高山樗牛
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高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、 1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。
年譜
- 1871年2月28日(明治4年1月10日)、羽前国鶴岡(現・山形県鶴岡市)に生まれた。父は庄内藩士・斎藤親信。
- 1872年(明治5年)、伯父・高山久平の養子になった。養父は山形県、福島県、警視庁などに勤務した。
- 福島中学中退、東京英語学校を経て仙台の第二高等学校に入学、井上準之助が同級の友人であった。樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表。
- 1893年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。土井晩翠らが級友であった。徴兵忌避のため、本籍を北海道に移したという。
- 1894年、読売新聞の懸賞小説に、『滝口入道』が入選[1]、新聞連載された(『平家物語』から題材を取ったもので、生前は匿名であった)。『帝国文学』『太陽』などに盛んに文芸評論を発表した。
- 1896年に大学を卒業。第二高等学校の教授になった。
- 1897年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行った[2]。
- 1900年、文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石・芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学の教授が内定していた。しかし、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。
- 1901年、留学を辞退した。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。この年、東大の講師になり週1回、日本美術を講じた。『美的生活を論ず』(1901年)は、美の本質を本能の満足にあるとしたもの。北村透谷の影響が見られるが、透谷の近代的な恋愛観とは異なり、本能を肯定する内容になってしまっている。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めた。
- 1902年(明治35年)、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与された。肺結核の病状が悪化し、東大講師を辞任、12月24日に神奈川県平塚の杏雲堂病院分院で死去。墓所は静岡市清水区の龍華寺で墓碑銘に「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」とある。戒名は文亮院霊岱謙光日瞻居士[3]。
評価
日本や中国の古典に造詣が深く、欧米の思想にも通じ、美文体を得意とし、文豪と呼ばれた。
日本主義、ロマン主義、ニーチェ主義、日蓮主義など主張の変遷が激しく、急激な近代化で変転した明治思想史の歩みを体現したともいえる。樗牛の説いた日本主義の優勝劣敗論の影響は大きく、当時の小学校教科書にまで樗牛流の表現が多く見られた[4]。
若くして亡くなった点を差し引いても、北村透谷、石川啄木らと比べて思想の浅さが指摘されている。自身が病弱であったため、ニーチェの説く超人や日蓮といった強者に憧れた。その一方、民衆を弱者と決めつけ[5]、社会主義に対しても弱者の思想として否定的であった。
脚注
関連項目
著書
- 『新編倫理教科書』井上哲次郎共著 金港堂 1897
- 『世界文明史』博文館 帝国百科全書 1908
- 『論理学』博文館 帝国百科全書 1908
- 『近世美学』編 帝国百科全書 1899
- 『世界歴史譚 第1編 釈迦』博文館 1899
- 『時代管見』博文館 1899
- 『菅公伝』同文館 1900
- 『文芸評論』博文館 1901
- 『樗牛全集』全5巻 斎藤信策,姉崎正治共編 博文館 1904-1907
- 第1巻 (美学及美術史)
- 第2巻 文藝評論
- 第3巻 (史論及史伝)
- 第4巻 (時勢及思索)
- 第5巻 (想華及消息)
- 『樗牛全集 註釈 改訂』全7巻 姉崎正治,笹川種郎編 博文館 1925
- 第1巻 (美学及美術史)
- 第2巻 (文芸評論)
- 第3巻 (史論及史伝)
- 第4巻 時論及思索
- 第5巻 (世界文明史及近世美学)
- 第6巻 (想華及感激)
- 第7巻 (日記及消息)
- 『滝口入道』岩波文庫 1938
- 『滝口入道』新潮文庫 1956
- 『滝口入道』塩田良平校註 角川文庫 1958
関連人物
外部リンク
典拠レコード: