新田義貞
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新田義貞 | |
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時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
生誕 | 正安3年(1300年)頃 |
死没 | 延元3年/建武5年閏7月2日(1338年8月17日) |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 守邦親王→後醍醐天皇 |
氏族 | 新田氏 |
新田 義貞(にった よしさだ)
鎌倉時代末期,南北朝時代の武将。元弘の乱で,幕府側に属し楠木正成を千早城に攻めていたが,元弘3=正慶2 (1333) 年上野に帰国,5月8日討幕の兵を挙げた。5月 22日鎌倉幕府を滅ぼし,まもなく上洛。越後守,越後守護,上野介を兼任。建武1 (34) 年従四位上,播磨守を兼任。翌年,中先代 (なかせんだい)
の乱を機に足利尊氏が建武政府 (建武中興 ) にそむくと,尊氏追討のため東下したが,箱根竹ノ下の戦いに敗れ,また延元1=建武3 (36) 年には摂津兵庫で敗れ,ついに北陸に逃れた。越前金崎城を中心に北陸経営に努めたが,延元3=暦応1 (38) 年斯波高経軍の藤島城攻めにあい,戦死した。
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