN 978-4-642-00505-0)
- 俣野好治「交易」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523002-3)
- 黒田洋子「交易」(『日本古代史大辞典』(大和書房、2006年) ISBN 978-4-479-84065-7)