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毛利吉就 | |
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時代 | 江戸時代 |
生誕 | 寛文8年1月21日[1](1668年3月3日) |
死没 | 元禄7年2月7日(1694年3月2日)[2] |
藩 | 長州藩藩主 |
毛利 吉就(もうり よしなり)は、江戸時代前・中期の人物で長州藩の第3代藩主。
第2代藩主・毛利綱広の長男[1]。母は松平忠昌の娘・高寿院(千姫)[1][3]。正室は小浜藩主・酒井忠隆の娘・長寿院(亀子)[2]。官位は従四位下長門守[2]。
寛文8年(1668年)正月21日、江戸麻布の藩邸で生まれる[1][3]。天和2年(1682年)2月27日、父の隠居により跡を継いだ[1][3]。4月に将軍・徳川綱吉から偏諱を賜り[3]、吉就と名乗り、従四位下に叙位、侍従に叙任され、長門守と称する[3]。
藩主としては、貞享元年(1684年)にはじめて領国に入国する[3]。貞享3年(1686年)に貞享検地と呼ばれる検地を行なって、領民への徴税を是正することに務める一方[3]、新堀川の治水工事[3]や城下町の整備に取り組み、元禄4年(1691年)には護国山東光寺を建立する[3]など積極的な政治を展開するが、同時に藩財政の悪化も招くことになった。しかし、これに反発する家臣団との対立に苦労する中、元禄7年(1694年)2月7日に江戸桜田の藩邸で急死してしまった[2][3]。享年27[2][3]。
吉就には嗣子がなく、跡を吉就の異母弟で養嗣子の就勝(吉広)が継ぐこととなった。墓所は萩市椿東の東光寺[2][3]。
偏諱を与えた人物
- 毛利就勝(実弟・養嗣子、のちの毛利吉広。就勝は右田毛利就信の養子になっていた時の諱。)
- 毛利就久(厚狭毛利家)
- 毛利就包(吉敷毛利就直の次男で広政・広包の次兄、初め村上武真)
- 毛利就芝(阿川毛利家)
- 宍戸就延(就宗)(熊谷元実の子で宍戸就附・熊谷就実の実弟。就附死後、宍戸氏を継ぐ。)
- 志道就晴(志道氏、主に吉広・吉元時代に当職(国家老・執政)を務めたが、毛利広政の直訴により罷免。)
- 志道就保(椙杜元縁の養子・就幸の子で椙杜就保とも。元縁実父・志道元保の曾孫で就晴とは親戚関係にある。娘に宍戸広周正室。主に吉広・吉元時代に当役を務めたが、毛利広政の直訴により罷免。)
- 清水就治(清水氏)
- 宍道就晴(宍道氏)
- 福原就澄?(福原広俊の子)
- 益田就高(益田氏分家、益田景祥の孫で広尭・宍道広慶の実父。)
- 益田就賢(益田氏分家から本家・須佐領主益田家第7代当主となる。)
- 椋梨就政(椋梨氏)
脚注
参考文献
- 時山弥八編 『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』、1916。
- 吉田祥朔 『近世防長人名辞典』 (増補版) マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961。