蘭学
蘭学(らんがく)は、江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学術・文化・技術の総称。幕末の開国以後は世界各国と外交関係を築き、オランダ一国に留まらなくなったため、「洋学」(ようがく)の名称が一般的になった。初期は蛮学(「南蛮学」の意)、中期を「蘭学」、後期を「洋学」と名称が変わっていった経緯がある[1]。
歴史
蘭学の先駆
先駆者としては、肥前国長崎生まれの西川如見がおり、長崎で見聞したアジアなどの海外事情を通商関係の観点から記述した『華夷通商考』を著した。彼はまた、天文・暦算を林吉右衛門門下の小林義信に学んでおり、その学説は中国の天文学説を主としながらもヨーロッパ天文学説についても深い理解を寄せていた。当時の天文学者、渋川春海は平安時代以来の宣明暦を改めて貞享暦を作成している。
蘭学受難の時代
蘭学興隆に伴い、幕府は高橋景保の建議を容れ、1811年に天文方に蛮書和解御用を設けて洋書翻訳をさせたが、これは未完に終わった。文政年間の1823年にはシーボルトが日本を訪れ、長崎の郊外に鳴滝塾を開いて高野長英や小関三英などの門下生を教えた。また1825年には薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーが来日し、シーボルトの下で働いた[2]。ビュルガーは1827年、日本ではじめて外科手術を行った。やがて外国からの開国要求を警戒した江戸幕府により、政治・思想面では抑圧が加わり、シーボルト事件、蛮社の獄などの弾圧事件が起こり、続いて蘭書翻訳取締令が出された。
洋学
幕末には日本も開国を余儀なくされて英語による英学、フランス語による仏学、ドイツ語による獨逸学などの新たな学問が流入するようになったために、オランダ以外の欧米諸国から到来した学術をまとめて洋学(ようがく)と呼ぶようになるのが一般的となる。高島秋帆の西洋砲術、江川英龍(太郎左衛門)の韮山反射炉、佐久間象山の大砲鋳造、永井尚志・木村芥舟の長崎海軍伝習所、勝海舟の神戸海軍操練所など、幕府洋学は軍事的実学性の強いものであった。蛮書和解御用は、外交文書の翻訳にも当たるようになり、洋学所、1858年設置の蕃書調所と改編される。洋学研究・教育機関としての蕃書調所は、1862年(文久2年)には対象言語をオランダ語から、英語などに拡大した。1863年に開成所と改称、幕府瓦解により明治新政府に受け継がれ、のちの東京大学等につながる。
発展
嘉永から幕末にかけて更に多岐に渡って発展した蘭学は語学・医学・天文学・物理学・測地学・化学の分野で、のちに『蘭学事始』を刊行し、英学にも理解を寄せる福澤諭吉や長与専斎、大鳥圭介、佐野常民などの系譜に受け継がれる。種痘所(種痘館)を開設した伊東玄朴や山脇東洋が1754年記した『蔵志』などはのちの医学に多大な影響を与えた。またオランダ正月と呼ばれる新年の祝い行事、司馬江漢らが長崎を通じてもたらされた西洋の油絵や銅版画を模写しながら遠近法や陰影法を独習し、日本の洋風画の先駆的な存在となるなど、多岐に渡って発展した。
蘭学塾
脚注
参考文献
- 前田勉 『兵学と朱子学・蘭学・国学』(平凡社 2006年) ISBN 4582842259
- 前田勉 『江戸後期の思想空間』(ぺりかん社 2009年) ISBN 4831512249
- 『九州の蘭学』(ヴォルフガング・ミヒェル、鳥井裕美子、川嶌眞人編、思文閣出版、2009年) ISBN 4784214100
- 宮永孝 『日本洋学史』、「第2章 蘭学―オランダ語」(三修社、2004年) ISBN 4384040113
- 『日本の近世13 儒学・国学・洋学』 (中央公論社、1993年)
「第8章 科学的思考の発達と蘭学 儒学の幕末~西洋近代への思想的対峙」
関連項目
- 蘭学者 / 蘭癖 / 出島の三学者
- 蘭学塾 / 洋学校
- 蘭方医学 / 洋風画 / 舎密 / ドゥーフ・ハルマ / 薬局方
- 津山洋学資料館 / 緒方医学化学研究所
- 日蘭関係
- 英学 / フランス学 / ドイツ学 / ロシア学 / 漢学(中国学) / 国学