クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル

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クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(Creedence Clearwater Revival、略称CCR)は、アメリカのロック・グループ。カリフォルニア州サンフランシスコ出身であるが、元祖アメリカ南部サザン・ロック、またはスワンプ・ロックの先駆者的存在だった(近年では、オルタナティブ・ロックの開祖とも)。活動期間は短いながらも人気と実績を残し、1993年にはロックの殿堂入りを果たした。

「ローリング・ストーンの選んだ歴史上最も偉大な100組のバンド」のランキングの第82位に。

来歴

1959年ジョン・フォガティ(Vocal&G)、ステュ・クック(B)、ダグ・クリフォード(DS)の3人が中学校時代に出会って結成されたブルー・ベルベッツを前身とする。後にジョンの兄で、既にバンド活動をしていたトム・フォガティ(G)が加入する。メンバーは全員がバークレー (カリフォルニア州)出身。1967年サンフランシスコを拠点とするジャズ系ローカル・レーベルファンタジーと契約し、バンド名をゴリウォッグスと変えてデビュー。 ゴリウォッグスは「醜い面相の男たち」という意味であり、メンバーは無理やりレーベル側から着せられた衣装と共に、この名前も気に入らなかったとのこと[1]

1968年にバンド名をクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルと改めた。クリーデンス(信用)はトムの友人「クリーデンス・ニューボール」から、クリアウォーターはオリンピア・ビール(英語版)のCMを見ていて流れる水の映像が気に入ったことと、メンバー全員の関心事であったエコロジーの観点から、リバイバルはバンドの復活、新しいバンド名で再出発との意味をこめて名付けられた[1]

同年にデビュー曲として発表した、ルイジアナのシンガーソングライター、デイル・ホーキンスのカバー「スージーQ(en)」がヒットした。ファースト・アルバムにはこの長尺な「スージーQ」、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスen)の「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー(I Put A Spell On You)(en)」カバーなどが収録され、内容はブルース・ロック色とサイケデリック・アレンジが色濃く当時ヒッピー文化が全盛だったサンフランシスコでは平凡な作風ではあったが、その後サイケデリック色を排してシンプルでストレートなスタイルへと方向転換、当時としては異質の存在として脚光を浴びる。

1969年から1971年にかけて、彼らの代表曲となる「プラウド・メアリー」、「ダウン・オン・ザ・コーナー」、「雨を見たかい」といったヒットを飛ばす。ところが「プラウド・メアリー」(3週連続)、「バッド・ムーン・ライジング」、「グリーン・リヴァー」、「トラヴェリン・バンド」(2週連続)、「ルッキン・アウト・マイ・バック・ドア」という、この5曲は全てビルボード・シングルチャートで全米第2位のみ(現在まで全米No.1を獲得出来なかった歌手、音楽グループの中で最多5曲の全米第2位楽曲を持つという珍記録になっている)。

前述通り、ヒッピー文化全盛だった60年代後半に出現した同郷バンドのほとんどがアルバム志向だった中で、唯一シングルヒットに固執していたバンドであったため、近年CCRこそロック・シーンに於ける反骨精神の祖、元祖パンク、オルタナティブ・ロックの開祖として奇妙な評価をされている節がある。

CCRの音楽は元祖サザン・ロックSouthern rockEnglish版南部のロック)と呼ばれたが、メンバーはカリフォルニア(西海岸)出身である。クックは「音楽雑誌の記者たちは勝手に南部出身だと思い込んでいた。僕らの音はジョンの想像世界と南部への憧れから生まれたもの。スワンプ・ロックとは、流行のロックとは違う僕らの音楽を、分類して記事を書きやすくするために作られた造語だ」と語っている[1]1969年2枚目のアルバム「バイヲー・カントリー(Bayou Country・英語版)」ではルイジアナバイユー(Bayou・英語版)を取り上げ、一帯のリアルな描写を歌い、「プラウド・メアリー」はジョンがミシシッピ川を連絡する蒸気船「メアリー・エリザベス号(Mary Elizabeth)」の写真から想像し[2]書き上げ、この曲がヒットし演奏公演で初めてアメリカ南部地域を訪れ、その際に「メアリー・エリザベス号」を見物したという逸話があるが、カントリー・ミュージックブルースの影響が濃いとはいえ、レコード盤などを聞いた音楽経験と空想や憧憬だけでこうした楽曲が作られたことはにわかに信じ難く、リアルタイムで聴いた当時のリスナーは、誰もがCCRを南部のバンドではないかと思っていた。ただし、70年代に隆盛を極めたサザン・ロック・バンド勢と比較すれば、技量の少なさ、単純明快な楽曲、シングルヒット中心といった観点から、サザン・ロックと決め付けるのはナンセンスだと主張する向きもある。

