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日本進歩党 Japan Progressive Party | |
---|---|
成立年月日 | 1945年11月16日 |
前身政党 | 大日本政治会 |
解散年月日 | 1947年3月31日 |
解散理由 | 新党結成のため |
後継政党 | 民主党 |
政治的思想・立場 |
保守 統制経済 反共主義[1] |
日本進歩党(にほんしんぽとう)は、終戦直後に結成された保守政党(1945年11月16日 ‐ 1947年3月31日)。
Contents
党史
1945年11月16日に旧大日本政治会を母体として結党[2][3][4]。その多くが旧立憲民政党から大政翼賛会に移った議員であり、民政党最後の総裁であった町田忠治を総裁として、幹事長に鶴見祐輔、総務委員に斎藤隆夫ら10名、政務調査会長に太田正孝を任じた。ただ、結党当初高齢の町田(当時82歳。日本憲政史上国会議員を擁する新党の党首として最高齢記録)に代わって陸軍大将の宇垣一成を総裁に擁立する構想があり[5]、「国体護持」や統制経済の維持を掲げるなど[6]、帝国憲法体制擁護の主張が強いものとなった。
翌年1月の公職追放令によって町田以下、274人中260人が公職追放され[7]、残ったのは斎藤隆夫総務委員・犬養健・逢沢寛・一松定吉・保利茂(なお犬養・保利は後に追放された)らわずか14人の議員だけであった。
しかし、同年4月の総選挙では追放された候補者の代わりに新人を多数擁立する[8]。結果94人を当選させるも、日本自由党に次ぐ第2党に転落した[9]。斎藤らは民政党やその前身であった旧憲政会の内閣で外務大臣を務めた事もある幣原喜重郎首相を総裁に擁立することで幣原内閣の延命を図ったが、猛反発を受けて失敗した。次いで成立した第1次吉田内閣では日本自由党と連立政権を構成し、与党に留まった[10]。
1947年、吉田茂総裁に不満を抱く芦田均ら日本自由党内の反主流派と合同して民主党として再出発を図る事となった。
役職
歴代執行部役員表
総裁 | 幹事長 | 総務会長 | 政務調査会長 |
---|---|---|---|
鶴見祐輔 | 川崎克 | 太田正孝 | |
町田忠治 | 〃 | 〃 | 〃 |
〃 | 犬養健 | 斎藤隆夫 | 木村小左衛門 |
〃 | 一松定吉 | 〃 | 〃 |
〃 | 田中萬逸 | 〃 | 〃 |
幣原喜重郎 | 〃 | 〃 | 〃 |
〃 | 〃 | 犬養健 | 〃 |
〃 | 〃 | 〃 | 成島勇 |
〃 | 石黒武重 | 〃 | 苫米地義三 |
- この節の出典:村川 & 石上 1995
歴代総裁一覧
代 | 総裁 | 在任期間 | |
---|---|---|---|
1 | 60px | 町田忠治※ | 1945年(昭和20年)11月18日 - 1946年(昭和21年)4月23日 |
2 | 60px | 幣原喜重郎 | 1946年(昭和21年)4月23日 - 1947年(昭和22年)3月31日 |
- 1946年1月の町田総裁公職追放から、同年4月の幣原総裁就任まで、犬養健幹事長、斎藤隆夫総務委員らが職務を代行。
- この節の出典:村川 & 石上 1995
党勢の推移
衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 273/- | 466 | 公職追放-259 |
第22回総選挙 | ○94/376 | 468 | 追加公認+16 |
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
- 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった沖縄選挙区(定数2)を含む。
- この節の出典:石川 & 山口 2004
脚注
関連項目
参考文献
- 澤, 大洋 (1994), “日本進歩党の政治行動と解党”, 東海大學紀要 政治経済学部 26: 1-32
- 澤, 大洋 (1995), “日本進歩党の結党とその政策”, 東海大學紀要 政治経済学部 27: 97-118
- 粟屋, 憲太郎 (1988), 昭和の政党, 文庫版 昭和の歴史, 6, 小学館, ISBN 4-09-401106-4
- 神田, 文人 (1989), 占領と民主主義, 文庫版 昭和の歴史, 8, 小学館, ISBN 4-09-401108-0
- 村川, 一郎; 石上, 泰州 (1995), 日本の政党, 丸善ライブラリー, 丸善, ISBN 4-621-05153-9
- 石川, 真澄; 山口, 二郎 (2004), 戦後政治史, 岩波新書, 岩波書店, ISBN 4-00-430904-2