「関宿」の版間の差分
ja>いいすく 細 |
細 (1版 をインポートしました) |
(相違点なし)
|
2018/8/8/ (水) 08:55時点における最新版
関宿(せきじゅく、せきしゅく)は、三重県亀山市にある江戸時代における東海道の宿場の呼称である。現在も、東西追分間の旧東海道沿いに、当時の宿場の古い町並みが残されている。国の「重要伝統的建造物群保存地区」および、旧建設省選定の「日本の道100選」のひとつ。
Contents
概要
東海道五十三次の47番目の宿場である。三重県の北西端、鈴鹿山脈の山裾に位置しており[1]、2005年1月11日に「平成の大合併」で亀山市に合併された関町があったところでもある。
古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。東の追分から西の追分までの約1.8キロメートルにわたり、伝統的な町家が200棟以上現存するなど、町並みがよく保存されていて、旧文化庁により選定された国の重要伝統的建造物群保存地区(昭和59年)と日本の道100選(昭和61年)に選定されている[1][2]。
歴史
宿場の名は、愛発の関(越前国)・不破の関(美濃国)とともに「日本三関」に数えられ、670年頃に軍事上の目的で設置された「鈴鹿の関」に由来する[1]。壬申の乱(672年)に大海人皇子(天武天皇)が、鈴鹿の関を閉ざしたことは有名である[1]。
現在に続く関宿の町並みは、天正年間(16世紀末)に伊勢国領主で戦国武将であった関盛信が、領内の道路を改修したことに始まり、慶長6年(1601年)に徳川家康が行った宿駅制度によって、東海道47番目の宿場となってから本格的に整備された[1]。東の追分で伊勢別街道を分岐し、西の追分で大和街道と分かれる立地条件から、旅人の通行も頻繁になり、江戸時代は宿場として大変賑わったといわれる[1]。
戦後、旧東海道の宿場の大半が旧態をとどめないなかで、関宿は江戸時代当時の宿場の賑わいを彷彿させる街並みが残されていたことから、町並み保存の機運が次第に高まり、1980年(昭和55年)2月に地元有志を中心に「町並み保存会」が結成され、同年6月には関町において「関町関宿伝統的建造物群保存条例」を制定した[1]。条例制定以降は、多くの町家を伝統的建造物として保存と修復がなされ、1984年(昭和59年)12月には、関宿の面積25ヘクタールにおよぶ地区を対象に、全国で20番目・三重県では初となる国の「重要伝統的建造物保存地区」に選定された[1]。さらに、1986年(昭和61年)8月10日に歴史性と親愛性を基準に、「東海道の宿場町・関宿」として旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている[3]。
最寄り駅
史跡・みどころ
- 関まちなみ資料館[2]
- 江戸末期の町家を公開。土蔵では関宿の歴史を展示する。入館料は「旅籠玉屋歴史資料館」とセットで、300円。
- 鶴屋脇本陣跡 (波田野家)
- 川北本陣跡
- 百六里庭
- 伊藤本陣跡
- 旅籠玉屋歴史資料館
- 《関で泊まるなら鶴屋か玉屋》とうたわれた関宿を代表する旅籠建築を公開する資料館。
- 深川屋
- 「関の戸」は350年前からの伝統の銘菓。
- 地蔵院
- 会津屋
- 百五銀行 関支店
- 外観は、宿場町・関宿の町並みの景観に配慮した建物で、ATMコーナーには「現金自動取扱所」の表示がされている。
坂下宿までの史跡・みどころ
- 筆捨山
- 鈴鹿馬子唄会館
位置情報
交通アクセス
- 鉄道
- 自動車
ゆかりのある人々
語源
- 関の山 関宿の夏祭りに出る山(関東で言う山車)が立派であったことから、「これ以上のものはない」という意味で使われるようになった[4]。また、山車が街道筋の建物の屋根ぎりぎりを通過する様子から、これが目一杯という意味で語源とする説もある。
重要伝統的建造物群保存地区データ
- 地区名称:亀山市関宿伝統的建造物群保存地区(選定当初は「関町関宿伝統的建造物群保存地区」)
- 種別:宿場町
- 選定年月日:1984年12月10日
- 選定基準:伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している
- 面積:25.0ha
隣の宿
脚注
注釈
出典
参考文献
- 「日本の道100選」研究会 『日本の道100選〈新版〉』 国土交通省道路局(監修)、ぎょうせい、2002-06-20。ISBN 4-324-06810-0。