前途洋々かと思われたバンドだったが、楽曲のほとんどを作曲し、サックスからピアノまで自分で演奏するジョンの才能に注目が集まりすぎた故にメンバー間の軋轢が生じ(ジョン以外のメンバーがベーシックトラック録音のみに参加した曲も存在し、特に6枚目「ペンデュラム」が実質ジョンのワンマンレコーディング作ではないかと思われたことがあった[1])、1971年にバンドの実質的マネージャーも務めていたトムが脱退。ジョンが新マネージャーとして連れてこようとしたアラン・クレインは、「ビートルズを解散させた男」として悪評高い人物だった[1]。翌1972年に発表した7枚目のアルバム「マルディ・グラ」は、各メンバーの曲やヴォーカル曲も取り入れた民主的な作品であったが(チャート・インこそしたものの)失敗作に終わり、バンドはおよそ4年で解散した。

解散後~各メンバーの活動

ジョン・フォガティはソロ作で、バンドを装った一人多重録音の『ブルー・リッヂ・レインジャーズ』(1973年)と、『ジョン・フォガティ』(1975年)を発表するが、ファンタジー・レコードと楽曲の著作権にかかわる訴訟に巻き込まれたため、CCR時代の楽曲が唄えなくなってしまった。また訴訟関連に嫌気が差したことも影響して、音楽活動に消極的になり隠遁状態が続いた。しかし、1985年には『センターフィールド』を発表、同作はミリオン・セラーを記録し、1997年に発表した『ブルー・ムーン・スワンプ』では、キャリアの集大成的なサウンドを披露し、グラミー賞を獲得した。また、同年に開かれたソロ・ライヴでは、CCR時代の楽曲も披露した。しかし、『センターフィールド』の「オールド・マン・ダウン・ザ・ロード(Old Man Down The Road)」がCCR楽曲の著作権侵害を理由にファンタジー・レコードの社長ソウル・ゼインツSaul Zaentz・英語版)から提訴され[3]、再び活動は鈍化した。 2003年には、『THE BLUES Movie Project』を締めくくるコンサートに客演するなど、やや消極的であるものの健在振りをアピールしていた。2007年、訴訟問題[4]が解決したジョンは、古巣のファンタジー・レーベルから『リバイバル』を発表。2013年には、『ロート・ア・ソング・フォー・エブリワン』でCCR時代の曲を様々なゲスト・ミュージシャンと共に再演している。

クック、クリフォードの2人は、 1976年ドン・ハリソン・バンド(Don Harrison Band・英語版) を経て様々なセッションに参加[5]、現在は主に「クリーデンス・クリアウォーター・リビジット」としてライヴ活動を行っているが、現在迄ジョンとの交流、接触は一切絶っているとのこと。

トム・フォガティは、脱退後ソロ・アルバム数枚リリースしたがいずれもセールスでは失敗に終わり、その後もリーダー・バンドの「Tom Fogerty&The Ruby」等で活動を続けていたが、1990年に糖尿病関連の疾病手術で受けた輸血から感染したエイズにより48歳でこの世を去った。

シングル

1968

  • Porterville / Call It Pretending
  • Suzie Q (Part One) (US #11) / Suzie Q (Part Two)
  • I Put A Spell On You (US #58) / Walk On The Water

