ビリー・サウスワース
ビリー・サウスワース(William Harold "Billy" Southworth、1893年3月9日 - 1969年11月15日)
アメリカ合衆国ネブラスカ州ハーヴァード出身のプロ野球選手(外野手)。右投げ左打ち。
経歴
選手時代
1913年にクリーブランド・インディアンスからメジャーリーグにデビュー、1915年に60試合に出場したがその後2年間メジャーの試合の出場機会はなく、1918年にパイレーツにトレードされる。パイレーツでは1918年に64試合で19盗塁、打率.341を記録し、翌1919年にはリーグ最多の14本の三塁打を放つ活躍をし、外野のレギュラーの座を掴んだが、1921年のシーズン開幕前に、ラビット・モランビルとの1対3トレードでボストン・ブレーブスに移ることになる。ボストンには3年在籍し、3年とも3割を超える打率を残している。その後1923年にニューヨーク・ジャイアンツに移籍し、1924年には自身初めてのワールドシリーズに出場。その後1926年にセントルイス・カージナルスに移籍し、同年のワールドシリーズで29打数10安打、4打点を挙げる活躍をした。
1928年は選手として出場せず、マイナーリーグAAのロチェスターで指揮をとっていた。サウスワースはこの年ロチェスターをリーグ優勝に導くと、翌1929年にカージナルスの選手兼任監督となり、90試合の指揮をとっている。現役選手としての出場はこの年が最後で、以後はコーチ、監督に専念するようになる。
監督時代
1929年にビル・マケシュニーに替わってカージナルスの監督となったサウスワースは、選手たちに自動車の運転を禁じるなどの厳しい規律を課したため選手達の反発を招き、この年はシーズン途中でロチェスターに送り返されている。この頃からアルコール中毒の症状に見舞われていたサウスワースは、2シーズンほど現場から離れた時期があったものの、1933年にニューヨーク・ジャイアンツのコーチをつとめたあと、1935年に再びカージナルスのマイナー組織に復帰、その後1940年には再びカージナルスの監督に就任した。
それまで低迷していたカージナルスは、サウスワースの指揮の下で順位を上げ、1942年から1944年に3年続けてシーズン100勝以上を挙げる常勝チームとなる。1945年には、サウスワースの息子ウィリアムが軍の飛行訓練中に墜落死するという悲劇に見舞われたが、サウスワースはフルシーズン監督を勤め、チームはリーグ2位の成績を残した。
1946年、サウスワースはボストン・ブレーブスと契約し、ここでも低迷するチームを再生する。ブレーブスは1948年にリーグ優勝を果たす。しかし次の1949年、厳しい規律を選手に求めるサウスワースと選手達との対立が起き、サウスワースはシーズン途中に監督を交代せざるを得なくなってしまう。この時は彼と対立した選手達がトレードに出されたことで、翌年サウスワースは監督に復帰したが、1951年はシーズン当初からブレーブスの成績が低迷し、同年6月19日で監督を辞任した。その後はブレーブスのスカウトを何年かつとめている。
1969年、オハイオ州で肺気腫のため死去。2008年にアメリカ野球殿堂入りを果たした。
外部リンク
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)