「ドチリナ・キリシタン」の版間の差分
(→参考文献) |
細 (1版 をインポートしました) |
(相違点なし)
|
2018/9/26/ (水) 02:14時点における最新版
ドチリナ・キリシタンは、近世初期にイエズス会によって作成されたカトリック教会の教理本である。当時のポルトガル語でDoctrina Christã[1](現在の表記ではDoutrina Cristã)、ラテン語でDoctrina Christiana[1]と表記する。
Contents
日本のドチリナ・キリシタン
日本で刊行されたドチリナ・キリシタンは、刊行年・刊行地共に不明の国字本「どちりいな・きりしたん」[2]、文禄元年(1592年)発行の天草版ローマ字本[3]、慶長5年(1600年)発行の長崎版ローマ字本[3][4]、同年発行の長崎版国字本「どちりな・きりしたん」の4種類がある[1][5][6]。ローマ字本はヨーロッパ人の日本語学習のため、国字本は日本人信徒の教理学習用として編纂され、問答体の平易な文章で書かれている。天正18年(1590年)に2度目の来日をしたアレッサンドロ・ヴァリニャーノがヨーロッパから持ち込んだ活字印刷機により他の数々の書物と共に印刷された。
ドチリナ・キリシタンでは、キリスト教が来世における救済の教えであることを、キリシタンに対して繰り返し強調していた[7]。また、デウスの十戒の第4の掟で、「父母に対する孝行」を「主人・司たる人(主君や領主)に対する忠誠と服従」と敷衍して規定していた[8]。
ドチリナ・キリシタンの変遷
1540年代にインドでの布教に従事していたフランシスコ・ザビエルは、同地方の住民のために問答体の教理書カテキスモを作成した。そして日本に渡航する際に、日本人アンジローに教理書を日本語に翻訳させた。日本の宗教事情を考慮して仏教用語を多く借用したが、来日後に仏教用語を払拭した改訂版を作成した[1]。
ガスパル・ヴィレラが上京した当時、宣教師が日本で用いていたドチリナ・キリシタンは、弘治2年(1556年)に来日したインド菅区長メルシオール・ヌーネスが、それまで使われていたザビエル作成の教理書を全面的に改訂して、バルタザール・ガーゴ神父に新たに編纂させた25章からなる「二五ヶ条」と呼ばれる教理書であった[9][1]。ルイス・フロイスが永禄11年(1568年)当時畿内布教のために使用したドチリナ・キリシタンも、日本語に翻訳されていたヌーネス編纂の教理書であった[10]。
ポルトガルのイエズス会士マルコス・ジョルジュが中心となって、子供を対象にした対話式の教理書「ドチリナ」が作成され、1566年にリスボンで上梓された[11]。これが海外で布教に従事するイエズス会士に使用され、永禄11年(1568年)に日本にももたらされた。このドチリナが日本語に翻訳された後、日本の実情に即して成人向けに編纂し直され、写本となり日本各地で使用された[1]。この写本は、国字本「どちりいな・きりしたん」が印刷されるまで約20年間使用された[11]。
関連項目
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 『国史大辞典』10巻 吉川弘文館 (381 - 382頁)。
- ↑ 天正19年(1591年)に島原半島の加津佐で刊行されたとも言われる。
- ↑ 3.0 3.1 『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 175頁。
- ↑ 『国史大辞典』4巻 吉川弘文館 「キリシタン版」(437頁)。
- ↑ 『長崎県大百科事典』 長崎新聞社 「ドチリナ・キリシタン」(586頁)。
- ↑ 長崎版「どちりな・きりしたん」は、長崎の町年寄であった後藤宗印により刊行された(『国史大辞典』5巻 吉川弘文館 「後藤宗印」(915頁)、『長崎県大百科事典』 長崎新聞社 「後藤宗印」(330頁))。
- ↑ 『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 14頁。
- ↑ 『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 24頁。
- ↑ 『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 104 - 105頁。
- ↑ ルイス・フロイスの1568年10月4日付書翰 (Cartas I,250v) より(『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 104 - 105頁)。
- ↑ 11.0 11.1 『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 (107頁)。