1969

  • Proud Mary (US #2) / Born On The Bayou
  • Bad Moon Rising (US #2) / Lodi (US #52)
  • Green River (US #2) / Commotion (US #30)
  • Down On The Corner (US #3) / Fortunate Son (US #14)

1970

  • Travelin' Band (US #2) / Who'll Stop The Rain (US #2)
  • Up Around The Bend (US #4) / Run Through The Jungle (US #4)
  • Lookin' Out My Back Door (US #2) / Long As I Can See The Light (US #2)

1971

  • Have You Ever Seen The Rain (US #8) / Hey Tonight
  • Sweet Hitch-Hiker (US #6) / Door To Door

1972

  • Someday Never Comes (US #25) / Tearin' Up The Country

1976

  • I Heard It Through The Grapevine (US #43) / Good Golly Miss Molly

オリジナル・アルバム

  • Creedence Clearwater Revival (1968) (US #52)
  • Bayou Country (1969) (US #7)
  • Green River (1969) (US #1)
  • Willy and the Poor Boys (1969) (US #3)
  • Cosmo's Factory (1970) (US #1)
  • Pendulum (1970) (US #5)
  • Mardi Gras (1972) (US #12)

ライヴ・アルバム

  • Live In Europe (1973) (US #143)
  • The Concert (1980) (US #62)

ベスト・アルバム

  • Creedence Gold (1971) (US #12)
  • More Creedence Gold (1973) (US #46)
  • Chronicle, Vol. 1 (1976) (US #100)
  • Chronicle, Vol. 2 (1986)

代表曲

雨を見たかい (Have You Ever Seen the Rain?)

1971年シングルとして発売されビルボードで8位になった。 その後、同曲は数々のミュージシャンによってカバーされている。2006年にはロッド・スチュワートがアルバム『Still the Same... Great Rock Classics of Our Time』の中で、1993年にはラモーンズがアルバム『Acid Eaters』でカバーした。2013年にはジョン・フォガティが自身のアルバム『ロート・ア・ソング・フォー・エブリワン』で再演している。

俗にこの曲の歌詞が「ベトナム戦争反戦歌で、「雨」はアメリカ軍によるナパーム弾爆撃の隠喩である」という説が広く信じられているが(映画「マイ・バック・ページ」でもそのことに言及するセリフがある)、作詞作曲者ジョン・フォガティ自身は、1997年に当時のオフィシャル・ウェブサイトで次のように発言し、反戦歌であることを否定している。

「このことは、ベイエリアでは他の地区よりもよく起こる。陽が照っているのに雨が、虹と雨粒が降ってくることがある。風が吹くと、雨が金門橋を越えてサンフランシスコ湾に飛ばされて来るんだ。『雨を見たかい』はCCRの崩壊についての歌なんだ。"Have you ever seen the rain coming down, sunny day?" の部分は、sunny dayが黄金時代のクリーデンスを示唆している。しかし、俺達に雨が降り掛かって来るのが見えたということを言っている訳さ」Hank Bordowitz著 "Bad Moon Rising" p.107-108

一方、ドラムのダグは、ひとつ前のアルバムの曲「Who'll Stop the Rain」と混同されたのではないかと語っている。この曲の「雨」はニクソン政権による空爆を指しているという[1]

日本公演

  • 1972年
  • 2月25日 愛知県体育館
  • 2月28日 大阪厚生年金会館大ホール (昼夜2回公演)
  • 2月29日 日本武道館

関連項目

出典/脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 2010年4月22日放送 BS-TBS 「Song To Soul」#44 雨を見たかい - ジョン・フォガティ以外のメンバー、エンジニア等のインタビューで構成されている
  2. [1]着想のはじまりは女給仕についての歌だったが船の歌に変化したという。
  3. ジョン・フォガティがCCR時代に自身が作った「ラン・スルー・ザ・ジャングル(Run|Through The Jungle)から盗作したとされた。
  4. 茶番劇さながらだった連続訴訟もソウル・ゼインツが2007年ファンタジー・レコードを売却し、ほぼ終結した。
  5. )クック(en)はもと、13thフロア・エレベーターズロッキー・エリクソンのバンドなどに参加している。

外部リンク