ピエール・フルニエ
ピエール・フルニエ | |
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基本情報 | |
生誕 | 1906年6月24日 |
出身地 | フランスパリ |
死没 | 1986年1月8日(79歳没) |
学歴 | パリ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | チェリスト |
担当楽器 | チェロ |
ピエール・フルニエ(Pierre Fournier ,1906年6月24日 - 1986年1月8日)はフランスのチェロ奏者。気品のある容貌と格調の高い表現、優雅で洗練された演奏で「チェロの貴公子」と呼ばれた。独奏者として優れていただけでなく、世界的な名手たちとの室内楽を多く手がけた。
経歴
パリ生まれ。幼少より母親にピアノを学んだが、9歳のとき小児麻痺による右足の障害のためにチェロに転向。パリ音楽院でアンドレ・エッカン、ポール・バズレールに師事する。1923年にパリ音楽院を一等賞で卒業。そして1924年、パリでコンサート・デビュー。1930年ごろガブリエル・ブイヨン(ヴァイオリン)、ヴラド・ペルルミュテール(ピアノ)とのピアノ・トリオで注目される。
1942年、ヨゼフ・シゲティ(ヴァイオリン)、アルトゥール・シュナーベル(ピアノ)との三重奏、さらにウィリアム・プリムローズ(ヴィオラ)を加えた四重奏で活動。1945年、カザルス三重奏団からパブロ・カザルスが抜けた後、ジャック・ティボー(ヴァイオリン)、アルフレッド・コルトー(ピアノ)とトリオを組む。
日本での演奏活動としては、1954年に初来日。ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)とジョイントリサイタルを開き、多くのファンを虜にする。その後もたびたび来日した。
教育者としては、1937年に31歳でエコール・ノルマル音楽院教授となる。第二次世界大戦中はドイツ軍による占領中もパリに残って活動するが、ナチスに迎合することはなかったという。1941年から1949年までパリ音楽院教授。
1963年、レジオン・ドヌール勲章を受章。
録音
1940年代後半からHMVにアルトゥール・シュナーベルとのベートーベンのチェロソナタ第3番やドヴォルザークのチェロ協奏曲(セルジュ・チェリビダッケ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 1945年、ラファエル・クーベリック指揮フィルハーモニア管弦楽団 1948年)などを録音。LP以降は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲の再録音(ジョージ・セル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1962年)、エルガーのチェロ協奏曲(アルフレッド・ウォーレンスタイン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1966年)、ヴィルヘルム・バックハウスとのブラームスのチェロソナタなどがある。特にジョージ・セルと共演したドヴォルザークのチェロ協奏曲は、緊張感あふれながらも品のよさと格調の高さで名盤の誉れが高い。1960年代からはドイツ・グラモフォンレーベルからJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲、ヘンリク・シェリング、ヴィルヘルム・ケンプとのベートーベンのピアノ三重奏曲全集、フリードリヒ・グルダ及びヴィルヘルム・ケンプとの同チェロソナタ集など、多くの名盤がある。来日公演のライヴ盤も発売されている。
献呈曲など
同時代の作曲家たちからは、フランシス・プーランクのチェロソナタ、ボフスラフ・マルティヌーのチェロ協奏曲、フランク・マルタンのチェロ協奏曲などがフルニエに献呈されている。とくにマルティヌーのチェロ作品については、その多くをフルニエが初演している。
日本人の弟子
フルニエに教えを受けた日本人チェリストには、藤原真理、上村昇、菅野博文、堀了介、山崎伸子がいる。
親族・家族
- 弟:ジャン・フルニエ:ヴァイオリニスト
- フルニエ夫人は日本人であった(フルニエ2度目の結婚)