金須嘉之進
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金須 嘉之進 | |
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生誕 | 1867年2月21日 |
出身地 | 日本宮城県仙台市 |
死没 | 1951年4月7日(-16歳没) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 演奏家、聖歌指揮者、作曲家 |
金須 嘉之進(きす よしのしん、1867年2月21日 - 1951年4月7日)は演奏家・聖歌指揮者・作曲家。正教徒であり、聖名はインノケンティ。主に日本正教会で聖歌の指導・聖歌の作曲等で活躍したほか、世俗の領域でも各種音楽教育に尽力した。リムスキー=コルサコフに師事。[1]弟子に古関裕而がいる。
略歴
- 1867年(慶応3年)2月21日、当時の仙台藩で生まれる。
- 1881年 - 駿河台にあった正教会の神学校に入学、ヤコフ・チハイやデミトリイ・リオフスキーなどに音楽を学んだ。
- 1891年夏 - リムスキー=コルサコフが教授を務めるペテルブルク音楽院に留学、リムスキー=コルサコフに師事。ヴァイオリン、ピアノの奏法のほか、聖歌指揮法および作曲理論を習得。
- 1894年(明治27年) - 帰国。1919年(大正8年)まで25年間、リオフスキー、小原甲三郎らと共にニコライ堂などで聖歌隊の指導に当たる。
- 1895年(明治28年)3月 - 本郷中央会堂での慈善音楽会で、ラファエル・フォン・ケーベルらとともにヴァイオリンを演奏。
- その後、満洲鉄道のロシア語通訳としてハルピンに駐在するなどしたのち、関東大震災後は仙台に移り、宮城県女子師範学校、吉田女学校、宮城県女子専門学校などで教鞭をとる。青葉音楽院を主宰し地域の音楽教育に貢献。この頃に福島県の川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に勤務していた古関裕而と知り合う。
- 1939年(昭和14年) - 東京大森に移転。
- 1943年(昭和18年) - 鎌倉に移住。
- 晩年に再度半年ほど、ニコライ堂の聖歌指導を担当(年月不詳)
- 1951年(昭和26年)4月7日 - 84歳で永眠。
作品
正教会聖歌
- 常に福にして - 1925年(大正14年)11月18日作
- 平和の憐み - 1926年(大正15年)2月16日作
- 天主經(主の祈り) - 1927年(昭和2年)2月11日作
- ヘルヴィムの歌 - 1935年(昭和10年)7月20日作
歌曲
大学歌・校歌
- 慶應義塾大学(旧塾歌)(作詞:角田勤一郎) - 外部リンク:慶應義塾歌集
- 聖和学園短期大学校歌(作詞:国安康嶺)
- 宮城県石巻女子高等学校(作詞:渡辺義丸)
- 宮城県石巻好文館高等学校(作詞:渡辺義丸) - 外部リンク:宮城県石巻好文館高等学校校歌
- 荒浜小学校(作詞:武田直衛) - 外部リンク:荒浜
脚注
- ↑ 出典:藍川由美 「古関裕而を歌う」
- ↑ 出典:中村理平『キリスト教と日本の洋楽』大空社、98頁 - 99頁
参考文献
- 牛丸康夫著『日本正教史』日本ハリストス正教会
- 中村理平『キリスト教と日本の洋楽』大空社
- 金須嘉之進『ペトログラード音楽院の憶ひ出』 月刊楽譜第23巻3月号 54-56頁 昭和9
関連項目
- ニコライ・カサートキン - 日本正教会の亜使徒・大主教。聖人。
- パーヴェル・チェスノコフ - 金須と同時代にロシア正教会で活躍した正教会聖歌作曲家。ソ連政府による宗教弾圧の下で、聖歌作曲を禁じられる。
外部リンク
- 渡辺義丸先生、金須嘉之進氏について - 宮城県石巻好文館高等学校のページ
- 明治文化とニコライ - 日本ハリストス正教会のページ。金須がニコライ堂の聖歌指揮者として活躍していた事が記されている。
- 仙台正教会の沿革 - 仙台ハリストス正教会のページ。金須が仙台の聖歌隊の指導にも当たって居た事が記されている。
- 慶應義塾豆百科No.66塾歌制定の経緯 - 慶應大学のページ。金須が作曲した旧塾歌について若干の説明あり。
- 宮城県女子専門学校資料展 展示目録
- http://asano-hammond.com/ ジャズハモンドオルガニスト 浅野仁 - 金須嘉之進の曾孫 慶應義塾出身