守邦親王
守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9カ月と在職期間が最長であった。8代将軍久明親王の子。
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生涯
8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘の間の子として生れる。
延慶元年(1308年)8月、父に代わってわずか8歳で征夷大将軍に就任した。当時幕府の実権は執権の北条氏(中心は得宗家)が握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった(その北条得宗家の当主である北条高時の地位すら形骸化し、真の実権は長崎円喜ら御内人が握っていた[1])。そのため将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっておらず、文保元年(1317年)4月に内裏(冷泉富小路殿)造営の功によって二品に昇叙されたことがわかることくらいである[2]。
また、題目宗の是非を問う問答対決の命を亡き日蓮の六老僧の一人日朗(武蔵国長栄山池上本門寺住職)に下している。日朗は高齢ゆえに弟子日印を出し、文保2年(1318年)12月20日から翌元応元年(1319年)9月15日にかけて題目宗と日本仏教全宗派と法論を戦わせた(鎌倉殿中問答)。結果、日印は仏教全宗派を論破し、幕府は題目宗の布教を正式に認める。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)が起きたが、その際に後醍醐天皇の皇子護良親王が発した令旨では討伐すべき対象が「伊豆国在庁時政子孫高時法師」とされており、守邦親王は名目上の幕府の長としての地位すら無視されていた[3]。
元弘3年5月22日、足利義詮や新田義貞の攻撃により鎌倉は陥落(鎌倉の戦い)し、鎌倉幕府は滅亡した。同日に得宗の高時以下北条一族の大半は東勝寺で自害して果てた(東勝寺合戦)が、その日の守邦親王の行動は何も伝わっておらず、ただ将軍職を辞して出家したという事実のみしかわかっていない。守邦親王は幕府滅亡後の三カ月後に薨去したと伝えられているが、その際の状況も全くわかっていない[4]。享年33。
官歴
日付は旧暦である。
将軍在職中の執権
- 北条師時(宗政の子。10代執権)
- 北条宗宣(宣時の長男。11代執権)
- 北条煕時(為時の長男。12代執権)
- 北条基時(時兼の長男。13代執権)
- 北条高時(9代執権貞時の三男。得宗。14代執権。長男(北条邦時)に「邦」の字を偏諱として与える。)
- 北条貞顕(顕時の四男。15代執権)
- 北条守時(久時の長男。16代執権、「守」は親王が偏諱として与えたもの)
偏諱を与えた人物
脚注
- ↑ 日本史史料研究会監修・細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(2015年 吉川弘文館)P176
- ↑ 『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P203
- ↑ 『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P203
- ↑ 『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P203-204
- ↑ 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27))より。祖父の義宗が宗尊親王、父の久時が久明親王と、赤橋流北条氏の当主は代々、皇族将軍と烏帽子親子関係を結んでいた(山野、同前)。
- ↑ 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27))より。北条氏得宗家の当主は代々将軍と烏帽子親子関係を結んでおり(山野、同前)、祖父の貞時と父の高時を除く歴代当主は烏帽子親である将軍から一字を拝領していた。邦時の場合、既に「守」の字を与えられた守時がいたので「邦」の字を与えられたものとみられる。
関連項目
登場作品
- 太平記 (NHK大河ドラマ) - 1991年、演:吉川英資